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アンナ=セラーズ編
その6 過去
しおりを挟む何なのだろう。
どうして私なんかに、そんな柔らかい表情を見せるのだろう。
私はずっとこの人に対して、態度が良かったとは言えないのに。
不思議に思いながらも、でも、嫌な気持ちにはならなかった。
「……俺はもうすぐ国に戻る予定だ。アンナもこれから色々と忙しいだろうし、もう見えることはないと正直思っていた。だから今日は、テオに礼を言わなくてはな」
「……国に、戻られるのですか……?」
「ああ。兄との長い兄弟喧嘩を終わらせに」
晴れ晴れとした笑顔を見せるジークハルト殿下に、私は二の句が継げなくなった。
ジークハルト殿下のお兄さんということは、その人も当然王子だろう。第1王子、もしかしたら王太子なのかも知れない。
その人と兄弟喧嘩をしている、という言葉自体は軽いけれど、内容はとても重く受け止められた。
(第1王子と不仲……ということは、隣国は王位継承権を巡る争いがあるのかしら)
幸いなことにこの国では第1王子のアルベール殿下の即位は確実視されている。もしそうでなければ、侯爵家の長女であり現宰相の娘であるレティ様も、婚約者候補筆頭として権力争いや派閥の諍いに巻き込まれていたことだろう。
そこまで考えて、ふと、あの日の毒入り紅茶のことを思い出した。
確認した限りでは、死に至るほどの強い毒物ではないが、飲んでいたら身体に不調をきたしていたことは確実だ。
数日は寝込むことになっただろう。
それに、場合によっては後遺症が残ったかもしれない。
もしあれが、あの毒が、その争いに絡んでいるものなのだとしたら……彼の身は、今も危険に晒されているということなのではないだろうか。
「……あの、ひとつ聞いてもよろしいでしょうか」
私の問いに、殿下はこくりと頷く。
私は膝の上に置いていた拳にぐっと力を込めて、思いの丈をぶつけることにした。
「どうして殿下には、護衛や側近がいらっしゃらないんでしょうか。レティ様には私がいますし、アルベール殿下にはいつもユーリアン様がついておられます。高貴な身を守るには、警備が手薄なのではないでしょうか」
巡る思考の中で、先日から気になっていたことだ。
隣国の王子という立場でありながら、彼の周りにはそれらしき護衛がいない。
アルベール殿下は、普段は他の貴族たちにも許されていない学園まで近衛騎士を随行しているというのに、こうした場にだってジークハルト殿下は特別な護衛を連れていないのだ。
もちろん見えない所に護衛はいるだろうし、ひとりでは行動していないのだろうけれど、目に見えて護衛がいないのも、逆に危険な気がする。
遠くからでは、緊急時に対応できないことは明白だ。
「……昔は、いたんだ。兄のように慕っていた人が」
「では、そのお方は?」
「今はいない。ある日忽然と失踪したらしい。俺が寝込んでいる間に」
彼の鳶色の瞳がすっと細められる。
その瞳が寂しげに見えたのは、間違いではないと思う。
「その人が俺に毒を盛って、逃げたらしい、と。目覚めた時によく知らない役人がそう言っていた」
「……!」
淡々とした口調ではあるが、その言に迷いはない。
私と彼の間に一瞬の沈黙が落ちて、その間もごとごとと車輪を軋ませながら馬車は進む。
兄のように信頼していた護衛が自らに毒を盛って失踪する。
そんなことがあったら、誰も信用出来なくなるかも知れない。
「でも……その方が本当にやったのかは、分からないではないですか」
視線をあげて、まっすぐとジークハルト殿下を見る。
私の発言に驚いたように目を丸くした後、ふ、と表情を緩めた。
「俺もそう思っている。あの人は、とても優しい人で、貴族の出なのに料理が好きな変わった人でもあった。そんな人が、食べ物を冒涜するようなことをするはずがない。十中八九、あの人は王宮の陰謀に巻き込まれたのだと思っている」
「そう、でしたか……」
その人の事を話す時、彼の雰囲気が変わったのを私は感じていた。それは恨みなどの感情などではなく、慈愛に満ちた、柔らかいもので。
「あの人がその後どうなったのか、幼い俺には知る術がなかった。だから親しい護衛は作らないことにしたんだ。俺のせいで、その人の人生が歪められてしまうのは耐えがたい。それに、誰が味方かあそこに居たら分からないからな」
凛とした表情でジークハルト殿下がそう言ったとき、馬車の振動がぴたりと止んで、目的地へ到着した事を知らせるのだった。
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