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しおりを挟む「あ」
一目見て、『奴』だと分かった。
ホストだかアイドルだか、女受けの良さそうな長めの黒髪の下の、やたら印象的な真っ黒の瞳を見間違う訳がない。
真っ白で綺麗な肌に、目と反対に印象の薄いまっすぐな鼻筋。白い肌にほんのり色付いたくらいの色の薄い唇。細身の骨格に、優しそうな微笑みの乗った不気味なほど整った顔。
前にあいつと顔を合わせたのは、奴がまだ高校生だった頃だ。という事は、三年前くらいか。
俺の一個上らしいあいつはもうとっくに成人している筈なのに、あの頃に比べても全く劣らず──どころか、さらに人間味をなくしているように見えた。
すぐさま踵を返し、店に電話をして今日の仕事をキャンセルしてもらえばよかった。それが最善手だったのに。
数年ぶりに見たその沼のようなどろりと濁った瞳に、馬鹿みたいに見惚れてしまっていた。
「……?」
間接照明だけの薄暗いホールの中、大勢の視線はステージか話している間近の相手に注がれている。その中で遠くから見つめる俺の視線にあいつが気付くのに、そんなに時間は掛からなかった。
こちらを見た、と気付いてやっと、逃げなきゃ、と体が動いた。
慌てて人混みの中に埋もれて逃げようとしたのに、運悪くその客の中に知り合いが居たらしく、腕を掴まれてしまった。
「ヒロくんじゃん。今日は珍しくステージ上がるんだって?」
「あ……えへ、うん♡」
「ステージで泣くなよ~、客萎えるからな」
「もお、スズハラさんたらぁ、緊張させないでよぉ。がんばるよぉ~」
接客用の甘ったれた言葉遣いでたまにうちの店に来る客との会話に応じていると、視界の中にあいつが割り込んできた。
「お客様、失礼致します。……ね、君、俺の今日の相手だよね?」
奴が丁寧な仕草で客に頭を下げると、周囲に居た女性客がキャアと湧いた。
「やだー、アイくんじゃない」
「アイくん、今日はここでキャストしてるの?」
「珍しい~、ね、あっちで飲みましょうよ」
今俺が居るのは『錘』という老舗SMバー主催のイベントで、いわばSMに特化した合コンだ。サドは赤、マゾは黒の、目元から鼻までを覆う仮面を被るのが決まりで、キャアキャア騒ぐ女性客たちは皆マゾが被る黒い仮面を被っている。
俺は錘と付き合いの長いSMヘルスで働いていて、今日はステージキャストとして呼ばれたので仮面を被っていない。
そして、アイと呼ばれた奴もまた、仮面を被っていなかった。
「すみません、お嬢様方。これからステージに上がるので……」
「え! アイくんが!?」
「はい、店長にどうしてもと頼まれまして……」
「ああ~、そっかぁ、アイくん最近ネットで評判アレだから」
「ちょっと姫花!」
何が『アイ』だ。愛から一番縁遠い中身しているだろう奴が女性客たちと話している間に、じりじりと後退してその場を立ち去るタイミングを見計らう。
「いいんですよ。あまりプレイしない俺が悪いんですし」
「え~、いや、アイくんはウルトラスーパーレアだから価値があるっていうか。そんな簡単に誰とでもプレイして欲しくないよねぇ」
「わかる~」
やたらめったらおモテになるのも、相変わらずのようで。そのまま喋っていてくれ、と祈りながら、こちらへ向かって歩いてくる客のグループにそれとなく混じって逃げようとしたのに、数歩進んだところでぐっと腕が引かれた。
「君、えっと……ヒロくん。今日の相手でしょ。もうそろそろ始めるのに、何処へ行くつもり?」
腕を見ると、細いチェーンが肘の辺りに絡んでいた。細身の鎖のようなそれの先を握っているのはアイで、俺の行動を見咎めるようにじゃらりと弛ませてから軽く引いてくる。
「……トイレに行きたくなっちゃってぇ」
こいつ、まだあの頃と似たような得物使ってんのか。あの頃は本物の鉄鎖で、三十センチほどのそれを振り回して叩き付けられるとそれだけで喧嘩相手は叫びながら戦意喪失していたものだ。一撃で肉を裂かれて血塗れになるあの痛さを思い出すと、それだけで涙が出そうになる。身体に刻み付けられた恐怖心が、早く逃げろと叫んでいる。
十分距離は取っていた筈なのに、と肘に絡まったそれを一瞬だけ苦々しく睨み、けれどへらへらと作り笑顔で甘ったるい声を出した。
こいつが丁寧な言葉で話し掛けてきているって事は、『俺』だと気付いてないってことだ。不幸中の幸いだ。
「行かなくていいよ。君のその容姿なら、ステージで漏らした方がお客様のウケが良いだろうから」
俺を上から下まで眺めて、アイはそう言った。それについて異論は無い。
やたら英字の書かれた袖無しのロンTにジレを着て、ボトムスは濃い色のダメージデニム。ゴツいシルバーの指輪を両手で八つは着け、両耳合計で七つのピアス。白に近い金髪を目元まで伸ばした俺は、どこからどう見ても『輩』だ。
ヤンキーとか不良とか、そういう生意気な男を屈服させたい系のサドに割と人気がある。
俺は割とマイルドなマゾだから、虐められ過ぎない為に『性格は可愛い系で泣き虫』というキャラで売っている。すぐ泣くマゾは初心者には人気だけれど玄人にはすぐ飽きてもらえるので、あまり酷いプレイをされたくないからちょうどいい。
今日はパッと見て周った感じうちの店の客は少なく、俺の性格を知っている客は少ない。だとすれば、俺の外見的には必死に我慢しつつも悔しげに漏らしたりしたら客は大喜びだろう。
「やだー、アイくんったら~」
「いいなぁ、アイくんにプレイしてもらえるなんて」
「アイくんが職業サドとか、一回でも相手してもらったら言えないよね~」
「代わってほし~い」
アイが喋る度、女性客がその倍以上喋る。
代わってくれるなら代わって欲しい。
「あ、だったらぁ、今日は突発でお客様とプレイするのもいいんじゃないですか♡」
「え、いいの?」
「はい♡ お客様あってのイベントですしぃ♡」
ね、とアイに視線を送る。高校の頃から女を食っては捨て食っては捨ての噂が絶えなかった奴だ。男の俺とするよりそっちの方がいいだろう。
そうだよな! と願いを込めながら作り笑顔を向けると、奴は真っ黒の大きな瞳を俺に向けて、じぃっと見つめてきていた。
「……っ」
ゴク、と喉が鳴る。こいつのこの目が、昔から苦手だ。沼みたいな濁った目で、心の底まで見透かされているようで気味が悪い。いくら美形といってもよくこんなのがモテるものだ。女の趣味は分からない。とは言っても、男からも相当モテるみたいだから、もしかしたら俺が気にしすぎなのかもしれないが。
「あのぉ……」
「……君、何処かで会ったことある?」
「ないです」
あ、ヤバ。反応早すぎたかな。眉間に皺を寄せたアイは、俺の顔を思い出そうとしているみたいに寄ってくる。
「やだぁ、アイさんみたいなキレーな人、緊張するぅぅ」
「……」
だからその目をやめろ。大きくて真っ黒で、見つめ返したら最後、吸い込まれて飲み込まれそうだ。
細いチェーンをそれとなく腕から外しながら後退るのに、今度は直接腕を掴まれた。
「こんなに目付きの悪いオネエの知り合い、いたかな……」
「だからぁ、初対面ですってばぁ~」
「アイくんナンパ~?」
「ねぇ、その子、交替してくれるって言ってるんだからあたしとしてよぉ」
女性客が、アイのスーツの腕を掴む。そちらへ向けた視線に、女性客だけでなく、俺まで息を呑んで固まった。
「今さぁ、この子と話してんの」
どろりと濁った黒い目が、唐突に恐ろしいほどの暴力性を滲ませて女性客を見る。
ただ無表情に視線を向けただけなのに、それだけでその場が凍り付いた。逆らう言葉を発してはいけない、と本能が警告を鳴らしてくる。
「ぁ……」
怯えた女性客の喉から細い声が出て、それが更にアイの苛立ちに拍車を掛けたのを察して慌てて間に割り入った。
「ちょ、え、待ってぇ~、やだやだ、アイくんこわ~い♡」
客に向ける目じゃないぞ、と睨むと、女性客から俺に移った視線が、俺の額あたりを舐めるように動いた。
あ、やば。
「あっ、あのぉ、やっぱ俺トイレに……ッ」
今度こそ逃げ出そうとした俺の肩を掴んで、アイは俺の前髪を捲って額を露わにした。右の眉上とこめかみの間に残る火傷の跡を見て、アイが目を細めた。形の良い唇が弧を描く。俺の顔すら覚えていないくせに、自身が付けた傷はしっかり覚えているらしかった。
「……なぁんだ。なんだよ、お前じゃん」
「…………」
「久しぶりだなぁ。なんかめちゃくちゃキャラ変したなお前?」
くく、と低く笑われ、おいおい良いのか化けの皮が剥がれてるぞ、と背中に冷や汗が流れる。
こいつは、そこそこ長い間俺に付き纏っていたくせに、ついぞ俺の顔を覚えなかった。
俺の通っていた西校とアイの通っていた東校は対立が激しく、駅周辺がどちらの学校の縄張りだとかそんな下らない理由での殴り合いの喧嘩は日常茶飯事だった。殺し合うつもりのない喧嘩はその頃からマゾの気があった俺にはちょうど良いストレス発散で、縄張り争いに興味は無いけれど喧嘩にはしょっちゅう参加していた。
一つ上の敵校の先輩であるアイは、本名は確か阿見だったか。
喧嘩慣れした上級生たちが口を揃えて「阿見にだけは近付くな」と言うくらいに敬遠されていて、それというのも、奴だけは喧嘩の域を超えたことをしてくるからだ。
愛用の短い鎖をいつも懐に忍ばせ、喧嘩の現場に来ては彼の噂を知らずに殴りかかった人間をその鎖で打ち倒す。やたらと綺麗な顔をした彼を知らないのは新入生だけで、後輩に厳しい先輩連中も、阿見の事だけは口を酸っぱくして忠告するほどだった。
阿見はいつも喧嘩の現場に来ては隅でにこにこと眺めていて、不気味すぎるのに誰も彼に向かっていくことは無かった。
手を出さなければ、噛まれることもない。彼を狂犬扱いするのは彼を有する東校も同じで、彼に話しかけているのは番長格の生徒くらいしか居なかったと思う。
俺だって、あんな痛そうなのは御免だった。阿見が重そうな鉄の鎖を鞭のように振ると、一撃で制服を切り裂いて鮮血が飛ぶ。あれを見て怖気付かないなら、もう素人じゃない。今考えても、ガキの喧嘩で使っていい武器じゃなかった。
だから絶対に彼に手を出すつもりは無かったし、あれだけ綺麗な顔をしていればどれだけ乱戦でも見分けは付くと思っていた。
あれは、ものすごく不運な事故だったのだ。俺の蹴り飛ばした男が、ふらついてよろめいて、座って見学する阿見の上へ倒れ込んだのだ。
青褪めて速攻逃げようとした俺の背に、次の瞬間には阿見が飛び蹴りを喰らわしてきた。蹴り飛ばされて倒れ込みつつも受け身を取った俺の背中は続け様に鎖で打たれて、想像を絶する痛みに泣きながら逃げた。
逃げたのに、──逃げたことこそが、阿見の関心を買ってしまった。
あの一撃を受けると、ほぼ全ての人間はその場で痛みに呻いて動けなくなる。それが、俺は走って逃げ出してしまったものだから、「なんかやたら頑丈な奴がいる」と覚えられてしまったのだ。
ただ、綺麗な顔を作るのに細胞を使い過ぎてしまったのか阿見は顔を覚えるのが苦手なようで、街中ですれ違っても全く気付かれなかった。が、喧嘩したり動いているとすぐさま寄ってきてあの鎖で打ってこようとしてきた。俺が喧嘩に参加していると阿見が暴れ出すからと先輩から参加しないように言い渡されたけれど、時々こっそり覗きに行って、阿見が居ないのを確認してから参加して、すると何処からともなく阿見が出てくる。
何度めかに阿見に捕まった時、三度も背中を鎖で打たれて、さすがに血を流し過ぎて動けなくて倒れ込んだ。痛みでえぐえぐとみっともなく泣く俺の横に蹲み込んだ阿見は、何を思ったか煙草を吸い始めて、そして俺の額にその先を押し付けてきた。痛みと熱さで呻く俺を見下ろす淀んだ目は、その後何ヶ月も夢に見たほどだった。
その時の根性焼きの跡は今だに消えず、だから仕事の最中は前髪を下ろしているしかない。
ぐりぐりと押し付けられたあの煙草の熱さを思い出して涙ぐみそうになって睨むのに、阿見は──アイは、優しそうな顔を作って改めて俺の腕を掴んだ。
「雰囲気似てる気がして受けたけど、まさか本人だったとはねぇ」
「違……、なんの事だか、全然」
「キャラ崩れてるよ、ヒロくん」
睨まないで、と顎を撫でられてゾッとする。
交替してくれるんだろ、と女性客を見るけれど、アイの態度に臆したのか、数人で固まってコソコソと逃げ出してしまっていた。
「あのぉ、ほんとに全然分からないっていうかぁ♡」
だから離してほしい。女をエスコートするみたいに腰に腕を回してきたアイは俺をがっちりホールドして、ショーをする予定だったホールの隅の小さなステージへ押してくる。
「あの……っ」
「往生際悪ぃよ?」
真横にある整った顔が、低く恫喝してくる。
SMとか、そんな生半可なものじゃないだろう、こいつのは。本物の拷問を見せたいのか。こいつを雇ってる店はどういう神経してるんだ、人死には起きてないのか? それとも、ハードなマゾならこいつの責めはご褒美になるんだろうか。
「おっ……れは、そ、ソフトなマゾでっ……お前みたいなのは、お断りなんだよっ!」
ステージの準備をしていたスタッフが寄ってきて、そっちにアイの視線が向いた瞬間に腕を振り払って走り出した。後で店長にしこたま怒られるかもしれないが、死ぬよりマシだ。恐怖の記憶で背中に残る傷痕が痛んで仕方ない。
が、走り出した俺はすぐさま床に引き倒された。
バチーン! と毛足の短い絨毯に勢い良く倒れ込んだ俺に、何事かと周囲の視線が集まってくる。何で転がったのか、と思っていたら、今度は脚にチェーンが絡んでいた。
「即落ちのチョロいマゾだって聞いてたんだけどなぁ」
ゆっくり絨毯を踏むアイの靴が寄ってきて、俺の隣にしゃがんだと思ったら後頭部を掴まれた。うつ伏せの俺の後ろ髪を引いて一度引き上げられて、それから思い切り床に顔面を叩き付けられる。
「あぐっ」
「いいこだから、始まる前から逃げないで。ね?」
柔らかい絨毯のおかげで痛みはそれほどでもないけれど、打ち付けられた額は痛い。呻いているともう一度引き上げられて、また床に打たれた。
「う……ぁ」
「お返事出来るかな?」
「……っ、逃げ、……ない……」
優しげな言葉の割に声音は平坦で、全く感情が籠もっていない。
周囲の客たちから、羨ましげなため息が聞こえてくる。いや、代わってほしいなら代わってやるから、今すぐそう申し出てくれ。
そのまま後頭部を掴んで立ち上がらされ、真っ黒の瞳に見つめられて睨み返した。
「……学習しないね」
「イッ……!」
そのままステージ上へ登らされたかと思ったら、一段高くなったそこへ投げるように倒された。すぐさま体勢を直そうとして、客の視線が向いているのに気付いて立ち上がるのを我慢する。
「お待たせ致しました。ステージC、開始致します。Sキャストは『錘』所属のアイ、Mキャストは『まぞっこ倶楽部』所属、ヒロ。演目は『お仕置き』」
進行スタッフがショーの演者と演目をマイクで語り上げる。煩めに掛かっているBGMでハッキリとは聞こえないが、「アイく~ん♡」という黄色い声が聞こえてくる。
こんな奴が好きだなんて、相当なマゾ具合だ。
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