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5話
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執務室の扉を閉めると、思わず深いため息がこぼれた。
「はぁ……」
壁際の椅子に腰を下ろし、背もたれに体を預ける。静かな部屋の中に、自分の吐息だけが響いた。見知らぬ男性を、家に迎え入れてしまった。それも、どこの誰かも分からない男を。
「これが、もっと経験を積んだ領主なら、きっと別の方法を取ったんだろうけど……」
自分にそう言い聞かせながら、頭の後ろで手を組む。爵位を受け継いで、ちょうど1年。
あの日、父と母が海の中から見つかったとき、家族を失ったという事実があまりにも重くて、目の前が真っ暗になった。けれど、私には立ち止まる余裕なんてなかった。
両親の葬儀の手配、家中の調整、領地の経済管理、貿易の契約見直し……ひとつひとつが今まで経験したことのない問題ばかりだった。
使用人たちが支えてくれたのは確かだが、それでも最終的な判断は私がしなければいけなかった。
「……ようやく落ち着いてきたと思ったのに」
苦笑しながら、机の上に散らばった書類に視線を向けた。貿易の決算報告、港の税収の記録、漁業組合からの要望書……処理しなければならない書類が山のように積まれている。
心の中のどこかで、『彼のことを放っておけなかったのは失策だったかもしれない』という声が囁く。
けれど、あの時の彼の表情を思い出すと、胸が痛む。声を失い、足も動かず、不安げに揺れていた青い瞳。
「……困っている人を見捨てるのは、私のやり方じゃない」
自分に言い聞かせるように呟き、気持ちを切り替える。
「オズワルドに任せているんだし、大丈夫よね」
彼のことは信頼している。使用人たちも、最初は驚いていたけれど、今は黙って彼を受け入れてくれている。
“信頼できる人に任せる”のも、領主の大切な仕事だ。私は机の上の書類に手を伸ばし、政務に取り掛かった。
気がつくと、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「……こんな時間か」
ふと時計を見上げると、すでに夕方を回っていた。小腹が空いたと感じた私は、軽く背伸びをしてから執務室を出た。
向かう先は食堂だ。本来、領主は家族と共に食事を取るのが貴族の作法だが、私はこの1年、一人での食事が多かった。
家族がいないからだ。
だから、自然と食事の時間は、使用人や騎士たちと一緒に取るようになっていった。最初は彼らも遠慮していたけれど、今では「リディア様は気さくな領主だ」と言われるようになった。
「おかげで賑やかでいいけど、時々騎士たちが騒ぎすぎるのが困りものよね」
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、オズワルドの姿が見えた。
「オズワルド?」
「リディア様、ちょうどよかった」
オズワルドがこちらに歩み寄ってくるが、どこか歯切れが悪い。
「どうしたの?」
「その……彼が目を覚まされて」
「それは良いことじゃない。どこか体調が悪いの?」
「いえ、体調は問題ありませんが……」
オズワルドは苦笑いを浮かべた。
「少し、妙な様子でして」
その表情に、嫌な予感がした。
「妙な様子って?」
「……部屋にある絵画を、じっと見つめておられます」
オズワルドの言葉に、私は首をかしげた。
「絵画?」
客間の扉を開けると、彼はじっと絵画を見つめていた。彼はベッドに腰を下ろし、まるで何かを見出そうとしているかのような表情をしている。
私もその絵画に目をやる。海と砂浜、そして岩辺にたたずむ人魚が描かれた絵。私が幼い頃からこの部屋に飾られている、何の変哲もない絵だ。
「その絵がどうしたの?」
彼は少し動き、自分の胸を指差した。そのまま、絵の人魚を指差し、また自分を指差した。
「……え?」
私は思わず声が漏れた。その様子は、あれが自分だと言いたいように見えた。オズワルドが「妙な様子」と言っていた理由が分かった。
「あなたも“人魚”だって言いたいの?」
半ば冗談のつもりで言ったけれど、彼は迷いなく頷いた。
「え?」
思わず固まる。
(人魚……? 彼が?)
私が視線を泳がせていると、彼は無表情のまま、もう一度、胸を指差した。彼の瞳はどこまでも青く澄んでいて、まるで“海そのもの”のようだった。
(まさか……いや、ありえない。そんな話、絵本の中だけのものだ)
けれど、彼の行動には嘘がなかった。
「あなた、本当に……」
私は言葉を詰まらせた。彼の真剣な目が、私をじっと見ている。その視線は、ただの漂流者のものではなかった。
まるで、ずっと“誰かに認められること”を待っていたような目。それが、私の胸に引っかかって離れなかった。
「……信じるには、少し難しいわ」
私の言葉に、彼は少し肩を落とした。
「でも、私はあなたを疑っているわけじゃないの。だから、もう少し教えてくれるかしら?」
彼はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。まるで、ほっとしたような、安心したような顔。もしかしたら、私は“とんでもないこと”に巻き込まれたのかもしれない。
けれど、不思議と怖くはなかった。私の目に映る彼の姿は、どこまでも無垢な“人”のように見えたからだ。
(“人魚”……なんてね)
心の中で苦笑しながら、私は再び彼を見つめた。
「はぁ……」
壁際の椅子に腰を下ろし、背もたれに体を預ける。静かな部屋の中に、自分の吐息だけが響いた。見知らぬ男性を、家に迎え入れてしまった。それも、どこの誰かも分からない男を。
「これが、もっと経験を積んだ領主なら、きっと別の方法を取ったんだろうけど……」
自分にそう言い聞かせながら、頭の後ろで手を組む。爵位を受け継いで、ちょうど1年。
あの日、父と母が海の中から見つかったとき、家族を失ったという事実があまりにも重くて、目の前が真っ暗になった。けれど、私には立ち止まる余裕なんてなかった。
両親の葬儀の手配、家中の調整、領地の経済管理、貿易の契約見直し……ひとつひとつが今まで経験したことのない問題ばかりだった。
使用人たちが支えてくれたのは確かだが、それでも最終的な判断は私がしなければいけなかった。
「……ようやく落ち着いてきたと思ったのに」
苦笑しながら、机の上に散らばった書類に視線を向けた。貿易の決算報告、港の税収の記録、漁業組合からの要望書……処理しなければならない書類が山のように積まれている。
心の中のどこかで、『彼のことを放っておけなかったのは失策だったかもしれない』という声が囁く。
けれど、あの時の彼の表情を思い出すと、胸が痛む。声を失い、足も動かず、不安げに揺れていた青い瞳。
「……困っている人を見捨てるのは、私のやり方じゃない」
自分に言い聞かせるように呟き、気持ちを切り替える。
「オズワルドに任せているんだし、大丈夫よね」
彼のことは信頼している。使用人たちも、最初は驚いていたけれど、今は黙って彼を受け入れてくれている。
“信頼できる人に任せる”のも、領主の大切な仕事だ。私は机の上の書類に手を伸ばし、政務に取り掛かった。
気がつくと、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「……こんな時間か」
ふと時計を見上げると、すでに夕方を回っていた。小腹が空いたと感じた私は、軽く背伸びをしてから執務室を出た。
向かう先は食堂だ。本来、領主は家族と共に食事を取るのが貴族の作法だが、私はこの1年、一人での食事が多かった。
家族がいないからだ。
だから、自然と食事の時間は、使用人や騎士たちと一緒に取るようになっていった。最初は彼らも遠慮していたけれど、今では「リディア様は気さくな領主だ」と言われるようになった。
「おかげで賑やかでいいけど、時々騎士たちが騒ぎすぎるのが困りものよね」
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、オズワルドの姿が見えた。
「オズワルド?」
「リディア様、ちょうどよかった」
オズワルドがこちらに歩み寄ってくるが、どこか歯切れが悪い。
「どうしたの?」
「その……彼が目を覚まされて」
「それは良いことじゃない。どこか体調が悪いの?」
「いえ、体調は問題ありませんが……」
オズワルドは苦笑いを浮かべた。
「少し、妙な様子でして」
その表情に、嫌な予感がした。
「妙な様子って?」
「……部屋にある絵画を、じっと見つめておられます」
オズワルドの言葉に、私は首をかしげた。
「絵画?」
客間の扉を開けると、彼はじっと絵画を見つめていた。彼はベッドに腰を下ろし、まるで何かを見出そうとしているかのような表情をしている。
私もその絵画に目をやる。海と砂浜、そして岩辺にたたずむ人魚が描かれた絵。私が幼い頃からこの部屋に飾られている、何の変哲もない絵だ。
「その絵がどうしたの?」
彼は少し動き、自分の胸を指差した。そのまま、絵の人魚を指差し、また自分を指差した。
「……え?」
私は思わず声が漏れた。その様子は、あれが自分だと言いたいように見えた。オズワルドが「妙な様子」と言っていた理由が分かった。
「あなたも“人魚”だって言いたいの?」
半ば冗談のつもりで言ったけれど、彼は迷いなく頷いた。
「え?」
思わず固まる。
(人魚……? 彼が?)
私が視線を泳がせていると、彼は無表情のまま、もう一度、胸を指差した。彼の瞳はどこまでも青く澄んでいて、まるで“海そのもの”のようだった。
(まさか……いや、ありえない。そんな話、絵本の中だけのものだ)
けれど、彼の行動には嘘がなかった。
「あなた、本当に……」
私は言葉を詰まらせた。彼の真剣な目が、私をじっと見ている。その視線は、ただの漂流者のものではなかった。
まるで、ずっと“誰かに認められること”を待っていたような目。それが、私の胸に引っかかって離れなかった。
「……信じるには、少し難しいわ」
私の言葉に、彼は少し肩を落とした。
「でも、私はあなたを疑っているわけじゃないの。だから、もう少し教えてくれるかしら?」
彼はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。まるで、ほっとしたような、安心したような顔。もしかしたら、私は“とんでもないこと”に巻き込まれたのかもしれない。
けれど、不思議と怖くはなかった。私の目に映る彼の姿は、どこまでも無垢な“人”のように見えたからだ。
(“人魚”……なんてね)
心の中で苦笑しながら、私は再び彼を見つめた。
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