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第四九話 ローネリア・ロストロード
しおりを挟む セーベリート歴五二九年第四七週日曜、ロストロード侯爵邸――。
齢五歳のローネリア・ロストロードには亡くなった曾祖父の思い出が殆ど無い。ただ怖いとだけ感じていた。
病床であっても凜とした佇まいを崩すことのない曾祖父。近付けば肌を切り裂かれるような錯覚まで有った。
その曾祖父が亡くなったと聞かされたのは二週間ほど前のこと。母に促されるままにさよならを告げた。
それから二週間、曾祖父は眠ったままだ。最初はそこに居るのにさよならを言った意味が判らなかったが、二週間経った今は曾祖父がもう二度と目を覚まさないのだと理解した。
親戚だと言う黒い服を来た人達が大勢訪れたこの日、曾祖父は入れられた木の箱ごと穴に入れられて土を被せられた。屋敷の裏手の少し離れた場所に掘られた穴だった。
ローネリアは母のスカートを掴んだままそれを見届けた。
悲鳴が聞こえたのは、全てが終わってから屋敷へと戻った直後。
母と二人、二階の居間に居るところへと血相を変えた父が駆け込んで来た。
「早く逃げろ!」
何が起きたのかを問う母に答える時間も惜しいとばかりに急かす父から促されるままに廊下へと出ると、真っ赤に染まった剣を振り回す男が目に入った。
男が剣を振る度、いつも笑いかけてくれた使用人達が真っ赤に染まって動かなくなる。
思わず彼らに駆け寄ろうとしたところを母に手を引かれ、父に背中を押されて遠ざけられる。
ところがその一瞬とも言える足踏みの間に迫って来ていた男が剣を薙いだ。
苦悶の声を上げて倒れ臥す父。
男はそんな父には興味を失ったように歩みを進め、母へと向けて剣を振り下ろした。
母は苦悶の悲鳴を上げたものの、直ぐに「大丈夫よ」と言ってローネリアを押すように走る。致命傷を受けなかったのは父が男の脚にしがみつくようにして剣先を鈍らせたためであった。
そうして一旦は逃げたが、男が上がってきたのとは反対側の階段まで辿り着いたところで母が倒れた。肩から背中に掛けて真っ赤に染まっている。呼び掛けても母は苦しげな表情を浮かべるばかりであった。
そこにまた男がやって来て剣を振り上げる。
咄嗟に両腕を一杯に広げて母の前に立ち塞がった。
「悪者め! 母様を虐めるな!」
殆ど無表情だった男が鬼の形相を浮かべて剣を振り下ろす。
その瞬間、軽い衝撃と共に温かいものに包まれる。
母の腕の中であった。
しかしその腕は直ぐに放され、見る間に冷たくなる。
「母様! 母様! 起きて! 悪い人が来ちゃうよ!」
幾ら呼び掛けても母は動かない。
そうする内に別の男が現れて先の男と何やら言い合いをした後、真っ赤に染まった。
その後直ぐに母を殺した男に抱え上げられ、ローネリアは屋敷の外へと連れ出された。非力な手足で暴れても男には僅かな痛痒すら与えられなかった。
自らを剣聖と名乗る男に抱えられたままローネリアは野を越え、河を越え、また野を越え、山を越え、またまた野を越え、森を越えて聳え立つ山の麓に着いた。果てしなく連なる、頂の見えない山の一つであった。走って河を渡る男にも驚いたが、目の前の山の雄大さには度肝を抜かれた。
剣聖はとある洞窟に入ると、溢れる魔物を屠りながら奥へと進む。そして一際大きなトカゲのような魔物を倒した。その瞬間に一瞬だけ苦悶の表情を浮かべた剣聖だったが、直ぐに無表情に戻った。
そして、ローネリアの首を掴んで吊し上げる。
目の前が光ったと思った瞬間、何かが身体の中に入り込んでくるようなおぞましさにローネリアは悶え苦しんだ。だが、剣聖の手からは逃れられず、おぞましさは強くなる一方であった。
「受け入れれば楽になる」
剣聖の言葉が真実かどうかは判らない。だが、所詮は幼い心と身体。遂にはおぞましさに屈服する。すると本当に楽になった。
胸元には銀色に光る二本線が刻まれていた。
直後から過酷な修練が始まった。体力作り、剣技、格闘技、魔法。それに読み書き。睡眠時間と食事の時間を除いて全て修練に当てられた。
食事は動物や魔物の肉、それに山菜である。剣聖が操る魔物が取ってきたものを食す。殆どの場合、煮るか焼くかしただけだ。味付けが有ったとしても塩だけ。それもたまにだけであった。
週に一度、僅かな量であるが無理矢理に血を飲まされた。飲めば不思議なことに身体の底から力が湧き出てくるようであった。
そしてその日に限って剣聖が左手首に布を巻いているのが妙に印象的だった。
メイド服を着た人型の魔物が常にローネリアの傍に居た。何も言わず、ただ傍に居るだけだ。
課題を与えられて洞窟の外に出る時には剣聖の代わりにローネリアに修練を強いる。逃げようとした事も有ったが、叶わなかった。
ただ、修練の途中で気絶してしまった時、目覚めた時には必ず傍に居た。
剣聖は頻繁に嘘を吐いた。目的地への道順で違う方向を言う、薬草と毒草を逆に言うなど、命に関わりかねない嘘まで言った。
ただ、剣技などの戦闘に関してと、読み書きに関しては嘘を言わなかった。
父母を殺し、過酷な修練を強いる剣聖をローネリアは憎んだ。それでもずっと共に過ごす中、優しさのようなものが垣間見えもして情が湧いた。
だからある日、洞窟の外での修練の際に見つけた花で花輪を作って贈った。
それを剣聖は踏み潰した。こんな事をする暇が有るならもっと修練しろ、と罵られた。そして修練の厳しさが増した。
ローネリアは剣聖を更に憎み、絶望し、感情を殺した。
◆
セーベリート歴五四〇年第二一週――。
一〇年余りの時が流れ、ローネリアは六級となっていた。
そんなある日、洞窟の外へと修練に出ようとした寸前、剣聖に女として嬲られた。
裸に剥かれ、おぞましく這い回る手と舌。抗い、剣聖を殴ろうとしても途中で手が止まる。結果、為されるままだ。
泣き叫びはしない。ただ悔しさに打ち震える。
仰向けにされ、脚を開かされ、いよいよ体内まで嬲られるのだと覚悟したその時。
剣聖の右手が首元に添えられて光った。
するとどうだろう。思わず振り払おうとした拳が剣聖の顎へと当たり、剣聖はもんどり打って地に落ちた。
何が起きたのか理解できずに呆然とするローネリアに起き上がった剣聖が言う。
「俺が憎いか? 憎ければ俺を殺してみろ。俺もお前のような反抗的な女など眷属にいらん」
ローネリアが突然のことに戸惑っていると、「来ないならこっちから行くぞ」と剣聖が剣で斬り掛かってくる。
咄嗟に転がるようにして避け、先程剥かれた服の傍に落ちていた剣を拾い上げて構える。
「そうだ、そう来なくてはな。お前を育てたのは俺が強者と戦うためだ。自分が育てた強者を自分で殺す。何と心躍ることか」
何が良いものか。そんな事のために今までの厳しい修練が有ったと言うのか。
ローネリアは怒りを込めて剣を振るった。
ローネリアの魔力は剣聖には及ばない。だが、その剣は速さに特化されていて、速さだけは剣聖を上回る。剣聖の剣はどちらかと言えば一撃必殺。一般兵士から見れば尋常ならざる速さであっても根本の力量が懸け離れているからに過ぎない。そしてその剣聖を大きく上回る速さがローネリアの剣の真骨頂である。
地を蹴り、壁を蹴り、天井を蹴り、時には宙を蹴って剣聖の剣を避けつつ剣聖へと剣を叩き込む。
少しずつ傷付きながら笑みを浮かべる剣聖。やがてそれは哄笑となり、狂ったように剣を振り回す。
「こんな戦いを待っていたのだ! 本気を出せる戦いをな!」
その言葉通りに本気を出したのか、剣聖の剣に鋭さが増して避け切れない。剣に剣を合わせることで辛うじて防ぐ。
そして幾合かの後には弾き飛ばされてしまった。
ローネリアは地に落ちた。
「どうした? もうお終いか?」
剣聖が剣を振り上げ、振り下ろすのを転がって辛うじて避ける。素早く立ち上がって魔力の限りに加速する。
他の全てが止まっているように感じられる中、剣聖だけがゆっくりと剣を振るうのが見える。
その剣を避けつつ剣聖の胸へと剣を突き立てた。
止まった時が動き出すように感じられる中、剣聖の手が肩に触れた。
「よくやった。それでいい」
ローネリアが剣聖から貰った初めての褒め言葉であった。
あまりに意外なその言葉に一瞬だけ動きを止めたローネリアを剣聖が残る限りの力で押し返しつつ蹴り飛ばす。
致命傷を負っていながらどこにそんな力が残っていたのか。ローネリアの意識は一瞬飛び、それ故に受け身も碌に取れないままに身体を地面に打ち付けた。
気付けば洞窟の外であった。今まで剣聖が洞窟の外に出ることは無かったが、今回もそうとは限らない。直ぐさま体勢を整えて洞窟に向き直る。
剣聖は地に臥していた。そして靄のようなものが剣聖から抜け出たところであった。
状況を確かめるべく洞窟に入ろうとすると、メイド服の魔物に止められた。
「入ってはなりません」
その言葉にローネリアは瞠目して足を止めた。その魔物の声を初めて聞いたのだ。
「喋れたのか!?」
「はい。この時まで貴女様と話すことを禁じられておりました。主様亡き今、主様の真実をお伝えする役割を担っております」
剣聖は正義を謳いながら、人に噂される殺人鬼に相応しい行いを続けていた。その全ては取り返しの付かないことである。
唯一救える可能性が有るとすればローネリアであった。放置すれば非業の短い一生を過ごすのが確実。それ故に身を守るだけの力を与えようと考えた。
剣に生きた剣聖にはそれ以外を思いつかなかったのだ。
そうするためには迷宮の主となり、ローネリアを眷属とするのが最も早い。眷属が主の血や精を受け入れれば更に早くなる。血を飲ませたのはそのためだった。肌を合わせるのを良しとしなかったため、必然的に血を飲ませることになったのだ。
厳しい修練をすれば命の危機を迎える場合も有る。それに備えて治療の力を持つ魔物を常にローネリアの傍に置いた。それがメイド服の魔物である。
メイド服の魔物はいざと言う時にローネリアを救い出すために強大な魔力を持ち、維持コストは迷宮が得る魔素を上回る。
迷宮はこの一〇年余りで殆どが崩壊した。剣聖はローネリア一人を育てるために迷宮の一つを潰したようなものだった。
そうして体力や戦闘力を鍛えることについては万全と言える環境を作った。しかしそれだけではローネリアが剣聖の後悔と同じ轍を踏む懸念が有った。
剣聖の最大の後悔は下調べを怠ったことだ。嘘を嘘と見抜けなかった。そして騙された。だから下調べの大切さ、自らの目で見て確認することの大切さを教えるべく、数々の嘘を吐いた。話に聞くだけではその大切さを実感できないと考えてである。
そして最後に女の身に起こりうる危険を教えるべく服を剥ぎ、肌を舐ったのだ。
恐らくは剣聖に刃を立てることをローネリアが躊躇わないように。
剣聖は死んだ。大きな魔石を残しただけである。
「主様を失った私は一週間ほどで無に還ります。それまでの間にこの先で必要になるだろう事をお教えしましょう」
ローネリアはメイド服の魔物から人の世界について学んだ。お金、物価、身分、言葉遣いなど、一〇年の間に魔物が調べていた人の中で生活するのに必要な内容であった。
一週間が過ぎた。
メイド服の魔物が力無く横たわる。
「お別れの時のようです。貴女と過ごした日々、特に最後の一週間は大変楽しゅうございました」
「どうして! どうして今になってそんな事を言うのですか!」
その問いに魔物は微笑みを返すだけだった。
「貴女の幸せを願っております」
魔物が塵に変わる。
ローネリアがその塵を掻き抱こうとしても指の隙間から零れ落ち、虚しく風に流されるだけだった。
メイド服の魔物が消えた跡には大きな魔石と一枚の紙が残されていた。
その紙に目を通した時、ローネリアは人生の理不尽への報復を誓った。
剣聖の残した魔石、メイド服の魔物の残した魔石、そして一枚の紙を埋めて墓標を立てた後、ローネリアは迷宮を旅立った。
◆
ローネリアは剣聖の教え通りに下調べから開始した。メイド服の魔物から剣聖がどう騙されたのか具体的な内容も聞いている。王妃と宰相が直接関わっていたこともだ。その裏付けを取るのである。
とは言え、外からでは集められる情報に限りが有る。内部に入り込むために多少迂遠にも見える手順を採ることにした。
手始めに下位の貴族のメイド募集に応募し、メイドとしての腕を磨いた後に上位の貴族、果ては王族付きのメイドを目指す。
応募の際に名前を聞かれ、自分の本名を思い出せなかったローネリアは母に呼ばれていた愛称を答えた。
ローニャ、と。
当然ながら、信用の有る貴族の保証なしには王族に近付くことなどできない。その保証を得るための実績を作り、時には脅迫も女の武器も使えるものは使った。それによって二年と言う異例の早さで王城勤めを勝ち取った。
一〇年以上前の事であり、メイドとして働きながらでもあり、調査は難航した。それでもこの三年間で大凡が判明した。
直接のきっかけは王妃であった。
その頃、出入りの商人に唆されるままに浪費していた王妃に対し、ロストロード侯爵が苦言を呈する日々が続いていた。
これに不満を抱く王妃とロストロード侯爵の関係は次第に悪化する。国王は他人の顔色を窺いながら政治を行うような人物で、双方の顔色を窺うだけだった。
業を煮やしたロストロード侯爵は強権によって王妃が浪費できないよう法律を制定する。
我慢できない王妃は、日頃から自分よりも強い権力を持つロストロード侯爵に不満を抱いていた宰相と共謀する。密会する内にねんごろになった二人は、ロストロード侯爵が叛乱を企てていると噂を流し、その噂を根拠に討伐するよう国王を唆した。
国王は唆されるままに討伐命令を一度は発したものの、シルベルト辺境伯が虚報だと断言して撤回を求めたことによって討伐命令を取り消す。
それならばと、王妃と宰相は剣聖に暗殺を依頼したのだ。
根絶やしにされたロストロード家の代わりに領主となった面々は宰相派とも称される。その多くは利権の増大を約束されて宰相派となった者達であった。
その危険性に気付いたシルベルト辺境伯は反対し、幾度となく翻意を促したが国王は聞き入れなかった。前回は辺境伯の言葉に従ったので今回は宰相の言葉に従うと言う理由だ。
これが切っ掛けで国王とシルベルト辺境伯の関係も悪化する。ロストロード侯爵に替わって諌言を繰り返す辺境伯を国王は次第に疎むようになり、辺境伯もまた国王を見捨てた。やがて叛乱を噂されるに至った。
この状況に危機感を持ったのが王太子であり、その婚約者であったヒルデガルドである。婚約解消も取り沙汰される中、二人は両家を説き伏せて結婚に至る。
小康状態となった両家の関係は、数年後に国王が何者かに暗殺され、王太子が国王に即位して実権を握ったことで完全に回復した。
国王を暗殺した犯人は不明である。表向きには病死と発表されたことで大掛かりな捜査もされないままとなった。
元ロストロード領の領民の生活は領主が替わってから一変していた。税、あるいは労役のための徴用によって負担が重くなり、いつ死ぬとも判らない食うや食わずの生活を強いられるようになったのだ。
特に農民が深刻であった。徴用によって男手を連れて行かれても税負担は変わらないか重くなったのだ。生活が成り立つ筈がない。
親が子を売り、夫が妻を売り、口減らしとして子が親を殺す。それがまかり通るようになっていた。
◆
調査を進める間に剣聖が為そうとした正義が何であるか判ったような気がしていた。
弱い者を助ける。
ただそれだけ。
純粋な願いだったのだろう。だが、純粋すぎて融通の利かない道は踏み外し易く、踏み外せば戻れない。
踏み外したことにも気付かぬまま、藻掻いた挙げ句に騙されたのだ。
あまりの愚かさ。
それでも、憐れではあった。
調査結果は剣聖が言い残した内容から大きくは外れていなかった。王妃を唆した商人などの気になる点は有るものの、元凶となったのは王妃、宰相、そして彼らの後押しをしたに等しい国王である。
無論、これは全て当時の肩書きだ。
ローニャが洞窟を旅立った時には既に国王は代替わりしていた。
調査を進めていた三年の間に王太后となっていた王妃も崩御した。病死とされるが原因は定かでない。
宰相も疾うに替わっているが、元宰相となった男は健在である。
ローニャは報復を開始した。
まずは元宰相の手足となっていながら既に切り捨てられていた者達から。多くは既に非業の死を遂げていて実数は少ない。
続けて元宰相の手足となっている者、共謀した貴族、そして元宰相。元宰相の屋敷を襲撃したのは、折しも剣聖の四年目の命日の晩であった。
妙に落ち着き払った元宰相と対峙した時、ふと尋ねてみた。
「剣聖を憶えていらっしゃいますか?」
「知らんな」
表情からすれば本当に憶えていないらしい。剣聖をもただの駒としか思っていなかったのであろう。
「そうでございますか」
話はこれまでと床を蹴ろうとした瞬間、足下に穴が空いた。大きな落とし穴で、普通に手足を伸ばしたのでは壁にも届かない。元宰相の余裕はここから来ていたのだ。ほくそ笑む顔が見えた。
その直後、元宰相が表情を変える。ローニャは宙を蹴って落とし穴から脱出した。
そしてそのまま元宰相へと斬り掛かり、本懐を遂げる。後は元宰相の屋敷を血の海に沈めるだけである。
元宰相の一族を根絶やしにしたが、満たされない。報復が虚しかったのではない。足りない。
宰相を討っても、それに連なる者はまだまだ生きている。ロストロードの件では自らは何もせず、漁夫の利だけを得ようとした者達が居る。それらを放置していて報復を果たしたと言えるのか。
何より王家を討っていない。現国王は名君と呼ばれるが、前国王と前王妃の子に違いはない。
今となっては誰のための報復かも曖昧になっている。自分のためか。大好きだった、されど記憶が曖昧で面影すらも思い出せなくなっている父母のためか。はたまた憎んでいた、されど育ての親には違いなく、その有り様までは憎みきれない剣聖のためか。恐らくはその全てなのだろう。
報復は弔いでもあるのだ。
喪われた者達への手向けとして、喪われねばならなかった由を根絶やしにしてこそ報復が終わる。
熱に浮かされたように元宰相を討った足で王城へと忍び込み、国王、王妃と対峙する。護衛の近衛兵は傍で血を流して倒れている。
「な、何故に陛下の命を狙うのですか!?」
王妃ヒルデガルドは声を上擦らせて全身をぶるぶると震わせながらも、返り血で真っ赤に染まるローニャへ気丈に問うた。
「そうでございますね。理由をご存じにならなければお心残りでございましょう」
ローニャは調べた顛末を語った。
「やはりそうであったか」
国王は諦念したような溜め息を吐いた。
「ご存じだったのでございますか?」
「はっきりとはしていなかった」
調べようにも途中で行き詰まったと言う。王位を継承した時にはもう事後処理が全て終わっており、踏み込んだ調査をしようにも貴族の権利の前に阻まれた。
「そしてそなたがロストロードの忘れ形見か。ローネリアと言ったか?」
「忘れた名前でございます」
調べる途中で本名も知ったが、実感は湧かなかった。
「そうか」
国王はそれだけを言って口を噤んだ。
ローニャは剣を構え直す。
「お覚悟を」
「ま、待って! あ、貴女は陛下を害した後はどうするつもりなのですか!?」
疾うに覚悟を決めていたらしい国王を余所に、ヒルデガルドが制止した。
「そうでございますね。陛下のお伴をなさる方々をご案内させていただく所存にございます」
一〇〇万ほどでございましょうか、と付け加えた。
「そんなにも! 何故そのような数に!?」
「見ていただけの者も同罪でございます。ですが、それだけ葬れば憎しみも擦り切れましょう」
「それで憎しみが消えるとは思えません」
ヒルデガルドは頭を振った。殺せば憎しみを呼び、次第に強くなるだけではないかと。
そして決意したように拳を握ってローニャを見据えた。
「その一〇〇万の命の代わりに私の命で終わりにしてください」
「お戯れを」
ローニャは鼻で嗤った。今までも「自分の殺すだけで家族は助けてくれ」と言った者は居るが、聞き入れたりはしなかった。今更そんな言葉で止まる筈がない。
それに、国王の妻であるヒルデガルドは最後の仕上げとして葬るつもりであった。ロストロードの滅亡に関与せず、利も得ず、剣聖を利用することも無かったシルベルトは報復対象から外している。そのシルベルトの出であるヒルデガルドについては王妃であるその一点だけで対象としているため、最後に回すつもりでいる。
だが、ヒルデガルドは今までの者達とは少し違った。
「ですが、私とて命は惜しいのです。だからこうしませんか?」
フィーリアを預けるから好きに育てろと言う。その代わりに育てている間は誰も殺すな、と。そしてもし子育てに飽きたとき、最初に殺すのはヒルデガルドにし、それでお終いにしてくれと言った。
皆の代わりに自分を殺せと言いながら自分の娘を差し出して命乞いをするとはおかしな王妃である。
少し興味を抱いたローニャは「フィーリアを見てから決める」とその場を保留した。
ローニャの起こした惨劇は犯人死亡と発表され、事後処理がなされた。
そして事件から一週間後、ローニャはフィーリアに面会する。
「貴女が新しいメイドですか?」
小首を傾げるようにしながら問うフィーリアを見た瞬間、淡い光が散ったように感じた。
恐らくは予感。だからヒルデガルドの要望を受け入れた。
一つの約束と共に。
ヒルデガルドを殺すのはローニャ。そしてローニャが殺すまでヒルデガルドは死なない。
仕えるようになって間もなく、フィーリアの痴女の素質に気が付いた。最初は筋骨隆々な剣士か暗殺者にでも仕立てようかと考えていたのだが、それによって方針を変えた。
女として堕とす方がきっと楽しい。
痴女の王女。それを見る者達はどんな表情をするのだろうか。
◆
フィーリアと決別した今、全てはもう思い出の中にしかない。
当時はフィーリアに魅了されたように感じていたが、今、思い起こせば違う。
惹かれたのはヒルデガルドに。ぷるぷると震えながらも気丈に振る舞おうとするヒルデガルドの心根の強さに惹かれたのだ。
だからあんな愚かしい約束もした。
今にして思えば、老いて逝くヒルデガルドを見取りたかっただけなのだ。
その思い出に浸るように過去を思い出しながら、ついぞ忘れていた二つの魔石と共に埋めた紙のことも思い出した。
書かれていたのは剣聖の遺言。
花輪の贈り物は本当に嬉しかった。
ありがとう。
そしてすまなかった。
俺のことはずっと憎んでいてくれ。
――最愛の娘へ
齢五歳のローネリア・ロストロードには亡くなった曾祖父の思い出が殆ど無い。ただ怖いとだけ感じていた。
病床であっても凜とした佇まいを崩すことのない曾祖父。近付けば肌を切り裂かれるような錯覚まで有った。
その曾祖父が亡くなったと聞かされたのは二週間ほど前のこと。母に促されるままにさよならを告げた。
それから二週間、曾祖父は眠ったままだ。最初はそこに居るのにさよならを言った意味が判らなかったが、二週間経った今は曾祖父がもう二度と目を覚まさないのだと理解した。
親戚だと言う黒い服を来た人達が大勢訪れたこの日、曾祖父は入れられた木の箱ごと穴に入れられて土を被せられた。屋敷の裏手の少し離れた場所に掘られた穴だった。
ローネリアは母のスカートを掴んだままそれを見届けた。
悲鳴が聞こえたのは、全てが終わってから屋敷へと戻った直後。
母と二人、二階の居間に居るところへと血相を変えた父が駆け込んで来た。
「早く逃げろ!」
何が起きたのかを問う母に答える時間も惜しいとばかりに急かす父から促されるままに廊下へと出ると、真っ赤に染まった剣を振り回す男が目に入った。
男が剣を振る度、いつも笑いかけてくれた使用人達が真っ赤に染まって動かなくなる。
思わず彼らに駆け寄ろうとしたところを母に手を引かれ、父に背中を押されて遠ざけられる。
ところがその一瞬とも言える足踏みの間に迫って来ていた男が剣を薙いだ。
苦悶の声を上げて倒れ臥す父。
男はそんな父には興味を失ったように歩みを進め、母へと向けて剣を振り下ろした。
母は苦悶の悲鳴を上げたものの、直ぐに「大丈夫よ」と言ってローネリアを押すように走る。致命傷を受けなかったのは父が男の脚にしがみつくようにして剣先を鈍らせたためであった。
そうして一旦は逃げたが、男が上がってきたのとは反対側の階段まで辿り着いたところで母が倒れた。肩から背中に掛けて真っ赤に染まっている。呼び掛けても母は苦しげな表情を浮かべるばかりであった。
そこにまた男がやって来て剣を振り上げる。
咄嗟に両腕を一杯に広げて母の前に立ち塞がった。
「悪者め! 母様を虐めるな!」
殆ど無表情だった男が鬼の形相を浮かべて剣を振り下ろす。
その瞬間、軽い衝撃と共に温かいものに包まれる。
母の腕の中であった。
しかしその腕は直ぐに放され、見る間に冷たくなる。
「母様! 母様! 起きて! 悪い人が来ちゃうよ!」
幾ら呼び掛けても母は動かない。
そうする内に別の男が現れて先の男と何やら言い合いをした後、真っ赤に染まった。
その後直ぐに母を殺した男に抱え上げられ、ローネリアは屋敷の外へと連れ出された。非力な手足で暴れても男には僅かな痛痒すら与えられなかった。
自らを剣聖と名乗る男に抱えられたままローネリアは野を越え、河を越え、また野を越え、山を越え、またまた野を越え、森を越えて聳え立つ山の麓に着いた。果てしなく連なる、頂の見えない山の一つであった。走って河を渡る男にも驚いたが、目の前の山の雄大さには度肝を抜かれた。
剣聖はとある洞窟に入ると、溢れる魔物を屠りながら奥へと進む。そして一際大きなトカゲのような魔物を倒した。その瞬間に一瞬だけ苦悶の表情を浮かべた剣聖だったが、直ぐに無表情に戻った。
そして、ローネリアの首を掴んで吊し上げる。
目の前が光ったと思った瞬間、何かが身体の中に入り込んでくるようなおぞましさにローネリアは悶え苦しんだ。だが、剣聖の手からは逃れられず、おぞましさは強くなる一方であった。
「受け入れれば楽になる」
剣聖の言葉が真実かどうかは判らない。だが、所詮は幼い心と身体。遂にはおぞましさに屈服する。すると本当に楽になった。
胸元には銀色に光る二本線が刻まれていた。
直後から過酷な修練が始まった。体力作り、剣技、格闘技、魔法。それに読み書き。睡眠時間と食事の時間を除いて全て修練に当てられた。
食事は動物や魔物の肉、それに山菜である。剣聖が操る魔物が取ってきたものを食す。殆どの場合、煮るか焼くかしただけだ。味付けが有ったとしても塩だけ。それもたまにだけであった。
週に一度、僅かな量であるが無理矢理に血を飲まされた。飲めば不思議なことに身体の底から力が湧き出てくるようであった。
そしてその日に限って剣聖が左手首に布を巻いているのが妙に印象的だった。
メイド服を着た人型の魔物が常にローネリアの傍に居た。何も言わず、ただ傍に居るだけだ。
課題を与えられて洞窟の外に出る時には剣聖の代わりにローネリアに修練を強いる。逃げようとした事も有ったが、叶わなかった。
ただ、修練の途中で気絶してしまった時、目覚めた時には必ず傍に居た。
剣聖は頻繁に嘘を吐いた。目的地への道順で違う方向を言う、薬草と毒草を逆に言うなど、命に関わりかねない嘘まで言った。
ただ、剣技などの戦闘に関してと、読み書きに関しては嘘を言わなかった。
父母を殺し、過酷な修練を強いる剣聖をローネリアは憎んだ。それでもずっと共に過ごす中、優しさのようなものが垣間見えもして情が湧いた。
だからある日、洞窟の外での修練の際に見つけた花で花輪を作って贈った。
それを剣聖は踏み潰した。こんな事をする暇が有るならもっと修練しろ、と罵られた。そして修練の厳しさが増した。
ローネリアは剣聖を更に憎み、絶望し、感情を殺した。
◆
セーベリート歴五四〇年第二一週――。
一〇年余りの時が流れ、ローネリアは六級となっていた。
そんなある日、洞窟の外へと修練に出ようとした寸前、剣聖に女として嬲られた。
裸に剥かれ、おぞましく這い回る手と舌。抗い、剣聖を殴ろうとしても途中で手が止まる。結果、為されるままだ。
泣き叫びはしない。ただ悔しさに打ち震える。
仰向けにされ、脚を開かされ、いよいよ体内まで嬲られるのだと覚悟したその時。
剣聖の右手が首元に添えられて光った。
するとどうだろう。思わず振り払おうとした拳が剣聖の顎へと当たり、剣聖はもんどり打って地に落ちた。
何が起きたのか理解できずに呆然とするローネリアに起き上がった剣聖が言う。
「俺が憎いか? 憎ければ俺を殺してみろ。俺もお前のような反抗的な女など眷属にいらん」
ローネリアが突然のことに戸惑っていると、「来ないならこっちから行くぞ」と剣聖が剣で斬り掛かってくる。
咄嗟に転がるようにして避け、先程剥かれた服の傍に落ちていた剣を拾い上げて構える。
「そうだ、そう来なくてはな。お前を育てたのは俺が強者と戦うためだ。自分が育てた強者を自分で殺す。何と心躍ることか」
何が良いものか。そんな事のために今までの厳しい修練が有ったと言うのか。
ローネリアは怒りを込めて剣を振るった。
ローネリアの魔力は剣聖には及ばない。だが、その剣は速さに特化されていて、速さだけは剣聖を上回る。剣聖の剣はどちらかと言えば一撃必殺。一般兵士から見れば尋常ならざる速さであっても根本の力量が懸け離れているからに過ぎない。そしてその剣聖を大きく上回る速さがローネリアの剣の真骨頂である。
地を蹴り、壁を蹴り、天井を蹴り、時には宙を蹴って剣聖の剣を避けつつ剣聖へと剣を叩き込む。
少しずつ傷付きながら笑みを浮かべる剣聖。やがてそれは哄笑となり、狂ったように剣を振り回す。
「こんな戦いを待っていたのだ! 本気を出せる戦いをな!」
その言葉通りに本気を出したのか、剣聖の剣に鋭さが増して避け切れない。剣に剣を合わせることで辛うじて防ぐ。
そして幾合かの後には弾き飛ばされてしまった。
ローネリアは地に落ちた。
「どうした? もうお終いか?」
剣聖が剣を振り上げ、振り下ろすのを転がって辛うじて避ける。素早く立ち上がって魔力の限りに加速する。
他の全てが止まっているように感じられる中、剣聖だけがゆっくりと剣を振るうのが見える。
その剣を避けつつ剣聖の胸へと剣を突き立てた。
止まった時が動き出すように感じられる中、剣聖の手が肩に触れた。
「よくやった。それでいい」
ローネリアが剣聖から貰った初めての褒め言葉であった。
あまりに意外なその言葉に一瞬だけ動きを止めたローネリアを剣聖が残る限りの力で押し返しつつ蹴り飛ばす。
致命傷を負っていながらどこにそんな力が残っていたのか。ローネリアの意識は一瞬飛び、それ故に受け身も碌に取れないままに身体を地面に打ち付けた。
気付けば洞窟の外であった。今まで剣聖が洞窟の外に出ることは無かったが、今回もそうとは限らない。直ぐさま体勢を整えて洞窟に向き直る。
剣聖は地に臥していた。そして靄のようなものが剣聖から抜け出たところであった。
状況を確かめるべく洞窟に入ろうとすると、メイド服の魔物に止められた。
「入ってはなりません」
その言葉にローネリアは瞠目して足を止めた。その魔物の声を初めて聞いたのだ。
「喋れたのか!?」
「はい。この時まで貴女様と話すことを禁じられておりました。主様亡き今、主様の真実をお伝えする役割を担っております」
剣聖は正義を謳いながら、人に噂される殺人鬼に相応しい行いを続けていた。その全ては取り返しの付かないことである。
唯一救える可能性が有るとすればローネリアであった。放置すれば非業の短い一生を過ごすのが確実。それ故に身を守るだけの力を与えようと考えた。
剣に生きた剣聖にはそれ以外を思いつかなかったのだ。
そうするためには迷宮の主となり、ローネリアを眷属とするのが最も早い。眷属が主の血や精を受け入れれば更に早くなる。血を飲ませたのはそのためだった。肌を合わせるのを良しとしなかったため、必然的に血を飲ませることになったのだ。
厳しい修練をすれば命の危機を迎える場合も有る。それに備えて治療の力を持つ魔物を常にローネリアの傍に置いた。それがメイド服の魔物である。
メイド服の魔物はいざと言う時にローネリアを救い出すために強大な魔力を持ち、維持コストは迷宮が得る魔素を上回る。
迷宮はこの一〇年余りで殆どが崩壊した。剣聖はローネリア一人を育てるために迷宮の一つを潰したようなものだった。
そうして体力や戦闘力を鍛えることについては万全と言える環境を作った。しかしそれだけではローネリアが剣聖の後悔と同じ轍を踏む懸念が有った。
剣聖の最大の後悔は下調べを怠ったことだ。嘘を嘘と見抜けなかった。そして騙された。だから下調べの大切さ、自らの目で見て確認することの大切さを教えるべく、数々の嘘を吐いた。話に聞くだけではその大切さを実感できないと考えてである。
そして最後に女の身に起こりうる危険を教えるべく服を剥ぎ、肌を舐ったのだ。
恐らくは剣聖に刃を立てることをローネリアが躊躇わないように。
剣聖は死んだ。大きな魔石を残しただけである。
「主様を失った私は一週間ほどで無に還ります。それまでの間にこの先で必要になるだろう事をお教えしましょう」
ローネリアはメイド服の魔物から人の世界について学んだ。お金、物価、身分、言葉遣いなど、一〇年の間に魔物が調べていた人の中で生活するのに必要な内容であった。
一週間が過ぎた。
メイド服の魔物が力無く横たわる。
「お別れの時のようです。貴女と過ごした日々、特に最後の一週間は大変楽しゅうございました」
「どうして! どうして今になってそんな事を言うのですか!」
その問いに魔物は微笑みを返すだけだった。
「貴女の幸せを願っております」
魔物が塵に変わる。
ローネリアがその塵を掻き抱こうとしても指の隙間から零れ落ち、虚しく風に流されるだけだった。
メイド服の魔物が消えた跡には大きな魔石と一枚の紙が残されていた。
その紙に目を通した時、ローネリアは人生の理不尽への報復を誓った。
剣聖の残した魔石、メイド服の魔物の残した魔石、そして一枚の紙を埋めて墓標を立てた後、ローネリアは迷宮を旅立った。
◆
ローネリアは剣聖の教え通りに下調べから開始した。メイド服の魔物から剣聖がどう騙されたのか具体的な内容も聞いている。王妃と宰相が直接関わっていたこともだ。その裏付けを取るのである。
とは言え、外からでは集められる情報に限りが有る。内部に入り込むために多少迂遠にも見える手順を採ることにした。
手始めに下位の貴族のメイド募集に応募し、メイドとしての腕を磨いた後に上位の貴族、果ては王族付きのメイドを目指す。
応募の際に名前を聞かれ、自分の本名を思い出せなかったローネリアは母に呼ばれていた愛称を答えた。
ローニャ、と。
当然ながら、信用の有る貴族の保証なしには王族に近付くことなどできない。その保証を得るための実績を作り、時には脅迫も女の武器も使えるものは使った。それによって二年と言う異例の早さで王城勤めを勝ち取った。
一〇年以上前の事であり、メイドとして働きながらでもあり、調査は難航した。それでもこの三年間で大凡が判明した。
直接のきっかけは王妃であった。
その頃、出入りの商人に唆されるままに浪費していた王妃に対し、ロストロード侯爵が苦言を呈する日々が続いていた。
これに不満を抱く王妃とロストロード侯爵の関係は次第に悪化する。国王は他人の顔色を窺いながら政治を行うような人物で、双方の顔色を窺うだけだった。
業を煮やしたロストロード侯爵は強権によって王妃が浪費できないよう法律を制定する。
我慢できない王妃は、日頃から自分よりも強い権力を持つロストロード侯爵に不満を抱いていた宰相と共謀する。密会する内にねんごろになった二人は、ロストロード侯爵が叛乱を企てていると噂を流し、その噂を根拠に討伐するよう国王を唆した。
国王は唆されるままに討伐命令を一度は発したものの、シルベルト辺境伯が虚報だと断言して撤回を求めたことによって討伐命令を取り消す。
それならばと、王妃と宰相は剣聖に暗殺を依頼したのだ。
根絶やしにされたロストロード家の代わりに領主となった面々は宰相派とも称される。その多くは利権の増大を約束されて宰相派となった者達であった。
その危険性に気付いたシルベルト辺境伯は反対し、幾度となく翻意を促したが国王は聞き入れなかった。前回は辺境伯の言葉に従ったので今回は宰相の言葉に従うと言う理由だ。
これが切っ掛けで国王とシルベルト辺境伯の関係も悪化する。ロストロード侯爵に替わって諌言を繰り返す辺境伯を国王は次第に疎むようになり、辺境伯もまた国王を見捨てた。やがて叛乱を噂されるに至った。
この状況に危機感を持ったのが王太子であり、その婚約者であったヒルデガルドである。婚約解消も取り沙汰される中、二人は両家を説き伏せて結婚に至る。
小康状態となった両家の関係は、数年後に国王が何者かに暗殺され、王太子が国王に即位して実権を握ったことで完全に回復した。
国王を暗殺した犯人は不明である。表向きには病死と発表されたことで大掛かりな捜査もされないままとなった。
元ロストロード領の領民の生活は領主が替わってから一変していた。税、あるいは労役のための徴用によって負担が重くなり、いつ死ぬとも判らない食うや食わずの生活を強いられるようになったのだ。
特に農民が深刻であった。徴用によって男手を連れて行かれても税負担は変わらないか重くなったのだ。生活が成り立つ筈がない。
親が子を売り、夫が妻を売り、口減らしとして子が親を殺す。それがまかり通るようになっていた。
◆
調査を進める間に剣聖が為そうとした正義が何であるか判ったような気がしていた。
弱い者を助ける。
ただそれだけ。
純粋な願いだったのだろう。だが、純粋すぎて融通の利かない道は踏み外し易く、踏み外せば戻れない。
踏み外したことにも気付かぬまま、藻掻いた挙げ句に騙されたのだ。
あまりの愚かさ。
それでも、憐れではあった。
調査結果は剣聖が言い残した内容から大きくは外れていなかった。王妃を唆した商人などの気になる点は有るものの、元凶となったのは王妃、宰相、そして彼らの後押しをしたに等しい国王である。
無論、これは全て当時の肩書きだ。
ローニャが洞窟を旅立った時には既に国王は代替わりしていた。
調査を進めていた三年の間に王太后となっていた王妃も崩御した。病死とされるが原因は定かでない。
宰相も疾うに替わっているが、元宰相となった男は健在である。
ローニャは報復を開始した。
まずは元宰相の手足となっていながら既に切り捨てられていた者達から。多くは既に非業の死を遂げていて実数は少ない。
続けて元宰相の手足となっている者、共謀した貴族、そして元宰相。元宰相の屋敷を襲撃したのは、折しも剣聖の四年目の命日の晩であった。
妙に落ち着き払った元宰相と対峙した時、ふと尋ねてみた。
「剣聖を憶えていらっしゃいますか?」
「知らんな」
表情からすれば本当に憶えていないらしい。剣聖をもただの駒としか思っていなかったのであろう。
「そうでございますか」
話はこれまでと床を蹴ろうとした瞬間、足下に穴が空いた。大きな落とし穴で、普通に手足を伸ばしたのでは壁にも届かない。元宰相の余裕はここから来ていたのだ。ほくそ笑む顔が見えた。
その直後、元宰相が表情を変える。ローニャは宙を蹴って落とし穴から脱出した。
そしてそのまま元宰相へと斬り掛かり、本懐を遂げる。後は元宰相の屋敷を血の海に沈めるだけである。
元宰相の一族を根絶やしにしたが、満たされない。報復が虚しかったのではない。足りない。
宰相を討っても、それに連なる者はまだまだ生きている。ロストロードの件では自らは何もせず、漁夫の利だけを得ようとした者達が居る。それらを放置していて報復を果たしたと言えるのか。
何より王家を討っていない。現国王は名君と呼ばれるが、前国王と前王妃の子に違いはない。
今となっては誰のための報復かも曖昧になっている。自分のためか。大好きだった、されど記憶が曖昧で面影すらも思い出せなくなっている父母のためか。はたまた憎んでいた、されど育ての親には違いなく、その有り様までは憎みきれない剣聖のためか。恐らくはその全てなのだろう。
報復は弔いでもあるのだ。
喪われた者達への手向けとして、喪われねばならなかった由を根絶やしにしてこそ報復が終わる。
熱に浮かされたように元宰相を討った足で王城へと忍び込み、国王、王妃と対峙する。護衛の近衛兵は傍で血を流して倒れている。
「な、何故に陛下の命を狙うのですか!?」
王妃ヒルデガルドは声を上擦らせて全身をぶるぶると震わせながらも、返り血で真っ赤に染まるローニャへ気丈に問うた。
「そうでございますね。理由をご存じにならなければお心残りでございましょう」
ローニャは調べた顛末を語った。
「やはりそうであったか」
国王は諦念したような溜め息を吐いた。
「ご存じだったのでございますか?」
「はっきりとはしていなかった」
調べようにも途中で行き詰まったと言う。王位を継承した時にはもう事後処理が全て終わっており、踏み込んだ調査をしようにも貴族の権利の前に阻まれた。
「そしてそなたがロストロードの忘れ形見か。ローネリアと言ったか?」
「忘れた名前でございます」
調べる途中で本名も知ったが、実感は湧かなかった。
「そうか」
国王はそれだけを言って口を噤んだ。
ローニャは剣を構え直す。
「お覚悟を」
「ま、待って! あ、貴女は陛下を害した後はどうするつもりなのですか!?」
疾うに覚悟を決めていたらしい国王を余所に、ヒルデガルドが制止した。
「そうでございますね。陛下のお伴をなさる方々をご案内させていただく所存にございます」
一〇〇万ほどでございましょうか、と付け加えた。
「そんなにも! 何故そのような数に!?」
「見ていただけの者も同罪でございます。ですが、それだけ葬れば憎しみも擦り切れましょう」
「それで憎しみが消えるとは思えません」
ヒルデガルドは頭を振った。殺せば憎しみを呼び、次第に強くなるだけではないかと。
そして決意したように拳を握ってローニャを見据えた。
「その一〇〇万の命の代わりに私の命で終わりにしてください」
「お戯れを」
ローニャは鼻で嗤った。今までも「自分の殺すだけで家族は助けてくれ」と言った者は居るが、聞き入れたりはしなかった。今更そんな言葉で止まる筈がない。
それに、国王の妻であるヒルデガルドは最後の仕上げとして葬るつもりであった。ロストロードの滅亡に関与せず、利も得ず、剣聖を利用することも無かったシルベルトは報復対象から外している。そのシルベルトの出であるヒルデガルドについては王妃であるその一点だけで対象としているため、最後に回すつもりでいる。
だが、ヒルデガルドは今までの者達とは少し違った。
「ですが、私とて命は惜しいのです。だからこうしませんか?」
フィーリアを預けるから好きに育てろと言う。その代わりに育てている間は誰も殺すな、と。そしてもし子育てに飽きたとき、最初に殺すのはヒルデガルドにし、それでお終いにしてくれと言った。
皆の代わりに自分を殺せと言いながら自分の娘を差し出して命乞いをするとはおかしな王妃である。
少し興味を抱いたローニャは「フィーリアを見てから決める」とその場を保留した。
ローニャの起こした惨劇は犯人死亡と発表され、事後処理がなされた。
そして事件から一週間後、ローニャはフィーリアに面会する。
「貴女が新しいメイドですか?」
小首を傾げるようにしながら問うフィーリアを見た瞬間、淡い光が散ったように感じた。
恐らくは予感。だからヒルデガルドの要望を受け入れた。
一つの約束と共に。
ヒルデガルドを殺すのはローニャ。そしてローニャが殺すまでヒルデガルドは死なない。
仕えるようになって間もなく、フィーリアの痴女の素質に気が付いた。最初は筋骨隆々な剣士か暗殺者にでも仕立てようかと考えていたのだが、それによって方針を変えた。
女として堕とす方がきっと楽しい。
痴女の王女。それを見る者達はどんな表情をするのだろうか。
◆
フィーリアと決別した今、全てはもう思い出の中にしかない。
当時はフィーリアに魅了されたように感じていたが、今、思い起こせば違う。
惹かれたのはヒルデガルドに。ぷるぷると震えながらも気丈に振る舞おうとするヒルデガルドの心根の強さに惹かれたのだ。
だからあんな愚かしい約束もした。
今にして思えば、老いて逝くヒルデガルドを見取りたかっただけなのだ。
その思い出に浸るように過去を思い出しながら、ついぞ忘れていた二つの魔石と共に埋めた紙のことも思い出した。
書かれていたのは剣聖の遺言。
花輪の贈り物は本当に嬉しかった。
ありがとう。
そしてすまなかった。
俺のことはずっと憎んでいてくれ。
――最愛の娘へ
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