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神は絶対に手放さない
30、濁りも煌めき
しおりを挟むたゆたう俺の意識の中、そいつは微笑んでいた。
わざとらしいくらい唇を弧にした『神様』は、長い銀糸を邪魔そうに耳に掛けながら俺の頭を撫でる。
《 やっと思い出してくれた 》
不思議な反響の仕方をする声は、やはり聴き馴染んだ彼の声でしかない。
ずっと俺を騙していたのか。
そいつを見上げて睨むと、心外そうに肩を竦めて首を振った。
《 騙してなんてない。俺は『志摩宮だった』けど、『志摩宮』はまだ俺じゃないからね 》
心を読まれるのか、と気持ちの悪さに一層顔を顰めた俺に、そいつは、
《 そいつ、って呼び名は嫌だ。『シマミヤ』って呼んでよ、静汰 》
やっぱり気持ちが悪い。
俺が眉間に皺を寄せるのを、彼はよく見るあのしょぼくれた犬のような表情で見つめてくるのも性質が悪い。
目の前の奴を無視して、言われた事を反芻した。
こいつは──シマミヤは志摩宮だったけれど、志摩宮はまだシマミヤじゃない。
そう言った。
こいつが俺の神様だとしたら、
《 神様だよ 》
……そのうち志摩宮は、神様に成るって事か。
マジか。
《 マジだよ 》
うるさい。
《 …… 》
ふわふわとした空間には、俺とシマミヤ以外何もない。上も下も、匂いも温度もない。真っ白の光の宇宙の中、二人だけで浮いている。
ここはなんなのだろう。夢の中だろうか。
《 そうだよ。やっと静汰が俺と話せるくらい力をつけたから 》
俺が、力をつけたから?
《 静汰は元から霊力も少ないのに、俺への力の供給も少ないから俺が見えなかったんだよ 》
力の供給?
《 神様ってのは、信仰の量が力になってるから。静汰が俺に信仰心を供給してくれてれば、もっと早く俺を見えるようになったし、俺だっていちいち『向こう』に戻って力を溜めてから帰ってきたりしなくて済んだんだけど 》
向こう?
《 ……静汰、さっきから質問ばっかりだな 》
だってワケ分かんない事ばっかりだから。
素直に教えろ、と睨むと、ぐるりと上下を回転させたシマミヤはそっぽを向いてしまった。
《 神様ってのは、意味深な事ばっか言って肝心なアドバイスは何もしてくれないって決まってるんだよ。ゲームでもそうでしょ 》
俺あんまゲームやらないから知らねぇよ。
《 とにかく、静汰はもう俺が見えるようになった。俺は静汰の神様。それだけ分かってれば十分でしょ 》
全然十分じゃないんだが、とシマミヤを振り向かせようと手を伸ばして──、シマミヤの肩に触れた瞬間に、さらりと頰を風が撫ぜていった。
熱く篭った空気を切り裂くように、幾分か冷えた風が俺の汗ばんだ皮膚の上を通り過ぎる。
瞼を開けると、斜め頭上で志摩宮が窓を開けたところだったらしい。揺れた銀の髪の先が俺の額の上を撫でていった。
「……志摩宮」
俺が呼ぶと、志摩宮はこちらを見て嬉しそうに口角を上げる。
志摩宮の笑った顔を見るのが久しぶりだと思った。いつも傍にいるのに。どれだけ自分が志摩宮を見ないようにしていたかを実感する。
ゆっくり近付いてくる、整った顔。
……なんで寄ってくるんだ?
「俺、彼氏持ちに手ぇ出すほどクズじゃないよ」
慌てて顔を逸らしてそういう意味で呼んだんじゃないと示すが、志摩宮は戸惑ったように俺の肩を掴んできた。
汗ばんだ褐色の指。触れられると心臓が大きく跳ねる。近いし、大体俺はなんで部屋に戻ってるんだろう。志摩宮だってさっきの銀髪の女装姿のままで、なんで俺の部屋に居るのか。
俺が志摩宮に彼氏が居るのを理由に拒絶すると、彼はすぐさまそれに反論してきた。彼氏なんて居ないとか嘘を言う志摩宮に苛立ちが募る。
「……もうやめてくれ。疲れた。もうお前のことばっか見たくない」
吐き出すように言ってから、言葉の選択を間違えたと思った。裏を返せば志摩宮の事ばかり見てるって自己申告なわけで。
「せ、せんぱ……静汰」
「やめろ」
今更また静汰なんて呼ぶな。ただの後輩に戻るつもりだったんだろ? 俺とのことなんて無かった事にして、ただの先輩後輩に。それでいいじゃないか。ただの『先輩』でいさせてくれ。
俯いて首を振るしかできない俺に、しかし志摩宮は言った。言ってしまった。
「静汰が好きです」
その言葉にどれだけ縋りたいか、志摩宮には分からないだろう。それだけを信じていたい。そんなこと、信じきれやしないのに。
俺の見た『彼氏』は俺に呪いを掛けた術師だったとか、だから尻尾を掴む為に仲良くしてただとか。ごちゃごちゃ言っていたけれど、俺はもうどうでもよくなっていた。
志摩宮が俺を好きだって言うんだから、信じればいい。
信じられないくせに、と自分の中で誰かが笑う。それでもいい。あとで騙されたと泣く事になるとしても、今幸せなら。
志摩宮の腕に抱き締められながら、束の間と分かっていて俺はそれに身体を預けた。
そして次の日。
起きたら、志摩宮が二人いた。
いや、正確には居るように見える。
《 俺はシマミヤだってば 》
俺の真横で微睡んでいたシマミヤが重そうな瞼を開けて、俺の頰に口付けた。
「なっ……!」
《 これくらいで赤くなる静汰、可愛いなぁ。懐かしい 》
懐かしいって。
俺の時間軸的にはリアルタイムだ。
確か、夜中に戻ってきた蛍吾に怒られて、志摩宮は床で寝るように言われた筈だ。俺と蛍吾のベッドの間のフローリングでスヤスヤしているのが志摩宮だとすれば、目の前のシマミヤがシマミヤなのは自明の理なのだが。
(なんでそっちなんだよ)
声に出して二人を目覚めさせるのも悪いので、シマミヤに話しかけるように心の中で呟くと、シマミヤはニッと笑って俺の上へ乗り上げてきて顎に触れてきた。
《 懐かしいから 》
シマミヤは、今は志摩宮の外見そのままだ。
寝る前に女装を脱いで俺のTシャツとパンツで寝ている志摩宮と瓜二つで、並ばれたらどちらが志摩宮か判別出来ない自信がある。
癖毛の黒髪にはご丁寧に寝癖までついている有様で、俺の上に乗っかる姿は『神様』だなんて信じられそうにない。
(紛らわしいからやめて)
《 やっぱり静汰はこっちの方が好き? 》
瞬きの間にシマミヤは長い銀髪に踊り子風の衣装に変わる。締まった腹に小さな臍が見えるのが絶妙にエロい。慌てて目を逸らすと、くすっとシマミヤが笑った。
《 静汰、こっちでするの好きだから。まぁ俺も好きだからおあいこなんだけど 》
(する?)
《 えっち 》
かぁっと頰が熱くなるのを感じた。
え、マジで。俺そういう趣味なの。女装に掘られるのが好きって……あれ? もしかして俺が掘る方の可能性もある?
《 どっちだか気になる? 》
(勝手に心読むのやめろ)
ムッとして睨むと、シマミヤは俺の上で胸にうつ伏せなるように頭を乗せてきた。実体が無いからか、重さは無い。
《 静汰とは繋がってるから、無理なんだけど 》
そういって半分俺に沈まれてぎょっとした。心臓がバクバクいう。人の姿をしたものが自分の体の中に沈んでいくとか、結構ホラーだよ。
(神子にプライバシーは無いのか)
《 神子なだけなら……あ、これ以上は守秘義務が 》
(絶対無いだろ)
自分が面白がって隠したいだけの癖に。
仏頂面をしていると、シマミヤは寂しそうに俺の頰を撫でてくる。
《 ねぇ、昨日からそういう顔ばっかり 》
させてんのはお前だろうが、というのは思うだけに留めて……留めても結局伝わってしまうので、シマミヤが苦笑した。
《 静汰のそういうところ、好きだよ 》
(そういう所って?)
《 我儘だし自分勝手だけど、俺を傷つけそうな言葉は飲み込んでくれるとこ 》
愛おしそうに吐息の触れる距離で言われると、恥ずかしいやら居た堪れないやらで目を逸らした。勝手に赤くなる頰に触れてくるシマミヤの指が、ヒンヤリとそれを冷やしてくれる。
(……つめたい)
《 俺、温度とかないから。熱くもできるよ? 》
冷たかった指がほんのりと温かくなって、不思議なものだなぁとそれに頰を寄せた。ひんやりしてるのも気持ちいいけれど、温かい方も好きだ。
とはいえ、日が昇ってくれば冷房の無い部屋の中は段々と暑苦しくなってくる。
シマミヤに冷たい方にして貰って抱き着くと、保冷剤を抱いてるみたいで心地良かった。
(あ~……これ、気持ちいい)
ぎゅっと抱き着いてもう一度寝そうになる俺を、シマミヤはなんとも言えない表情で見下ろしていた。
《 ほんとチョロいんだから……》
ちょろいって。確かに自覚はあるが、ハッキリ言われると少し胸が痛い。どうせチョロいよ。楽な方に流されやすいよ。だから志摩宮の告白だって受け入れたんだし。
《 そこは信じて欲しいんだけど。こうやって神になってからも静汰を選んで会いに来る俺が、静汰を騙すわけないでしょ? 》
(……!)
言われてみれば。確かに、とシマミヤを見上げようとして顔を上げると、その向こうにぬぅと立ち上がる志摩宮の姿があった。
起きたのか、と声を掛けようとする前に、志摩宮が俺の体の上のシマミヤを腕で薙いだ。ふよふよと揺らいで、シマミヤの姿が消える。
「え……」
まさか神様が志摩宮の不思議パワーで消えたりしないよな!? と焦って起き上がると、シマミヤは蛍吾の方のベッドに腰掛けていた。
《 俺の存在が消える事はないよ 》
ホッと安堵した俺に、今度は志摩宮が抱き着いてきた。
「……なんですか、今の」
「今の?」
「なにか、白いのが……、静汰、抱き着いてましたよね?」
「気のせいじゃないか」
知らん振りをするが、志摩宮は俺の身体を探って訝しげにする。
「体、冷えてる。この暑いのに」
「あ~……夜風で冷えたんじゃね?」
お前が神様になって今もすぐ傍にいるんだよね、なんてのは、言ってもどうしようもないだろう。素直に言ったって、志摩宮だって誤魔化されたと思うだろうし。
《 静汰 》
「なんだよ」
「はい?」
志摩宮に呼ばれたと思って返事をしたら、シマミヤの方だったらしい。シマミヤがくっくっと喉を鳴らして笑った。
(お前なぁ)
また紛らわしい事をして俺を揶揄うシマミヤの方を睨むと、志摩宮もそっちを見て眉を顰めた。すると、シマミヤの姿が少し薄くなる。
《 いちいち消されると面倒だから、そっちには見えないようにしたけど。静汰にはもう見えるだろ? 》
(ギリギリ)
《 嬉しい。静汰が俺に力を供給してくれるようになってくれて 》
(力……。そういえば、シマミヤって何の神なんだ?)
聞き忘れていたことを聞くと、シマミヤは薄く笑って言った。
《 『嫉妬』の神だよ。静汰 》
嫉妬。信仰心を供給するようになった俺。それはつまり、嫉妬心が増えたってことで。
顔が熱くなる。つまり、シマミヤが見えるようになったのは、志摩宮が他の男と付き合ってると知って、俺が嫉妬したからって事かよ。
「静汰、どこ見てるんですか」
シマミヤが見えない志摩宮にとって、俺は蛍吾の方を見てぼぅっとしているように見えていたのだろう。
苛立ったように頭ごと抱えられて、俺の視界が志摩宮の胸に占められてしまう。
「……暑いよ、志摩宮」
「離れたくないです」
そう言われてしまっては、無碍にも出来ない。
大人しく抱き締められていると、後頭部の髪を指で梳くみたいに撫でられた。ゆっくりと髪の間を滑っていく指の感触は、割と心地いい。
「髪、そろそろ切るかな」
後ろの一番長いあたりは、もう肩についている。何ヶ月美容室に行っていないのだろう。春前は首の後ろが見えるくらい短かった筈だと思い出して、もしかしたら春から一度も行っていないのかもしれない。
「長めの方が似合ってます。春の頃より、俺は好き」
「短くしとかねぇとウィッグ被る時に隙間から出てきて面倒なんだよなー」
「……女装、やめませんか。アレで『巫女です!』って出て来られるくらいなら、スッピンそのままでスカート履いてた方がまだ見れるレベルですよ」
《 あ、それ本当に同意。自分の意見だけど。何千年経ってもやっぱ静汰のあの女装は無いわ 》
ボロクソに言われて、そこまでか……と少し凹んだ。確かにあまり見れたものじゃなかったけど。
「女装しろって言い出したのは蛍吾だぞ」
悔し紛れに、でも本当の事だ。やりたくてやってたんじゃないと言うと、志摩宮はチラリと寝ている蛍吾の方を見た。
「蛍先輩が。……なら、なんか理由があるのかな」
「たぶんな!」
知らんけど。
適当に蛍吾のせいにすると、志摩宮が頭上でくすりと笑う気配がした。
網戸からは朝のまだ涼しい風が入ってくるけれど、部屋の中は蒸し暑い。そろそろ離してくれないかと志摩宮の胸を押すと、眉尻を垂れさせて寂しそうに見つめられた。
「もう少しだけ」
「いや、俺腹減ったし」
「じゃあ、戻ってきたらまた抱き締めていいですか」
寮生ではない志摩宮は寮の食堂で朝食を摂れない。お前はどうするのかと聞けば、「あとで購買でパン買うんで」と素っ気ない。
俺と一緒に居ない間、もしかしてまた簡素なコンビニ飯に戻ってしまっていたのだろうか。せっかくまだ伸び代がありそうなのに勿体無い。
少し考えてから、俺も外に出て朝食を摂る事を考えついた。
「バーキンいこーぜ、志摩宮」
「今からですか?」
文化祭の準備期間中とはいえ、一応学校がそろそろ始まる時間なわけで。迷う志摩宮は、昨日脱いだ女装道具の方を見ながら困るようだ。
ああ、そうか。あれも返さないといけないし、ウィッグも縺れてしまっているし。志摩宮の心配事も理解出来る。
「ちょい待って」
俺は枕元の配線を手繰って充電していたスマホを掴むと、早速令慈やリサ達、実行委員らで作ったグループチャットに連絡を入れた。
『諸用で街の方に出てくるので顔出すの少し遅れます。何か必要な物あれば買ってくるんで言って下さい』
俺が書き込むと、志摩宮の方のスマホもピコっと着信音が鳴った。ズボンのポケットからスマホを出した志摩宮も、少し考えた様子で何か書き込んでいた。ピコピコと何件か着信の音が鳴る。
『アイス!!!!!!!!』
真っ先にレスしてきたのはリサだった。ビックリマークの数が半端じゃない。買っていってやりたいけど、街からバスで戻ってくる間に溶けそうな気がする。
『ピピコ希望』
続いてユミだ。うん、ピピコなら溶けても飲めるしいいかもしれない。
『白いペンキがギリギリなので、二缶お願いしたいです。一人で持てなさそうなら僕も同行します』
令慈が真面目にお使いを指示してきた。
『俺も一緒なので大丈夫です。昨日の女装衣装なんですが、カツラ絡まっちゃいました。ごめんなさい』
志摩宮が猫が頭を下げているスタンプを送ると、リサも負けじとパンダが「ダイジョーブ!」と言っているスタンプを送ってきた。
『絡まってるだけ?』
『脱ぐ時に毛の先の方が玉になっちゃって、どうしたらいいか分からなかったのでそのまま紙袋に入れてあります』
『オッケー! 下手に普通の櫛で梳かしたりするともっと悪くなっちゃうから、そのまま持ってきてね!』
『分かりました』
『それから、静汰くんって浴衣持ってる?』
浴衣? 俺が?
『持ってないよ』
寮生の俺がそんな普段着でもない物を持ってる訳もない。そうレスすると、ユミが「えぇ~!?」と驚く、動く馬のスタンプを送ってきた。なんだそのスタンプ、俺も欲しい。
『お小遣いに余裕あるなら買ってきて欲しいかな? 無理ならリサのお古着てもらうけど♡』
『買っていきます』
これは志摩宮が即レスした。既読からのレスが超速だった。
『男物でも甚平でもいいけど、明るい色にしてね!』
明るい色、という括りに、どうやら明日の為の女装に使うようだと見当をつけた。志摩宮のような露出の多い踊り子衣装ではない事にホッとする。
志摩宮がまた猫のスタンプで「オッケー」と送ったところで、寝ていた蛍吾がもぞもぞと不機嫌に起き出した。
「なんなんだ、朝からポコンポコンポコンポコン……」
「悪い。でももういい時間だぞ」
着信音が俺と志摩宮の二人分鳴っていたから、そりゃ煩かっただろう。これが早朝ならもっと真摯に謝るが、もういつもなら蛍吾が起きる時間すら過ぎている。
「マジか……あー、昨日帰ってきてから目覚ましセットするの忘れた……」
眼鏡どこだ……とのそのそと動く蛍吾の横に、すっかり存在を忘れていたシマミヤが退屈そうに座っていた。蛍吾はシマミヤに気付かないのか、彼を透過して布団を畳んで身支度を整え始めた。
蛍吾ですらシマミヤが見えないのか。という事は、シマミヤの片鱗が見えてた染井川さんってやっぱ結構凄い人だった?
《 あの人は……まぁ、こっちの静汰には関係ないよ 》
(こっちの俺?)
《 ……はい、禁則事項でーす 》
シマミヤは一瞬ヤベッという表情をして、笑って誤魔化してスッと姿を消してしまった。なんだそれ、ずるい。
意味深な事ばかり言って、肝心な事は何も教えてくれない。それが神様の定義だとしたら、シマミヤはとても神様している。
制服に着替えて朝食に行く蛍吾に追い立てられるようにして着替えると、俺と志摩宮は登校してくる生徒が沢山降りてくる学校前のバスに乗り込んで街へと向かったのだった。
まず、軽いものからという事で、ぶつくさ文句を言う志摩宮を引き連れてショッピングセンターの衣料品コーナーにやって来た。
俺の浴衣を買う為だけに電車を乗り継いで都心の方のモールまで行こうと言われたのを「どうせ明日しか着ないんだから」と宥めすかして、ちょっと疲れた。似合わないと分かっている女装用の衣装にそこまでしていられない。
「男物に明るい色なんて無いな」
「無いですね」
もう九月に入った催事コーナーでは、浴衣が三十パーセントオフで並べられていた。安いのは有難いが、男物は黒か藍色でストライプかしじら織か、くらいしかバリエーションが無い。甚平も同じく、暗い色しか無かった。
「諦めて女物買いましょう」
げんなりする俺に、対照的に志摩宮は元気を取り戻すようだ。
もうこの時期に新しい浴衣を買う人もあまり多くはないのだろう。開店間もない時間のショッピングセンターの催事コーナーには、他に客は居ないので男の俺たちが女物の浴衣を物色していても誰も見咎めない。
カラフルな女物が並ぶ中で志摩宮が意気揚々と選び始めるのを見て、あれだけ俺の女装をボロクソ言っていた癖になんで乗り気なんだと今度は俺が文句を言う。
「これとかどうですか」
藍色に橙の金魚柄の古風な浴衣を選び出した志摩宮は、俺に合わせて一人でニヤけた。
「静汰、どうしても俺の中で『黒猫』っぽいイメージなんですよね」
「……リサは明るい色って言ってたろ」
「女物だったら暗めでもいいんじゃないですか?」
明日の女装用のでしょう、と志摩宮もやはり俺と同じ事を考えていたようだ。
「明るい色なら、……やっぱり青系かな。静汰、パキッとした派手な色が全然似合わない」
「さいですか」
オレンジや赤の派手柄を俺に当ててみて、志摩宮は首を振った。ピンクや薄い黄色を手に取って、俺に翳して眉を寄せる。続いて次は藍色や灰色を当て、「こっち系だな」と一人で納得した。
「紺色が良いなぁ。色っぽい……脱がせたい……」
着てもいない浴衣を脱がせる妄想をする志摩宮の独り言がだだ漏れで怖い。
浴衣を選ぶのは志摩宮に任せてボケっとしていたら、ふと視界に気になる色があった。色の系統ごとに纏められた浴衣の中の、緑色の浴衣が集まっているあたりだ。
近寄って、気になった色の浴衣を引っ張り出してみた。
白緑色の生地に薄水色と緑青色の細かい小花柄。うっすらとラメのストライプが入っている。帯は紺色で、涼しげな配色だ。
手に取ってみて、気になった理由に思い当たって自分に呆れた。どれだけ志摩宮の事ばかり考えれば気が済むのか。
「なんか気に入ったのありました?」
「っ!」
じっとその緑色を手に見つめていたのが気になったのか、志摩宮が寄ってきてしまった。
「あ、いや、別に」
慌てて他の浴衣の中に戻すが、志摩宮は俺の持っていた浴衣をしっかりと捉えていた。横からまたその浴衣を出して、俺に翳して不思議そうにする。
「女装嫌がる割に、可愛いの選びますね」
おそらくはあまり似合っていないのだろう。そりゃそうだ。きゃぴきゃぴした可愛い色ではないが、それでも全体的に花柄が入っている。こういうのが似合うのは、清楚な大人のお姉さんだろう。大人っぽくも清楚でもない俺に似合わないのも当然だ。
女装趣味だと思われるのも少し嫌な気がして、志摩宮から顔を背けた。
紺色の方が似合ってますよ、と言ってラックに戻す志摩宮に、誤魔化すみたいに笑ってみせる。
「俺が着るつもりで手に取ったんじゃないし。……ちょっと、お前の色に似てたから……」
だから気になっただけなのだ、と。志摩宮の色が似合わないのは僅かでもなく傷付いたが、まあ仕方がない。
志摩宮の持っていた紺色の浴衣を受け取って、レジに持って行こうとしたところで手首を掴まれた。
「俺の色ってなんですか……?」
「いや、別に」
「別にじゃなくて」
「……お前の、目の色。緑で、好きだから……」
こんな事を言わされるなんて、羞恥プレイもいいところだ。
離せよ、と掴まれた手首を振ると、簡単に手は離された。けれど、志摩宮は信じられないみたいな顔で俺を凝視している。
「……静汰には、俺の目がこんな色に見えてるんですか」
志摩宮は棚からさっきの緑の浴衣を出してきて、何度も俺とその浴衣を交互に見た。
「いや、そりゃ厳密には違う色かもしれないけどさ。イメージが一緒っていうか、綺麗な緑色で、キラキラしてて……」
しどろもどろになり、更には顔が熱くなってきた。好きな人の目の色と同じ物なら何でも気になってしまうなんて、我ながら馬鹿だと思う。
「べ、別に、もういいだろ。早くこれ買って、飯食ってペンキ買いに行こう」
紺色の志摩宮が選んだ浴衣を買おうという俺に、しかし志摩宮は俺からそれを引ったくるように奪って、緑の浴衣を押し付けてきた。
「こっちにしましょう。これは棚に戻してきます」
「え、あの」
志摩宮は行動が早い。さっさと紺色の浴衣を元あった辺りに戻してきて、俺が持たされていた緑の浴衣をレジへ持って行って会計してしまった。
「……似合わないんだろ、これ」
ショッピングセンターに隣接するハンバーガーショップへ移動して、朝食を食べながら浴衣の入った袋を叩くと、志摩宮はホットドッグに齧り付きながら首を横に振った。
「似合う似合わないとかどうでもいいです。俺の色を身に付けたいって思ってくれた静汰の気持ちが嬉しすぎてしばらくソレで抜けます」
「抜……」
あまりに真面目な顔で言うので一瞬聞き間違いかと思ったが、反芻してみても間違っていない。
浴衣で抜くのか、浴衣を着た俺で抜くのか。聞きたくない。
「いっそ静汰の持ち物全部緑にしませんか」
「妖怪だろそれ」
厳密には、俺は「これが着たい」とか「これが良い」なんてのは一言も言ってないんだけど。これだけ喜んでいる志摩宮にそれを言うのも野暮だろう。
少し恥ずかしい思いもしたけれど、志摩宮が嬉しいと思ってくれたなら、俺も少しは嬉しい。いや、少しじゃないな。結構嬉しい。うん。かなり嬉しい。
頰がほんのり熱い。
バーガーを食べながら志摩宮を盗み見ると、彼もこちらを見ていたので思いきり目が合ってしまった。
キラキラした、明るい緑と暗い緑の混じった瞳。やっぱり綺麗だ。
「……あんまり見られると、さすがに照れます」
「ごめん」
「悪い気はしないんですけど、……照れます。ほんと、今すぐ持って帰りたくなるので」
どうして照れると持ち帰る事になるんだよ。どこに持って帰るんだよ。ツッコミ所は沢山あるが、全てバーガーとオレンジジュースで飲み込んだ。
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