上 下
1 / 1

千歯扱きへ 倉吉の旅 前編

しおりを挟む
 初めて乗った『スーパーはくと』は、三ノ宮から三時間、終点の鳥取県倉吉に着いた。改札を抜けると、五月のまぶしい光が溢れていた。向こうの山々を高いビルが隠すことなく広やかで気持ちがいい。
(ああ、やっとやっと来れたわあ)
突き抜ける青空を見上げて、私は思いっきり息を吸い込んだ。

 こんなに倉吉に想いを寄せ続けたわけはたった一つ、学生の頃からの友人の強い『推し』だ。
彼は倉吉に生まれ、小学校二年生になったときにはその地を離れていたのに、
「倉吉は僕の故郷、いい街ですよ。一度是非行ってみてください」
そう同窓会などで会うたびに言われた。その上、十年くらい前、
「僕は千歯扱き発案者の末裔(まつえい)なんですよ」
などと言ったのだ。
「センバコキ? あの稲を脱穀するギザギザしたの? それを発案? すごいんとちゃう? 家に古文書(こもんじょ)とか残ってる?」
「いや、何もない。ただの言い伝え」
(おもしろいなあ。千歯扱きなんて庶民っぽくていいやないの)
とても興味をひかれたけれど、そのままにして時は過ぎていった。

 二年前のある日、ふと、思い立って、インターネット検索してみた。すると、
≪千歯扱きは、泉州高石大工村(大阪府高石市高師浜)の大工宇兵衛が元禄年間に考案した≫
とある。
(あれ? 彼の祖先とちがうよ)
 気になって、高石市立図書館へ足を運んだ。難しい資料も見てみたが、
≪千歯扱きは大工村の発案≫
ということしか分からなかった。
 気になりだしたらやめられず、「倉吉」とパソコンに打ち込んだ。鍛冶町とか色々歴史もあり、どんどん興味がわいてくる。
(これは倉吉に行かねばならない)
 この短絡さが、友人たちが呆れる私の『変人』たる所以だ。しかも、それに気づいたのが、70才を通り過ぎたつい最近なのである。

 昨年、思い切って、倉吉歴史民俗資料館にメールを送信した。この上なく迷惑な話にも関わらず、主任学芸員さんがお返事を下さり、私はうきうきと宿の予約を入れた。
 ところが、例によって、発熱。それに加えてぎっくり腰と、二度キャンセルした。これも『キャンセル女王』のいつもの哀しいパターンである。


 そして、ついに、ついに、今日だ!
 駅の近くの観光案内所で、倉吉絣の着物がよく似合う女性に教えられたように、バスに乗った。
乗客が二人だけのバスに乗るとき、
「白壁土蔵群へ行きますか?」
そう尋ねると、運転手さんがにこやかに答えてくれた。
「はい、はい、行きますよ。お客さん、一人? へえ、どこから? 一人! あそこの白いたい焼きおいしいよ。食べてみて」
やはり一人旅の私は『変人』なのだと笑ってしまう。
 バスを降りてしばらく歩くと、京都の町家のような間口が狭く奥行きが深い家々が用水路に小さな橋を架けて並んでいる。陣屋町として栄えた風情を楽しみながら、ぶらぶら歩く。本当は迷子ならぬ、『迷婆』になっているのだが気にしない。
 少し離れたところにある博物館は、私がモタモタとキャンセルを繰り返している間に、長期の閉館に入ってしまった。でも、学芸員さんが『白壁土蔵群』の施設の一つにいらして下さることになっている。
 ほんと、ただただ申し訳ない思いでいっぱいだ。千歯扱きについて知りたいことは、二つ。
 ① 友人が発案者の末裔か?
 ② 始まりは、倉吉なのか、高石なのか?
一応、私なりに調べてみた。
≪千歯こきとは、鉄製の歯を角材に櫛状に並べたもので、稲や麦の穂から籾を扱(こ)き取る道具である≫
≪伯耆(ほうき)の国(鳥取県中西部)は、良質な砂鉄と豊かな森林が供給する大量の炭により、たたら製鉄が盛んであった。古くから刀剣や農具を作る優れた鍛冶職人が育った。特に刀剣に関しては多くの名刀も生み出された≫
≪千把扱き、千歯扱き、千刀扱、とも言われ江戸時代中期から昭和初期まで広く使われてきた。米や麦の生産の効率を上げるのに多大な貢献をした≫
≪特に倉吉のものは、竹製の歯であったものを丈夫な鋼でつくったので、『千刀扱』といわれ、評判がよく、全国の八割のシエアをもつに至った≫
そう言えば、彼の先祖は池田藩の刀鍛冶だったと聞いたことがある。

 学芸員さんとの待ち合わせの場所に、なんとか時刻までに辿り着いてほっとする。お忙しい中、時間を取ってくださった理知的で優しい女性にひたすらお礼を言う。そこには本物の『千刀扱』も展示されていて、畳の間に座って話を伺った。その上、その方も一部を執筆されたずっしりとした図録も分けて頂いた。
 ただ、友人の家の名は資料には残っていないらしい。正直がっかりしたけれど、仕方がない。彼は
「祖父が鍛冶屋を営み、行商に出ていたことをうっすらと覚えてる」
と、言っていたけれど。
 この旅の一番の目的は、あえなく消え去った。
 第二の目的のせめてヒントでもつかみたいと、学芸員さんに何度もお礼を言って外に出た。

 カフェで休みながら、図録に目を走らせて分かったことを整理してみる。
・ 鍛冶町を中心に江戸末期から盛んになり、鳥取藩の国策政策を受け、大阪や江戸への販路を拡大し、急速に発
  展した
 
・『職本(しょくもと)』と呼ばれる鍛冶屋が軒を連ねていた

・ 販売も、隊を組み、何か月にも渡る行商だった。拠点を置いて、そこから村々へ行商に出かけた。馬の背に乗せ
  たり、蒸気船に乗せたりして。

・ 明治13(1880)年『鉄耕社』という会社を設立し、資金調達なども行っており大阪にも出張所があった

・ 掛け売りで、農家に貸し出し、収穫が終わってから代金を受け取る。そして、その場で修理もするという方法が
 とられ、日本中に販路が広がった

メモを取りながら、ぼーっと、わずかの知識で、えらそうに考える。
(この営業の仕方は、壮大で、流通のプロ、つまり商人の関わりがなくてはとても無理なのではないか?)

 そんなことをブツブツ言いながら、また『迷婆』のブラブラ歩きをしていると、『倉吉淀屋』という二階建ての大きな構えの町家があり、帳場も残されている。
(淀屋って大阪の豪商?えっ、あっ、大阪や!)
 中に入って資料を見ると、やはりあの『淀屋』と深い結びつきがあるではないか!
 パンフレットには、
≪淀屋の屋号を称する牧田家は、倉吉を代表する商家の一つ。千刀扱や倉吉絣を販売し莫大な富を築いた≫
とある。
 その始まりは、阪北大阪北浜の豪商『淀屋』。材木商から米市塲へと手を広げ、屋敷の前の土佐堀川に橋を架けた。(「淀屋橋」として有名だ)
そんな繁栄の中、宝永2(1705)年、幕府から『闕所(けっしょ)』処分を受け、五代目のときにとりつぶされた。
ところが、その前から秘密裏に動き、四代目は、番頭牧田仁右衛門に、出身地の倉吉に店を開かせた。それが『倉吉淀屋』だ。
(北浜と高石って近いよね。うんうん)
 うれしくてわくわくする。

 観光マップには、『豊田家』という大きな町家も観光客に開かれているとある。
 なんとか辿り着いて、前から覗くと、土間に千刀扱も見える。
「ごめんください」
 しーんとした奥に大声をかけると、作務衣姿のおじさんが出てこられた。壁には、
≪倉吉の歴史講談≫と張り紙がある。しかも≪淀屋の光と影≫
(うわ、これだ)
と、早速お願いする。『木戸銭』として五百円を箱に入れ、案内されて二階に上がると、そこは立派な大広間。お客は私一人。申し訳ないけれど、どうしても聴きたい。
 パンフレットには、
 ~泰平の世の侍をも遥かに凌ぐ、もうひとりの淀屋.牧田仁右衛門~
とある。
 先ほどのおじさんが堂々と舞台に上がった。
 ババンバンバン!
 大きな張り扇で講釈台を叩きつけ、派手な音が響く。
(ひとりですみません)
 そう、心のうちで何度もお詫びする。
 でも、分かった!
『講釈師、見てきたような嘘を言う』
 昔からそう言われているが、でも、講談で謎が解けたのだ。
『倉吉淀屋』は堺に職人をやり、技術を持ち帰らせたとあるが、
(堺と言っても元は高石の大工町だったのではないか?)
 資料は見つけられなかったけれど、私は勝手にそう考えた。
 講談では、四代目と番頭の信頼関係が、涙ながらに語られていた。
そして、『商人(あきんど)の敵討ちは、お侍とちごて、孫子何代にも渡ってするもんなんや』とも。
 没収された『淀屋』の財産は莫大なもので、『大名貸し』していたものもすべてご破算になり、大名は安堵したという。
 ところが、動産はその割には少なく、大部分が倉吉に運ばれていた可能性があるという。確かなことは霧に包まれており、人々が沈黙しなければならなかった事柄が多くあったらしい。
 つぶされた北浜の豪商『淀屋』は倉吉で生き続けたのだ。
 後に、『倉吉淀屋』は、ついに元あった場所大阪北浜に『淀屋』を復活させた。
ところが、幕末の安政6(1859)年、突然、倉吉と北浜の店をたたんで看板を降ろした。一説には、財産を朝廷に献上し、幕府への恨みを晴らしたとか。
 封建時代の終焉と共に、淀屋はまたひそかに新ビジネスに向けて動き出したともいわれる。
私のもやっとした霧は少し晴れかけた。

 牧田家のご子孫は今、神戸市に在住とか。私の友人の先祖のことは、分からなかったけれど。
そういえば、友人も
「倉吉と大阪は結びついてるんですよ」
とか言っていたのを思い出した。

 他の冊子に
≪倉吉淀屋は倉吉を堺のような世界に広がる街にしたかったのではないだろうか≫
という記述もあった。

 翌日、図書館へも足を運んで調べたが、講談の方が私のレベルに合っているようだった。
様々な研究者や地元の方が調べられているが、まだ謎のままのことも多いという。
 私のような素人が口をはさむことではないが、大きな不思議な時代の流れをちょっぴり追うことができた楽しい一日だった。

 まだ日は高かったが、脚が「もう一歩も動きません」と駄々をこねていたので、駅前のホテルで休むことにした。本当はラドンをいっぱい含んだ三朝温泉につかりたかったけれど、婆さん一人では敷居が高かったのだ。でも、心はシュワワシュワっと爽やかだった。

 翌日、実際に鍛冶屋さんに行く体験(後編)につづく。

参考文献 
千歯扱き 倉吉・若狭・横浜 2013年発行
蔵のまち倉吉の奇跡 大阪・倉吉両淀屋と倉吉の文化 2022年 倉吉淀屋研究会
新鳥取県史 2019年
倉吉市史 1973年  

しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...