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1巻

1-3

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「――お待たせしました」

 なんとも言えない静寂がしばらく続いた後、若葉たちの目の前に差し出されたのは黄金色に輝くアジフライだった。
 見るからにカラッと揚がったその姿は、お腹がきすぎた若葉にとっては凶器ですらある。一気に口の中でよだれが溢れた。

「お前、熱いから今日は気をつけろよ」

 千歳がリューの前にも皿を置く。
 そこにはひと口サイズに切られたフライが盛られていて、以前あわてておでんに齧り付いて火傷やけどしてしまったリューに配慮してくれていた。
 ……優しい人なのかもしれない。千歳は無愛想に淡々と作業をしているように見えたが、そんな一面もあるようだなと若葉は感じた。
 しかし、今はそんなことより。

「いただきます!」

 言うが早いか、若葉はその黄金色のアジフライに、添えられたタルタルソースをたっぷりと付けて口に運んだ。
 ザクリと香ばしい衣、熱々ふわふわで脂がのっているあじ。それとまろやかな卵とマヨネーズの風味が一気に広がる。

「んーーー! 美味しい!」

 何度かしゃくした後に、隣にあるほかほかの白米も口に運べば一層幸せだ。
 おまけでお味噌汁を飲んで、口の中をすっきりからっぽにした若葉は充足感に包まれながら再び叫んだ。

「千歳さん! これ、めちゃくちゃ美味しいです!」

 無表情の店主は「そう」とぶっきらぼうではあるが、心なしか嬉しそうな返事をした。

「よっし、じゃあ次は……!」

 若葉は、次にウスターソースを手に取った。
 それをフライにかけると、ソースは衣にじゅわりと染みていく。
 黄金色と茶色のコントラストがとても美しい。その逆三角形をハフリと頬張ると、タルタルソースとはまた違った酸味とパンチのある味わいが若葉を襲う。またしてもご飯が進む。
 ともすれば魚臭さが際立ってしまうこともある青魚のフライだが、そういったものは全く感じられない。魚の甘みと旨味がいっぱいだ。

「リューちゃんもこれ、やってみて! そうそう、上手だよ」

 若葉は隣に座るリューに、タルタルソースとウスターソースでの食べ方の指南をする。

「ワカバワカバ、美味しい!」

 ひと口頬張ったリューは、幸せそうにほほを撫でている。
 その姿だけでもご飯が一杯食べられるが、生憎あいにく若葉のご飯茶碗はからになっている。

「千歳さん。ご飯のおかわりをお願いしても……?」
「……はい。どうぞ」
「へへ、ありがとうございます! 美味しすぎて止まらないです」

 千歳からまた器いっぱいにご飯をよそってもらった若葉は、照れ臭そうにしながらも、食事への追撃はやめなかった。
 美味しいアジフライと、リューの愛らしい表情。箸が本当に止まらない。
 若葉とリューは千歳のあきれ顔など気に留めず、その後も競うように食べ進めた。

「ごちそうさまでした~」
「ごちした~」

 勢いよくアジフライ定食を食べ終えたふたりは、箸を置いて手を合わせる。お皿はからっぽ、お腹は満杯だ。

「ちょっとぉ~チトセちゃん。このあじ、どこの?」

 そんな折、不満げな声が聞こえてきた。先ほどのあの大男だ。
 チラリと視線を向けると、彼の前にも若葉たちと同じアジフライ定食が置かれている。すでに半分ほど食べ進めているようだ。

「どこ産って意味ですか? これはまつうらあじです。ちょうど知り合いからもらったので」
「くっ……やっぱりぃ‼」

 大男は悔しげな声と共に、ご飯茶碗をカウンターテーブルに力強く置く。
 そんなに力を入れると割れてしまうのではとハラハラしながら見守っている若葉とは対照的に、千歳は涼しげな顔のままだ。
 なぜアジフライひとつでそんなにおこっているのだろう。松浦市といえば長崎県の北部に位置する市だけれど……

「松浦……あじ……あっ『アジフライの聖地』だ⁉」

 ブツブツとつぶやいていた若葉は、その結論に辿たどり着く。
 若葉の職場には松浦市出身の同期がいて、そんな話をうっすらと聞いた記憶がよみがえる。『松浦はあじの水揚げが日本一で……』とか何とか、言っていたような気がする。
 その同期は仕事ができて、見た目も爽やかで、同じ支店での営業成績一位をずっとキープしていることまで芋づる式に思い出してしまい、少しブルーな気持ちになった。

「うっうっ、長崎のあじだって、美味しいんだからあ」
「何でも完璧だなんて……そんなことあっていいの……」

 嘆く大男と若葉。
 アジフライの美味しさで幸せに包まれていたはずの店内は、一気に暗い雰囲気になった。リューは突然落ち込んだ若葉を心配して、耳をスッと上げたり下げたりしている。

「松浦のあじも美味しいですから」
「ううっ、チトセちゃんの浮気者ぉ! あんたも長崎のもんなら、じげもんば出さんばやろうっ」
「チエミさん、素が出てます。あと、その食器割ったらいくらチエミさんでも弁償してくださいね」
「くっ……! 同じ漁師として、アタシは……アタシは悔しいのよォォォオオ」

 大男はそう叫ぶと、急においおいと泣き出してしまった。
 その様子に、闇に落ちかけていた若葉はぎょっとする。
 酒でもあおっているのかと思ったが、彼の前に置かれているのはただの緑茶だ。
 アジフライを食べて男泣き――この場合はオネエ泣きなのだろうか――をしているのを盗み見ていた若葉は、千歳とパチリと目が合った。

「気にしないでください。チエミさんはいつもああなので。長崎で漁師をやっているので、他の地域の水産物を出すと毎回嘆くんです」
「え? あっ、はい」

 どうやら彼が感情を爆発させることは珍しいことではないらしい。常連客のようで、千歳に戸惑っている様子は見られない。
 この店主を『チトセちゃん』と親しげに呼ぶくらいだ。きっと付き合いも長いのだろう。

「……あの、千歳さん」

 皿を拭いている千歳に、若葉は小声で話しかけた。
 カウンターの端では、あの大男が「美味しいから悔しいわああああああ」と泣きながらアジフライを食べ進めている。

「あの方も、やっぱりそうなんですか?」

 この店を訪ねる客は普通ではないという話は初日に聞いている。
 つまりはあの大男も、いわゆるあやかしなのだろう。

「ああ。あの人は『うみぼう』。このあたりの海に昔からいたあやかしです」

 若葉の問いに、千歳はあっさりとそう答えた。やっぱりそうらしい。

「あれ? そういえばさっき、漁師として働いているって言いましたよね。あやかしって、働くんだ……?」

 若葉の隣でリューは足をぶらぶらしたり、尻尾を振ったりと自由に過ごしている。
 この可愛いあやかしも、将来働きに出るのだろうか。だけど、少しおかしいことに気が付いた。
 この前、千歳は『あやかしの姿は人には見えない』と言っていたはずだ。
 むむ、一体どういうことなのだろうと若葉は考えを巡らせる。

「あの人は特別力が強いから、人間の中でも普通に暮らしているんです。あやかしは人間と違って働かないと生きていけないわけではないので、趣味のようなものですけど。その目的はあやかしによって違います」

 百面相をしていた若葉を見て何か察したのか、千歳はそう言った。
 話によると、単純に人や仕事が好きだから働くあやかしもいれば、暇つぶし、ちょっと面白そうだから、なりゆき……などなど、本当にあやかしそれぞれの理由で俗世と関わっているらしい。

「なる……ほど?」

 趣味で働く。何だかとても羨ましい響きだ。わかるようでわからない話に、若葉は曖昧に相槌あいづちを打つ。

「じゃあ、他にもそうやって働いているあやかしがいるということですよね? もしかして私の周りにもいたりして……」

 その質問を千歳はすぐに肯定した。

「はい。人間として暮らしているあやかしは思ったよりもたくさんいます。普段誰も気付かないだけで。ただ、そこの野狐やこは――」
「ボク、野狐やこじゃなくて、リューなの!」

 シュバッと挙手したのはリューだ。千歳にも名前で呼ばれたいらしく、ワクワクとした眼差しで青年を見つめている。

「……リューは、まだ色々と不安定です。力もかなり弱いから、人間から認識されることはほぼないでしょう」
「ほぼ……」
「はい。もし認識できるならその人はあやかしか、お客さんみたいにあやかしに憑かれた人くらいだと思います。まぁ、よっぽど霊感の強い人間の場合もあるかもしれませんが。そこの……リューを認識できるのは――」

 なるほど。千歳の説明に、今度こそ若葉はフムフムとうなずく。
 つまり、あやかしの中には力の強さで序列があり、弱いあやかしは俗世で働くどころか、人間が認識することすら難しいのだろう。
 逆にいうと、人の姿をして働いているあやかしは、とっても強い力を持っていると言うことになる。
 アジフライひとつで嘆いているあの海坊主もしかり。

「あやかしにも色々あるんですね……」

 そうつぶやいた若葉が隣を見れば、千歳に名前を呼んでもらえたリューが満足そうな笑顔を浮かべている。ずっと無表情だった千歳もそれを見てほんの少しだけ笑ったような気がした。

「ね、ワカバ、ワカバ」

 リューは若葉の服の袖をくいくいと引く。

「ん? どうしたの、リューちゃん」
「ここのゴハン、すごいね」

 目を宝石のように輝かせるリューは、尻尾もパタパタと嬉しそうに動いている。

「すごい……? とっても美味しいってこと?」

 若葉が尋ねると、リューは首を振る。

「ボク、元気に、なる」

 つたない言葉だ。しかし、これまでと比べるとずっと話せるようになった。
 あやかしにとって元気になるというのは、実際どういうことかは分からないが、とにかくここのご飯は体にいいということなのだろう。それには若葉も完全同意だ。

「よし、じゃあここのご飯をいっぱい食べにこよう!」
「うん!」
「千歳さんに美味しいものをどんどん食べさせてもらおー!」
「おーー!」
「え……」

 若葉とリューは、拳を作って決意を新たにする。
 勝手に盛り上がるふたりに、それこそ狐につままれたような顔を千歳がした気がしたが、無視することにした。
 カウンターの奥の海坊主は変わらずグスグスと泣き声を漏らしている。お皿はからっぽなので、やはり千歳の料理の美味しさには抗えなかったのだろう。
 その光景は軽くホラーだ、と思ったところで若葉は気が付いた。
 前まではあやかしの存在自体がホラーだったはずなのに、今ではそのこと自体はするりと受け入れてしまっていると。

「じゃあ千歳さん、ごちそうさまでした。また来ますね、リューちゃんと一緒に」

 お辞儀をした若葉が笑顔で頭を上げると、そこには変わらず仏頂面で何を考えているのか全く分からない千歳がいる。

「ボク、くる! チトセとお話し、する!」

 若葉がリューの手を引いて店を出ようとすると、彼はもう片方の手で千歳にふりふりと手を振った。紅葉のような小さな手が揺れる。

「ああ。またな、リュー」

 そのとき若葉は今度こそしっかりと、わずかながらに千歳が微笑んだのを真っ正面から見た。完全にリューに向けた笑みであるけれど。
 若葉と目が合うと、その笑顔はスッと消えてしまった。それが少し寂しい。
 それでも、こんなに美味しいごはんを作るのだ。絶対にいい人に違いない。
 そう根拠のない確信を持ちながら、若葉はリューと共に店を出たのだった。


     ◆◇◆


 ふたりが退店し、店の引き戸がピシャリと閉まる。
 それを見計らって、泣いていたはずの大男はケロリとした顔に戻った。

「随分泣いてましたけど、料理は口に合いませんでしたか?」

 新しいお茶を出しながら千歳がそう尋ねると、チエミはキッと凄みのある表情で睨んだ。

「相変わらず美味しいわよっ! 憎らしいくらいにね! 松浦のあじも最高だわ‼」
「そうですか。それは良かったです」
「……あ~でも本当、去年ユエが店をたたむって言ったときはどうしようかと思ったけれど、チトセちゃんが継いでくれてよかったわあ。大切ないこいの場だもの」

 先ほどまでの嘆きや怒りはなかったかのような顔で、チエミがうっとりと思い出を語る。千歳はそれを黙々と作業をしながら聞いていた。

「あっ、チトセちゃん、どうするのぉ? アレ」

 大男は思い出したかのように千歳に尋ねる。

「……今は、様子見ですね」
「まあ、今は安定してるもんねえ」

 あやかしらしくニタリと怪しく笑う大男を一瞥いちべつすると、千歳は食器の片付けを続けた。
 海坊主のチエミが言う『アレ』とは、若葉とリューのことだ、特にリュー。
 人に取り憑いた野生のあやかしが、今後どうなるのか。それを千歳は注視している。未だに善悪が分からないからだ。
 ――あの不安定な野狐やこが、悪い方に傾かなければいいが。
 笑顔で幸せそうに食事をしていたリューのことが、彼の心に引っかかっていたのだった。



     第三章 黒い靄とトルコライス


「ふうん、海坊主って結構怖いあやかしなんだなあ」

 あのお店でアジフライをおおいに堪能した日から三日後。
 携帯端末で検索した結果を眺めて、若葉は思わずそんな声を上げた。

『海坊主。海に出没するあやかし。穏やかだった海面が突然盛り上がり、黒い坊主頭の巨人が現れる。大きさはかなり巨大なものから比較的小さなものまで、各地の伝承により様々。人が乗っていない間に、忽然こつぜんと船を隠してしまう』

 ざっくりと、どのウェブサイトにもおおむねそのようなことが書いてあった。
 確か、チエミという名のあのあやかしの職業は漁師だったはずだ。
 海坊主は海で暴れるあやかしなのに、現在は海の上で魚を大量に捕まえているのか。ある種、正反対の職にいているとも言える。不思議なものだ。

「わ、江戸時代とか……もっと前の記録もあるの⁉ すごいなあ」

 若葉は感嘆する。少し調べただけで、あやかしに関する古い伝記など様々な情報が出てくる。全ての書物を確認するのは時間がかかりそうだが、本などで勉強するのも楽しそうだなと思った。

「さて、そろそろ行かなきゃ」

 休憩時間はもうすぐ終わる。職場に戻らなければならない。

『小野、ちょっと色々なくなりそうだから、ついでにおつかい行ってきて』

 職場の先輩であるこう先輩のひと言で、若葉は休憩時間の隙間を縫って買い出しに出ていた。
 店舗で使う衛生用品やティッシュなどの日用品、お茶などのストックを買うのは、一番の下っ端である若葉の仕事だ。
 この支店は、例のなんでもできる同い年の同期であるおおくさそうも配属されていて、比較的若いチームだ。
 だが、彼は営業成績がトップなので、自然と雑務から外れる。そうすると必然的に若葉がほとんどの雑務をこなすことになる。

「えーっと、トイレットペーパーと、お茶とコーヒーと……」

 買い出し先のスーパーの駐車場で、若葉はメモと商品を照らし合わせて買い忘れがないかを最終確認する。
 本当なら休憩時間はゆっくり休みたかったが、仕方がない。
 店舗の中で一番契約件数が少ないし、内見予約だって三日前の同棲カップルのものが明日予定されているくらいだ。
 だからこそ、この状況を打破するために新しい物件の情報を集めたり、資料をまとめたりしたかったところだが、現時点で一番暇なのは確かなのだ。
 車にエンジンをかけたタイミングで、そこに考えが至ってしまった若葉は少しだけ気持ちが落ちかけた。
 だけど、と気合を入れ直す。
 約束の案件が成約にすすめば、自信がつくかもしれない。新規のお客さんにだって、満足してもらえるかもしれない。

「今夜またあのお店に行こう。そのために頑張る! よぉーしっ」

 完全に独り言だけれど、若葉は自らをし発進した。
 ぐるぐる考えていたって仕方がない。自分ができることを頑張らないと。そうしたら、胸を張ってあの美味しいお店を満喫できる気がするのだ。
 仕事の後のその時間がもっの楽しみになっている。
 お値段も良心的で、若葉とリューが戸をけると、あきれたような顔をした店主が迎えてくれる。
 まだ二回しか行っていないのに、彼のその表情にも慣れてしまって、むしろその冷たい視線が癖になるほどだ。
 今日は何を食べよう、と夜ご飯のことを考えていた若葉が上機嫌で店舗に戻って車から降りると、入れ違いで見覚えのあるふたり組と高田先輩がドアから出て行くところが見えた。

「戻りました~」
「あ、小野さん。おかえり!」

 荷物をかかえて店に入ると、若葉はスーパー同期である蒼太に話しかけられた。
 短めのすっきりとした黒髪で、整った目鼻立ちの爽やかな好青年だ。
 彼は若葉の両手が塞がっていることに気が付くと、「持つよ」と言ってササッとそれを受け取った。流石さすが、ソツがない男だ。
 若葉が感心していると、手際良く荷物を片付けた蒼太が若葉の所に戻って来た。

「高田先輩、これからお客さんと内見ですか?」

 さっき見た様子からそう判断して蒼太に問いかけると、彼は少しだけ口籠った後、気まずそうに答える。

「そう……なんだけど。俺が戻ったときにはもう接客に入ってたから、なんとなく見てただけだったんだけどさ。……あの人たちって、小野さんのお客さんじゃなかった? ほら、同棲用の物件を探してたカップル」
「え?」

 蒼太に言われて、若葉は先ほどの客の姿を思い出す。
 数日前に、閉店時間ギリギリに来たあのふたりだ。
 若葉が約束していた日より一日早い。明日の午後だったはずだ。何度も確認したし、卓上のカレンダーにも明日の日付に大きな赤丸が記されている。
 若葉はあわてて自席に戻ると、彼らのためにまとめた資料を置いてあるファイルを探した。
 すぐに使う予定だったから、わかりやすくしていたはずのそれが、見当たらない。
 もしかしたら高田先輩が持ち出したのかもしれない。事前に相談していたから、彼もそのファイルの存在と内容を知っている。
 そう思い至ると、若葉は脱力してしまった。

「小野さん? 大丈夫?」
「あ……はい。本来の内見の予定はまだ先だったんですが……急に都合がついたのかもしれませんね。外に出てて対応できなかったのは仕方がないです。はは、とりあえずお茶でもれますね。大草さんは何飲みますか?」
「えっと……じゃあコーヒーで。って、いや、いいよ自分でれるから」
「大丈夫です。このくらいしか役に立てませんし」
「そんなことは――」
「ちゃちゃっと用意してきますね! では!」

 間の悪い自分のせいだ。そう言い聞かせながら、若葉は蒼太から逃げるように給湯室へ向かった。
 営業成績も抜群で、爽やかで、性格もいい彼に慰められると、今以上に卑屈になってしまう気がする。

「……っ」

 コポリ、コポリ。注いだ水がお湯になり、フィルターを通って少しずつコーヒーが抽出されていく。
 ぼんやりとしてきた視界でそれを眺める若葉の胸中は、悔しさでいっぱいだった。


 数時間後、戻ってきた高田先輩と共にいたのは、本当にあの同棲カップルだった。全員が満足そうに幸せそうな表情を浮かべている。
 どうやら物件が決定したらしく、段階は申込書の記入へと進んでいる。
 その様子を気にしないようにしながら、若葉は笑顔を貼り付け事務仕事を進めていく。その間、蒼太が何か言いたそうに見ていることは分かっていた。
 だが、絶対に話しかけないで欲しいというオーラを出す。
 気遣いができて、人の機微に敏感な彼のことだ。きっと若葉の気持ちを察してくれたのだろう。そんな蒼太が必要以上に声をかけてくることはなかった。
 しかし顧客対応のため外出した彼は帰り際、若葉のデスクにチョコレートとほんのり温かい缶のカフェオレを置いてくれた。そのことを若葉はあとから気が付いたのだった。


「小野。これ役に立ったわ」

 終業時間が近くなった頃。
 高田先輩がネクタイを緩めながら若葉の方へと近付いてきた。
 同時にバサリと机の上に置かれたのは、例のファイルだ。乱雑に置かれたことで、あの日残業してまとめた書類が飛び出して散らかる。
 結局あのふたりが最終的に選んだ物件は、若葉が次に来たときにお勧めしようと思ってピックアップしていた物件だった。

「……そうですか」
「いや~ちょうどさ、お前がいないときに来店してくるから俺もあせったよ。たまたま話、聞いてたからなんとかなったけどさあ」
「そうなんですね」
「ほんとほんと、大変だったわ~。成約までぎ着けそうだから良かったけど。自分たちが選んでた物件も実際見たら色々細かいことが気になったみたいでさ~。喧嘩しそうになったりして、ははっ、俺が仲裁したんだぜ」
「……そう、ですか」

 契約が決まりそうなことが嬉しいのか、若葉の表情も気にせず高田先輩は上機嫌だ。申し訳なさそうな素振りもなく、逆に自分の苦労を強調してくる。
 いつもだったら流せていたかもしれないが、今回はいつも以上に心に引っかかる。

「でさ、それからさ……」

 早く立ち去って欲しいと思うが、高田先輩はまだペラペラと話し続けている。
 表面上は取り繕った笑顔を浮かべていても、そろそろ限界だ。

「小野ももっと積極的に行かないと契約取れないよ? 万年最下位じゃん」
「っ!」

 せせら笑いを浮かべた高田先輩の心ない言葉に、若葉が立ち上がろうとしたときだった。

「もっと俺みたいに……っ、うわあっ!」

 目の前から、高田先輩の姿が急に消える。
 何もないところで、彼は盛大に尻餅をついていた。

「え……あの、大丈夫ですか」

 状況が掴めないのか目を白黒させているが、それは若葉にとっても同じことだ。

「っ、ちゃんと掃除しておけよ! 床が滑りやすくなってるじゃないか」

 耳まで真っ赤にした高田先輩は、そう悪態をつく。この前若葉が転びまくったときには、率先して笑っていたのがこの男だった。
 彼は興が削がれたのか、ブツブツと文句を言いながら自分のデスクへ戻っていく。
 びっくりした。それに尽きる。
 静かになったことでホッとひと息ついた若葉は、散らかったデスクを片付けると早々に退社した。
 いつもはつい残ってしまうが、今日はどうしてもこの場に居たくなかった。
 高田先輩も先ほどの転倒のことで顔を合わせづらいのか、若葉にはもう絡んでこなかった。


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