迷宮精霊

浜柔

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第一六話 迷宮訪問団

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 第二三週木曜未明、迷宮――。

「ぎゃああああ!」
「はっ、放せ! うわあああ!」
 夜も明けやらぬ迷宮に男達の悲鳴が木霊した。

 治療スライムに飲み込まれる冒険者二人組の様子を、ネズミを通して見ていたザムトは頭を掻いた。
「参ったな、これは」
 紛うことなく事故だった。一人がスケベ心を発揮してスライムに漂う女を間近で見ようとしたらしく、不用意に近寄り過ぎたのだ。
 足がスライムにぶつかって引き摺り込まれ始め、もう一人が助けに入ったもののビクともしなかった。
 このままでは一緒に飲み込まれると判断したのだろう、助けに入った方は仲間を振り解いて逃げようとした。だが、飲まれそうになっていた方からすれば堪らない。藁にも縋る勢いで仲間を掴んで放さず、敢え無く二人はスライムの藻くずとなった。
 立て札は立てていなかったが、冒険者の半数が文字を読めない以上、立てても混乱の元だ。
 条件付きで立ち入り可のスライムの部屋では、眷属以外立ち入り禁止の階段とは文言が変わる。それを見る者に区別して貰わなければ意味が無い。サシャを指差して「あいつは入ってるじゃないか!」などと言われればめんどくさいだけだ。
 尤も、一種類だったとしても文字が読めない一見相手には殆ど無力だ。簡単な記号を使っても意味を知らなければやはり無力。案内人が欠かせない。
 サシャはその案内人だが、今回のように眠っている時間に来られては即応できない。これもまた問題だ。
 今朝に限っては、ハジリへの往復で疲れたのか昨夜は覗きもせずに眠ったサシャを起こしたものかどうか考えている最中、二人組は明るい場所を辿るようにして真っ直ぐに治療スライムの部屋へと行ってしまい、全てが終わった。

「がひゅぅ」
「ぴげ!」
「ぎひい!」
 また迷宮に男達の悲鳴が轟いた。
 今度は警告を無視して押し入ろうとした三人組の冒険者がエリザに切り捨てられた。一人目は声を上げる前に、二人目は声を上げ掛けた時に、三人目は声を上げ始めた時に上半身と下半身が生き別れになった。
 射幸心に煽られた冒険者の末路である。

 そしてまた別の三人組の冒険者がサシャの部屋へと侵入した。
 入り口からは直接見えない奥で眠っているサシャの方へと目配せし合いつつ三人組が近付いていく。サシャを守るように荷役二号と猫が立ち塞がると、三人組は驚いた素振そぶりを見せながらも剣を抜いて問答無用で斬り掛かった。荷役二号には二人掛かりだ。
 荷役二号が斬られて崩れ落ちる一方で猫は斬撃をひらりとかわし、冒険者の振り下ろされた剣と腕を踏み台にして間合いを詰め、爪で喉を一閃する。叫び声も出せぬままに冒険者は喉から血を噴き出させて悶絶し、頽れた。
「何!」
「この!」
 仲間の兇変を目の当たりにした冒険者達は猫に斬り掛かる。しかし、数瞬後には仲間と同じ運命を辿った。
 その騒動の間、サシャは「もう食べられませーん」などと寝言を言いながら夢の世界を漂っていた。

 立て続けに起きた事故と事件は、サシャとリタの買い出しに関係しない筈がない。
 ある程度人が来てこそ迷宮の維持も捗ろうと言うもの。それ故、二人には訊かれたら答える程度で迷宮の存在を知らせるように伝えていたのだが、効果が有りすぎたらしく、不用意な冒険者が来てしまった。
 こんな冒険者にわんさと来られては、対応ができないだけでなくサシャの身も危険だ。もっと社会的に影響力の有る組織に秩序を保って貰う必要があるだろう。
 今の迷宮は自然入手する魔素が消費する魔力に対して不足していて、毎日の黒狼の狩りで補っている状態なのだ。狩りをせずとも安定させるには、住人も訪問者も増えて貰わなねばならない。人が増えると黒狼による狩りをし難くなって簡単には魔力を補えなくなるが、過渡期は堪えるのみである。
 ただ、今朝の騒動では一つだけ収穫も有った。
 荷役二号の身体である土人形は崩れてしまったが、憑依していた低級霊が無事だった事だ。新しい土人形を用意して低級霊を憑依させれば元通りである。
 土人形一体を全て錬成した場合には二の魔力が必要なために人形を無駄遣いできないが、人形を手作業で作るなどして魔力を使わないようにできれば、冒険者向けの階の増設が叶うかも知れない。
 そうやって色々考えれば考えるほど、まだまだ安定には程遠いと思い知らされて、ザムトは溜め息を吐くのだった。

 死体の処理には治療スライムを利用する。
 それに先立って前回の移動時に分裂していなかった個体を階段へと移動させる。階段の床に移動した治療スライムはザムトの予想通りに分裂した。
 これでエリザが斬り捨てた死体の処理も手早くでき、ある意味で見せしめにもできる。
 エリザが斬り捨てた三人を階段のスライムに飲み込ませ、猫が屠った三人を未だ眠りから覚めない女が入っているスライムに飲み込ませたら処理は終わりである。

  ◆

 同日早朝、ハジリ東門――。

 東門を出て直ぐの場所に冒険者組合、衛兵隊、それに商業組合の面々が集まっていた。
 冒険者組合と衛兵隊は示し合わせて迷宮へと訪問する予定だったのだが、別口で迷宮へと向かおうとした商業組合と鉢合わせする形で合流したのだ。

 冒険者組合からは、副組合長のロブス、ソレーヌ、ヨハンナ、護衛としてロブスが指名した数合わせの冒険者五人組。
 冒険者達がわいわい話しているのを横目に、ヨハンナは天を仰いでいた。後ろで束ねた背中までの金髪の毛先がそよ風に揺れる。
「何であたしまで……」
 ヨハンナは自分が同行者に加えられて気が重い。これから何時間も歩かなければならないと思うだけでもう疲れている。溜め息混じりに髪を弄ってみても気は晴れず、同行の猥褻物たる同僚を見ると溜め息が深くなるばかりだ。
 やや低めの背丈のヨハンナとやや高めのソレーヌの身長差は一三センチメートル程だが、腰の高さも同じだけ違う。ソレーヌの脚が人並み以上に長いからだと判っていても、並んで立っていればどうしても比べてしまうのだ。
 その猥褻物はと言うと、裸身を晒したまま期待に胸を躍らせているかのようにニコニコとしている。身動ぎする度に乳首が躍って目に毒だ。

 衛兵隊からは副隊長のスベンとその部下の計五名。
 その内の紅一点であるショートボブの金髪をしたステラは身長一四二センチメートルとちっちゃい。
「ちっちゃい言うな!」
「何を叫んでいるのですか? 誰もそんな事を言っていないでしょう」
「も、申し訳ありません」
 スベンに窘められたステラは、広げた掌を前に向けて指先をこめかみに付ける形の敬礼にて謝罪した。
 衛兵は皆、隊服と金属製の軽甲を装備していて、傍目にはかなり暑苦しい。装備している彼ら自身も暑いのだろう、早朝だと言うのに額に汗が滲んでいる。

 商業組合からは副組合長のシルビアとその護衛の冒険者パーティの計五名。
 シルビアは三一歳で副組合長になって五年になる。二一歳で夫に先立たれてから仕事に打ち込むようになると、僅か五年で副組合長にまでなった才媛で、キリッと引き締まった表情が厳しい人柄を窺わせている。背丈はソレーヌより僅かに高く、伸ばせば腰まである金髪を頭の後ろで団子に纏めていて、露わになっているうなじが色っぽい。そしてこの場にそぐわない小さな鞭を手にしている。
 護衛の四人は赤の他人でありながら四つ子のようにそっくりな風貌と体格をしている。丸刈りの頭で、頬骨が張り気味な顔には笑顔を絶やさず、上半身裸の肉体はマッチョで黒光りする褐色の肌。そしてマッチョな肉体を誇示するポージングに余念がない。ただ、筋肉は逞しくても戦闘力としては一四級の上位程度と見た目ほどには高くない。それでもシルビアが副組合長になって以来の専属護衛のようになっていて、シルビアの出張には必ず付き従っている。
 因みにシルビアの持つ鞭はこの四人からの贈り物である。

「ロブス殿、そちらのご婦人はそのままの身形で森へ入られるのでしょうか?」
 スベンはソレーヌの身形を看過できなかった。マッチョの四人を除いた他の者は長袖シャツと長ズボンを着用していて森に向かうのに問題無く、マッチョの四人についてはその筋肉からすれば上半身裸でも許容範囲だろう。しかし、ソレーヌの全裸はあり得ない。
「生憎と場所を知っているのがこのソレーヌだけでして……」
 ソレーヌの身形が身形だけに、答えるロブスとて口籠もってしまう。
「しかしですね……」
「スベン様、ご心配には及びません。私は今後、如何なる時も自らの使命を忘れないと心に誓ったのです」
「使命ですか?」
「よくぞお聞きくださいました。私のこの美しい身体を人々の目に触れさせる事こそが私の使命なのです」
 ソレーヌが片足を高く揚げたポーズを取る。
 思わずその脚の付け根へと視線が吸い寄せられてしまうスベンだったが、煩悩を振り払うように首を振ってからロブスを見やった。
「ロブス殿……」
 困惑の表情を浮かべるスベンに対し、ロブスは渋い顔をして目を逸らせるだけだった。
 続けてスベンがヨハンナを見ても苦笑いが返されるだけだったので「そうですか」と呟きを漏らして、それ以上の追及を諦めた。
「嘆かわしい」
 誰に向けたものなのかシルビアが小さく呟いた後でロブスとスベンに向き直る。
「そんな事よりも出発いたしませんか?」
 二人が了承して準備を始めると、シルビアが「あなた達も準備なさい」と自分の護衛達の差し出された背中に一回ずつ鞭を振り下ろす。ビシッ、ビシッと妙に大きく響く音に皆が驚いて振り向いた先には、顔に喜色を浮かべたマッチョな男達の姿が有った。皆若干退いた。
 隊列は冒険者組合の雇った冒険者が先頭で、その後ろにソレーヌ、ヨハンナ、ロブス、スベンと続き、商業組合、残りの衛兵隊がその後ろである。

  ◆

 同日昼前、迷宮――。

 総勢一八名の迷宮訪問団は予定より遅れて迷宮に到着した。ヨハンナとロブスの歩みが遅かったのが原因である。ヨハンナは歩幅が問題で、ロブスは日頃の運動不足が祟った。
 この事からヨハンナは自分が同行させられた理由をロブスが一人だけ遅れるのを嫌ったからだと睨んだ。しかしそれは只の邪推で、ロブスはソレーヌが何かをやらかした場合に備え、最も仲が良いと思われるヨハンナを同行させただけである。
 もう一人遅れそうなシルビアはマッチョ達に騎乗していたので平気だった。

「いかにも人の手によるものですね」
 ヘトヘトになって息の上がるロブスとヨハンナを余所に、僅かな息の乱れも無いスベンは誰にともなく呟いた。
「迷宮の主が計画的に作られたそうです」
 答えたのはソレーヌ。日頃鍛えているためか息の乱れが無い。
 スベンはソレーヌが真っ先に脱落する事さえ覚悟していただけに、その意外さに目を瞠った。
「どなたか住んでいらっしゃると言うお話でしたか?」
「はい。中に入って待っていれば迎えに出て来てくださると思いますが、どうなさいますか?」
「では、中で待たせて頂きましょう」
「それではこちらへ」
 ソレーヌはすたすたと三番回廊まで歩を進める。
 それを後ろから見ていたスベンは不思議な感慨に囚われていた。ハジリを出発して直ぐの頃は目の前の女の淫猥さに押し倒してしまいたい衝動さえ湧いていたにも拘わらず、今は興奮こそ覚えても手を出そうとは全く思わないのだ。周りを見ても、今彼女を見て目を血走らせているのは先頭を歩いていた冒険者達だけで、それも一人また一人と落ち着いた表情に戻っていく。
 恐らくソレーヌは天性持ちなのだろう。道中で聞くとはなしに聞いたソレーヌとヨハンナの会話の中にソレーヌが処女だと言う話が有ったのだが、以前から痴女行為を繰り返していてと言うから不自然極まりない。普通に考えればとっくの昔に強姦されて処女を散らしている筈だ。痴女行為の末の強姦であれば本当に被害者なのかが判らないために衛兵隊でも取り合わない。被害者が怪我をしていたり死亡していたりしていれば傷害や殺人として捜査をするが、やはり強姦の罪は問わないのだ。ソレーヌとは強姦魔にとって狙い目であるにも拘わらず処女だと言うのである。
 そう考えると、男に働きかける魅了の持ち主だと考えるのが自然だ。それも精神を沈静化させるのではなく、むしろ逆で、肉体から離れて精神だけを絶頂に導くような能力だと思われた。自分の身を以て経験したのだから大きく外れてはいない筈である。
「第一王女殿下も魅了の天性持ちだと言う噂でしたか……」
 スベンは小さく呟いた。

 天性持ちとは生まれながらに特殊な魔法を持った者の総称で、特に後天的に習得できないか習得が極めて困難な魔法を持つ者を指す。
 攻撃性の強すぎる魔法の場合には、無意識の内に自身や庇護者を害してしまい、自我を持ち得る以前に死亡する例が多い。そのためか、成人に達するのは魅了系や治療系、身体強化系の魔法の持ち主が多い。
 ただ、魅了系や身体強化系については能動的に発揮されない場合が多く、本人もその周囲も生涯に渡ってその存在に気付かない事も多いとされる。
 魅了系はその対象と範囲によって千差万別で、色々な名で称される。対象が動物全般である者なら動物使い、対象が犬に限定されるなら犬使いと言った具合である。
 また、魅了などの他者に働きかける能力の場合には対象が能力者より強いか弱いかで効果に差が有り、強い相手に対しては相手が受け入れなければ効果が無いか無いに等しく、逆効果の場合すらある。
 ソレーヌの能力が不完全ながらスベンに効いたのはスベンが紳士だからに他ならない。

 三番回廊の十字路にて訪問団が待つこと暫し、奥から二人の女と一匹の猫が出迎えるように現れた。一方の女の肩にはオウムが留まり、もう一方の女は靴さえ履いていない全裸だ。ざわっと訪問団がざわめく。
 その中において衛兵隊は動揺するだけではなかった。衛兵の一人がスベンに猫が前日に取り逃がした魔物にそっくりだと耳打ちすると、スベンは軽く頷いて何食わぬ顔で猫に注意を向ける。
「リタお姉さまぁ!」
 ソレーヌが手を振って駆け出し、全裸の女へと抱きついた。
「ソレーヌ、また来たのね……」
「はい、お会いしたかったですぅ」
「ハジリで別れてまだ一日しか経ってないわよ」
「あーん、一日ですぅ」
 ソレーヌはリタの腕に自らの腕を絡めて胸を擦り付ける。僅かながらにソレーヌの方が背が高いために傍目には奇妙な光景だ。
「誰? あれ……」
 ヨハンナがボソッと呟いた。
 ヨハンナとしては初めて見る甘えた声を出すソレーヌの事を言ったのだが、近くでその呟きを耳にした者にはそうは聞こえなかった。
「あれは、麦芋団のリタだな。突然痴女になったと噂は耳にしていたが、本当だったとは……」
「リタさん?」
 数合わせの冒険者の一人が答えたのを耳にして、ソレーヌに気を取られていたヨハンナが改めて全裸の女を見ると、紛うことなくリタだった。
「リタさん! 何で裸なんですか!?」
「あら、誰かと思えばヨハンナじゃない。何故あたしが裸かと言うと……」
「お姉さまは私と同じ使命に目覚められたのです!」
 リタが答えるより先にソレーヌが断言してしまった。二の句が継げなくなったリタが「あー、そのー」と視線を彷徨わせる。
「まあ、いいわ。それで……」
 このままでは話が進まないと思ったか、ヨハンナは額に手を当ててそう答えた。
「あたしの事はおいといて、ロブスまで今日は一体どうしたのよ?」
「視察と交渉だ」
「交渉って迷宮の主と?」
「他に誰が居る?」
 ロブスはハーデンを相手にする時と同様にリタを相手にすると言葉が荒くなる。ロブス自身が不思議に思うくらいについつい相手に合わせてしまうのだ。
 その時、ピシッと二人の会話に鞭の音が割り込んだ。
「嘆かわしい。そこの貴女、リタさんと仰いましたか? 破廉恥な身形なのはまあ良いとして……」
「いいのか!?」
 ロブスが思わず声を上げてシルビアを見た。そのシルビアはロブスを一瞥するだけで続ける。
「目上の者に対する口の利き方がなっていないようですね。不愉快ですから口を噤んでいてください」
 ピリッとした空気を纏って怒気を含んだ声音で言うと、シルビアは目を丸くするリタをひと睨みするだけでもう一人の女へと視線を移した。
「貴女のお名前を伺って宜しいですか? 私は商業組合副組合長のシルビアと申します」
「は、はい。サシャです。この迷宮で案内人をさせていただいてます」
 サシャはどぎまぎと答えた。すると途端にシルビアの気配が柔らかくなった。
「どうやら貴女はそれなりに心得ているようですね。迷宮の主殿へのお取り次ぎをお願いします」
「あ、えっと、取り次がなくても主さんにはもう伝わっています」
 肩に留まったオウムを手で示す。
「オウム……ですか?」
『代理だ。いつ不意打ちで殺されるか判らない身の上なんでな。姿を見せる訳にはいかない』
 シルビアは眉間に皺を寄せてこめかみを押さえた。口の利き方のなっていない相手とは交渉する気にもならないと言いたげな雰囲気を漂わせる。
『すまんな、俺はそこのリタと同じで育ちが悪いもんでな。言葉が悪いのは勘弁してくれ』
「そうですか。仕方が有りませんので今回ばかりは目を瞑りましょう。ですが、今後交渉が必要な場合はそちらの窓口をサシャさんにして頂けますか?」
「わ、わたしですか!?」
『そんな事ならおやすいご用だ』
「ええっ?」
「はい?」
 サシャが驚いてオウムを見、シルビアがきょとんと目を瞠る。
 シルビアとしては自分の相手を蔑ろにするかのような発言に対して、迷宮の主が怒るか拒絶するかの反応を示すと予想していた。そしてその通りの反応をする程度の相手であれば交渉する価値が無いため、今回限りにお茶を濁そうと考えたのだが、少し違った。
『何を驚いているんだ? サシャは今は案内役でしかないが、人が増えれば執政官か町長かの肩書きになるぞ?』
「ええっ! 聞いてません!」
『言ってなかったからな』
「わたしにそんな大役が務まる筈がないじゃないですか!」
『最初はお飾りで追々務められるようになればいいんじゃないか? それまでは誰かに頼ればいい。そうだ、女の身で商業組合副組合長を務めている人なんて頼りになりそうじゃないか』
「え? え? え?」
 サシャがおろおろしながらオウムとシルビアを交互に何度も見る。
 そのシルビアが押さえていたこめかみから手を放してオウムに向き直った。
「迷宮の主殿、宜しいですか?」
『ああ』
「貴方を軽く見ている私を頼ると仰るのですか?」
『窓口をサシャにしてくれって話の事か? そんなものあんたの立場なら当然だ。俺は所詮猟師だったからな。人が増えたら俺の手には余る。だからあんたの力を借りたい』
「私も所詮は副組合長でしかありませんから、行政の事までは判りかねますよ?」
『今の住人はそこのサシャと麦芋団の全部で五人。増える予定の三人を加えても八人だけだ。当分は組合程度の管理の仕方でいいと思わないか?』
 予定の三人とは治療スライムで治療中の三人の事である。

 シルビアは目を瞠った。正確に意を汲み取って返される言葉に上乗せされるようにして微かに自尊心をくすぐられるのが心地良く、仄かに快感すら覚えてしまった。知らず相好を崩しかけて、慌てて顔をまた引き締める。
「折角のお言葉ですが、ただ今のご依頼については今回の交渉の結果次第とさせてください」
『ああ、それでいい。だが、あんたがいい。いい返事を期待する』
「判りました」
 答えながら、顔が紅潮し胸が高鳴った。なんて自分はちょろいのかと自嘲しながら、胸の高鳴りを抑えるのに必死になる。はっきりと自分自身を望まれたからか、望まれたのが実務能力であるにも拘わらず、女の肉体を望まれたような疼きまで感じた。

『まずは迷宮の案内といきたいところだが、衛兵隊がピリついているみたいだから先に言っておく。ベーネブ村を潰したのは俺だ』
 反射的に衛兵隊員が剣を抜いて周囲を警戒し始めた。スベンだけはいつでも剣を抜ける状態までで留めている。
『おいおい、誰に斬り掛かるつもりだ?』
 スベンは神経質になり過ぎていた事に気付いて一度だけ深呼吸をする。
「剣を収めよ!」
 鋭く言い放った命令に衛兵達がビクッと反応して剣を収めた。尤も、ビクッとなったのは衛兵だけではなく、リタ、ソレーヌ、そして猫を除いた全員だった。
『まあ、ベーネブ村を潰したのはあくまで俺だから、それだけは勘違いするなよ』
 何のために念を押すのかを訝しんだが、俯き加減で視線を逸らすサシャを目にして大方が推理できた。
「サシャ殿はどう言った経緯で迷宮に住むようになられたのですか?」
『死にかけていたのを俺が助けたからだな』
 この回答で全てを推理した。そしてその推理は正しい。
「そうでしたか。それは失礼な事を訊いてしまいました」
「いえ……」
 サシャが力無く答えた。
『それと、今朝の夜明け前だが、冒険者の三組八人がここで死んだ。二人は事故で、六人は自衛のために俺の配下が殺した。詳しい事は案内の途中で話す』
「判りました。案内して頂きましょう」
 若干声を低めて答えた。

 サシャがざっと回廊や部屋の番号の付け方を説明し、広間から案内を始めた。広間を出て二番回廊の流しの前まで行くと、冒険者と衛兵の一部には流し正面の部屋で待機して貰い、二番回廊の南側から案内を再開する。部屋の配置が各回廊で共通なのを説明し、例外となる竈、流し、洗い場、水浴場と案内したら問題になる治療スライムの部屋である。
「もしかすると移動中に見えたかも知れませんが、今はちょっと心臓の悪い方にはお勧めできない状態です。代表のお三方だけ覚悟の上でいらしてください」
 サシャが入り口に立って真剣な面持ちで告げた。今朝、サシャ自身がそうとは知らずに見て変な悲鳴を上げてしまった光景がそこには有る。ベーネブ村の一件の時にも同様の光景を見た経験が有っても、そうそう慣れるものでもない。
 サシャに続いてスベン、ロブス、シルビアが部屋に入り、三人が治療スライムに目を向けた瞬間、「ひっ!」とシルビアが悲鳴を上げて目を背けた。
 スライムに浮かんでいるのは全裸の女の他に、半ば溶けて頭蓋骨や肋骨、内臓が剥き出しになっている人の死体だ。それを右掌を左肩の辺りで上に向けた仕草でサシャが紹介する。
「これは治療スライムと申しまして、このスライムのお陰でわたしは命を長らえました。ただ、有益なのは女性に対してのみで、男性には危険な存在です。男性はくれぐれも近付かないようにお願いします。先程の事故と言うのも、このスライムに触れた冒険者が飲み込まれたとの事です」
 スベンが疑問を呈する。
「事故は二人と伺いましたが、それよりも死体が多いようですが?」
「多い分はこのスライムを死体処理にも使っているためです」
「証拠隠滅ですか?」
『そのスライムに放り込むのが一番早く処理できるからだが、証拠隠滅と思いたいならそれでも構わない』
「否定はしないのですか?」
『否定しても疑われれば同じ事だ。要は、迷宮が自衛のために人を殺す場合が有るのを衛兵隊が許容できるかどうかだ』
「なるほど。判断はこの場では保留にいたしましょう」

 次は階段。未明の騒動の痕跡は治療スライムの中を除いて既に消えている。しかしスライムの中は凄惨で、ヨハンナなど幾人かが嘔吐を堪えるように口元を押さえた。
 スベンはスライムの中の上半身と下半身が分かれた死体に注目する。先の部屋では分かれておらず、こちらの死体だけが分かれているのは、このように殺された事を物語っている。人を両断するだけの戦闘力に脅威を感じずにいられない。そして階段の下へと目を向ける。
『今はまだ階段の下は立ち入り禁止だ。踊り場まで下りればそこに居るエリザが問答無用で殺す。今朝もそれで冒険者を三人殺した』
「エリザさんとはどのような方なのでしょうか?」
『俺が召喚した魔物だ』
「なるほど」
 隊員に目配せで魔力探査の指示を出す。その直後、その隊員は硬直したようになり言葉すら発しなくなった。
「報告をしないか!」
 小声で叱責すると、隊員が青ざめながら小声で答える。もしかすると声が掠れたために小声になっただけかも知れない。
「八級以上の結果です」
 息を呑んだ。最低の八級でもハジリの衛兵隊の総力二五名が数分と保たずに全滅させられる戦闘力である。
「イリスの探査じゃ六級以上の結果なんだけどね」
 後ろでボソッとリタが呟いた内容に畏怖を感じ、思わず振り返ってリタを見た。

『最後はサシャの部屋だな。そこで話をしよう』
「皆さんこちらへどうぞ」
 少し緊張してしまった空気を気にも留めずにザムトが指示を出し、サシャはそれに応えて皆を案内した。未だテーブルと椅子が設置されているのがサシャの部屋だけなためだ。
『水浴場の向かいの部屋で多かった分の冒険者三人はこの部屋で殺した。寝ているサシャに近付くから護衛の魔物が立ち塞がったんだが、いきなり斬り掛かられて反撃した』
「痕跡が何も有りませんが?」
『血ぐらいなら何時間も掛からずに消えてしまう』
「そうですか」
 証拠も何も無い状況に、スベンが釈然としない表情で眉間を押さえた。
「取り敢えずお座りください」
 サシャが促したものの、人数分の椅子が無いので座るのは代表者だけだ。他の者は後ろに立ったままである。

「宜しいですか?」
 まず最初に声を発したのはロブスだった。
 サシャが「どうぞ」と仕草で促す。
「まずは交渉の場を設けて頂きありがとうございます。つきましてはご提案として、私にこの迷宮の全ての管理を任せては頂けないでしょうか? お任せ頂ければ迷宮の大きな発展をお約束します」
 爽やかな笑顔を作って口上を述べるロブスを見て、サシャとリタは軽く苦笑いをしながら目を合わせた。早速全てを牛耳ろうととしてきたと言う訳である。
 この拙速さにはロブスの焦りが表れている。ロブスとしては目の前の小娘が町長候補と言う事も、その後見役に商業組合のシルビアが指名された事も納得できない。そうなれば、ソレーヌから報告を受けた時からこの迷宮を中央進出の踏み台にするべく考え巡らせた皮算用が全て台無しになってしまうのだ。それに、自分が影響力を発揮できない状況で小娘に上に立たれるなど自尊心が許さない。
『迷宮の全てとは?』
「迷宮の利用方法や拡張方針などでございます」
『元から部屋の幾つかを貸すつもりだから、その中では好きにして構わない』
「いえ、そうではなく、迷宮の全ての部屋について、それを誰に貸すかなどを含めた利用方法の事を申しています」
『ふむ、サシャの下で働いてくれると言う、その心意気は歓迎だ。是非サシャの指示を仰ぎながら働いて貰いたい』
「なっ!」
 顔を真っ赤にして動揺するロブスを見て、リタやスベン、シルビアらがクスッと噴き出した。ロブスは羞恥で更に顔を赤くしながらキョロキョロと周りを見回し狼狽える。
「まずは主殿の要望を伺いましょう」
 スベンが半笑いのまま言った。
『衛兵隊と冒険者組合にはさっき話したような不幸な事件や事故が起きないように手を貸して欲しい。特に冒険者が変な色気を出さないように周知して欲しい。俺もできれば人を死なせずに済ませたいからな』
「そのためには人員を配置しなければなりませんが、それについて便宜は図って頂けるのでしょうか?」
『衛兵隊には詰め所用として入り口に近い三番回廊の南の奥に二部屋用意しよう。巡回の中継地にも使ってくれ』
 スベンは暫し考える。迷宮の主を罪に問おうにも、エリザが控えている限り逮捕などできるものではない。そもそも元が人だったとしても迷宮の主となった時点で魔物なのだから人の法など適用できない。そして敵対すれば不利益が有るのみだ。その一方で話が本当なら、友好的に接する事でこれと言った不利益が無く、僅かながらであるものの水や詰め所と言った利益も得られる。
 幸いな事に迷宮の主が殺したのは盗賊と冒険者だけだ。盗賊は処刑対象だから殺したとしても咎める必要は無い。冒険者の方も生死に関わらず行方不明が多く、ここで目を瞑ってしまえば全ては闇の中になる。これまでの件については無かった事にして、今後の無用な犠牲を避けるための監視を付けるのが最善か。その結果として迷宮の主が有害と確定できた時に初めて討伐に乗り出しても遅くはない。
 誰を監視として残すかだが、状況的に迷宮の主は女好きだと思われるので、女性隊員なら無下に殺されるような事もないだろう。
「ハジリ衛兵隊としてはその要望を受け入れましょう。今朝この迷宮で死んだと言う八人については聞かなかった事にします。冒険者組合と商業組合の方でも死んだ八人の事は聞かなかった事にして頂いて宜しいですか?」
「商業組合は衛兵隊にお任せします」
「お任せします」
 シルビアとロブスはスベンに丸投げした。
『冒険者組合には三番回廊の南側の、中央に近い方の二部屋と南側の広間を用意しよう。好きに使ってくれ』
 ロブスは歯噛みしながら無言で頷いた。
 この時、ロブスははらわたが煮えくり返っていた。交渉の余地など無く迷宮の主の要望を持ち帰るだけなど子供のお使いにも等しい。これでは自らが足を運んだ甲斐がまるで無い。
『商業組合には三番回廊の北側の四部屋と北側の広間を用意しよう。あんたなら上手く使ってくれそうだからな』
「は、はい!」
 シルビアは思わず声が上擦ってしまった。オウムのおかしな声にときめくなど自分でも変だとしか思えなかったが、自尊心をくすぐるように語られる言葉が快感なのだ。きっと自尊心にも性感帯が有ると信じられた。
『それと、大工を紹介して欲しい』
「大工ですか?」
『ああ、見ての通りに部屋には扉が無いからな。人が住むには不便だろう?』
「承りました」
 シルビアは入り口をチラッと見やって頷いた。
『後は……家賃代わりと言っちゃ変だが、食い物や日用品なんかを融通して貰えないだろうか?』
「食料と日用品ですか?」
『そうだ。見ての通りにここには殆ど何も無い。人が暮らすには足りないものが多すぎる』
「承りました。衛兵隊と冒険者組合とも相談の上で必要なものを提供いたしましょう」
『ありがとう。俺からはそれだけだ。そっちからは何か有るか?』
 スベン、シルビア、ロブス共に何も無いと答え、交渉と言うよりも迷宮の主が一方的に要望を伝える会談は終了した。
 スベンは治安への脅威を計るため、シルビアは安心して継続的に取り引き可能かを判断するため、ロブスは迷宮を自らの手駒にするのが最大の目的だったのである。

  ◆

 同日午後、迷宮――。

「ステラ、本日現時点を以て本迷宮駐在による連絡員任務を命じる」
「私がですか!?」
「そうだ」
「そんな!」
「復唱!」
 ごねるステラにスベンが一喝すると、ステラはビシッと背筋を伸ばし敬礼を行った。
「はっ! 私ステラは本迷宮駐在による連絡員任務を拝命いたしました!」
「宜しい!」
 踵を返して立ち去るスベンを見送りながら、ステラは涙目になっていた。

「私は暫くここに滞在して今後の計画を立案します。そのように組合長に伝えてください。それと大工の手配をお願いします」
「大工」「ならば」「我らに」「お任せを」
 マッチョの冒険者達はそれぞれにポーズを取りながら四人で細切れに答えた。傍目には実に暑苦しいのだが、シルビアは全く気に留めていない様子である。
「そうでした。ジャックは大工仕事が得意なのでしたね」
「然様」「我ら四人それぞれに」「大工、鍛冶、裁縫、料理を」「修めております」
「それではあなた方にお願いします」
 冒険者四人の内の二人がハジリへと連絡に戻り、二人がシルビアの護衛を兼ねた大工仕事の下見のために迷宮に残った。

「ヨハンナ、ソレーヌと一緒にここに残って迷宮の利用方法を纏めて報告するように」
「あたしがですか!?」
 ヨハンナは目を丸くしてロブスに問い直す。
「そうだ。あの痴女を組合の執務室に置いてはおけんし、一人で迷宮に置くのも不安で仕方ない」
「あー、それは確かに……」
「納得したら少しでも冒険者組合の利益が増えるように努力してくれたまえ」
「そんなー」
 ヨハンナの抗議など聞く耳持たずにロブスは迷宮を後にした。

  ◆

 同日夜半、迷宮――。

「嘆かわしい」
 シルビアは不思議と火照って一向に治まらない身体を冷ますべく水浴場で水を浴びていた。頭から浴びた水が解いた髪から背中を伝って流れ落ちていく。
 嘆かわしいのは自分、副組合長の立場でありながら迷宮に留まるなど本来ならあり得ない。だが、本能がここに留まらせた。
 そして火照りの原因も判っている。
 一つははしたない姿の二人の若い女達。羨望と嫉妬が渦巻き、もっと自分が若ければと自らがはしたない姿を晒すところまで妄想してしまった。
 一つは迷宮の主の言葉。何でもない言葉だ。ただ能力を認めるもので官能を刺激するような言葉ではない。それなのに心が愛撫されるかのように感じて高まりを覚え、それが身体にまで及んでしまった。
 それらが何度も頭に浮かんでは、その度に身体が熱くなってしまう。
 だが、その根本的な原因はあさましい身と心。夫に先立たれて一〇年、夫を失った悲しみから逃れるために仕事に打ち込んできたが、ゆっくりと夫が思い出に変わるにつれて女が目覚めてしまった。目覚めた女は身も心も焦がし続けている。しかし、時の流れは残酷で、女を自覚した時には乳房が重みに堪えられなかったように拳一つ以上も下がってしまっていて、かなり垂れてもいた。こんな乳房を男の目に触れさせるなど今更恥ずかしくてできはしない。それなのに自分の中の女は日に日に男を強く求めるのだ。
 シルビアは熱く、されど乾いた溜め息を吐き出した。
「溜め息なんて吐くと幸せが逃げるわよ」
 突然掛けられた声に胸を押さえて振り返る。
「リタさん?」
「ふぅん、やっぱりおっぱいが気になるんだ?」
 リタがシルビアの身体を舐め回すように見て言った。
 シルビアは左腕で両乳房を持ち上げるようにし、左腕では持ち上げきれない左乳房を右手で支えている。身体を隠す振りをして乳房を持ち上げているのは指の隙間から覗く両乳首と無防備な下半身を見れば一目瞭然だ。
 ニタッとリタは嗤って図星を突かれて言葉を失っているシルビアに話し掛ける。
「ねぇ、あなたのおっぱいがもっと上の方に戻るかも知れないとしたらどうする?」
 その言葉を理解するまでに数秒が費やされた。
「そ、そんな話は聞いた事もありません」
「だって、知っているのはあたしを含めて数人だけだもの」
「し、信じられません」
 頭を横に振った。
「そ。ざーん念。だったらこの話はお終いね」
 リタが手をひらひらさせながら踵を返す。
 残念だわー、とわざとらしく言いながらゆっくり歩いて行くリタを見ては視線を外し、またリタを見ては視線を外しを繰り返していたが、リタが壁の向こうに消えそうになって慌てた。
「ま、待って! その話を詳しく聞かせて!」
 壁の向こうに消える寸前に止まったリタが背を反るようにして首だけを壁から出してニターッっと嗤う。
 そこに居たのは女の姿をした女を堕落させる悪魔だった。
「その話にリスクは無いのですか?」
 水浴場に戻った悪魔に女は尋ねた。
 悪魔は女の身体を抱き寄せて耳元で囁くように答える
「有るけど、きっとあなたには無いのと同じよ」
「ど、どうして……?」
 女は喘ぐように声を掠らせながら小さな声で問うた。
「エッチになるだけだからよ」
「はああっ!」
 耳元で囁く悪魔の吐息が耳に当たって女の身体が反応してしまった。
「ね? 無いのと同じでしょ?」
 その言葉がリスクではなく誘惑にしか聞こえなかった女は首肯して、悪魔に魂を売った。
 悪魔は「来て」と手を引いて水浴場から回廊へと女を誘う。
 しかし、女は回廊の直前で「服を」と尻込みした。
「平気よ。それに今着ても直ぐに脱ぐ事になるし、いらなくもなるわ」
 一度ひとたび悪魔に耳元で囁かれると、魂を売ってしまった女は逆らえない。手を引かれるままに回廊へと足を踏み出した。
 誰が見るとも判らない場所で肌を晒す初めての経験に女が激しい羞恥とふわふわした気分を味わっていると、回廊の向こうに裸で自らを慰める淫婦の姿が見えた。その淫婦を目で追いながら手を引かれるままに回廊を曲がる瞬間、振り返った淫婦と目が合ってしまった。
 見られた事に胸の高鳴りを覚え、それを静めようとしている間に悪魔の足が止まった。目的地に着いたらしい。
「さあ、これに手を突いて」
 悪魔に囁かれると逆らえない女はその透明な物体へと手を差し入れる。
「いっ!」
 その瞬間、女は叫ぶ間も殆ど無いままに透明な物体へと飲み込まれた。
 暫しの息苦しさの後で女を襲うのは全身を駆け巡る快感。身体の内も外も全てを責められる。一〇年間に渡って貞淑だった身体はその空隙を埋めるかのように激しく反応し、更なる快感を貪欲に求めてしまう。悪魔に魂を売ってしまった女にはもう後戻りのできない堕落への道しか見えず、その道に踏み入った事に喜びを感じる自分を自覚せざるを得なかった。そして流されるままに幾度となく激しく気をやり、最後に気を失った。

「リタさん、悪い顔になってますよ。あまり他人を悪の道に誘わないでください」
「人聞きが悪いわね、これは救済よ救済。この人ってあたしの言葉遣いは咎めたのに身形は咎めなかったし、ソレーヌも何も言われなかったって言うじゃない? だから間違いなくお仲間だと思って少し突いてみたら案の定よ」
「そうかも知れませんが……」
「大体、サシャだってこの時間になると毎日周りに誰が居てもお構いなしに覗きをしながら自慰に耽るヘンタイじゃない。こうして裸で彷徨いたりもするし、ヘンタイ仲間が増えた方がいいんじゃない?」
「わ、わたしはこの時間だけだからいいんです」
「何よ、それ? それにしても、あなたってほんとに嫉妬を覚えるくらいエッチな身体よね」
「もう、知りません!」
 真っ赤になってそっぽを向いたサシャは、日課の最中に見た二人が気になって様子を見に来ていたのだった。

  ◆

 第二三週土曜夕刻、迷宮――。

 女は目を覚ました。気を失う前の火照りがまだ身体に残っていて、無意識に自らの身体に手を這わせてしまう。下腹部から腹を撫で上げると、乳房が有った筈の場所に無い。少し焦って更に撫で上げると無くなったかと思った乳房が有った。
 そこで漸く自分が目を瞑ってしまっている事に気付き、目を開けて改めて我が身を見下ろす。歓喜に震えた。
 肋骨から半分近くはみ出して下がっていた乳房が肋骨からはみ出さないほどに上がると共に、ツンと尖って険しい山脈を築いている。下を向いていた乳首は山脈の頂点に真っ直ぐ屹立し、固くしこっている。女が取り戻したいと願った以上の姿だった。
 乳房に触れれば山脈を築いているとは思えないほどに熟れて柔らかく、至福の手触りの感動を脳へと響かせる。触れるのが我が手であるにも拘わらず、乳房からも切ない官能が湧き上がる。乳首に触れれば嘗て無いほど敏感に快感を訴える。乳首だけではなく身体中が敏感になっていて、どこに触れても性感帯のように感じる。
 女は自慰に没頭した。
 そして幾度かの絶頂を迎えた後で、漸く周囲へと目を向けた。

「いつまでやってるのかしらね」
 壁にもたれて腕を組み、呆れたように女に話し掛けたのは悪魔だ。見られていたと言うのに女は慌てる様子を見せず、むしろ悪魔に見せ付けるように身体を開いてくねらせる。
「いつからそこに?」
「よく判らないけど、来てからあなたは三回イったわね。やり過ぎじゃない?」
「一〇年分溜まっていましたから、まだ足りないくらいです」
「呆れたものね。それで今の気分はどう?」
「生まれ変わったとしか言いようのない爽快な気分です」
 艶然とした笑みを浮かべながら女は言い切った。悪魔に魂を売った事を欠片ほどにも後悔を抱かず、感謝の念さえ抱くほどだ。
「ところで私はどのくらい気を失っていたのでしょう?」
「二日足らずよ。今はあれから二日後の日が暮れたところ。思ったより長かったわ」
「そんなにですか。仕事の遅れも取り戻さなければなりませんね」
「あ、やっぱり仕事はするんだ?」
「当然です。受けた期待には応えねばなりません」
 そう言いながら女が立ち上がると、ぷるんと跳ねた迫力の双乳に悪魔が「うっ」とたじろいだ。
「ゆ、夕食もできている筈だから来て」
「ありがとうございます」
 女は悪魔の後ろに付いて回廊へと足を踏み出す。すると悪魔が足を止めて振り返る。
「今度は服を欲しがらないのね?」
「貴女が服がいらなくなると仰ったのではありませんか」
「もういらないんだ?」
「勿論です。服を着るなど嘆かわしい事はできません」
 破顔する悪魔に女も笑い返す。
 そして女は解けたままの長い髪を靡かせながら悪魔に従って回廊を歩み、全てを曝け出したまま夕食の輪へと加わった。
 女を見た以前からの住人は生暖かい目で迎え、新しい住人は驚愕の眼で迎えた。
 その様子を見ながら悪魔は口の中だけで呟く。
「早くエッチな身体になりたい」
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