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番外編置き場

公爵令嬢の憂鬱(後)

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 それから準備は進められ、数週間後にはアナベルと例の婚約者候補とやらの顔合わせの日となった。
 わざわざこの公爵領まで、顔を見せに来るらしい。

「お嬢様、とても素敵です」
「……ありがとう」

 湯浴みから始まり、朝から着々と飾り立てられたアナベルは少し弱々しい笑みを侍女のレーナに向けた。
 白い繊細なレースがふんだんに用いられたドレスは、可憐な雰囲気のアナベルによく似合っている。

 公爵である父が選んだ相手だ。きっと不足はないのだろう。
 誰でもいいと思っていたのはアナベルも同じだったはずだが、いよいよそれが目前に迫ると逃げ出したい気持ちになる。

 先日の父母との面会ののち、自室に戻ったアナベルはレーナに対してその人物の釣書を見せるように頼んだのだが、生憎それはもうジークハルトの手に渡ってしまって手元にないとの事だった。

 良かったような、悪かったような。
 事前に見てしまったら、きっと先入観を持って臨んでしまっただろうから、これで良かったのかもしれない。
 そう思うしかないアナベルは、今日何回目か分からない溜め息をついて、窓の外を見た。

 ――そこには、雲ひとつない晴天が広がる。

 そうだ、季節はもう夏。

「……そういえば、もう夏季休暇の頃ね。ミラとレオはまた領地に来るのかしらね」
「おそらくそうなるでしょうね。領民たちも、おふたりを見たいでしょうし」
「まあ、ではミラのドレスをまた仕立てないといけないわ。昨年は私が勝手に色々と用意しておいたけど、レオには殊の外刺激が強かったみたいね」
「それはお嬢様が、青紫のドレスばかり仕立てるからでしょう。……僭越ながら、今年はレグルス殿下がご準備されると思います」
「……そう言われると、そうね。ふたりはもう婚約者なのだものね。では私は普段着をプレゼントしようかしら。義姉ですもの」

 アナベルは昨年の領地での彼らの休暇に思いを馳せる。
 彼女が張り切って用意したドレスはミラによく似合っていて、幸せそうに表情を緩めるレグルスと並んでいる姿はとても微笑ましかった。

 あの時はまだまだといった所だった2人の関係性は、もう公にも認められた婚約者だ。
 きっとまた領地では晩餐会があるだろう。
 そこでのドレスを選ぶ役目は、今度こそアナベルではなくて彼女の婚約者であるレグルスのものだ。

「……セイも、来るのかしら」

 女性の扱い云々……と、シリウスに対して愚痴を零してしまったことも芋蔓式に思い出してしまい、無意識の内にそう言葉が出た。

「お嬢様、何か仰いましたか?」
「いえ、なんでもないわ。まだ時間まで少しあるのでしょう? 落ち着かないから庭に出てもいいかしら」

 その言葉がレーナに聞こえていなくてほっとしながらも、アナベルは笑顔で窓の外を指さす。
 少し戸惑った顔の侍女は、「お化粧やお仕立てが乱れる事はお控え下さいませね」とアナベルに念を押したのだった。





「……結婚、かぁ」

 レーナにお小言を言われる事は分かっていながら、アナベルはあの木に登り、以前降りられなくなった場所に腰掛けていた。
 多少汚れただろうが、引っ掛けたりはしていないから、ぱたぱたとはたけば何とかなるだろう。
 婚約者候補に見られたら、はしたないと思われるだろうか。

 ――寧ろ、そう思って婚約を取りやめてくれればいいのに。
 そんな考えが頭を過って、アナベルはぷるぷると首を振った。

 いや、ダメだ。
 この婚姻は、きっとアナベルがこの地で薬園を継ぐためには必要なことだ。家督を継ぐ必要がなく、それでいてある程度の身分の貴族子息がやって来る筈だ。
 そしてその人は父であるジークハルトの御眼鏡にも叶った人物。
 そうなると、もはや今日引き合わされる婚約者候補とそのまま婚姻を結ぶのは必須だと思えた。逃れられない。逃れてはいけないものだ。

「……だったらせめて、気持ちを伝えたら良かったわ」

 そうしたら、行き場のない淡い恋心に決着が付きそうなものを。
 アナベルは人知れずそう呟いたつもりだった。
 だが。

「アナベル様は、誰かお慕いする方がいるのですか?」

 木の下からは、いつもとは違う騎士の正装を身に纏った黒髪の騎士が、藍色の瞳を細めながらそう問いかけてきた。

「ええっ? どうしてシリウスがここに?」
「――大切な用事がありまして。アナベル様こそ、何故そのような場所に……」
「す、少し考え事をしていたの。ほら、ここは涼しくて気持ちがいいから」

 幼い頃と変わらずお転婆な姿を見咎められたと思ったアナベルは、羞恥で頬が桃色に染まる。
 これから知らない人と会うための心の準備をしに来たはずなのに、何故か分からないが初恋の人に、まさにその時のシチュエーションで出会ってしまい、ますます訳が分からない。

 ぱたぱたと両手で顔を仰ぐが、なかなかその熱は消えない。

「っ、アナベル様!」

 沸騰しかかった頭で、バランスの悪い場所でそのような姿勢をとったせいで、アナベルの身体はぐらりと大きく傾いた。
 焦った表情のシリウスが駆け寄って来るのが見えて――そうして次の瞬間には、木から落ちたアナベルは、彼の腕によって抱き留められていた。

「……全く、危なっかしいですね。昔から」
「ご、ごめんなさい……ありがとう、シリウス。あ、少しドレスが破れてしまったわね。どうしましょう、着替える時間があるかしら」
「――急ぎのご用事ですか?」

 アナベルを抱くシリウスの腕に、力が篭ったような気がする。
 思い出よりもずっと逞しいその腕の中は心地よく離れがたいが、ずっとこうしている訳にはいかない。

「ええ。本当は嫌だけれど、仕方のないことなの」

 アナベルがふわりとした笑みをシリウスに向けると、彼の顔が一瞬強張って、すとんと無機質なものになる。

「仕方がない、ですか……。ではこれから私がする事も、仕方がないで済ませて下さいね。お優しいアナベル様」
「え? どういう――」

 意味なの、と続く筈だった言葉は行き先を失ってしまった。唇を塞がれている。他でもない、シリウスから。アナベルがそう気付いた時にはそれは離れて、寂しげな藍色の瞳がアナベルを見下ろしていた。

「公爵令嬢として育ってきた貴女には不本意な事かも知れません。それに、他に慕っている男がいるのならば尚更。だが私は、この機を逃すつもりはありません」
「シ、シリウス……あの、その、今……」
「仕方がないことですよ、アナベル様。貴女は私と婚姻するのはお嫌かもしれませんが」
「ええっ、私とセイが結婚⁉︎ 今日来る人って、セイの事だったの⁉︎ どういうこと⁉︎」
「……何も知らないのですか? これは……どういう事でしょうか」

 お互いに目を丸くして見つめ合うアナベルたちの元に、公爵夫妻がのんびりと姿を現したのはそれからすぐのことだった。






「ーー全く。勝手に釣書などを取り寄せて。少し灸を据える必要があると思ってな。誰に似たのか、アナベルは思い込みで突っ走るところがある」
「……はい。ごめんなさい」

 それはきっとお父様似よ、と思いながらもアナベルが父に謝ると、悪戯っぽく微笑む母のアンナと目が合った。
 考えていることは、どうやら同じらしい。

 何のことはない。
 ジークハルトが用意した婚約者候補とは他でもないこのシリウス=クラルヴァインであり、それをアナベル以外は皆知っていたのだ。
 元々父が水面下で話を進めていた所に、アナベルが先走ってしまったーーというのが真相らしい。

「しかし公爵様。私まで巻き込む必要がありましたか」

 アナベルの隣で、そう話すのはシリウスだ。
 庭園にいた彼らは、今は公爵邸のサロンにいて、皆でお茶を飲んでいる。

「普段はなかなか表情を崩さないお前の真意も知りたかったんだ。私の命令で婚姻を結んだとなれば、アナベルが可哀想だろう」
「それは……」

 ぐっと言葉に詰まったらしいシリウスがアナベルを見る。よく分からないが、アナベルはにっこりと微笑みを返した。

「先ほどの庭園の様子だと、杞憂でしたね、あなた」

 ふふふと優雅に微笑む公爵夫人に、ジークハルトも満足そうにしている。
 そして暫く歓談した後、夫妻は部屋を出て行った。丁寧に侍従やメイドたちも引き連れて。


 ぱたりと扉が閉まると、アナベルとシリウスはふたりきりになる。
 そうなると、先ほどのあの光景がまた脳裏に過ってアナベルは途端に顔が赤く染まる。

「アナベル様。ひとつ確認してもよろしいですか」

 席を立ったシリウスが、アナベルの前に立つ。
 そして足元に跪いた。

「貴女がお慕いする人とは誰ですか? 公爵様が話していたとおり、このままでは私と婚姻を結ぶ事になってしまいます。それでいいのですか」

 藍色の瞳は、いつになく弱気だ。
 アナベルは彼の右手を取ると、それを両手で包み込むように握りしめた。

「私、ずっと憧れていた人がいるの。あの日、木の上から私を助け出してくれた……私だけの王子様」

 あの時より、少し大きくなったであろう掌は、ゴツゴツとしている。
 アナベルが見つめ返すと、彼はぱちぱちと瞬きをした。

「私が好きなのは、あなたよ、シリウス。あなたと結婚できるなんて、そんな事夢にも思わなかったわ」

 ぎゅうっと手に力を込めると、彼からは優しい眼差しを向けられていた。慈しむような、眩しそうな瞳だ。

「ーー私にとっても、あの日から貴女が私の姫です」

 くるりと手を返されて、アナベルの手の甲が空に向く。そしてそこに、シリウスの唇が落とされたのだった。



 その後、公爵令嬢アナベルは伯爵家の次男であるシリウスと婚姻を結んだ。
 彼女は無事に薬園を継ぎ、シリウスは公爵家の私設騎士団の団長となる。


 ーー幸せに過ごす彼女は知らない。
 あの日運命が変わったのは、アナベルだけではなくシリウスもだということを。

 彼女が他の婚約者候補を物色していると聞き、居てもたってもいられず、大急ぎで公爵領に来たことを。

 そして勿論、シリウスは毒にも強いのだ。



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思いの外長くなってしまいました……!
静かに嫉妬の炎を燃やすシリウス。クーデレ設定のその人でした。
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