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20 幽霊の噂
しおりを挟む「……ソフィア様、お捜ししました」
「カトリナ!」
淑女科の面々――テレーゼを中心とする令嬢たちに囲まれていたソフィアが、ホッとした顔を見せる。
彼女の隣にアレクシス殿下の姿がないのは、テレーゼたちに引き離されたのか、あるいは、ソフィアが勝手に離れてしまったのか。
どちらにしろ、迂闊としか言いようがない。
(……クリスティーナ様なら、絶対にこんなことはなさらない)
その身が高貴であればあるほど、未婚の令嬢は周囲を固めるもの。悪意ある者を近づけないための「取り巻き」は、決して無意味なものではない。
けれど、そうした関係を嫌うソフィアは、自分以外の同性を遠ざける傾向があった。
一番の問題は、殿下がそれを許してしまうことだが――
「……ソフィア様、アレクシス殿下がお呼びです。ご案内いたしますので、こちらへ」
この場を逃げ出すための口実。それに、「うん!」と元気良く返事をするソフィアの手を引いて、令嬢たちの囲いを抜け出す。
抜け出す直前、正面に立つテレーゼが視界に映った。広げた扇子の下で、唇が愉悦に歪んでいる。虫けらでも見るような彼女の視線を避け、俯きがちにその隣をすり抜けた。
足早にホールを横切り、宿泊棟へ向かう。背後から、ソフィアの声が聞こえた。
「ありがとう、カトリナ! 人混みのせいでアレクシスとはぐれちゃって。すごく助かったわ」
礼の言葉に小さく「いえ」と返す。その後に続く彼女の言葉を聞き流して進む内、不意に強い視線を感じて、背後を振り返る。
(えっ?)
碧い瞳――クリスティーナと目が合った気がして、とっさに下を向く。
ドクドクと心臓が鳴るのを感じつつ、「そんなはずはない」と言い聞かせる。
私は彼女を裏切った。彼女が私を気に掛けるはずがない。
浅ましい期待を持たぬよう、下を向いたままホールを抜け出し、灯りの乏しい宿泊棟へ入った。
薄明りの廊下に、ソフィアのため息が零れ落ちる。
「……それにしても、テレーゼさんたちって意地悪だよね。嫌になっちゃう」
暗がりで漸く気持ちが落ち着き、彼女の愚痴に曖昧に頷いて返した。
「さっきも色々、腹が立つことばっかり言われて。でも、逃げられないし、あんなところで怒れないから、カトリナが来てくれて本当に良かった」
安堵するソフィアに、返す言葉はない。彼女の、微塵も疑心を持たない笑みにも心は凪いでいた。
(もっと不安だったり、罪悪感を覚えたりするかと思ったけれど……)
感情が麻痺しているのか、何の感慨も持たずに、ソフィアを宿泊棟に誘う。
「……奥に、部屋をご用意しています」
「部屋? そこでアレクシスが待ってるの?」
「いえ。殿下のことは、あの場を抜け出すための方便です。ですが、すぐに殿下を呼んでまいります。ソフィア様はテレーゼ様たちに捕まらぬよう、部屋でお待ちください」
諭すと、彼女は「そういうことね」と素直に頷く。
その信頼はどこから来るのか。彼女に友誼を求められた時からの疑問ではあるが、今はもう、その答えも必要ない。
(……本当に、みんな愚かだわ)
人の悪意を疑わない彼女も、彼女を一人にした庇護者たちも。それから、人の精一杯の告発を拒絶した男も、いまだ王太子殿下の婚約者の地位を望む女も。
だけど、最も愚かなのは――
(……今度こそおしまいね。私も、ヘリングの家も)
これから自分が成すことは、ソフィアの王太子妃への道を閉ざすだろう。私が罪から逃れる術はない。
だが、きっとそれでいいのだ。
私は一度、選択を間違えた。
裏切り、逃げた先で得られた現実がこれなら、もう、終わりにしよう。精々、愚か者を道連れにしてみせる。この国の王太子妃に相応しいのは、今も昔も変わらず、あの方しかいないのだから。
ああ、だけど、あの方はどう思うだろうか――?
先ほど、ホールで交差した視線を思い出す。孤立無援の中、変わらず顔を上げ続ける彼の方は、私の行いを認めてくれるだろうか。
(……分からない。以前なら、『絶対に、あの方は喜んでくださる』、そう思えたのに……)
自分の行おうとしていることに、何一つ、自信が持てない。
俯いていると、隣に並んだソフィアに顔を覗き込まれた。
「カトリナ、どうしたの? 気分でも悪い?」
「いえ、大丈夫です。申し訳ありません。ご心配をお掛けして……」
「ううん! 私が勝手に心配しただけ。謝ってもらうようなことじゃないよ」
そう言ってニコニコと笑うソフィアが、「あ、そうだ!」と声を上げる。
「アレクシスを呼びに行く時に、イェルクも一緒に呼んだらどうかな?」
「……イェルク様、ですか?」
その名に、わずかに胸が痛んだ。何も気付かぬ彼女は、嬉々として言葉を続ける。
「聖夜祭ってとっても長いでしょ? 年明けまで続くんだから、ちょっとくらい、四人でおしゃべりしても良いと思わない?」
「いえ、私は……」
反射的に口を衝いた拒絶に、彼女は「どうして?」と首を傾げる。
「カトリナにはいい機会じゃない? 折角だから、イェルクといっぱい話して、仲良くなろうよ」
屈託のない言葉に、イェルクの冷たく見下ろす瞳が蘇る。
「……恐れ多いことです。私は、既にイェルク様に婚約を解消されております」
「うーん。確かにそうなんだけど、でも、前の婚約は政略が前提だったんでしょう?」
彼女が何を言いたいのかが分からず、沈黙を返す。
「えっと、だから、今度はちゃんとイェルクと恋愛して、もう一度、婚約を結び直せばいいんじゃないかなって。二人が結ばれたら私も嬉しいし、応援するよ!」
「それは……、できません」
胸を刺す痛みに耐え、辛うじて言葉を返す。下を向く私に、彼女は「でも」と更に顔を覗き込んだ。
「でも、カトリナはイェルクのこと、まだ好きだよね? 隠しててもバレバレだよ? 目がいつも彼を追ってるんだもん!」
そう言って、揶揄うような笑みを向けられ、彼女を直視できなくなる。その笑顔が歪んで見えた。
――一体、何がおかしいというの……?
自身の恋慕――イェルクへの執着は、それほど滑稽だっただろうか。「目障りだ」と、「視界から消えろ」と言われるほど嫌悪された私が、彼を想うのは――
眩暈がするほどの感情の昂りを覚え、息が上手く吸えなくなる。怒りと羞恥が込み上げたが、すぐに惨めさに取って代わる。
結局、彼にとって私の好意など、一顧だにする価値さえない。彼は別の女性を選んだのだ。
「……ソフィア様、まずはお部屋へ入りませんと。ご案内いたします」
「あ、そっか。そうだよね。イェルクとおしゃべりするのも久しぶりだから、気持ちが焦っちゃった。うん、すごく楽しみ!」
実らなかった想いも、届かなかった勇気ももう要らない。イェルクに背を向けられた時に、想いは全て砕けて消えた。これ以上、痛い思いも辛い思いもしたくない。
押し黙って歩き続け、目的の部屋の前で立ち止まる。
取り出した鍵で部屋を開けると、ソフィアがなんの警戒もせず、足を踏み入れた。その姿に、もう失望することはない。
「ソフィア様、しばらくここでお待ちください。すぐに殿下を呼んでまいります」
「ありがとう。よろしくね」
礼の言葉に頷いて返し、彼女の眼前で扉を閉める。そのままゆっくりと鍵を回し、扉に鍵を掛けた。
(……気付いた、かしら?)
今なら、まだ間に合う。彼女が部屋の内鍵が壊されていることに気付けば。閉じ込められたことに気付いて、「ここから出して」と大騒ぎすれば――
けれど、閉ざされた扉の向こうからはなんの音も聞こえてこない。
安堵と諦め半々のため息が口から零れ落ちる。不意に、背後から肩を叩かれた。
「上手くやったじゃない」
そう言ってこちらに醜悪な笑みを向けるのは、テレーゼの取り巻きの一人。
「テレーゼ様もご満足されるでしょう。これで、貴女も彼女のお傍に侍ることが許されるわ」
そんなことは望んでいない。
黙ったままの私に、取り巻きの伯爵令嬢は片方の口角を釣り上げる。
「良かったわね、落ち目のヘリングも、リッケルト家に拾っていただけて。テレーゼ様は自分に従う者には寛容よ」
なおも応えずにいると、令嬢の顔に険が浮かぶ。
「……いいこと? くれぐれも裏切ろうだなんて思わないで。テレーゼ様は決してお許しにならないわ。リッケルトに逆らえば、貴女一人が全ての罪を被ることになるのよ」
そう言って、令嬢は廊下の先の階段に視線を向ける。
テレーゼが間もなくこちらへやってくるのだろう。先んじて現れた彼女は、私と目の前の扉の見張り役といったところか。
手の内、自身の体温で温くなった金属を私はギュッと握り締めた。
(……やはり、私は変われない。どこまで行っても、私は私のまま……)
理不尽に抗えず、声を上げることもできず─―
ふと、階段付近の暗がりで何かが動いた気がして視線を向ける。
(? 誰か、いるの……?)
凝視しても、暗闇には何も見えない。
張り詰めた神経が見せた幻だったかと、目を閉じた。
もうすぐ、全てが終わる。
その時を待ち、足音一つしない廊下に静かに立ち続けた。
◇ ◇ ◇
(どういうこと? どうしてカトリナがゲルデと……)
暗闇に紛れる碧いドレスの裾を押さえて、階段の端から覗いた光景を反芻し、今の状況を見定める。
カトリナと共にホールを出たソフィアの姿が見当たらず、そのカトリナはテレーゼの取り巻きであるゲルデ・ヘルツベルグと一緒にいる。しかも、二人は宿泊室の前に二人並んで立っていた。まるで、扉を守る門番のように。
(もしかしなくても、最悪な状況、というわけね)
嫌な予感はしたのだ。
夜会場で壁の花となって数刻、暇に厭かせて周囲を観察していたが、気付くと、ソフィアが野放しになっていた。あっさりとテレーゼに捕まった彼女の周囲に味方はおらず、殿下方は何をしているのかと呆れていたところに、カトリナが現れる。
現れたカトリナは颯爽とソフィアを助け出したのだが、その姿には違和感しかなかった。
ここ最近、彼女とソフィアの距離が近しいことには気付いていたが、カトリナの性格的に、ああした場面で矢面に立つことはないだろうと思っていたのだ。
好意的に見れば、「彼女も成長した」、「ソフィアの庇護下で強くなった」、とも考えられるが、カトリナはいまだに淑女科でテレーザたちの執拗な嫌がらせにあっている。
声を上げればいいものを、彼女はそれをせず、常に「察して」もらうだけ。自分から助けを求めることをしないカトリナの窮状を、ソフィアが気付く様子もない。
そんなカトリナが突然、テレーゼに反旗を翻すなどあり得るだろうか。
ソフィアを連れてホールを出ていくカトリナを観察していると、一瞬だけ、彼女と目が合った気がした。が、すぐに視線が逸らされる。
そこに焦りのようなものを感じ、嫌な予感は膨らんだ。
結局、ソフィアの護衛らしき女性騎士がテレーゼの取り巻きの一人に足止めされるのを見て、二人の跡を追うことを決めた。
距離があったため、ホールを出たところで一度完全に二人を見失ったが、今こうして、カトリナを見つけられたのは、運に助けられたと言える。
(問題はこれからどう動くか。殿下に知らせるのが一番だけれど……)
おそらく、ソフィアはあの扉の向こうにいる。
男女の密事のために用意された部屋に、一人きりで閉じ込められるということはないだろう。今すぐにでも飛び込むべきだが、あの二人が扉の前にいる以上、騒ぎになることは避けられない。ソフィアが男と密室にいたという醜聞が広がれば、彼女が殿下の妃となるのは絶望的だ。
(それがどうした。関係ない。……と言ってやりたいところだけれど)
腐っても、ソフィアはハブリスタント。自らの愛する者に幸福をもたらす「花の王家」の末裔。
国と北の辺境の安寧を思えば、彼女が王太子であるアレクシスと結ばれることが最善で、少なくとも、こんなお粗末な罠で馬鹿らしい結末を迎えるなんてあり得ない。
(とにかく、あの扉は開けずに、中の状況を確認しないと)
仮に、今はソフィア一人だとしても、離れた隙に男が入っていく可能性もある。殿下に知らせる暇はない。
「最悪だ」と内心で零しつつ、周囲を見回す。背後の階段を見下ろした際に、大きな窓が視界に映った。
一階と二階の間の踊り場にある大きな腰高窓。
(……やるしかない、か)
足音を立てぬよう踊り場まで階段を駆け下り、窓を開け放つ。
幸いにして、周囲に警護の騎士は見当たらない。
いつもより慎重に身体強化の術を掛け、窓枠に立った。そこから大きく腕を伸ばし、外壁の装飾に張り付く。わずかな装飾、壁の出っ張りを伝って、二階の窓枠へなんとか辿り着いた。
(まったく、なんで私がこんなことを……っ!)
カトリナたちが見張っていた部屋までは、バルコニーを二部屋分、横切らねばならない。いずれの部屋もカーテンが閉じているが、万が一、こんな奇行を見られでもしたら、己の社会的地位は完全に失われる。元より地に落ちた名だが、その比ではない。
ソフィアのいる部屋、その窓辺に到達して、漸く一息をつく。同じバルコニーに繋がる窓が二つあるため、どうやら、二間続きの造りとなっているらしい。
手前の部屋――カトリナたちが立っていた扉のある部屋は重厚なカーテンが掛かっており、その中を窺い知ることはできない。
その前を通り過ぎて、続きの部屋の窓辺に立つ。こちらも同じくカーテンが閉じられているが、細く開いた隙間からどうにか中の様子が垣間見えた。
灯りの乏しい室内、部屋の中央に寝台が置かれているのが見える。ベッドサイドの灯りを頼りに懸命に目をこらすと、寝台の上に全裸で転がる男の姿があった。
あれは、見間違いでなければ─―
(ああ、もう、本っ当に、最低……!)
救いは、部屋の中にソフィアの姿がないことか。最悪、薬を盛られて同じ寝台の上という可能性もあった。どうにかそれは避けられたようだが、では、そのソフィアはどこにいるのだろう。隣の部屋にいるのだとしたら、早々に連れ出さねばならない。
一つ手前、相変わらず中の様子の窺えない窓へ戻り、思案する。バルコニーの窓には内側から鍵が掛けられており、無理に壊せば魔術の警報が鳴るだろう。
仕方なしに、こちらの部屋にはソフィアしかいないという可能性に賭け、窓ガラスを叩いて中に呼びかけた。
「……ソフィア様、いらっしゃいますか? いらっしゃるのなら、ここを開けてください」
呼びかけに返事はない。
警戒されているのか、それとも、彼女はこの場にいないのか。
周囲を警戒しつつ二度、三度と繰り返すと、不意に窓の向こうのカーテンが揺れ、光が漏れた。
「え? クリスティーナさん?」
ガラス越しのくぐもった声。カーテンの間から、驚きに目を見開いたソフィアが顔を覗かせる。その緊張感のない姿に、「まだ猶予はありそうだ」と安堵し、肩の力が抜けた。
潜めた声のまま、ソフィアに迫る危機を伝える。
「ソフィア様、すぐにこの部屋から出てください。隣の部屋にイェルク様がいらっしゃるのはご存知ですか? このままでは、お二人の関係が醜聞となってしまいます」
「ちょ、ちょっと待って、いきなりなんの話? 私はアレクシスを待ってるんだよ? イェルクはアレクシスと一緒に来るはずだから……」
状況を理解しない彼女に苛立つ。
時間がない。もう、いつテレーゼが乗り込んできてもおかしくないというのに。
感情を押し殺し、努めて冷静に口を開いた。
「では、私を部屋の中に入れてください。それで、密室に男女二人きりという状況は避けられます」
だが、こちらの言葉を信用できないのだろう。ソフィアは窓を開けることはせず、隣の部屋に視線を向けた。
「あの、あっちの部屋にイェルクがいる、んだよね? だったら、私、確かめてくる」
「止めてくださいっ!」
ただでさえ危うい状況。二人で寝室にいるタイミングで踏み込まれたら、言い逃れのしようもない。
「イェルク様は服を着ていらっしゃいません」
「えっ!?」
「彼に何があったのかは不明ですが、決して近づかないでください。それよりも、早くここを……」
「開けてください」という前に、ソフィアは後ずさり、窓際から離れた。
「じゃ、じゃあ、私、外に出ますね。外で待っていればいいでしょう?」
「待って!」
部屋の奥、カトリナたちのいる扉に駆け寄ったソフィアが、ドアノブを掴む。けれど、掴んだドアノブが回らないのか、彼女は焦ったようにノブを押したり引いたりし始めた。
冷静さを欠いた行動に「マズい」と思うが、大声で呼び戻すわけにもいかない。こちらを振り返らないソフィアに歯噛みしていると、不意に彼女がよろめいた。
一歩、後退した彼女の目の前で扉が開く。
と同時に、こちらまで届く悲鳴が響いた。
「ソフィア様! こんなところで、一体、何をなさっているのっ!?」
扉を開け放ち、ズカズカと踏み込んできたのは、案の定、テレーゼだ。取り巻きを引き連れた彼女に対し、ソフィアは戸惑うばかりで反応が鈍い。
その間にも、テレーゼの一方的な糾弾が続く。
「アレクシス殿下のご婚約者ともあろうお方が、なんておぞましい真似をなさったの! 信じられませんわ、殿下を裏切るだなんて!」
「ま、待って。ちょっと待ってください。一体、なんの話をしているんですか? 私は何も……」
「まぁっ!? この期に及んで言い逃れをなさるおつもり? 殿下がお可哀想ですわ。こんな裏切りに遭われるなんてっ……!」
辺りを憚らぬテレーゼの叫び声に、取り巻きの追従が続く。ソフィアの声をかき消すそれに、彼女の抵抗は全く意味をなしていない。
「ねぇ、ソフィア様。私たち、知っておりますのよ。この部屋で、ソフィア様とイェルク様が何をなされていたのか」
「イェルク? どうしてイェルクなの? ……本当に、彼がここにいるの?」
テレーゼの勢いに押され、ソフィアがチラリと背後、隣室に繋がる扉を振り返る。その顔に焦りが見えた。
(ああ、もう、どんどん面倒なことになる……!)
何度目か分からない愚痴を胸中で吐き捨て、覗いていた窓から離れる。隣の部屋の窓へ移動した。
テレーゼのあの騒ぎようは、まず間違いなく、この場に人を集めようとしている。ソフィアの不貞を証言する第三者を作ろうとしているのだ。おそらくもう、第三者の目撃は避けられない。
だとしたら、いっそのこと――
意識を集中する。フゥと小さく息を吐き出し、目の前の窓ガラスに拳を当てた。身体強化を掛けているとは言え、油断すれば怪我を負う。
少しだけ腕を引いて、ガラスに拳を突き出した。破壊音と共に、けたたましい音量の警報が鳴り響く。
(急がないと……!)
引かれたままのカーテンをかき分ける。割れたガラスを踏み越え、部屋の中に滑り込んだ。
寝台の上には、変わらぬ男の姿。この騒音の中でも目を覚ます様子はない。
周囲を見回し、使えそうなものを探す。目についたのは、窓の側に置かれた木製のスタンドだ。その上に、大振りの花瓶が置かれている。
迷ったのは一瞬。
スタンドに駆け寄り、窓の横に移動する。花瓶を抱え下ろし、床の上に転がした。側面に拳を当てて圧を加えると、陶器の表面にヒビが入り、次の瞬間、花瓶が砕け散る。
(ハァ……、細工はなんとか間に合った。後は上手く言い逃れできれば……)
破片に触れぬよう身を起こすのと同時に、警報音が止まる。どこかで音が切られたらしい。警備の騎士が駆け付けるのも時間の問題だろう。
しかし、騎士よりも先に、部屋の扉を勢い良く開け放つ者がいた。魔道具の灯りがともり、部屋が明るくなる。
「ほぉら、やっぱり! イェルク様がいらっしゃるじゃない! まぁ、なんてあられもないお姿! ソフィア様の品性を疑いますわ!」
嬉々とした大声で部屋に押し入ってきたテレーゼが、イェルクの姿に満足そうに笑う。背後にいるソフィアを振り返ろうとした彼女の視線が、こちらを向いた。
「……え?」
信じられないと言わんばかりの表情。口をポカンと開けたテレーゼに、困ったように笑う。
「テレーゼ様、どうぞお静かに願います。ご覧の通り、イェルク様はお加減が悪くていらっしゃいます。あまり、大きな声で騒ぎ立てるのは……」
「な、何故、貴女がここにいるの! クリスティーナ・ウィンクラー!」
テレーゼの大声に釣られるように、彼女の背後から取り巻きとソフィアが部屋に入ってくる。こちらを見て、皆が一様に驚きの表情を浮かべた。
「……『何故』と聞かれましても、私はソフィア様とご一緒に、イェルク様の介抱をしていただけとしか……」
「嘘よ、嘘! そんなはずないわ! 貴女がここにいるはずないじゃない!」
憤怒の表情で喚き立てる彼女に、「そう言われても」と肩を竦める。
ますますいきり立ったテレーゼが何かを叫ぼうとした時、彼女の背後から、令嬢たちをかき分けるようにして、騎士たちが雪崩れ込んできた。
「ご令嬢方、失礼する。警報を受けて来たのだが、……どういう状況か、ご説明願えますか?」
リーダーらしき壮年の騎士の視線が、部屋の中を油断なく見回す。寝台の上の裸の男、それから、割れた窓ガラスという惨状に片眉を上げた彼は、己とテレーゼの交互に視線を向けた。
一歩前に出たテレーゼが、胸の前で両手を組んで騎士を見上げる。
「騎士様! どうかこの場を検めてください! これは王家への反逆です! 王太子殿下のご婚約者であるソフィア様が、あちらの……」
そう言って、テレーゼは寝台の上のイェルクを指差す。
「ミューレン伯爵令息のイェルク様と不義密通を! 王太子殿下を裏切るなど、到底、許されるものではありません! どうか、お二人を捕らえてくださいませ!」
彼女の主張に、騎士が「それは……」と困惑の声を上げる。
当然の反応に、思わず彼に同情の念を抱いた。
仮に二人の不貞が真実であろうと、犯罪ではないのだ。騎士団に彼らを捕縛する権利はない。
騎士の困り切った顔がこちらを向いた。もの言いたげな彼を無視して、その背後にいるソフィアに視線を向ける。
本来であれば、この場を収めるのは彼女の役目。この先、こんなことは何度だって起こる。それを、誰かの後ろでやり過ごすだけでは、王太子妃にはなり得ない。
しかし、唇を噛んで下を向く彼女に、顔を上げる様子はなかった。
小さく息を吐いて、私は騎士に視線を戻す。
三文芝居の幕が上がる――
「……騎士様、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。テレーゼ様の仰っていることは、ちょっとした勘違いなのです。騎士団の手を煩わせるようなことではありません」
その言葉に、横からテレーゼが噛みついた。
「クリスティーナ! なんなの貴女、さっきから! 貴女には関係ないでしょう! さっさとここから出ていきなさいよ!」
「いいえ。この場の状況を正しくお伝えするまで、出ていくわけにはまいりません。……少しでも、妙な誤解があっては困りますから」
「カトリナ!」
淑女科の面々――テレーゼを中心とする令嬢たちに囲まれていたソフィアが、ホッとした顔を見せる。
彼女の隣にアレクシス殿下の姿がないのは、テレーゼたちに引き離されたのか、あるいは、ソフィアが勝手に離れてしまったのか。
どちらにしろ、迂闊としか言いようがない。
(……クリスティーナ様なら、絶対にこんなことはなさらない)
その身が高貴であればあるほど、未婚の令嬢は周囲を固めるもの。悪意ある者を近づけないための「取り巻き」は、決して無意味なものではない。
けれど、そうした関係を嫌うソフィアは、自分以外の同性を遠ざける傾向があった。
一番の問題は、殿下がそれを許してしまうことだが――
「……ソフィア様、アレクシス殿下がお呼びです。ご案内いたしますので、こちらへ」
この場を逃げ出すための口実。それに、「うん!」と元気良く返事をするソフィアの手を引いて、令嬢たちの囲いを抜け出す。
抜け出す直前、正面に立つテレーゼが視界に映った。広げた扇子の下で、唇が愉悦に歪んでいる。虫けらでも見るような彼女の視線を避け、俯きがちにその隣をすり抜けた。
足早にホールを横切り、宿泊棟へ向かう。背後から、ソフィアの声が聞こえた。
「ありがとう、カトリナ! 人混みのせいでアレクシスとはぐれちゃって。すごく助かったわ」
礼の言葉に小さく「いえ」と返す。その後に続く彼女の言葉を聞き流して進む内、不意に強い視線を感じて、背後を振り返る。
(えっ?)
碧い瞳――クリスティーナと目が合った気がして、とっさに下を向く。
ドクドクと心臓が鳴るのを感じつつ、「そんなはずはない」と言い聞かせる。
私は彼女を裏切った。彼女が私を気に掛けるはずがない。
浅ましい期待を持たぬよう、下を向いたままホールを抜け出し、灯りの乏しい宿泊棟へ入った。
薄明りの廊下に、ソフィアのため息が零れ落ちる。
「……それにしても、テレーゼさんたちって意地悪だよね。嫌になっちゃう」
暗がりで漸く気持ちが落ち着き、彼女の愚痴に曖昧に頷いて返した。
「さっきも色々、腹が立つことばっかり言われて。でも、逃げられないし、あんなところで怒れないから、カトリナが来てくれて本当に良かった」
安堵するソフィアに、返す言葉はない。彼女の、微塵も疑心を持たない笑みにも心は凪いでいた。
(もっと不安だったり、罪悪感を覚えたりするかと思ったけれど……)
感情が麻痺しているのか、何の感慨も持たずに、ソフィアを宿泊棟に誘う。
「……奥に、部屋をご用意しています」
「部屋? そこでアレクシスが待ってるの?」
「いえ。殿下のことは、あの場を抜け出すための方便です。ですが、すぐに殿下を呼んでまいります。ソフィア様はテレーゼ様たちに捕まらぬよう、部屋でお待ちください」
諭すと、彼女は「そういうことね」と素直に頷く。
その信頼はどこから来るのか。彼女に友誼を求められた時からの疑問ではあるが、今はもう、その答えも必要ない。
(……本当に、みんな愚かだわ)
人の悪意を疑わない彼女も、彼女を一人にした庇護者たちも。それから、人の精一杯の告発を拒絶した男も、いまだ王太子殿下の婚約者の地位を望む女も。
だけど、最も愚かなのは――
(……今度こそおしまいね。私も、ヘリングの家も)
これから自分が成すことは、ソフィアの王太子妃への道を閉ざすだろう。私が罪から逃れる術はない。
だが、きっとそれでいいのだ。
私は一度、選択を間違えた。
裏切り、逃げた先で得られた現実がこれなら、もう、終わりにしよう。精々、愚か者を道連れにしてみせる。この国の王太子妃に相応しいのは、今も昔も変わらず、あの方しかいないのだから。
ああ、だけど、あの方はどう思うだろうか――?
先ほど、ホールで交差した視線を思い出す。孤立無援の中、変わらず顔を上げ続ける彼の方は、私の行いを認めてくれるだろうか。
(……分からない。以前なら、『絶対に、あの方は喜んでくださる』、そう思えたのに……)
自分の行おうとしていることに、何一つ、自信が持てない。
俯いていると、隣に並んだソフィアに顔を覗き込まれた。
「カトリナ、どうしたの? 気分でも悪い?」
「いえ、大丈夫です。申し訳ありません。ご心配をお掛けして……」
「ううん! 私が勝手に心配しただけ。謝ってもらうようなことじゃないよ」
そう言ってニコニコと笑うソフィアが、「あ、そうだ!」と声を上げる。
「アレクシスを呼びに行く時に、イェルクも一緒に呼んだらどうかな?」
「……イェルク様、ですか?」
その名に、わずかに胸が痛んだ。何も気付かぬ彼女は、嬉々として言葉を続ける。
「聖夜祭ってとっても長いでしょ? 年明けまで続くんだから、ちょっとくらい、四人でおしゃべりしても良いと思わない?」
「いえ、私は……」
反射的に口を衝いた拒絶に、彼女は「どうして?」と首を傾げる。
「カトリナにはいい機会じゃない? 折角だから、イェルクといっぱい話して、仲良くなろうよ」
屈託のない言葉に、イェルクの冷たく見下ろす瞳が蘇る。
「……恐れ多いことです。私は、既にイェルク様に婚約を解消されております」
「うーん。確かにそうなんだけど、でも、前の婚約は政略が前提だったんでしょう?」
彼女が何を言いたいのかが分からず、沈黙を返す。
「えっと、だから、今度はちゃんとイェルクと恋愛して、もう一度、婚約を結び直せばいいんじゃないかなって。二人が結ばれたら私も嬉しいし、応援するよ!」
「それは……、できません」
胸を刺す痛みに耐え、辛うじて言葉を返す。下を向く私に、彼女は「でも」と更に顔を覗き込んだ。
「でも、カトリナはイェルクのこと、まだ好きだよね? 隠しててもバレバレだよ? 目がいつも彼を追ってるんだもん!」
そう言って、揶揄うような笑みを向けられ、彼女を直視できなくなる。その笑顔が歪んで見えた。
――一体、何がおかしいというの……?
自身の恋慕――イェルクへの執着は、それほど滑稽だっただろうか。「目障りだ」と、「視界から消えろ」と言われるほど嫌悪された私が、彼を想うのは――
眩暈がするほどの感情の昂りを覚え、息が上手く吸えなくなる。怒りと羞恥が込み上げたが、すぐに惨めさに取って代わる。
結局、彼にとって私の好意など、一顧だにする価値さえない。彼は別の女性を選んだのだ。
「……ソフィア様、まずはお部屋へ入りませんと。ご案内いたします」
「あ、そっか。そうだよね。イェルクとおしゃべりするのも久しぶりだから、気持ちが焦っちゃった。うん、すごく楽しみ!」
実らなかった想いも、届かなかった勇気ももう要らない。イェルクに背を向けられた時に、想いは全て砕けて消えた。これ以上、痛い思いも辛い思いもしたくない。
押し黙って歩き続け、目的の部屋の前で立ち止まる。
取り出した鍵で部屋を開けると、ソフィアがなんの警戒もせず、足を踏み入れた。その姿に、もう失望することはない。
「ソフィア様、しばらくここでお待ちください。すぐに殿下を呼んでまいります」
「ありがとう。よろしくね」
礼の言葉に頷いて返し、彼女の眼前で扉を閉める。そのままゆっくりと鍵を回し、扉に鍵を掛けた。
(……気付いた、かしら?)
今なら、まだ間に合う。彼女が部屋の内鍵が壊されていることに気付けば。閉じ込められたことに気付いて、「ここから出して」と大騒ぎすれば――
けれど、閉ざされた扉の向こうからはなんの音も聞こえてこない。
安堵と諦め半々のため息が口から零れ落ちる。不意に、背後から肩を叩かれた。
「上手くやったじゃない」
そう言ってこちらに醜悪な笑みを向けるのは、テレーゼの取り巻きの一人。
「テレーゼ様もご満足されるでしょう。これで、貴女も彼女のお傍に侍ることが許されるわ」
そんなことは望んでいない。
黙ったままの私に、取り巻きの伯爵令嬢は片方の口角を釣り上げる。
「良かったわね、落ち目のヘリングも、リッケルト家に拾っていただけて。テレーゼ様は自分に従う者には寛容よ」
なおも応えずにいると、令嬢の顔に険が浮かぶ。
「……いいこと? くれぐれも裏切ろうだなんて思わないで。テレーゼ様は決してお許しにならないわ。リッケルトに逆らえば、貴女一人が全ての罪を被ることになるのよ」
そう言って、令嬢は廊下の先の階段に視線を向ける。
テレーゼが間もなくこちらへやってくるのだろう。先んじて現れた彼女は、私と目の前の扉の見張り役といったところか。
手の内、自身の体温で温くなった金属を私はギュッと握り締めた。
(……やはり、私は変われない。どこまで行っても、私は私のまま……)
理不尽に抗えず、声を上げることもできず─―
ふと、階段付近の暗がりで何かが動いた気がして視線を向ける。
(? 誰か、いるの……?)
凝視しても、暗闇には何も見えない。
張り詰めた神経が見せた幻だったかと、目を閉じた。
もうすぐ、全てが終わる。
その時を待ち、足音一つしない廊下に静かに立ち続けた。
◇ ◇ ◇
(どういうこと? どうしてカトリナがゲルデと……)
暗闇に紛れる碧いドレスの裾を押さえて、階段の端から覗いた光景を反芻し、今の状況を見定める。
カトリナと共にホールを出たソフィアの姿が見当たらず、そのカトリナはテレーゼの取り巻きであるゲルデ・ヘルツベルグと一緒にいる。しかも、二人は宿泊室の前に二人並んで立っていた。まるで、扉を守る門番のように。
(もしかしなくても、最悪な状況、というわけね)
嫌な予感はしたのだ。
夜会場で壁の花となって数刻、暇に厭かせて周囲を観察していたが、気付くと、ソフィアが野放しになっていた。あっさりとテレーゼに捕まった彼女の周囲に味方はおらず、殿下方は何をしているのかと呆れていたところに、カトリナが現れる。
現れたカトリナは颯爽とソフィアを助け出したのだが、その姿には違和感しかなかった。
ここ最近、彼女とソフィアの距離が近しいことには気付いていたが、カトリナの性格的に、ああした場面で矢面に立つことはないだろうと思っていたのだ。
好意的に見れば、「彼女も成長した」、「ソフィアの庇護下で強くなった」、とも考えられるが、カトリナはいまだに淑女科でテレーザたちの執拗な嫌がらせにあっている。
声を上げればいいものを、彼女はそれをせず、常に「察して」もらうだけ。自分から助けを求めることをしないカトリナの窮状を、ソフィアが気付く様子もない。
そんなカトリナが突然、テレーゼに反旗を翻すなどあり得るだろうか。
ソフィアを連れてホールを出ていくカトリナを観察していると、一瞬だけ、彼女と目が合った気がした。が、すぐに視線が逸らされる。
そこに焦りのようなものを感じ、嫌な予感は膨らんだ。
結局、ソフィアの護衛らしき女性騎士がテレーゼの取り巻きの一人に足止めされるのを見て、二人の跡を追うことを決めた。
距離があったため、ホールを出たところで一度完全に二人を見失ったが、今こうして、カトリナを見つけられたのは、運に助けられたと言える。
(問題はこれからどう動くか。殿下に知らせるのが一番だけれど……)
おそらく、ソフィアはあの扉の向こうにいる。
男女の密事のために用意された部屋に、一人きりで閉じ込められるということはないだろう。今すぐにでも飛び込むべきだが、あの二人が扉の前にいる以上、騒ぎになることは避けられない。ソフィアが男と密室にいたという醜聞が広がれば、彼女が殿下の妃となるのは絶望的だ。
(それがどうした。関係ない。……と言ってやりたいところだけれど)
腐っても、ソフィアはハブリスタント。自らの愛する者に幸福をもたらす「花の王家」の末裔。
国と北の辺境の安寧を思えば、彼女が王太子であるアレクシスと結ばれることが最善で、少なくとも、こんなお粗末な罠で馬鹿らしい結末を迎えるなんてあり得ない。
(とにかく、あの扉は開けずに、中の状況を確認しないと)
仮に、今はソフィア一人だとしても、離れた隙に男が入っていく可能性もある。殿下に知らせる暇はない。
「最悪だ」と内心で零しつつ、周囲を見回す。背後の階段を見下ろした際に、大きな窓が視界に映った。
一階と二階の間の踊り場にある大きな腰高窓。
(……やるしかない、か)
足音を立てぬよう踊り場まで階段を駆け下り、窓を開け放つ。
幸いにして、周囲に警護の騎士は見当たらない。
いつもより慎重に身体強化の術を掛け、窓枠に立った。そこから大きく腕を伸ばし、外壁の装飾に張り付く。わずかな装飾、壁の出っ張りを伝って、二階の窓枠へなんとか辿り着いた。
(まったく、なんで私がこんなことを……っ!)
カトリナたちが見張っていた部屋までは、バルコニーを二部屋分、横切らねばならない。いずれの部屋もカーテンが閉じているが、万が一、こんな奇行を見られでもしたら、己の社会的地位は完全に失われる。元より地に落ちた名だが、その比ではない。
ソフィアのいる部屋、その窓辺に到達して、漸く一息をつく。同じバルコニーに繋がる窓が二つあるため、どうやら、二間続きの造りとなっているらしい。
手前の部屋――カトリナたちが立っていた扉のある部屋は重厚なカーテンが掛かっており、その中を窺い知ることはできない。
その前を通り過ぎて、続きの部屋の窓辺に立つ。こちらも同じくカーテンが閉じられているが、細く開いた隙間からどうにか中の様子が垣間見えた。
灯りの乏しい室内、部屋の中央に寝台が置かれているのが見える。ベッドサイドの灯りを頼りに懸命に目をこらすと、寝台の上に全裸で転がる男の姿があった。
あれは、見間違いでなければ─―
(ああ、もう、本っ当に、最低……!)
救いは、部屋の中にソフィアの姿がないことか。最悪、薬を盛られて同じ寝台の上という可能性もあった。どうにかそれは避けられたようだが、では、そのソフィアはどこにいるのだろう。隣の部屋にいるのだとしたら、早々に連れ出さねばならない。
一つ手前、相変わらず中の様子の窺えない窓へ戻り、思案する。バルコニーの窓には内側から鍵が掛けられており、無理に壊せば魔術の警報が鳴るだろう。
仕方なしに、こちらの部屋にはソフィアしかいないという可能性に賭け、窓ガラスを叩いて中に呼びかけた。
「……ソフィア様、いらっしゃいますか? いらっしゃるのなら、ここを開けてください」
呼びかけに返事はない。
警戒されているのか、それとも、彼女はこの場にいないのか。
周囲を警戒しつつ二度、三度と繰り返すと、不意に窓の向こうのカーテンが揺れ、光が漏れた。
「え? クリスティーナさん?」
ガラス越しのくぐもった声。カーテンの間から、驚きに目を見開いたソフィアが顔を覗かせる。その緊張感のない姿に、「まだ猶予はありそうだ」と安堵し、肩の力が抜けた。
潜めた声のまま、ソフィアに迫る危機を伝える。
「ソフィア様、すぐにこの部屋から出てください。隣の部屋にイェルク様がいらっしゃるのはご存知ですか? このままでは、お二人の関係が醜聞となってしまいます」
「ちょ、ちょっと待って、いきなりなんの話? 私はアレクシスを待ってるんだよ? イェルクはアレクシスと一緒に来るはずだから……」
状況を理解しない彼女に苛立つ。
時間がない。もう、いつテレーゼが乗り込んできてもおかしくないというのに。
感情を押し殺し、努めて冷静に口を開いた。
「では、私を部屋の中に入れてください。それで、密室に男女二人きりという状況は避けられます」
だが、こちらの言葉を信用できないのだろう。ソフィアは窓を開けることはせず、隣の部屋に視線を向けた。
「あの、あっちの部屋にイェルクがいる、んだよね? だったら、私、確かめてくる」
「止めてくださいっ!」
ただでさえ危うい状況。二人で寝室にいるタイミングで踏み込まれたら、言い逃れのしようもない。
「イェルク様は服を着ていらっしゃいません」
「えっ!?」
「彼に何があったのかは不明ですが、決して近づかないでください。それよりも、早くここを……」
「開けてください」という前に、ソフィアは後ずさり、窓際から離れた。
「じゃ、じゃあ、私、外に出ますね。外で待っていればいいでしょう?」
「待って!」
部屋の奥、カトリナたちのいる扉に駆け寄ったソフィアが、ドアノブを掴む。けれど、掴んだドアノブが回らないのか、彼女は焦ったようにノブを押したり引いたりし始めた。
冷静さを欠いた行動に「マズい」と思うが、大声で呼び戻すわけにもいかない。こちらを振り返らないソフィアに歯噛みしていると、不意に彼女がよろめいた。
一歩、後退した彼女の目の前で扉が開く。
と同時に、こちらまで届く悲鳴が響いた。
「ソフィア様! こんなところで、一体、何をなさっているのっ!?」
扉を開け放ち、ズカズカと踏み込んできたのは、案の定、テレーゼだ。取り巻きを引き連れた彼女に対し、ソフィアは戸惑うばかりで反応が鈍い。
その間にも、テレーゼの一方的な糾弾が続く。
「アレクシス殿下のご婚約者ともあろうお方が、なんておぞましい真似をなさったの! 信じられませんわ、殿下を裏切るだなんて!」
「ま、待って。ちょっと待ってください。一体、なんの話をしているんですか? 私は何も……」
「まぁっ!? この期に及んで言い逃れをなさるおつもり? 殿下がお可哀想ですわ。こんな裏切りに遭われるなんてっ……!」
辺りを憚らぬテレーゼの叫び声に、取り巻きの追従が続く。ソフィアの声をかき消すそれに、彼女の抵抗は全く意味をなしていない。
「ねぇ、ソフィア様。私たち、知っておりますのよ。この部屋で、ソフィア様とイェルク様が何をなされていたのか」
「イェルク? どうしてイェルクなの? ……本当に、彼がここにいるの?」
テレーゼの勢いに押され、ソフィアがチラリと背後、隣室に繋がる扉を振り返る。その顔に焦りが見えた。
(ああ、もう、どんどん面倒なことになる……!)
何度目か分からない愚痴を胸中で吐き捨て、覗いていた窓から離れる。隣の部屋の窓へ移動した。
テレーゼのあの騒ぎようは、まず間違いなく、この場に人を集めようとしている。ソフィアの不貞を証言する第三者を作ろうとしているのだ。おそらくもう、第三者の目撃は避けられない。
だとしたら、いっそのこと――
意識を集中する。フゥと小さく息を吐き出し、目の前の窓ガラスに拳を当てた。身体強化を掛けているとは言え、油断すれば怪我を負う。
少しだけ腕を引いて、ガラスに拳を突き出した。破壊音と共に、けたたましい音量の警報が鳴り響く。
(急がないと……!)
引かれたままのカーテンをかき分ける。割れたガラスを踏み越え、部屋の中に滑り込んだ。
寝台の上には、変わらぬ男の姿。この騒音の中でも目を覚ます様子はない。
周囲を見回し、使えそうなものを探す。目についたのは、窓の側に置かれた木製のスタンドだ。その上に、大振りの花瓶が置かれている。
迷ったのは一瞬。
スタンドに駆け寄り、窓の横に移動する。花瓶を抱え下ろし、床の上に転がした。側面に拳を当てて圧を加えると、陶器の表面にヒビが入り、次の瞬間、花瓶が砕け散る。
(ハァ……、細工はなんとか間に合った。後は上手く言い逃れできれば……)
破片に触れぬよう身を起こすのと同時に、警報音が止まる。どこかで音が切られたらしい。警備の騎士が駆け付けるのも時間の問題だろう。
しかし、騎士よりも先に、部屋の扉を勢い良く開け放つ者がいた。魔道具の灯りがともり、部屋が明るくなる。
「ほぉら、やっぱり! イェルク様がいらっしゃるじゃない! まぁ、なんてあられもないお姿! ソフィア様の品性を疑いますわ!」
嬉々とした大声で部屋に押し入ってきたテレーゼが、イェルクの姿に満足そうに笑う。背後にいるソフィアを振り返ろうとした彼女の視線が、こちらを向いた。
「……え?」
信じられないと言わんばかりの表情。口をポカンと開けたテレーゼに、困ったように笑う。
「テレーゼ様、どうぞお静かに願います。ご覧の通り、イェルク様はお加減が悪くていらっしゃいます。あまり、大きな声で騒ぎ立てるのは……」
「な、何故、貴女がここにいるの! クリスティーナ・ウィンクラー!」
テレーゼの大声に釣られるように、彼女の背後から取り巻きとソフィアが部屋に入ってくる。こちらを見て、皆が一様に驚きの表情を浮かべた。
「……『何故』と聞かれましても、私はソフィア様とご一緒に、イェルク様の介抱をしていただけとしか……」
「嘘よ、嘘! そんなはずないわ! 貴女がここにいるはずないじゃない!」
憤怒の表情で喚き立てる彼女に、「そう言われても」と肩を竦める。
ますますいきり立ったテレーゼが何かを叫ぼうとした時、彼女の背後から、令嬢たちをかき分けるようにして、騎士たちが雪崩れ込んできた。
「ご令嬢方、失礼する。警報を受けて来たのだが、……どういう状況か、ご説明願えますか?」
リーダーらしき壮年の騎士の視線が、部屋の中を油断なく見回す。寝台の上の裸の男、それから、割れた窓ガラスという惨状に片眉を上げた彼は、己とテレーゼの交互に視線を向けた。
一歩前に出たテレーゼが、胸の前で両手を組んで騎士を見上げる。
「騎士様! どうかこの場を検めてください! これは王家への反逆です! 王太子殿下のご婚約者であるソフィア様が、あちらの……」
そう言って、テレーゼは寝台の上のイェルクを指差す。
「ミューレン伯爵令息のイェルク様と不義密通を! 王太子殿下を裏切るなど、到底、許されるものではありません! どうか、お二人を捕らえてくださいませ!」
彼女の主張に、騎士が「それは……」と困惑の声を上げる。
当然の反応に、思わず彼に同情の念を抱いた。
仮に二人の不貞が真実であろうと、犯罪ではないのだ。騎士団に彼らを捕縛する権利はない。
騎士の困り切った顔がこちらを向いた。もの言いたげな彼を無視して、その背後にいるソフィアに視線を向ける。
本来であれば、この場を収めるのは彼女の役目。この先、こんなことは何度だって起こる。それを、誰かの後ろでやり過ごすだけでは、王太子妃にはなり得ない。
しかし、唇を噛んで下を向く彼女に、顔を上げる様子はなかった。
小さく息を吐いて、私は騎士に視線を戻す。
三文芝居の幕が上がる――
「……騎士様、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。テレーゼ様の仰っていることは、ちょっとした勘違いなのです。騎士団の手を煩わせるようなことではありません」
その言葉に、横からテレーゼが噛みついた。
「クリスティーナ! なんなの貴女、さっきから! 貴女には関係ないでしょう! さっさとここから出ていきなさいよ!」
「いいえ。この場の状況を正しくお伝えするまで、出ていくわけにはまいりません。……少しでも、妙な誤解があっては困りますから」
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