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1巻
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それからわたしたちはお母様たちのもとへ戻り、残りのお茶会の時間を楽しんだのだった。
それにしても、と思う。
テオ様にしてもアル様にしても、わたしは彼らと初対面のはずなのに、いつかどこかで会ったような既視感がある。それは、ふっくらと復活したお母様を見ても思ったことだ。
――この謎が解けるのはもう少し先のこと。四年後、わたしが十歳の春である。
❀
わたしは何事もなく十歳になり、年齢的にようやく多少大人びた言動をしても不自然ではなくなってきた。
「ねえねえ、テオの花壇は今どんな花が咲いてるの? 最近テオんち行ってないからなあ」
わたしが問いかけると、テオは少し動揺したように言う。
「なんだ、テオんちって……今はマリーゴールドとか、き、黄色い花だ」
「……へえ、黄色、ねぇ。レティ、僕の家の花壇も見においでよ。とても綺麗だよ」
「そうなの? って、アルのうちってお城でしょ! 規模が違うから!」
なんだか含みのある顔のアルの言葉に、わたしは思わずつっこみを入れてしまった。
あのお茶会で出会ったふたりとは、こうして軽口を言い合えるような仲になっていた。なんでも、わたしが他の令嬢たちみたいにギラギラした目をしていなかったのが良かったらしい。
あの日の令嬢たちが、やけに煌びやかでソワソワしていた理由が、その時ようやくわかった。
第一王子と公爵家嫡男。どちらも結婚相手として申し分のなさすぎる優良物件だ。
令嬢たちは、きっと親たちから言い含められていることもあったのだと思う。
一方のわたしはというと、両親からは特に何も言われなかった上に、中身はいい大人。いくらふたりが美少年だといっても、七歳相手にギラギラした目を向けていたらやばいと思う。見た目は六歳だったから合法だけど、精神的にはアウトだ。
そしてそんなテオとアルも十一歳になり、さらにイケメンへの階段を順調に上っている。
わたしもお父様とお母様の遺伝子のお陰でそれなりの顔をしていると思うんだけど、どうもふたりといると霞んでしまう気がする。
それもこれも、この天パ気味の薄紫色の髪と、少々つり上がったこの琥珀の瞳のせいだ。それに、ふたりともわたしより睫毛が長い気がする。
ふたりを八つ当たりで睨んでみると、不思議そうな顔をされた。美少年たちはどんな表情でも麗しい。完敗である。
今日は、うちの庭で三人でお茶会をしているところ。
お母様とフリージア様は、屋敷の中のサロンで盛り上がっているに違いない。お母様が健康になってからというもの、頻繁に交流を深めている。
今日は、元々フリージア様とテオだけが来る予定だったのだが、リシャール公爵家の馬車をお母様とともにエントランスで出迎えると、何故かアルも降りてきた。
「僕も来ちゃった~」とニコニコする王子様の登場に、うちの使用人たちは一度ぴしっと固まったけれど、すぐに再起動していた。うちのみんなは優秀だ。
アルが突然やってくるのは、今に始まったことではない。だから、ゲリラ的にやってくる王子様の訪問に慣れてきたのかもしれない。アルはテオの家にもよく行くらしいから、きっとリシャール家の使用人の皆さんも鍛えられていることだろう。
「お嬢様、お菓子をお持ちしました」
「わあ、今日のお菓子も美味しそうだね。侯爵家の料理人は優秀だなぁ~」
サラがワゴンで焼き立てのマドレーヌを運んできてくれた。それを見て目を輝かせるのは、その件の王子様だ。
「……城にだって一流の料理人がいるんだから、作ってもらえばいいだろう」
むっつりとした顔で、どこか不機嫌そうなのはテオ。
わたしは場の空気を変えるように、少し大きめの声を出す。
「まあまあ、そんな意地悪言わなくてもいいじゃん! みんなで食べると美味しいし。はいテオ、食べて食べてー」
「むぐっ」
「アルもね!」
「わっ」
とりあえずふたりの口にマドレーヌを突っ込んでおいた。お腹が空くと、イライラするもんね。
遠巻きに見ているアルの護衛が驚いた顔をしていたけれど、知らんぷりをした。
わたしもマドレーヌを口に運ぶ。バターの香りと優しい甘さが口の中いっぱいに広がり、その美味しさについつい笑顔になる。
わたしがお菓子を満喫している横で、ふたりもむぐむぐと無言でマドレーヌを食べ切り、紅茶を飲んだ。
ひと息ついたところで、今日の本題に入ることにする。
「――ふたりって、婚約者とか作らないの?」
わたしが言うと、ふたりとも紅茶を噴き出しかけて、ケホケホとむせている。聞いたタイミングが悪かったようで、随分驚かせてしまった。
「珍しいね、レティがそういうことを話題にするの」
いち早く復活したアルが、王子様らしく優雅な所作でティーカップをソーサーの上に戻す。
確かに、わたしたちは花の話や食べ物の話、最近あった面白い話など、たわいない話をして過ごすことが多い。
(……ちょっと待った。わたしの中身、ほんとに大人なの? 外見に引っ張られて、実は精神年齢が下がってるんじゃない?)
ふと自分の精神年齢に不安を覚えながら、女子会で課せられたミッションをふたりに話すことにした。
「こないだ女子会……じゃなくて、ご令嬢たちが集まったお茶会でふたりの話題になって、聞いてきてって言われたから」
どんな世界でも、女子のネットワークによる探り合いというものはあるようだ。
わたしの話を聞いたアルとテオは、ふたりで顔を見合わせた。テオに至ってはすごく深いため息をついている。
「……そう言うレティはどうなんだ。そっちこそ、話があがっててもおかしくないだろう」
テオがそう言うのもわかる。貴族令嬢にとって婚姻は家同士を繋げるという重大な役割を持っているため、この年齢で婚約者がいることは珍しくない。
だからこそ、わたしはこのふたりについて探りを入れさせられているのだ。
「わたしはお父さまみたいな人と結婚する予定だから、まだいいの。ふたりと違って家の後継者でもないから、焦らなくても大丈夫!」
わたしはなんだか深刻そうな顔のテオとどこか貼りつけたような笑みを浮かべるアルに、はっきりと言い切る。
お母様が元気になったこともあり、三年前には可愛い可愛い弟も生まれている。それに、ロートネル侯爵家は元々貴族としての地位も高い。つまり、わたしが頑張らなくても家は安泰なのだ。
そうそう、わたしがふたりに言ったのと同じことをお父様に言ったら、『うちの可愛い天使は、私の目の黒いうちは婚約も結婚もさせない!』って息巻いて、お母様に叱られていた。
実際は、前世のわたしが十歳そこらの子を相手に婚約することに抵抗があったから、言い訳にお父様を使わせてもらったのだけれど。
お父様のあの喜びようを見てたら、口が裂けても真実は言えない。
ただ、結婚願望がないわけではないから、もう少しお年頃になってから真面目に考えようと思う。
「……じゃあ僕たちもまだいいかな。ね、テオ」
「ああ。この話はおしまいだ」
アルとテオは、そう言って頷き合う。
「ええ⁉ ふたりに婚約者がいないと、世の婚約事情に歪みが生じちゃうじゃない!」
ふたりが婚約者を作らなかったら、この国の令嬢たちは皆その座を狙って、なかなか別の人と婚約できなくなってしまう。そうなると、わたしたちの同世代は婚約者がいない貴族の子息と息女で溢れてしまうだろう。
「なんだそれ……」
「テオ、反応したら負けだよ」
呆れたようにため息をつくテオの横で、アルはやれやれと首を振る。
結局何も聞き出せなかったため、女子会への報告はなしということになる。きっと彼女たちをがっかりさせてしまうことだろう。
それからひととおりお茶を楽しんだあと、アルは執務があると言って、護衛とともにお城へと戻っていった。
普段は優しくて柔和な普通の男の子って感じだけど、こういう時はやっぱり王子様なんだなあとしみじみ思う。
こんなに気軽に話してたら、わたし、そのうち不敬罪でしょっぴかれるんじゃないかな。
ふたりになったので、テオとわたしはお母様たちのおしゃべりが終わるまで、庭園をのんびり歩くことにした。
「さっきの話は、本当か?」
ふと歩みを止めてそう問うテオは、真っ直ぐにわたしを見ている。
「さっき……?」
「侯爵みたいな人と結婚するってやつだ」
あの発言の全部が嘘なわけではない。お父様みたいに仕事をビシッとできて、家庭も大事にする人は素敵だと思うし。
「うん。お父さまがわたしの理想だよ」
「そうか……うん、わかった」
わたしが答えると、テオは神妙な顔をして頷いたのだった。
二 乙女ゲームの記憶
前回のお茶会から、数か月が経った。
あれからテオとアルは勉強やら何やら忙しいらしく、珍しく会わない日が続いている。
少し寂しくもあったが、今日という特別な日を迎えるために、わたしも忙しくしていたからおあいこだ。
今日はとてもおめでたい日。侍女のサラが、結婚するのだ。
「サラ、おめでとう!」
そう言いながら部屋に入ると、花嫁姿の彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。
「っ、お嬢様あぁぁぁ」
純白のウエディングドレスに身を包んだサラは、いつもより何百倍も美しい。
ウエディングドレスというものは、花嫁さんの魅力を最大限に引き出す素晴らしいものだ。目が覚めるような白と、そこにちりばめられた豪奢なレースやドレープが、神々しさに拍車をかけている。
「サラ、泣きすぎよ? せっかくの綺麗なお化粧がとれてしまうわ。とっても素敵なお嫁さんなのだから、そのまま旦那様のところに行ってあげないと」
わたしの言葉を聞いて、サラは一層涙を流す。
「ううっ……あの、小さかった、お、お嬢様がこんなに立派にご成長なさったと思うと……っ!」
「いやそれ、わたしが結婚する時に言う台詞じゃない? 今日の主役は貴女なんだから、ほら、化粧を直したら行きましょう!」
「はいぃっ」
まだえぐえぐと泣き続けそうなサラを叱咤し、他のメイドにも手伝ってもらって支度をし直す。
やはり目の周りのお化粧が多少よれてしまったらしく、先ほど化粧を担当したメイドにお小言を言われている。
こうして泣いているサラを見るのは、わたしが三歳の時以来だ。
あれから七年が経ち、二十二歳となった彼女はすっかりいい大人だというのに、全くもう。
残りの準備はうちの精鋭の使用人たちに任せることにして、わたしは部屋を出る。屋敷のエントランスに向かうと、見知った人がそこにいた。
「テオ! おはよう、早いのね」
「ああ。少し用事があったから」
サラの結婚式は、侯爵家の庭園で執り行う予定だ。
サラのお相手はうちの料理人のキースだ。今までたくさんお世話になった彼女たちに恩返しがしたくて、わたしが企画した。
なんせ前世のわたしは、友人の色んな結婚式に呼ばれまくったお陰で、悲しいかな花嫁の実践はしていなくとも、結婚式のイメージだけは豊富なのだ。
元々は町の教会で宣誓をするだけの予定だったらしく、サラは最初は遠慮していたけど、わたしの熱意に負けて最後は納得してくれた。
参列者はうちの家族と使用人、それと話を聞きつけたフリージア様が、テオも連れて一緒に来ることになっていた。
だが、参列者が集まる時間にはまだ随分と早い。フリージア様も来ていないようだし、先にテオだけ来たみたいだ。用事って、なんだろう。
わたしが首を傾げていると、テオがゆっくり口を開く。
「……レティ。今から少し、時間はあるか?」
「大丈夫。うちの完璧な使用人たちにあとは任せてるから」
わたしが答えると、テオはほっとしたような顔をする。
「良かった。ちょっと一緒に来てほしい」
「うん、いいよ」
そうしてわたしはテオに誘われるがままに、結婚式の会場とは別の場所に向かうことになった。
勝手知ったるうちの庭。それなのに、テオのほうが淀みなくすたすたと歩いていく。わたしはその背中を追いかけた。
なんだか最初に会った時みたいだと思っているうちに、小さな噴水とベンチがあるスペースに着いた。
テオはそこでようやく足を止めて、わたしにそのベンチに座るよう促す。ご丁寧にベンチの上にハンカチを置いて、ワンピースドレスが汚れないように配慮してくれた。小さな紳士様である。
「用事ってなあに?」
テオにそう問いかけると、わたしの隣に腰掛けたテオは、何やら上着の内ポケットをごそごそと探った。そのあと、何かを握りしめて、その拳をわたしの前へと持ってくる。
「これを……渡そうと思って」
開かれた掌の上に載っていたのは、青い小花をモチーフにした可愛らしい髪飾りだった。あの日、リシャール公爵家で見た花のようなデザインだ。
「え? わたしに?」
「ああ」
「ありがとう! なんのお祝いかわからないけど、かわいい。早速つけてみるよ。サラ……は結婚式か」
ついいつもの癖でサラに頼みそうになったけど、彼女は今日の主役だった。他のメイドにでも頼んでみよう。
そう思っていると、テオが開きっぱなしだった手をずいと突き出してくる。
「貸してみろ」
「え、テオにできるの?」
「……少なくとも、レティよりはできる」
有無を言わせない雰囲気のテオに、大人しく髪飾りを手渡すと、わたしは彼に後頭部を向けた。
幸い、今日の髪型は白いリボンでハーフアップにしているだけだから、他の髪飾りでごちゃごちゃすることはない。
慣れない手つきで髪の毛を触られる感触に、少しもぞもぞしてくすぐったかったけれど、無事につけ終わったようだ。
「ね、似合ってる? 自分で見えないのが残念だなあ。あとで見てみようっと」
テオの手が離れたタイミングを見計らって、振り向くと、耳まで真っ赤にした美少年が照れくさそうにはにかんでいた。
「似合ってる、レティ」
「あ……ありがと」
その表情を見て、なんだかこっちまで照れてしまう。
どうして急にプレゼントをくれたんだろう。友人歴四年の付き合いではあるけど、テオから花やお菓子以外のものをもらうのは初めてだ。
きょとんとするわたしに、テオは何やらもごもごと小さな声で話す。
「今は、ここまでにしておく。あとでアルに文句言われそうだしな」
「え、今日もアル来るの? 一応、サラの結婚式の話はしてたけど……」
まさか侯爵家の一使用人の結婚式に、この国の王子が参列するなんて誰が想像するのだろう。
「あいつのことだから来るだろ」
……そう思っていたが、テオに断言されると確実にそんな気がしてきた。絶対に来そうだ。
そして、サラたちを慄かせるに違いない。
「そろそろ戻るか」
テオに言われて、わたしはこくりと頷く。
「うん。へへ、プレゼントありがとう」
「……ああ」
お互いにほんのりと顔が赤いけれど、もうそのことには触れずに、わたしたちは結婚式の会場へと戻ることにした。
来た時にはなかった、ほのかな重みを頭に感じながら。
庭園での結婚式は、大成功だった。
サラも、旦那様になるキースも、この上なく輝いている。花嫁であるサラは、頭に淡い黄緑色の花々で作られた花冠を被っていて、まるで花の妖精のようだ。
お母様と手を繋いでいる三歳の弟のグレンも「サラ、きれい」とにこにこ笑っていて、癒される。
(花冠って素敵だなあ。前世でもたまに被っている花嫁さんは見たし)
目では幸せそうなふたりを眺めながら、頭の中では前世でハマったあの乙女ゲームも結婚がテーマだったな、なんてことを思う。
……まあ、そのゲームが間接的にわたしの死因になったわけだけど。
今になってみれば色々と思うところはあるが、あの時夢中になっていたゲームが楽しかったことは間違いない。今でも続きをプレイしたいくらいだ。
(あれ? 結婚がテーマの乙女ゲーム……?)
「レティ、難しい顔をしてどうしたの? とっても素敵な結婚式になったわね」
隣にいるお母様が、わたしに笑顔を向けた。
艶やかな赤髪は健在で、つり目がちではあるのに何故か雰囲気は柔らかい。わたしのつり目はきつい印象だから、羨ましい。
「い、いえ。少し考え事をしていて……」
今、何かとても大事なことを思い出しそうだった。
もう少しでわかりそうなのに、何かが引っかかっていてもどかしい。
そんなわたしの様子に気づかず、お母様は楽しそうに笑っている。
「レティは何色の花冠になるのかしらね。その日が来るのがとても楽しみ。ふふ、その髪飾りもとても素敵だわ」
「花冠の色、ですか……?」
わたしが尋ねると、お母様はあっと手を口に当てる。
「あら、教えていなかったかしら。この国の慣習で、花嫁は旦那様になる人の瞳の色か、髪の色の花冠を被るのよ。サラの場合は、キースの瞳が緑だから黄緑色にしたのね」
その話を聞いて、どくっと心臓が嫌な音を立てた。
初めて聞いた話だ。
なのにわたしは、その設定を知っている。もちろん日本にはそんな風習はないのに、だ。
「やだわ、ローズったら。ヴァイオレットちゃんの花冠は、青いお花に決まってるじゃない。ねぇ、テオ」
「か、母様、何を言って……!」
いつから傍にいたのか、フリージア様がそう言いながら微笑んでいて、隣に立つテオは顔を真っ赤にしている。
「ヴァイオレット・リシャールになっても、とっても素敵だわ。わたくしはいつでも大歓迎よ!」
(ヴァイオレット……リシャール……?)
フリージア様の言葉を心の中で復唱すると、身体に稲妻が走ったかのような衝撃を受けた。
もう一度心臓が軋み、背中にひんやりと嫌な汗が伝う。頭痛と目眩で、どうにかなりそうだ。
「レティ? どうしたんだ?」
お母様を見ると、その鮮烈な赤髪が目に飛び込んでくる。
無言のわたしを心配そうに見ているのは、テオだ。
テオフィル・リシャール。
公爵家の嫡男で、青い瞳で、わたしの幼馴染――
頭の中に浮かぶたくさんの情報と映像で、本格的に気分が悪くなったわたしは、みんなに心配されながらもなんとか自室に戻った。
そして最低限の身支度をして、ベッドに寝転んで考え事をしているうちに、そのまま眠ってしまったのだった。
◆◆
公爵家の女主人は、真夜中に物音を聞きつけて、夜着のまま玄関にやってきた。
『テオ様っ、どうして家に帰ってきてくださらないのですか!』
薄紫色の長い髪を振り乱し、般若のような顔で女は夫に詰め寄る。
眼は血走っていて、顔は青白い。おそらく夫の帰りをずっと待っていたのだろう。
そしてそれは今日だけのことではない。
『仕事だと言っている』
そんな彼女に、夫は淡々と告げた。
『ですが……毎日はおかしいですわ! どうせあの女のところに行っているのでしょう!』
『君には仕事のことはわからないだろう。私はもう寝るから、君も早く寝たらどうだ』
『テオ様!』
『……私と結婚したいという君の望みは、叶えただろう。これ以上干渉される筋合いはない』
甲高い声で怒鳴りつける女に対して、『テオ様』と呼ばれた茶髪の男――テオフィル公爵は、全く表情を変えずにそう言い放つ。そして面倒くさそうに女の手を振りほどいて、すたすたと立ち去ってしまった。
『どうして……どうしてよ! 子どもだって生まれたのに、あの方はどうしてわたしを見てくださらないの……!』
『……おかあさま?』
玄関口で取り乱す女のもとに、赤い髪の幼い女の子が近づいていく。寝ぼけ眼の少女に気づいた女は、彼女の肩を強く掴んだ。
『いいこと、バーベナ。貴女にかかっているのよ、貴女が頑張れば、テオ様は必ずわたしたちを見てくださるわ。あの女からお父様を取り戻すのよ……!』
もはや怨念のような母親の言葉に、少女はこくりと頷く。生まれてからずっと聞かされて、もはや刷り込みのようだ。
『ふふっ、ふふふふっ、テオ様、愛していますわ……!』
女は口元を歪めて笑う。静かな玄関に、その声はひどく響いた。
数年後、『アナベル』という名の少女が公爵家に現れた。
女主人がこの世で最も嫌いな女の娘だ。
かろうじて保たれていた公爵家の均衡は、この日、完全に崩れ去った。
女は、絶望で叫び続ける。
その、女の名は――
◆◆
――そこでぱちりと目が覚めた。心臓がやけに速く打ち、息苦しさすら感じる。
ベッドに寝たまま半身だけを起こすと、背中がしっとりとして気持ちが悪い。どうやらわたしは随分魘されていたらしい。
(ここは、あのゲームの世界? 信じられない……)
息を整えるために、何度か深呼吸をする。あり得ない話だとは思うが、それにしては思い当たることが多すぎる。
それにしても、と思う。
テオ様にしてもアル様にしても、わたしは彼らと初対面のはずなのに、いつかどこかで会ったような既視感がある。それは、ふっくらと復活したお母様を見ても思ったことだ。
――この謎が解けるのはもう少し先のこと。四年後、わたしが十歳の春である。
❀
わたしは何事もなく十歳になり、年齢的にようやく多少大人びた言動をしても不自然ではなくなってきた。
「ねえねえ、テオの花壇は今どんな花が咲いてるの? 最近テオんち行ってないからなあ」
わたしが問いかけると、テオは少し動揺したように言う。
「なんだ、テオんちって……今はマリーゴールドとか、き、黄色い花だ」
「……へえ、黄色、ねぇ。レティ、僕の家の花壇も見においでよ。とても綺麗だよ」
「そうなの? って、アルのうちってお城でしょ! 規模が違うから!」
なんだか含みのある顔のアルの言葉に、わたしは思わずつっこみを入れてしまった。
あのお茶会で出会ったふたりとは、こうして軽口を言い合えるような仲になっていた。なんでも、わたしが他の令嬢たちみたいにギラギラした目をしていなかったのが良かったらしい。
あの日の令嬢たちが、やけに煌びやかでソワソワしていた理由が、その時ようやくわかった。
第一王子と公爵家嫡男。どちらも結婚相手として申し分のなさすぎる優良物件だ。
令嬢たちは、きっと親たちから言い含められていることもあったのだと思う。
一方のわたしはというと、両親からは特に何も言われなかった上に、中身はいい大人。いくらふたりが美少年だといっても、七歳相手にギラギラした目を向けていたらやばいと思う。見た目は六歳だったから合法だけど、精神的にはアウトだ。
そしてそんなテオとアルも十一歳になり、さらにイケメンへの階段を順調に上っている。
わたしもお父様とお母様の遺伝子のお陰でそれなりの顔をしていると思うんだけど、どうもふたりといると霞んでしまう気がする。
それもこれも、この天パ気味の薄紫色の髪と、少々つり上がったこの琥珀の瞳のせいだ。それに、ふたりともわたしより睫毛が長い気がする。
ふたりを八つ当たりで睨んでみると、不思議そうな顔をされた。美少年たちはどんな表情でも麗しい。完敗である。
今日は、うちの庭で三人でお茶会をしているところ。
お母様とフリージア様は、屋敷の中のサロンで盛り上がっているに違いない。お母様が健康になってからというもの、頻繁に交流を深めている。
今日は、元々フリージア様とテオだけが来る予定だったのだが、リシャール公爵家の馬車をお母様とともにエントランスで出迎えると、何故かアルも降りてきた。
「僕も来ちゃった~」とニコニコする王子様の登場に、うちの使用人たちは一度ぴしっと固まったけれど、すぐに再起動していた。うちのみんなは優秀だ。
アルが突然やってくるのは、今に始まったことではない。だから、ゲリラ的にやってくる王子様の訪問に慣れてきたのかもしれない。アルはテオの家にもよく行くらしいから、きっとリシャール家の使用人の皆さんも鍛えられていることだろう。
「お嬢様、お菓子をお持ちしました」
「わあ、今日のお菓子も美味しそうだね。侯爵家の料理人は優秀だなぁ~」
サラがワゴンで焼き立てのマドレーヌを運んできてくれた。それを見て目を輝かせるのは、その件の王子様だ。
「……城にだって一流の料理人がいるんだから、作ってもらえばいいだろう」
むっつりとした顔で、どこか不機嫌そうなのはテオ。
わたしは場の空気を変えるように、少し大きめの声を出す。
「まあまあ、そんな意地悪言わなくてもいいじゃん! みんなで食べると美味しいし。はいテオ、食べて食べてー」
「むぐっ」
「アルもね!」
「わっ」
とりあえずふたりの口にマドレーヌを突っ込んでおいた。お腹が空くと、イライラするもんね。
遠巻きに見ているアルの護衛が驚いた顔をしていたけれど、知らんぷりをした。
わたしもマドレーヌを口に運ぶ。バターの香りと優しい甘さが口の中いっぱいに広がり、その美味しさについつい笑顔になる。
わたしがお菓子を満喫している横で、ふたりもむぐむぐと無言でマドレーヌを食べ切り、紅茶を飲んだ。
ひと息ついたところで、今日の本題に入ることにする。
「――ふたりって、婚約者とか作らないの?」
わたしが言うと、ふたりとも紅茶を噴き出しかけて、ケホケホとむせている。聞いたタイミングが悪かったようで、随分驚かせてしまった。
「珍しいね、レティがそういうことを話題にするの」
いち早く復活したアルが、王子様らしく優雅な所作でティーカップをソーサーの上に戻す。
確かに、わたしたちは花の話や食べ物の話、最近あった面白い話など、たわいない話をして過ごすことが多い。
(……ちょっと待った。わたしの中身、ほんとに大人なの? 外見に引っ張られて、実は精神年齢が下がってるんじゃない?)
ふと自分の精神年齢に不安を覚えながら、女子会で課せられたミッションをふたりに話すことにした。
「こないだ女子会……じゃなくて、ご令嬢たちが集まったお茶会でふたりの話題になって、聞いてきてって言われたから」
どんな世界でも、女子のネットワークによる探り合いというものはあるようだ。
わたしの話を聞いたアルとテオは、ふたりで顔を見合わせた。テオに至ってはすごく深いため息をついている。
「……そう言うレティはどうなんだ。そっちこそ、話があがっててもおかしくないだろう」
テオがそう言うのもわかる。貴族令嬢にとって婚姻は家同士を繋げるという重大な役割を持っているため、この年齢で婚約者がいることは珍しくない。
だからこそ、わたしはこのふたりについて探りを入れさせられているのだ。
「わたしはお父さまみたいな人と結婚する予定だから、まだいいの。ふたりと違って家の後継者でもないから、焦らなくても大丈夫!」
わたしはなんだか深刻そうな顔のテオとどこか貼りつけたような笑みを浮かべるアルに、はっきりと言い切る。
お母様が元気になったこともあり、三年前には可愛い可愛い弟も生まれている。それに、ロートネル侯爵家は元々貴族としての地位も高い。つまり、わたしが頑張らなくても家は安泰なのだ。
そうそう、わたしがふたりに言ったのと同じことをお父様に言ったら、『うちの可愛い天使は、私の目の黒いうちは婚約も結婚もさせない!』って息巻いて、お母様に叱られていた。
実際は、前世のわたしが十歳そこらの子を相手に婚約することに抵抗があったから、言い訳にお父様を使わせてもらったのだけれど。
お父様のあの喜びようを見てたら、口が裂けても真実は言えない。
ただ、結婚願望がないわけではないから、もう少しお年頃になってから真面目に考えようと思う。
「……じゃあ僕たちもまだいいかな。ね、テオ」
「ああ。この話はおしまいだ」
アルとテオは、そう言って頷き合う。
「ええ⁉ ふたりに婚約者がいないと、世の婚約事情に歪みが生じちゃうじゃない!」
ふたりが婚約者を作らなかったら、この国の令嬢たちは皆その座を狙って、なかなか別の人と婚約できなくなってしまう。そうなると、わたしたちの同世代は婚約者がいない貴族の子息と息女で溢れてしまうだろう。
「なんだそれ……」
「テオ、反応したら負けだよ」
呆れたようにため息をつくテオの横で、アルはやれやれと首を振る。
結局何も聞き出せなかったため、女子会への報告はなしということになる。きっと彼女たちをがっかりさせてしまうことだろう。
それからひととおりお茶を楽しんだあと、アルは執務があると言って、護衛とともにお城へと戻っていった。
普段は優しくて柔和な普通の男の子って感じだけど、こういう時はやっぱり王子様なんだなあとしみじみ思う。
こんなに気軽に話してたら、わたし、そのうち不敬罪でしょっぴかれるんじゃないかな。
ふたりになったので、テオとわたしはお母様たちのおしゃべりが終わるまで、庭園をのんびり歩くことにした。
「さっきの話は、本当か?」
ふと歩みを止めてそう問うテオは、真っ直ぐにわたしを見ている。
「さっき……?」
「侯爵みたいな人と結婚するってやつだ」
あの発言の全部が嘘なわけではない。お父様みたいに仕事をビシッとできて、家庭も大事にする人は素敵だと思うし。
「うん。お父さまがわたしの理想だよ」
「そうか……うん、わかった」
わたしが答えると、テオは神妙な顔をして頷いたのだった。
二 乙女ゲームの記憶
前回のお茶会から、数か月が経った。
あれからテオとアルは勉強やら何やら忙しいらしく、珍しく会わない日が続いている。
少し寂しくもあったが、今日という特別な日を迎えるために、わたしも忙しくしていたからおあいこだ。
今日はとてもおめでたい日。侍女のサラが、結婚するのだ。
「サラ、おめでとう!」
そう言いながら部屋に入ると、花嫁姿の彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。
「っ、お嬢様あぁぁぁ」
純白のウエディングドレスに身を包んだサラは、いつもより何百倍も美しい。
ウエディングドレスというものは、花嫁さんの魅力を最大限に引き出す素晴らしいものだ。目が覚めるような白と、そこにちりばめられた豪奢なレースやドレープが、神々しさに拍車をかけている。
「サラ、泣きすぎよ? せっかくの綺麗なお化粧がとれてしまうわ。とっても素敵なお嫁さんなのだから、そのまま旦那様のところに行ってあげないと」
わたしの言葉を聞いて、サラは一層涙を流す。
「ううっ……あの、小さかった、お、お嬢様がこんなに立派にご成長なさったと思うと……っ!」
「いやそれ、わたしが結婚する時に言う台詞じゃない? 今日の主役は貴女なんだから、ほら、化粧を直したら行きましょう!」
「はいぃっ」
まだえぐえぐと泣き続けそうなサラを叱咤し、他のメイドにも手伝ってもらって支度をし直す。
やはり目の周りのお化粧が多少よれてしまったらしく、先ほど化粧を担当したメイドにお小言を言われている。
こうして泣いているサラを見るのは、わたしが三歳の時以来だ。
あれから七年が経ち、二十二歳となった彼女はすっかりいい大人だというのに、全くもう。
残りの準備はうちの精鋭の使用人たちに任せることにして、わたしは部屋を出る。屋敷のエントランスに向かうと、見知った人がそこにいた。
「テオ! おはよう、早いのね」
「ああ。少し用事があったから」
サラの結婚式は、侯爵家の庭園で執り行う予定だ。
サラのお相手はうちの料理人のキースだ。今までたくさんお世話になった彼女たちに恩返しがしたくて、わたしが企画した。
なんせ前世のわたしは、友人の色んな結婚式に呼ばれまくったお陰で、悲しいかな花嫁の実践はしていなくとも、結婚式のイメージだけは豊富なのだ。
元々は町の教会で宣誓をするだけの予定だったらしく、サラは最初は遠慮していたけど、わたしの熱意に負けて最後は納得してくれた。
参列者はうちの家族と使用人、それと話を聞きつけたフリージア様が、テオも連れて一緒に来ることになっていた。
だが、参列者が集まる時間にはまだ随分と早い。フリージア様も来ていないようだし、先にテオだけ来たみたいだ。用事って、なんだろう。
わたしが首を傾げていると、テオがゆっくり口を開く。
「……レティ。今から少し、時間はあるか?」
「大丈夫。うちの完璧な使用人たちにあとは任せてるから」
わたしが答えると、テオはほっとしたような顔をする。
「良かった。ちょっと一緒に来てほしい」
「うん、いいよ」
そうしてわたしはテオに誘われるがままに、結婚式の会場とは別の場所に向かうことになった。
勝手知ったるうちの庭。それなのに、テオのほうが淀みなくすたすたと歩いていく。わたしはその背中を追いかけた。
なんだか最初に会った時みたいだと思っているうちに、小さな噴水とベンチがあるスペースに着いた。
テオはそこでようやく足を止めて、わたしにそのベンチに座るよう促す。ご丁寧にベンチの上にハンカチを置いて、ワンピースドレスが汚れないように配慮してくれた。小さな紳士様である。
「用事ってなあに?」
テオにそう問いかけると、わたしの隣に腰掛けたテオは、何やら上着の内ポケットをごそごそと探った。そのあと、何かを握りしめて、その拳をわたしの前へと持ってくる。
「これを……渡そうと思って」
開かれた掌の上に載っていたのは、青い小花をモチーフにした可愛らしい髪飾りだった。あの日、リシャール公爵家で見た花のようなデザインだ。
「え? わたしに?」
「ああ」
「ありがとう! なんのお祝いかわからないけど、かわいい。早速つけてみるよ。サラ……は結婚式か」
ついいつもの癖でサラに頼みそうになったけど、彼女は今日の主役だった。他のメイドにでも頼んでみよう。
そう思っていると、テオが開きっぱなしだった手をずいと突き出してくる。
「貸してみろ」
「え、テオにできるの?」
「……少なくとも、レティよりはできる」
有無を言わせない雰囲気のテオに、大人しく髪飾りを手渡すと、わたしは彼に後頭部を向けた。
幸い、今日の髪型は白いリボンでハーフアップにしているだけだから、他の髪飾りでごちゃごちゃすることはない。
慣れない手つきで髪の毛を触られる感触に、少しもぞもぞしてくすぐったかったけれど、無事につけ終わったようだ。
「ね、似合ってる? 自分で見えないのが残念だなあ。あとで見てみようっと」
テオの手が離れたタイミングを見計らって、振り向くと、耳まで真っ赤にした美少年が照れくさそうにはにかんでいた。
「似合ってる、レティ」
「あ……ありがと」
その表情を見て、なんだかこっちまで照れてしまう。
どうして急にプレゼントをくれたんだろう。友人歴四年の付き合いではあるけど、テオから花やお菓子以外のものをもらうのは初めてだ。
きょとんとするわたしに、テオは何やらもごもごと小さな声で話す。
「今は、ここまでにしておく。あとでアルに文句言われそうだしな」
「え、今日もアル来るの? 一応、サラの結婚式の話はしてたけど……」
まさか侯爵家の一使用人の結婚式に、この国の王子が参列するなんて誰が想像するのだろう。
「あいつのことだから来るだろ」
……そう思っていたが、テオに断言されると確実にそんな気がしてきた。絶対に来そうだ。
そして、サラたちを慄かせるに違いない。
「そろそろ戻るか」
テオに言われて、わたしはこくりと頷く。
「うん。へへ、プレゼントありがとう」
「……ああ」
お互いにほんのりと顔が赤いけれど、もうそのことには触れずに、わたしたちは結婚式の会場へと戻ることにした。
来た時にはなかった、ほのかな重みを頭に感じながら。
庭園での結婚式は、大成功だった。
サラも、旦那様になるキースも、この上なく輝いている。花嫁であるサラは、頭に淡い黄緑色の花々で作られた花冠を被っていて、まるで花の妖精のようだ。
お母様と手を繋いでいる三歳の弟のグレンも「サラ、きれい」とにこにこ笑っていて、癒される。
(花冠って素敵だなあ。前世でもたまに被っている花嫁さんは見たし)
目では幸せそうなふたりを眺めながら、頭の中では前世でハマったあの乙女ゲームも結婚がテーマだったな、なんてことを思う。
……まあ、そのゲームが間接的にわたしの死因になったわけだけど。
今になってみれば色々と思うところはあるが、あの時夢中になっていたゲームが楽しかったことは間違いない。今でも続きをプレイしたいくらいだ。
(あれ? 結婚がテーマの乙女ゲーム……?)
「レティ、難しい顔をしてどうしたの? とっても素敵な結婚式になったわね」
隣にいるお母様が、わたしに笑顔を向けた。
艶やかな赤髪は健在で、つり目がちではあるのに何故か雰囲気は柔らかい。わたしのつり目はきつい印象だから、羨ましい。
「い、いえ。少し考え事をしていて……」
今、何かとても大事なことを思い出しそうだった。
もう少しでわかりそうなのに、何かが引っかかっていてもどかしい。
そんなわたしの様子に気づかず、お母様は楽しそうに笑っている。
「レティは何色の花冠になるのかしらね。その日が来るのがとても楽しみ。ふふ、その髪飾りもとても素敵だわ」
「花冠の色、ですか……?」
わたしが尋ねると、お母様はあっと手を口に当てる。
「あら、教えていなかったかしら。この国の慣習で、花嫁は旦那様になる人の瞳の色か、髪の色の花冠を被るのよ。サラの場合は、キースの瞳が緑だから黄緑色にしたのね」
その話を聞いて、どくっと心臓が嫌な音を立てた。
初めて聞いた話だ。
なのにわたしは、その設定を知っている。もちろん日本にはそんな風習はないのに、だ。
「やだわ、ローズったら。ヴァイオレットちゃんの花冠は、青いお花に決まってるじゃない。ねぇ、テオ」
「か、母様、何を言って……!」
いつから傍にいたのか、フリージア様がそう言いながら微笑んでいて、隣に立つテオは顔を真っ赤にしている。
「ヴァイオレット・リシャールになっても、とっても素敵だわ。わたくしはいつでも大歓迎よ!」
(ヴァイオレット……リシャール……?)
フリージア様の言葉を心の中で復唱すると、身体に稲妻が走ったかのような衝撃を受けた。
もう一度心臓が軋み、背中にひんやりと嫌な汗が伝う。頭痛と目眩で、どうにかなりそうだ。
「レティ? どうしたんだ?」
お母様を見ると、その鮮烈な赤髪が目に飛び込んでくる。
無言のわたしを心配そうに見ているのは、テオだ。
テオフィル・リシャール。
公爵家の嫡男で、青い瞳で、わたしの幼馴染――
頭の中に浮かぶたくさんの情報と映像で、本格的に気分が悪くなったわたしは、みんなに心配されながらもなんとか自室に戻った。
そして最低限の身支度をして、ベッドに寝転んで考え事をしているうちに、そのまま眠ってしまったのだった。
◆◆
公爵家の女主人は、真夜中に物音を聞きつけて、夜着のまま玄関にやってきた。
『テオ様っ、どうして家に帰ってきてくださらないのですか!』
薄紫色の長い髪を振り乱し、般若のような顔で女は夫に詰め寄る。
眼は血走っていて、顔は青白い。おそらく夫の帰りをずっと待っていたのだろう。
そしてそれは今日だけのことではない。
『仕事だと言っている』
そんな彼女に、夫は淡々と告げた。
『ですが……毎日はおかしいですわ! どうせあの女のところに行っているのでしょう!』
『君には仕事のことはわからないだろう。私はもう寝るから、君も早く寝たらどうだ』
『テオ様!』
『……私と結婚したいという君の望みは、叶えただろう。これ以上干渉される筋合いはない』
甲高い声で怒鳴りつける女に対して、『テオ様』と呼ばれた茶髪の男――テオフィル公爵は、全く表情を変えずにそう言い放つ。そして面倒くさそうに女の手を振りほどいて、すたすたと立ち去ってしまった。
『どうして……どうしてよ! 子どもだって生まれたのに、あの方はどうしてわたしを見てくださらないの……!』
『……おかあさま?』
玄関口で取り乱す女のもとに、赤い髪の幼い女の子が近づいていく。寝ぼけ眼の少女に気づいた女は、彼女の肩を強く掴んだ。
『いいこと、バーベナ。貴女にかかっているのよ、貴女が頑張れば、テオ様は必ずわたしたちを見てくださるわ。あの女からお父様を取り戻すのよ……!』
もはや怨念のような母親の言葉に、少女はこくりと頷く。生まれてからずっと聞かされて、もはや刷り込みのようだ。
『ふふっ、ふふふふっ、テオ様、愛していますわ……!』
女は口元を歪めて笑う。静かな玄関に、その声はひどく響いた。
数年後、『アナベル』という名の少女が公爵家に現れた。
女主人がこの世で最も嫌いな女の娘だ。
かろうじて保たれていた公爵家の均衡は、この日、完全に崩れ去った。
女は、絶望で叫び続ける。
その、女の名は――
◆◆
――そこでぱちりと目が覚めた。心臓がやけに速く打ち、息苦しさすら感じる。
ベッドに寝たまま半身だけを起こすと、背中がしっとりとして気持ちが悪い。どうやらわたしは随分魘されていたらしい。
(ここは、あのゲームの世界? 信じられない……)
息を整えるために、何度か深呼吸をする。あり得ない話だとは思うが、それにしては思い当たることが多すぎる。
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