魔法道具はじめました

浜柔

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第五九話 しとしとと

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 しとしとと雨が降る。こんな朝は少しぼんやりとした気分にもなってしまうものである。変に規則正しい雨だれの音が考える力を失わせていく。それでもチーナには仕事があるのだ。
 軽く気合いを入れて起き上がる。パジャマを脱いでエプロンを着ける。何か忘れている気がしたが、思い出せないなら大した事ではないのだと気にしない事にした。今日は既に遅くなってしまっているのだ。
「おはよう、チーナ」
「あ、店長、おはようございます」
 いつものようにルゼに挨拶を返す。ルゼが何か驚いたような顔をしたが、急がないと朝食が間に合わなくなる。
「チーナ?」
 ルゼの何か言いたげな問いかけが聞こえたようなしたが、多分気のせいの筈だ。

 朝食の配膳が終わり、食卓に着くためにエプロンを脱ぐ。
「チーナ!?」
 ルゼの驚きの声が響く。その大きな声で、チーナは漸く少しだけ思考が回り始めた。見回せば、累造が食い入るように見詰めてくる。何だか照れる。だが、その視線はじっと胸に注がれている。胸を見下ろす。乳首が見える。ああ、累造は乳首を見ているのか、と納得する。はて、乳首? 疑問が浮かぶ。乳首! 驚愕した。
「あ、あ、あ、何で私……」
 チーナは胸を押さえ、真っ赤になった。
「はあ……、いつまで寝ぼけているつもりだい?」
「あは、あは、あは」
 もう笑って誤魔化すしかない。累造の視線はまだまだ熱く肌を焼く。それはそれで何だか嬉しい。もう、見られついでだと言う気がしてしまう。
「スープが冷めてしまいますから、もうこのままで構いません」
 そう言って椅子に座った。
 ルゼに半眼で睨まれる。
「も、もう、店長だって以前、こんな格好をしてたじゃないですか」
「あたしには文句を言っていた癖に」
「そ、それは……」
 たじろいだ。
「わ、判りました。申し訳ありませんでした。反省します」
「判ればいいんだ」
 ルゼは鷹揚に頷いた。

 朝食の後、あたふたと後片付けをする。
 累造に見られて嬉しい反面、恥ずかしすぎた。お陰で食べ物の味もよく判らなかった。
 勢いに任せるのは危険であった。

  ◆

 雨が降ろうとも、室内干しができる程度には洗濯をしておかなければ明日が辛い。だからチーナは今日も洗濯をする。
 洗濯物の中には当然の如く累造のものも入っている。それを手に取る。
 すーはーすーはー。累造の匂いがする。ふへへ、と顔が緩んでいく。次第に顔を押し付けるように匂いを嗅いでしまう。
「変態ですの」
「○★▽!%!」
 声にならない叫びを上げた。
「下着に顔を埋めるなんて、変態にも程がありますの」
「うう……」
 唸る事しかできない。
「ネタ的には面白いのですが、目の当たりにするとどん引きですの」
「お、お願い、この事は累造君には……」
 項垂れた。
「言える訳ありませんの。一つ屋根の下にこんな変態が居る事を知ったら、累造さんが出て行くかも知れません」
「そんなのは、駄目!」
「ですの」
 ニナーレは頷いた。
「それにしても、何故、そんな事を?」
「だって、累造君っていい匂いがするから」
 チーナにとって累造の体臭は心地良い。意識して以降は甘美にさえ感じる。
「それで、こんな変態行為をするだけで満足できるんですの?」
 ただ首を横に振る。
「だったら、チーナから襲ってしまえばいいのでは?」
「それって、やっぱり逃げられそうじゃない!」
 一度自分から襲ってしまうと、繰り返さない自信など無い。むしろ、夜討ち朝駆けで累造を襲ってしまう自信すら有る。それでは累造はきっと逃げてしまう。
「それもそうですの」
 ニナーレも同意した。
「ただでさえ累造君は元の世界に戻るかも知れないって言うんだから……」
「それが何か?」
 ニナーレの意に介さない様子に驚きの方が勝った。
「そうなったら、もう会えないかも知れないんですよ?」
「はい」
「そんなの寂しいじゃない!」
「それでも、累造さんの選択であったり、必然であったりするなら、受け入れなければいけませんの」
 チーナを見据えるニナーレの瞳には確固たる力が込められていて、チーナは反論の言葉を失った。

  ◆

 しとしとと雨が降る。こんな日は少し憂鬱な気分にもなってしまうものである。客が全く居ない店内でただ客を待っているルゼもそんな気分だった。
「暇だね」
「そうでやすね」
「こんなだと、ちょっと考えちまうね」
 軽く溜め息をついた。
「何をでやすか?」
「この所、累造のお零れで生きてるようじゃないか」
「そうでやすね。この一ヶ月でのボウズ絡みの収入は売り上げで見ても店の二年分を超えてやすね。利益で見ればその三倍以上でやす」
「だろう? それに、今度は……」
 言い淀んでしまった。
「二一億でやすか?」
「ああ」
 溜め息をついた。
 照明の魔法陣を起動する魔法陣の代金七〇億ツウカの三割である二一億ツウカが虹の橋雑貨店の収入となる事が決まっている。毎月五億ツウカずつ、一四ヶ月をかけて支払われる三割である。以前、年間の利益が一一〇〇万ツウカ程度でしかなかった事からすれば、百数十年分だ。一生分と言っても過言ではない。
「ボウズが居なければ一生かかっても目にする事はなかったでやすね」
「あたし自身は何もしていないんだ」
 悔しそうに俯いた。
「そうでもないでやすよ」
「え?」
「ボウズは言ってやした。姐さんに拾われたのが一番の幸運だった、と」
「え? あ!」
 ルゼは以前に累造と話したことを思いだした。その時は半ば冗談で話していたために忘れていた。
「それに、ボウズは初見じゃ、ひ弱な役立たずにしか見えなかったでやす。拾ったのが姐さんじゃなけりゃ、こうして稼ぐ前に死んでいたかも知れないでやす」
 累造の死など想像もしたくないと首を振る中、ショウは淡々と続ける。
「姐さんが居たからこそ、今のボウズは呑気に暮らして大金を稼ぐ事ができるんでやす」
 黙って目を瞑った。
 そして、暫しの時が流れた。

「ルゼさん、お昼の用意ができましたよ」
 累造は昼食にとルゼを呼びに来たのだが、奇妙な雰囲気に首を傾げる。
「何か、有りましたか?」
「何もないでやす。ただ、姐さんとボウズが出会った幸運について話していたでやす」
「その事ですか。まあ、ルゼさんは命の恩人みたいなものですから、ほんとに感謝してます」
 累造としては当然の答えである。
 すると、突如としてルゼの目から涙が零れ始める。
「累造ーっ」
 ルゼが立ち上がって頭に抱き着いてきた。
 どうして抱き着かれるのか訳が分からず、目を白黒させるばかりである。その一方でルゼの胸の柔らかさに夢心地にもなる。
「あ、あの、ルゼさん?」
 ルゼは何も言わない。
「まあ、こんな天気でやすからね」
 ショウは肩を竦めた。
 沈黙が舞い降りた店内には、雨だれの音だけが響いていた。
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