賞味期限が切れようが、サ終が発表されようが

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Side 兎村未來

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 試合後の待機ルームで駆け寄ってくる亀のアバターを見た時、正直、やっちまったか、と思った。
 素人のフリしてパーティメンバーを揶揄って遊ぶような奴ならPKされりゃすぐ抜ける筈なのに、黙ってろって言ったら本当に黙って待機して、試合が終われば目ぇキラキラさせて駆け寄ってきやがって。

「お前、邪魔。一生ソロで芋ってろ」

 今にも賞賛の言葉をぶつけてきそうな顔を罪悪感で見ていられず、突き放すようにそれだけ言って逃げた。
 野生の天才スナイパーがその辺に転がってると思わないだろ、普通?
 それでも、苦し紛れの言葉は確かにアイツの為のアドバイスだった。
 このまま同じように他の野良パーティに潜り続ければ速攻で罪状・舐めプで掲示板に晒されて害悪プレイヤーリスト入りだろうから。
 何も知らない初心者に酷い態度を取っちまったのが気にかかってその後もちょこちょこ動向を探っていたら、奴はなんとも健気なことに俺に言われた通りずっとソロコロに籠ってスナで芋っていた。
 最初の数週間はキル精度は高いが隠れるのが下手で生存時間が短くて、けれど少しずつそれも改善されて、コロシアム実装から二ヶ月もすれば掲示板で『こいつずっと芋っててウザい』と晒されるほど上達していた。
 多少でも対人戦に関わる人間なら、掲示板に晒されるってことはそれだけ実力がついてきたってことだと分かる。
 ふた昔前のゲームみたいに筐体スペックやプレイ環境で有利状況を作るなんて不可能になったから、晒される理由なんて勝てない恨み妬みくらいしか残ってないし。
 俺のせいでコロシアムをやめなくて良かったという安堵と、俺が直接教えたらもっと伸びそうなのにという悔しさもあったけれど、味方殺しをするような輩に関わってこられるなんて嫌だろうから我慢して、それ以降はソロコロの試合観戦もしなくなった。

 数ヶ月後、ギルドにきた依頼メールを見つけた時は、何かの間違いか、それともプレイヤーネーム被りかと二度見した。
 IDを確認してあの時の亀で間違いないと知って、すぐ返事を書いた。
 自分を殺した奴がいるギルドに頼んででも上手くなりたい、なんて。
 そんな根性のある奴の育成を他の奴に譲る気は毛頭無かった。
 あのとき素直に謝れなかった代わりに俺が直々に手解きしてやろうと早速翌日に予定を組んで、──けれど、亀吉が望んでいたのは芋スナをやめることだった。
 掲示板での『亀砂』という汚名に耐えられないと泣きそうな顔をするのが可愛くて、けれど色々武器を使わせて試したがスナイパー以外の適性がまったく無くて、逆に俺の方が困った。
 殺意どころか戦意もほとんど無いのにどうしてコロシアムに固執するのか不思議で訊けば、報酬で貰える特殊なアバターカラーが欲しいという。
 だからギルドに誘った。
 別に、無理やりするつもりも、何度も抱く気も無かった。
 ただギルドルールとして他のギルメンに課しているのに亀吉一人だけ免除というのも変だろうと思ったから、適当に一回ヤッて報酬として、ゆっくり育てていけばいいと思っていた。
 実際シレネも入った経緯は違うが──アイツは野良コロで対戦した後に「ファンになった」とギルドに押し掛けてきた──育成途中だったし、そろそろ鹿花と地球の介護無しでも前線に出る経験を積ませたかった所だから、城戦のチーム層を厚くするにはうってつけの機会だったし。
 童貞で処女だったのは誤算だったが、別に飢えてるわけでもなし、ヤれなくても反応が面白かったから満足した。
 
 亀吉は、可愛い奴だった。
 人慣れしてないコミュ障で、馬鹿正直で、良いことも悪いことも教えりゃすぐ吸収する世間知らずで。
 勝手に付けられたあだ名に傷付くくらい臆病なくせに、試合中に知り合いと喋ってた俺を背後から撃つようなトンデモ度胸持ちで。
 シレネの二枚舌を信じて身を引こうとするうぶさも、寸止めしてやってんのにすぐ気絶しそうになる泣き顔も、ちょっと真面目に謝れば騙されてすぐ許すお人好しさも、少しずつ俺に触れられるのに慣れて嫌がらなくなって、俺の手から食べ物を食べるのを当然みたいにするのも──すべてが、可愛くて。
 別に好きだのなんだのじゃなく、俺のだって印を付けておきたくて、初めて『特別な贈り物』機能を使った。
 普通は指輪とか首輪で使う、結婚制度の無いロキワの中ではあまり知られてない機能だったからか、亀吉は師弟の証として受け取ったようだったけれど、それで良かった。下手に本気にされても困るし。
 可愛がるのはここがVRゲームだから。
 こんな嘘だらけの場所で恋愛なんか本気でやるわけない。
 楽しくヤッて、無責任に可愛がって甘やかして、飽きたら次。
 VRの関係はVRの中だけで、現実なんてどうでもいい。
 俺の前に居る時だけ、俺を好きって顔してりゃそれでいい。

 ……そう思っていた。
 本気で、だった。
 その筈なのに、突発のペアコロイベントで俺じゃない『現実の知り合い』をペア相手に選んだと聞いた時、ガラにもなく動揺した。
 俺が独り占めしてると思ってた『亀吉』は現実では野放しで、他の誰でも簡単に触れる存在なんだって、いきなり知らされたような気分だった。
 それでも、その時はその事実を思考の外に追いやって、ペアコロで亀吉と組んだ相手をギッタギタに痛めつけて負かしてやれば俺の強さを実感して尊敬し直すだろうと、……馬鹿みたいに現実逃避して。
 当日のイベントマッチ中に敵として当たらなかったのは誤算だったが、同時にホッとしてもいた。
 そういえば無理やり組まされて上までいけそうにないような事を言っていた気がするし、せっかく報酬に目当てのスキンカラーがあったのに、貧乏くじ引いて可哀想なやつ。
 だから次にインしたら慰めてやろうと、そんな余裕すら持って待っていたのに、来られないかもと事前に言っていた翌日はもとより、翌々日以降も姿を見せず──俺の脳内は、見たことのない凡庸な人間の姿をした亀吉が、俺の知らない男とクリスマスを過ごす姿でぐちゃぐちゃになっていた。
 俺がまだ触れていない現実の亀吉の肌に触り、合わせたことのない目を合わせ、聞いたことのない肉声で笑い合い、まだ誰も知らないと言っていた身体を、俺以外に、俺より先に──。
 激昂よりも、絶望の方が近かった。
 本気で恋していたと気付いたと同時に失恋したのだから。
 もう何日かでも早く気付いていれば。
 好きだと伝えられずとも、抱いてしまっていれば。
 VRここでは俺の物だと月並みなバーチャル恋愛のていをとっていれば、……本気だと気付かずに済んだかもしれないのに。
 久しぶりにインしてきた亀吉は曖昧なことばかり言ってギルドを抜けようとして、オルテガの横槍が無ければ危うく勘違いしたまま手放すところだった。
 ペアコロ相手からの暴言と自分の弱さを再確認して泣く亀吉を前に、俺は内心小躍りしていた。
 だって、どう考えてもチャンスだったから。
 困惑する亀吉を言い包め、翌日に現実で会う約束を取り付けた。
 近所に住んでるなんて偶然を一瞬疑ったが、亀吉は嘘を吐けばすぐ顔に出る。
 むしろ俺が嘘を言ってるんじゃないかと疑っているような顔に、ロキ神の悪戯が現実にまで干渉してるんじゃないかと馬鹿なことを考えた。

 抱くつもりだった。
 どんな陰キャブスが来ようが、中身が亀吉なら、抱けば俺のになるならガワに文句を言うつもりなんて無かった。






 俺の生まれた家は、最近もう絶滅危惧種の『長男絶対権力主義』だ。
 そのうえ、大昔にナントカって殿様に仕えてただの、ここいらの大地主だっただの、『血』しか誇れる物の無い、『血』だけで驕って威張り散らす傲慢な家系──そこの三男。
 長男は後継、次男はそのスペア、長女は政略結婚用の駒、その後産まれる俺は政略結婚用駒その2となる次女……の筈だった。
 命名権は本家当主の祖父のもので、出生前に届けが出されていたから女に多い名前だがごく平凡でいられた。「男だと分かってたら『下男』と付けてやったのに」と祖父が笑ったのを覚えている。
 その言葉通り、物心つく頃には俺は家族ではなく奉公の下男のような扱いになっていた。
 政略結婚で入り婿の父は家族に興味がなく仕事一筋、母は駒を増やせなかったことで祖父から制裁を受け俺を恨み育児放棄し、兄姉は感情のない祖父の操り人形。
 俺を育てたのはほぼ家政婦たち。
 だけれど、苛烈な性格の祖父と母に耐えられずしょっちゅう辞めていってしまう──家柄を誇るわりに、ケチで従業員の給料が安いのだ──から、彼女らへも家族と思えるほどの愛着は無かった。
 というか、『家族』というものが何なのかすら、よく分かっていなかった。
 小学校に上がってクラスメイトが語る『父』や『母』、『きょうだい』がどうやら自分の知っているものとかなり形の違うものだと知って驚いた。
 料理や洗濯、掃除が俺の仕事だと言っても誰も信じなかったし、自分の食事は家族への給仕が終わった後だと言った時なんか教師にすら「いつの時代の本を読んだの?」と失笑されたくらいだ。
 自分の境遇が普通ではないと知っても、それしか知らないから気にしていなかった。
 転機は、小5の時だった。
 当時高校3年だった姉の婚約式──卒業と同時に輿入れが決まっていた──で、いつも通り家政婦たちと共に給仕として働いていたら、見慣れない男に声を掛けられた。

「なんでガキが働いてるんだ?」

 男はかなり歳のいった、頭が真っ白の老人だった。
 家の中でそんな事を聞かれたのは初めてだったから、てっきり事情をよく知らない外の人が混じってしまったんだと慌てて男を部屋の外に連れ出して耳打ちした。

「俺はここの下男です」
「下男?」
「家族のために働くのが俺の仕事です。外では普通じゃないかもしれませんが、俺の家ではこれが普通なんです」

 暴力は受けたことが無かったけれど──無かったからこそ自分が虐待を受けているなんて微塵も思っていなかったんだが──、何か粗相したり客から俺のことを訊かれるとその後数日間食事抜きにされたりするから、どうか男が祖父に直接それを言わないようにと願いながら答えた。
 それから数日後、祖父が俺を自室に呼んだ。
 晩酌の用意以外で呼ばれることは滅多に無く、何を叱られるのかとドキドキしながら向かうと祖父はすでに強かに酔っていて、真っ赤な顔で上機嫌に父に酌をさせていた。

「あの出来損ないが、やっと俺に負けを認めた! 助けてくれ兄さん、だと! ハハハッ、家名を捨てた役立たずが! 誰も介護してくれないから家がゴミ屋敷になってるんだと! いい気味だな、本当にいい気味だ! けどなぁ、俺は心の広い男だからな。あいつが逝った後にうちの家名が傷付くのは困るからな。片付けを手伝う下男を貸してやることにした。分かったな?」

 いつも通り父は頭を低くして頷くだけで、俺はもっと低くしてそれを聞いて、最後に「はい」と頷いた。
 翌日から俺は祖父の弟という人の家に住み込みで派遣されることになった。
 駅を挟んで反対側の学区だから転校手続きが必要で、持たされた書類で初めて父親の下の名前を知った。
 通いではなく住み込みでないと、という程だから相当汚いんだろうと覚悟して行った家は、物は多いけれど小綺麗なマンションの一室だった。
 祖父の弟というのは姉の婚約式で声を掛けてきた白髪の老人だった。

「料理と掃除は俺がやる。肩が上がらねぇから、洗濯干すのだけ手伝ってくれ」

 片付けをする気で来た俺に、祖父の弟はそう言った。
 洗濯が終わったら何をすればいいのかと訊けば、「宿題して、それが終わったら好きにしろ」と言われた。
 俺は困った。
 なにせ、自分が何を好きなのかすら考えたことが無かったから。
 困った俺は、周りを観察して参考にすることにした。
 だから転入先の学校で同じクラスになった鹿角ルージャオに近付いた。
 小5にして髪を真っ青に染め耳だけでなく体の至る所にピアスを何個も開けていた鹿角は、俺が知る中で一番『好きにしている人間』に見えた。
 鹿角は面白い奴だった。
 日本生まれ日本国籍なのに中国好きな両親に紛らわしい名前を付けられた、だからアタシは一生紛らわしい生き方をしてやるの、と豪語し女言葉を使っていた。
 化粧もするしフリルやレースの服も着るのに、スカートは履かないし好きになるのは5人に4人は女。
 好きな教科は理科で、一番成績が悪いのは家庭科。
 体力も筋力もそこそこあるのに、反射神経が鈍くて特に球技が苦手で、ドッヂボールで当てられてよく泣いていた──痛くて、じゃない。自分を狙ってくる者への怒りと避けられない自分の情けなさで、だ──。
 いつも自由で、どんな時も自分に素直に生きている鹿角を見ているうちに俺も釣られて『好きにする』が分かってきて、するとそのうち、自分の家がどれだけ異様な環境だったかも理解出来てしまって。

 中学に上がる頃には、祖父がどうして見下している弟の元に俺を送ったのかも察した。
 金だ。
 対外的に地元の権力者を気取っている兎村の家系──本家のうちだけでなく、分家も含めて──の内情はもう火の車で、身売りのように姉を金持ちに嫁がせてせしめた金も数年で使い切っていた。
 血筋と権力者への太いパイプがあるという利点で婿入りして県議会議員をしている父が稼いでくる金も、祖父や母にかかればまるで小銭のように使われていく。
 長兄は海外留学したきり帰ってこないし、2番目の兄は市役所で堅実に働いているらしいが高卒でコネ入りした公務員がすぐ高給取りなわけもなく。
 対照的に、祖父の弟──婿入りして姓が兎村から亀山になったたすくさんは、莫大な財産を築いていた。
 三男だった佐さんは早々に時代錯誤な兎村家に見切りをつけ中卒で家出してホストになり、その中で一番の太客と結婚し──その話をした時の佐さんは、「別に好きじゃなかったけどな」「姓が良かったんだ。兎に勝つなら絶対亀だろ?」なんて笑っていたけれど、数年前に亡くなってしまったという奥さんの仏壇には毎日線香を立て話し掛けていた──ホストを引退してからも株やら何やらで増やした金で何棟もマンションを建て、今ではのんびりそれらの管理人をして暮らしている。
 祖父はそんな弟の金を目当てに俺を送り込み、佐さんは祖父ならそうするだろうと分かったうえで助けを求めるフリをして俺を救い出してくれたのだ。
 どうして捨てるほど家を嫌っていた佐さんが実家の近くにわざわざ戻ってきて兎村家の行事にも顔を出していたか、って?
 「あいつらが少しずつ落ちぶれていく様を見るのが楽しくて仕方ないから」って言ってたよ。兎村の血に流れる性根の悪さは姓を変えたくらいじゃ消えないみたいだ。

 佐さんは「家族の情だの、そういうだるいもん俺に求めんなよ?」と鬱陶しそうな顔で俺の生活の面倒を見るだけだと言っていたけど、授業参観でも三者面談でも、頼めば必ず来てくれた。「こんなジイさんで恥ずかしくねぇのかよ」と言いつつ、その日の夜は奥さんの写真に向かって「もうちょい生きてりゃお前もガキの世話出来たのに、せっかちな女だよ」と俺の成績表を肴に酒を飲んでいた。
 「ガキは食って寝てコロコロ読んで笑ってりゃいいんだよ」と言いながら、「忘れてたから代わりにやってこい」としょっちゅうマンションのゴミ収集や草むしりを俺に押し付け、それを理由に小遣いを渡し。
 株と麻雀が大好きなのにパチンコが嫌いで、たまに掛け算を間違えるのに持ってるマンションの規約は一字一句暗記していて、字が上手くて、酒と煙草が手放せなくて、ひっどい音痴。
 新しい物好きで、鹿角と応募したドリームラボのクローズドアルファのテストプレイヤーに当選してプレイ後に最高だったとはしゃいでいたら半年後のクローズドベータのクレジットに共同出資者として佐さんの名前が増えていたこともあった。

 大好きだった。
 『家族』を、『家』が『安心出来る場所』だと、教えてくれたのは佐さんだった。

 俺が高校3年の春、佐さんは畳の縁に爪先を引っ掛けて転んで、肩と膝を折って車椅子になった。
 昼間はヘルパーさんが来てくれて、夜は俺が一人で世話をした。
 それ自体は別に苦じゃなかった。
 ……どころか、佐さんが自分だけでは碌に動くことも出来なくなって俺を必要としてくれることにに密かな悦びを抱いていた。
 鬱陶しかったのは、それを機に、親戚だとかいう人間が周りをウロつきだしたことだった。
 これまで顔を見たこともないような奴らがしょっちゅう家に来て上がり込み家探ししようとしてきた。
 何せ、家にいるのはほぼ身動きのとれない老人と高校生の子供だけ。
 その頃の俺はもう身長は190センチを越えていたけれど、運動部でもなくヒョロッと長いだけで、しかも本家では下男として扱われていたような存在だ。
 金にがめつい祖父らにとって俺はまったく警戒すべき存在では無く、どころか佐さんの金をどうにか合法的に自分達のものにするべく動くのは俺の義務だというようなことすら言ってきた。

 折悪く、活動的だった佐さんは思うように自分で動けなくなってから急速に呆けてしまい、半年後、死んだ。
 朝起きて佐さんの部屋の襖を開けたら、奥さんの仏壇前に置いた小さな折り畳みテーブルに突っ伏すような姿勢で冷たくなっていた。
 医者は心不全だろうと言った。

 佐さんの死後、彼の莫大な遺産は──すべて、一円も逃さず、俺の物になった。
 祖父や親戚たちの誤算は、自分たちの行動に対して『三男の』佐さんは何の対策も取らないと盲目的に思っていた、というのがまず1つ。
 2つめの誤算は、俺が既に佐さんと養子縁組をして、遺産はすべて俺にと遺書を残していたこと。
 3つめ──これがそもそも祖父の想定外だったと思う──、俺の父がについていたこと。
 父は別に俺のことを心配して、とかじゃない。
 名声の為に嫌々政略結婚したのに兎村の実態は泥船で、いつどんな理由で離縁するか図っている最中に佐さんが俺を気に入ったようだったから、佐さんの死後に姓を『兎村』に戻す、というのを条件に実親として必要なあれやこれやを祖父や母に隠れて便宜してくれていた……らしい。
 らしい、というのは、それらを俺が聞いたのは佐さんが死んだ後だったから。
 父は俺が相続した財産には一切興味が無いそうで、ただ『一等地にたくさんのマンションを持つ大地主』が『兎村』という姓であればいい、と言った。
 父が紹介してくれた弁護士は優秀で、今でも色々世話になっている。
 そのぶんマンション経営の内情も父に筒抜けかもしれないとは思いつつ、俺が自己破産しかねない経済状況にでもなるまでは放っておかれるだろう。



 話は戻って。
 俺は卒業間近だったが高校を辞め、佐さんの遺したマンションの管理人として働き始めた。
 特に夢があるわけでもなかったし、管理人に学歴は必要ない。
 高校に通いながらやれるほど楽な仕事でもないと分かっていたから、それほど悩まなかった。
 ……鹿角には後から「あと数ヶ月なんだから委託でもすれば良かったじゃないの」「考え無し」「猪か」と散々に罵られたが。
 基本業務はそれまでも手伝っていたから大体分かっていたし、それ以外は佐さんの積み上げた何十年分もある手書きの管理ノート──金銭管理データはクラウドにも残っていたけれど、確定情報以外のメモや契約者との電話の履歴なんかはすべて手書きで残していた──を読み込んで対処した。
 佐さんのいなくなった部屋で、俺は今もそのまま住んでいる。
 佐さんがいなくなっても、佐さんが俺にくれた物は全部ここにあるから。



 一方、妻子のいない佐さんの財産がまるまる自分の懐に転がりこんでくると信じて疑っていなかった祖父たちの混乱具合は、それはもう凄まじかった。
 祖父の手先となって俺を懐柔して次の養親となって金をせしめようとする者から、難病だ障がいだと病児を持ち出して同情を買おうと近付いてくる者、女で釣ろうとする者。
 色々居たけれど、間に入った弁護士を恐喝して手が後ろに回った奴が出てからは少しの間落ち着いた。
 とはいっても、だ。
 金に目の眩んだ奴らは同類が煮湯を飲んで喉が焼け爛れる様をどれだけ間近に見ようがしばらく経てば忘れてしまうらしく、年に数度は恐喝まがいの挨拶に来る馬鹿が現れた。
 毎度弁護士に相談するにも金が掛かる。
 どうにか根本的にそいつらを根絶やしに出来ないかと鹿角に愚痴ったら、「アンタが弱そうだから向こうだって脅せばどうにかなるって舐めてんでしょ。強面コワモテの警備員でも雇えば?」と返ってきた。
 物は試しと、その次の連休に公園警備の名目でアルバイトを雇った。
 武道経験も特に無い若い大学生だったが、ずっしりとした大柄の彼に一目見て警備員と分かる制服を着せたのが効いたのか、その連休は佐さんが亡くなってから初めて、親戚の誰も俺のマンションのドアを叩くことは無かった。

 有効な手段だと分かったので太ることにした。
 ちょうどドリームラボの筐体を買ってVR世界にインしながら監視カメラの映像を確認出来るようになった辺りだったから、食ってはログイン食ってはログインして動くのは現実でしか出来ない管理業務の時だけにしたら、70キロだった体重が90キロを越えるのに3ヶ月もかからなかった。
 縦だけじゃなく横にも大きくなってくると、来訪する親戚たちの表情が少しずつ警戒混じりのものになってきた。
 100キロを超える頃には、上から命令するような言い方をしていた大人たちがよそよそしい敬語を使うようになっていた。

 満足いく結果になったと鹿角に報告したら、俺が高校を中退してから2年くらいVRでしか会っていなかったのに急にその日の午後マンションに押し掛けてきて、俺を見て絶叫しやがった。
 美意識の高い鹿角にとってすっかり球体に近くなった俺は友人として許せるものではなかったらしく、「脂肪だけ付けても動けなかったら何の意味も無いのよ!」と怒鳴ったかと思えば彼が通っているトレーニングジムに引きずっていかれ、その場で強制入会させられた。
 それから最低週に2回は鹿角とジムで筋トレするようになった。
 大抵の日本人は筋トレすると脂肪から落ちていくから細マッチョになるらしいが、俺は何故か脂肪を残したままその下に筋肉が付いていくタイプだったらしく、担当トレーナーがやたら「それは才能ですよ!」「もっと大きくしましょう!」「貴方ならもっといけますよ!」なんて煽ててくるものだから、数年後には195センチ130キロの、レスラーと相撲取りの中間くらいの体型になっていた。
 細身好きな鹿角は不満そうだったが、年1の健康診断結果はすべて問題無しなので文句を飲み込んでいるようだった。

 ジムには通ったが、現実ではあえて格闘技には手を出さなかった。
 親戚達と身体接触を伴うトラブルになった時、不利になる条件をわざわざ付けたくは無かったから。
 代わりにVRで対戦格闘ゲームを嗜み、現実で格闘技のプロだったり師範をしていたりするフレンドに稽古をつけてもらったりした。
 そこで出会った、異様に強い男──その頃は『竜也』と名乗っていた──それがDragOnさんだ。
 まだ大半のVRプレイヤーがバーチャル世界で現実と同じように体を動かせるだけで驚いていたその時期に、DragOnさんはもう『VR内でのみ可能な体の動かし方』について模索し始めていた。
 現実で理学療法士をしているというDragOnさんはドリームラボ稼働当初から現実のリハビリにVRを活用する為に研究していたとかで、現実の体の脳波を読み取りそれをプログラムに変換してVR内で体を動かせるなら、などと、聞いているこっちの頭がおかしくなりそうな事を大真面目に語る人だった。

 俺は眉唾だと話半分に聞いていたが、面白いことが大好きな鹿角は食いついた。
 プログラムと脳波の相性やら何やらを探る為にDragOnさんは頻繁に世界ワールドを変え、鹿角はその度に彼の後を追っていった。
 現実での親しい友人が鹿角くらいしかいない俺は必然的に鹿角のいる世界にもアカウントを作ることになり、いちいちどれにログインしているか確認するのが怠いのでそのうち俺も彼らと世界移動を共にするようになった。
 ロキワに来たのもそういう経緯で、けれどいつも通りドラさんの作ったギルドで遊んでいたら──ギルメンと揉めた。
 理由はよくある『温度差』ってやつだ。
 ゲームだろうが本気でやるから面白いと思ってる俺側と、ゲームなんだから本気でなんてやってられない相手側。
 始まりから終わりまで口喧嘩だったけれど、俺側に鹿角がついてた、って言えば勝敗は察せるだろ?
 ……相手側の女が数人泣き出して、俺らが悪い空気になってこっちの負けだ。
 一応ドラさんは仲裁してくれてたが、たぶんありゃ揉めてること自体には興味無かったな。
 どんな流れでどっちが有利不利を取るか、どう決着をつけるのか。それを観察してる雰囲気だった。
 それに気付いた鹿角が「DragOnさんはどっちの味方なの!?」なんてキレちまって、それに対してのドラさんの返事が実質の脱退理由になった。

「ギルマスとしてはどっちの味方もしないけど、俺個人の意見としては、バーチャルより現実を本気で生きなよ、って感じかな」

 鹿角が目を丸くして返す言葉を失っているのを見たのは、先にも後にもあれきりだと思う。
 その頃もうドラさんとの付き合いは5年以上経ってた筈で、だから尚更、鹿角はドラさんが自分に敵対するとは微塵も思っていなかったらしい。
 まあ、俺が見た感じあれは鹿角をこき下ろしたというよりDragOnさんは自分の素直な意見を何の深い意図も無く口に出しただけだった。
 そういう人なんだ、あの人は。
 鹿角もそれは分かってた筈なのに──たぶん泣いてた女どもが形勢逆転を感じて笑ったのが逆鱗に触れたんだろう──「今までお世話になりました」と頭を下げたかと思えば、次の瞬間にはギルドから脱退していた。
 一応鹿角のフォローをしておくと、あいつは当時就職1年目で直属の上司からパワハラを受けてるとかで証拠集めの為に一切の反撃を封印していた時期だった。
 現実でフラストレーション溜まりまくりの中、VRでまで『楽しいゲームプレイ』を制限されたくない、という気持ちが鹿角に衝動的な行動をとらせたんだろう。
 その後しばらくは酔うたび「あれは本当に悪手だったわ」と愚痴っていたくらいに鹿角は後悔していた。
 俺はといえば、ドラさんの強さは尊敬しているが鹿角ほど仲が良いわけでも無かったので、一言今までの礼を言って脱退した。
 ドラさんは「突然で寂しいな。元気でね」と言っただけだった。

 彼と話したのはそれきり、──次は亀吉がギルドに加入してすぐの頃。
 だからドラさんの興味が亀吉に向いているのは俺も鹿角もすぐに分かった。
 引き抜くつもりが無いのは意外だったけれど、残していったヒントの台詞の意図を鹿角と話し合った結果、どうやら亀吉を敵としてキャスマをしたい、という意味だろうと推測した。
 他にどんなメンバーが入ろうがどうでも良く、とにかくメンバーに亀吉が入っていて欲しい。「3月までこのギルドにいる?」という言葉の通りに。
 久々に会ったけれど、呆れるほどに裏の無い性格はまったく変わっていないようだった。
 亀吉をギルドに置き続けたのはそれだけが理由ではないけれど、理由の一端になったのは事実だ。
 何より鹿角がやる気になってしまっていたし。
 けれど、だからってあんなに贔屓するつもりも無かった。
 鹿角に「最近べったりお気に入り」なんて冷やかされても否定する気が起こらないどころか、周りからも見えていることに謎の優越感すら湧いた。
 
 VRは現実じゃない。
 現実が真実だとは言わないが、電気信号で作られた夢の中よりは真実に近いだろう。
 だから現実の亀吉も欲しくなった。
 VRだけも、現実だけも嫌だ。
 亀吉が生きて過ごす時間に絶え間なく俺が傍にいないといけない。
 吸う息吐く息すべての空気を共有しないと安心出来ない。
 そう思った。

 会いに行くと決めた瞬間、過去のオフ会が脳裏をよぎった。
 それなりに仲の良い、普通の友人だった。
 雑談の中で北関東住みだと判明して、ちょうどメンテ日が近かったからVR世界にイン出来ない暇な時間にオフで遊ぶか、ということになったんだったか。
 だが、当日約束の場所に奴は現れなかった。
 メンテが終わるまでの3時間だけ待って帰宅すると『見た目が怖すぎて話しかけられなかった。ごめん』という謝罪のメッセージがきていて、フレンド数が1人減っていた。
 親戚を威嚇する為の外見はそれ以外の人間にも同様の効果をあげているようだと納得して、言っとけば良かったなと反省した。
 だから亀吉にはしつこいくらい「でかくて不細工だぞ」と念押しした。
 自分の体型も雰囲気も意識して人の警戒心を煽るように作ってきたものだから、それに後悔はない。
 けれど、その所為で亀吉に一目も会わず逃げられてはたまらない。
 鹿角にオフすることになったと報告したら仕事を午後休取って家に押し掛けてきて、俺のクローゼットの中を引っかき回したかと思えばまた飛び出していって、1時間後に紙袋を抱えて戻ってきた。

「亀ちゃん怖がらせたくないなら黙ってコレ着ていきなさい」

 押し付けられたのは俺が絶対選ばない明るい色のコートだった。
 黒と紫と派手柄のシャツで構成されたクローゼットからは絶対出てこない、柔らかく可愛らしい色合いのウールコート。
 はたして上着ひとつで俺の悪印象が緩和されるだろうかと思ったが、鹿角の服装指導はそれだけでは終わらなかった。
 あごヒゲを剃れ、ピアスはシンプルな物にしろ、指輪はAR端末以外は外していけ、サングラスは絶対に掛けるな、いつもの香水はつけるな、シーシャを持っていくならシトラス系にしろ、etc、etc……。
 ケチをつけられなかったのなんて髪型くらいだ。
 うるせぇなと思ったけれど、「顔見る前に逃げられたいなら好きにしなさァい」と言われては黙るしかなかった。

 緊張はしなかった。
 不安もそれほどなかった。
 亀吉側から俺を見つけられないわけがないし、見つけたならどれだけビビろうが亀吉はちゃんと声を掛けてくる。
 そんな信頼があった。
 だからこそ、声を掛けてきた人間を見上げて、亀吉を視認して──騙しやがったな、と怒りが湧いた。
 折れそうな痩躯に女受けの良さそうな服を着た、目元を長い黒髪で隠す若い美青年。

「ごめん、あの、俺、亀吉です」

 声も口調もそのままなのがもっとイラついた。
 こんなのが亀吉なわけがない。
 俺の好きになった『陰キャの亀吉』がこんなモテそうな男なわけがない。
 どんな不細工が来ようがそんな外見すら見た瞬間に好きになれると思っていたのに、……こんな、俺の好みド真ん中みたいな男が、亀吉だなんて、有り得ない。
 好きな男が好きすぎるツラだったなんて奇跡は一周回って俺を冷静にさせて、だからすぐに美人局かと思い至って軽く脅して、けれど結局それも誤解だった。
 亀吉はどこにいても亀吉のままだった。
 俺の外見を揶揄うんだからちゃんと見えている筈なのにVRいつも通りで、けれどいつもより少しだけ緊張したような面持ちで、いつもよりずっと下から視線を寄越す。
 
「行きましょうか」

 見た目は違うのに、気遣うように目線を動かす仕草も表情も完全に見慣れたものだった。
 この見てるだけで涎がとまらなくなるような男が、本当の本当に、亀吉。
 そう実感した瞬間ラブホ直行予定だったのにそれは無理だと頭が真っ白になって、動揺のあまり近所のよく行く店に連れて行ってしまった。
 内心ずっと頭を抱えつつ、平常を装って軽口を叩き合った。
 可愛い。
 可愛い。
 可愛い。
 ただ伏し目がちに笑うだけで、ただ咀嚼で頬が動くだけで。
 それまで最低限人間の形をしていれば勃つものは勃ったし、俺には外見の好みみたいなものが無いんだと思っていた。
 が、定まった。
 確信した。
 この顔。
 この声。
 これが俺の好みの顔。
 世界で一番好きな見た目。
 きっと俺は今後の人生ずっと、この顔にどれだけ近いかで人を判断するようになる。
 そう思った。
 昼間から酒を飲んだのは久しぶりだった。
 アルコールが得意な体ではないのか、悪酔いはしないが飲めば勃たなくなる。
 勢いのまま抱く気はもう無かった。
 悪戯っぽく誘われてグラつきそうになったが、遊びの相手にされてたまるか、と意地で我慢した。
 一度遊びでヤれば、その後もそうなる。
 遊びは遊びで、どれだけ回数を重ねようが、重ねるほどに本気からは遠ざかる。
 経験からそう知っていた。
 だから今日は無事に帰して、今回を良い思い出にさせて、「また」を亀吉から言わせようと思った。
 もう二度、三度を現実で会って、もっと色んな所に2人で行って、現実で会うことに十分慣れさせて警戒心を解いて、そうしたら家に連れ込んで、──そうだ、ドリームラボの筐体をもう1台買っておこう。家からVRに繋げれば、亀吉を外に出さなくて済む。外の用事は俺が全部やればいい。
 取らぬ狸のなんとやらを脳内で繰り広げつつ、亀吉と別れた。
 数歩足を動かしてから後ろ髪を引かれて思わず振り返って、けれどもう亀吉は雑踏に埋没してしまっていた。
 覚えたばかりの、さっき呼べなかった名前を叫べば戻ってくるかもしれない。
 そう思ったけれど、我慢した。
 確実に『戸林 隆也』を手に入れる為に。

 翌日、ロキワにインしてきた亀吉を見てガッカリした。
 鹿角の作ったアバターだからだ。
 隆也の顔が見たかった。
 隆也の目に俺を映して欲しかった。
 若干気落ちしつつ、けれど中身は亀吉だからと話しかけて、いつものように触れようとして、……出来なかった。
 緊張に手が震えて、それが恥ずかしくて情けなくて、抑えようとしてもシステム的に出る筈のない手汗で指が濡れている気がして。
 平気な顔をしようとしてもどんな顔だったか思い出せず、これまでそういえば何かする時に亀吉の反応を気にしたことが無かったと気付いた。
 抱き寄せる時、撫でる時、口付ける時、亀吉がどんな表情をしていたのかまったく記憶に無い。
 それもそのはず、だって俺は亀吉が俺をどう思おうがどうでも良かったから。
 嫌がるなら嫌がればいいし、喜ぶならそれでいいし。
 だからいくらでも無遠慮に触れていられた。
 けれど、もうそれは無理になった。

 好きな人に触れて、それで、嫌がられ、たら。

 想像するだけで頭の中が赤く染まる気がした。
 亀吉を抱き寄せて、その顔を覗き込んで、もし、もし──。
 初めて感じる、心の底から震えがくるような恐怖心で亀吉に触れられなくなった。
 会話するのすら、どうか嫌われませんように、と細い細い綱渡りをするような緊張感の中。
 亀吉はいつも通りだった。
 俺が触れなくなっても。
 いつもと同じようにいつもの時間にインしてきて、いつものメンバーで野良に潜って、いつも通り反省会をして、いつも通り鹿花に叱られて、いつもの時間にログアウトして。
 俺に触れられなくなった事なんか、微塵も気にしていないらしかった。
 半身を裂かれるような苦痛に悲鳴を飲み込んでいるのは俺だけだと、俺は隆也にとって二度も会いたい人間では無かったのだと、そう教えられているようだった。
 数日ぶりに、いや初めて亀吉から俺に抱き付いてこられて、その後ろにサムズアップの鹿花が見えて。
 『抱く』『抱かない』の2択が俺の頭の中でぐるぐると回った。
 抱いちまえ、と脳内の俺が囁いた。だってもう、現実で隆也は抱けない。そんな希望を抱けるような態度を亀吉は取ってない。だからせめて、VRこっちくらいは、と。
 まだ抱くな、とも泣いた。もしかしたら、ただこれまで亀吉から触れる経験が無かったから、遠慮して機会を窺っていただけかもしれないから、だから、と。
 迷うままに選択を亀吉に投げたら、亀吉は隆也を思わせるはにかみ笑いを見せて言った。

「やっぱり、なんだかんだ……初めては好きな人と、って」

 笑顔に心をぶち壊される事もあるんだと知った。
 これ以上ないほどにハッキリと、俺を好きではないと断言された。
 あれだけ俺に心を許して、やたら甘えてきて、現実でも誘いをかけてくるクソビッチのくせに、……初めては、『好きな人』?
 笑ったと思う。
 笑えていたと思う。
 亀吉が怖がっていなかったから、きっと俺は笑顔を作っていた。
 逃げられたくないから、慎重に触れた。
 ほんの少しでも抵抗されたらキレてしまいそうだと煮え立つ腹を歯を食いしばって耐えていたのに、途中蹴ろうとしてきた亀吉の脚を掴んだ瞬間に浮かんだのはただ微笑ましさだった。
 だって、本気で嫌なら当たらないと分かっている攻撃なんかで抗議しない。
 泣くでも睨むでも罵るでも、俺を止める選択肢を亀吉はもう分かっているんだから、蹴るだなんて可愛い抵抗しぐさ、ただの照れ隠しに決まっていた。
 すすり泣きと嬌声がない混ぜの可愛い吐息をBGMに延々可愛がり続け、疲労で指の一本も動かせないようになるまでひたすら待った。

「……ラ、……」

 掠れて俺の名前を呼ぼうとしても音にならない声と、穴に陰茎を押し付けてもぐったりと動かない亀吉の重い身体を見下ろして胸のあたりが充足感で満ちた。
 隆也じゃない目が俺じゃない姿を映していた。
 これでいい、と自然と口角が上がる。
 俺を好きじゃなかろうが、コイツの初めては俺。
 それだけは今後一生変えられない事実になるんだから、それで納得しようと、出来るだろうと自分を慰めた。
 ……のに。
 死ぬまで忘れられない一回にさせてやるつもりだったのに、まだまだ貪り足りなかったのに、俺の気持ちの一割も満足していなかったのに、亀吉は消えた。
 抱えた腕の中から、ふっと無くなった。
 絡ませ押さえ込んでいた脚がバランスを崩してベッドに倒れ込んで、一片の痕跡も無いシーツを茫然と見つめた。
 最中は再現される体液も熱も、プレイヤーがログアウトしてしまえば不要なデータとして瞬時に消されてしまう。
 知っていたのに、初めて実感した。
 俺が抱いたのはただのデータ。
 VRここでどんな行為に及ぼうが、何度どれだけ刻もうが、すべてはただの、幻。


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