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本編
第一話 婚約破棄日和……そんな日はありません。
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その日、レイチェルは朝から浮かれていた。白金の髪を丁寧に梳り、唇にはほんのり紅をさす。婚約者であるクリフが、王都から帰ってくる日だったからだ。
プロポーズされたのは自分が十三歳の時で、丁度三年前の夏祭りの時である。指には青いガラス細工の指輪が輝いている。そう、ガラスだけれど、愛しい婚約者からのプレゼントだ。身に着けるだけで心が湧き立つ。レイチェルは一張羅の白いドレスを身に着けて、胸には思い出のマーガレットのブローチをつけた。綺麗になったね、そんな彼の褒め言葉を期待して。
「わぁ! すっごく可愛いよ、レイチェル!」
家まで迎えに来てくれた親友のエイミーが、そう言ってベタ褒めしてくれた。彼女のドレスは夏の若葉色で、麦藁色の髪を左右で三つ編みのお団子にしている。とっても可愛い。エイミーの賛辞を耳にしたレイチェルの顔がほころぶ。
「ん……ありがとう」
「今日はクリフも帰ってくるんだよね、格好良くなってるかな?」
なにやらエイミーもそわそわしているようだ。クリフが十五才で王都の騎士学校に入ってから丸三年である。今年卒業予定の彼は十八歳だ。そうね、うんと格好良くなっているかも。
「うん、多分」
「でも、びっくりよ。恋人期間がまったくないまま、いきなり婚約! だもん」
レイチェルは笑った。それは自分も同感だったから。
「それは、ええ、私も驚いたわ。告白とプロポーズが一緒だったのよ」
エイミーが難しい顔をして、腕を組む。
「んー、レイチェルがモテるから、あいつ、あせったのかなぁ? 婚約指輪が夏祭りの出店で買ったガラス細工って、ちょっとないなぁって、あたしは思うけど、きちんとした婚約指輪を王都で買うって張り切っていたから、それで許してやるか」
そう言ってエイミーが肩をすくめ、やれやれというように笑った。
「これでも嬉しいわ?」
「もー、レイチェルは欲がなさ過ぎ。婚約指輪くらい、いいもの買ってもらいなさいよ。ここ一番の見せ場なんだから。女が一番輝く時じゃないの」
エイミーと連れだって、夏祭りの広場へと向かう。
王都からの乗合馬車が到着するのはもう少し後だから、クリフの出迎えは祭りを見て回った後にしよう、レイチェルはそう考えたのだけれど、意外な事に、彼は既に村に到着していた。祭りの出店で賑わう人混みの中で、彼の姿を見かけたのだ。
レイチェルは素直に喜んだ。
どうして村の乗合馬車よりも早く到着したのか、レイチェルは理由を思いつかぬまま、クリフ! そう呼びかけようとして、その動きが止まる。騎士学校の制服を身に着けた彼は、他の女性の肩を抱いていたからだ。その光景を目にして、頭が真っ白になった。
「レイチェル、どうしたの?」
エイミーが不思議そうにレイチェルの顔を覗き込み、次いで、彼女も動きを止めた。レイチェルと同じ光景を目にしたからだ。
「うそ、なにあれ……」
レイチェルはエイミーの呟きをどこか遠くで聞いていた。
見間違えるはずがない。クリフは幼なじみで、ずっと一緒に育ってきた仲だ。
思った通り、クリフは三年前よりもずっと男らしく精悍になっていた。
けれど、騎士学校の制服を身に着けた彼は嬉しそうに他の女の子の肩を抱いていて、なんと声をかけて良いのか分からない。相手は黒髪の美少女だ。王都から連れてきたのか身に着ける衣服も化粧をした顔も垢抜けていた。二人で会話する様子が本当に楽しそうで、胸が詰まる。
そのクリフの目が、ふっと後方のレイチェルの姿を捉えた途端、顔が強ばった。レイチェルは逃げ帰りたい衝動にかられたが、こらえた。逃げ帰ったらもっと惨めだわ。そう考え、勇気を振り絞り、一歩二歩とクリフに向かって歩みを進める。
「クリフ、その人、誰?」
声は震えてしまったけれど、これは致し方ないと思う。
「え、その……それは、その……」
他の女性の肩を抱いたクリフの目は泳ぎ、しどろもどろだ。浮気現場を見付かった男の態度そのものである。そこで軽快に笑ったのは、クリフと一緒にいた大剣を背負った大柄な女剣士だった。日に焼けて背が高いので女性なのに精悍だ。
「なぁに照れてんだよ! 恋人だってちゃんと紹介しな!」
バシンとクリフの背を叩いたその女剣士の言葉にもレイチェルは衝撃を受けた。
恋人……彼女が恋人? 私ではなく?
レイチェルはクリフに寄り添っている黒髪の美少女に目を向け、ぐらりと視界が揺れた。
クリフが夏祭りには帰ってくる、その台詞をレイチェルは彼の両親から聞かされ、ほんの少し怪訝に思った。どうして自分に知らせないのだろうと……
クリフとの手紙のやり取りは、ここ一年の間ぱったり途絶えていた。何度手紙を出してもなしのつぶてである。きっと騎士になる修行で忙しいのだろうと、レイチェルはそう考え、自分を納得させたけれど……まさか、プロポーズまでしてくれた彼が、浮気をしているとは思わなかった。
――ごめん、今は安物だけど、後でもっといい指輪を贈るから……
三年前の夏祭りのクリフの台詞だ。
――レイチェルの為に聖騎士になるんだ、応援してくれ!
十五才で騎士学校へ入学する時は、そう言ってくれた。自分は聖女候補だから、正式な聖女になれば護衛士をつける義務が発生する。その聖騎士に自分がなると、クリフは言ってくれたのだ。一生、自分を守ると宣言してくれたのである。
嬉しかった。
なのに……
「恋人って……どういう、事?」
「レイチェル、その、悪い!」
クリフが平謝りだ。
「その、彼女はルモン男爵家の令嬢セイラで、君と同じ聖女候補生だ。王都の神殿で神学を学んでいたんだけど、そこで知り合って恋に落ちたんだよ。俺の運命の相手なんだ」
肩を抱いた黒髪の清楚系美少女をぐいっと引き寄せる。
「……運命の相手……」
ぽつんとレイチェルが繰り返す。
運命の相手……彼女が? 私じゃなくて?
レイチェルが黒髪の美少女に目を向ければ、彼女が勝ち誇ったように笑う。彼に選ばれたのは自分なのと言いたげに。レイチェルの顔が悲しみでくしゃりと歪む。
クリフが言葉を続けた。
「そう、何かと相談に乗っているうちに、セイラと恋仲になっちゃってさぁ、君との結婚の約束は、なかったことにしてくれないか? ほ、ほら、単なる口約束だし……」
単なる口約束……あれが? 指輪を贈って結婚しようって言ってくれて……彼にとって自分は特別な存在になったのだと思ったのに……そう思ったのは私だけ? クリフは違ったの?
レイチェルは何も言えず、溢れそうになる涙をぐっとこらえ、唇をきゅっと噛んだ。
「……」
「さいってー……」
ぽつりとそう言ったのはエイミーだ。そばかすの浮いた顔は憤怒の形相である。
「つまり、王都で浮気して、結婚の約束までしたレイチェルを捨てたんだ、へー……」
エイミーの責めにクリフが声を荒げた。
「ひ、人聞きの悪い事言うなよ! 結婚して、なんていうのは、ほ、ほら、子供同士のお遊びでよくあることだろ? お、俺達は、その、友達だったし……」
「あんたねぇ!」
「ぶっ!」
エイミーが前へ出ようとしたその瞬間、クリフの顔にクリームパイが直撃していた。レイチェルは目を丸くした。目にした出来事に思考が追いつかない。
どこから、クリームパイが飛んできたの? もったいない……などと思ってしまう。パイを焼いた人が気の毒だわ、などとあさっての思考がよぎる。
「きゃあ、クリフ!」
クリームだらけになったクリフを見て悲鳴を上げたのは、黒髪の美少女セイラだ。
「誰だ!」
「俺だよ」
クリフが怒り心頭叫ぶと、ふっと虚空から人影が現れた。あまりにも唐突な出現に誰もが驚いたけれど、レイチェルは動じなかった。いつもの事である。そう、いつもの事だ。
レイチェルとクリフの間に割って入ったのは、幼なじみのヴァンパイア、ブラッド・フォークスである。体を霧に変えられるので、彼はよくこういった現れ方をする。見た目は十七、八才の青年で、黒髪に赤い瞳、死人のように痩せこけた顔立ちをしている。本当の年齢は分からない。幼い頃から彼はこの姿のままだ。
「……フォークス?」
クリーム塗れになったクリフがそう口にし、数歩後ずさった。ブラッドがずいっと詰め寄ったからだ。顔は憤怒の形相である。
「子供同士のお遊びだぁ? よく言う……」
自分を見据える赤い瞳に、クリフの腰が完璧引けている。
「三年前の夏、レイチェルに指輪を贈って、王都の騎士学校を卒業したら結婚しようって言ったのはどこのどいつだよ? 三年前のお前は十五歳で! 成人前だとしても、流石に子供同士のお遊びなんて言える年じゃねーだろーが? ああ?」
「そ、それは、その……」
決まり悪げにクリフが視線を逸らせば、セイラが庇うように割って入った。
「待って、待ってください! お願いだから、やめて! クリフは悪くありません、私が! 私が彼に恋したばっかりに! 私が悪いの! 本当にごめんなさい!」
「違う、君が悪いんじゃない! 俺が君を好きになったから……悪いのは俺だ!」
クリフがはっしとセイラの手を握る。
「でも、仕方がないわ。私とクリフがこうして出会うのは、運命だったんだもの」
「ああ、そうだな。俺も君に会ってそう思ったよ」
見つめ合い、手を握り合う二人は、完璧自分達の世界に入り込んでいる。
運命……
その台詞に、ずきんとレイチェルの心が痛んだ。
レイチェルは自分の胸を飾るマーガレットのブローチを、ぎゅっと握る。
自分もあの時、同じように思った。川でなくしたはずのマーガレットのブローチを、クリフが探し出してくれた時、運命を感じた。
――たかがブローチじゃないんだろうなって思ったし……
そう、父親から贈られたこのブローチは、他の人にとってはたかがブローチでも、自分にとってはたかがブローチではなかった。
どうしてこのブローチを特別だと思うのか、自分でも説明の出来ない感情だったから、誰にも言わなかったけれど、クリフにそう言われて、自分の気持ちを分かってもらえた気がした。本当に嬉しかった。会いたかった誰かにやっと会えたような気がして……。それが、自分の独りよがりだと分かると、立つ瀬がない。一体どうすればいいというのか。
「……分かり、ました」
レイチェルは気が付けばそう答えていた。
この場から一刻も早く立ち去りたい、その一心である。
「ちょっと、レイチェル? 大人しく引いちゃ駄目よ。ここは一発ガツンと言ってやらなくっちゃ!」
エイミーが徹底抗戦の構えを見せるも、レイチェルはとてもそんな気にはなれなかった。思い合う二人を引き裂くなんて、自分には出来ない。
好きだった相手ならなおのこと……
レイチェルは、はめていた指輪を外し、無理矢理笑顔を作った。
「これ、返すわ。あの、どうかお幸せに……」
クリフに例のガラス細工の指輪を押しつけると、くるりと踵を返してレイチェルは駆け出した。慌ててその後をエイミーが追う。
「待って、待って、レイチェル! ああ、もう、クリフの馬鹿ぁ! もげろ!」
そんな罵声を叩きつけ、エイミーもまた背を向けた。不吉な事を言うなと言い返したクリフは、ブラッドに猫の子よろしくつまみ上げられ、荷車に積まれていた馬糞の中に投げ込まれる。「きゃあ、クリフ!」とセイラが悲鳴を上げ、「何すんだ!」と馬糞まみれになったクリフは怒鳴ったが、その時にはもうブラッドも姿を消していた。
プロポーズされたのは自分が十三歳の時で、丁度三年前の夏祭りの時である。指には青いガラス細工の指輪が輝いている。そう、ガラスだけれど、愛しい婚約者からのプレゼントだ。身に着けるだけで心が湧き立つ。レイチェルは一張羅の白いドレスを身に着けて、胸には思い出のマーガレットのブローチをつけた。綺麗になったね、そんな彼の褒め言葉を期待して。
「わぁ! すっごく可愛いよ、レイチェル!」
家まで迎えに来てくれた親友のエイミーが、そう言ってベタ褒めしてくれた。彼女のドレスは夏の若葉色で、麦藁色の髪を左右で三つ編みのお団子にしている。とっても可愛い。エイミーの賛辞を耳にしたレイチェルの顔がほころぶ。
「ん……ありがとう」
「今日はクリフも帰ってくるんだよね、格好良くなってるかな?」
なにやらエイミーもそわそわしているようだ。クリフが十五才で王都の騎士学校に入ってから丸三年である。今年卒業予定の彼は十八歳だ。そうね、うんと格好良くなっているかも。
「うん、多分」
「でも、びっくりよ。恋人期間がまったくないまま、いきなり婚約! だもん」
レイチェルは笑った。それは自分も同感だったから。
「それは、ええ、私も驚いたわ。告白とプロポーズが一緒だったのよ」
エイミーが難しい顔をして、腕を組む。
「んー、レイチェルがモテるから、あいつ、あせったのかなぁ? 婚約指輪が夏祭りの出店で買ったガラス細工って、ちょっとないなぁって、あたしは思うけど、きちんとした婚約指輪を王都で買うって張り切っていたから、それで許してやるか」
そう言ってエイミーが肩をすくめ、やれやれというように笑った。
「これでも嬉しいわ?」
「もー、レイチェルは欲がなさ過ぎ。婚約指輪くらい、いいもの買ってもらいなさいよ。ここ一番の見せ場なんだから。女が一番輝く時じゃないの」
エイミーと連れだって、夏祭りの広場へと向かう。
王都からの乗合馬車が到着するのはもう少し後だから、クリフの出迎えは祭りを見て回った後にしよう、レイチェルはそう考えたのだけれど、意外な事に、彼は既に村に到着していた。祭りの出店で賑わう人混みの中で、彼の姿を見かけたのだ。
レイチェルは素直に喜んだ。
どうして村の乗合馬車よりも早く到着したのか、レイチェルは理由を思いつかぬまま、クリフ! そう呼びかけようとして、その動きが止まる。騎士学校の制服を身に着けた彼は、他の女性の肩を抱いていたからだ。その光景を目にして、頭が真っ白になった。
「レイチェル、どうしたの?」
エイミーが不思議そうにレイチェルの顔を覗き込み、次いで、彼女も動きを止めた。レイチェルと同じ光景を目にしたからだ。
「うそ、なにあれ……」
レイチェルはエイミーの呟きをどこか遠くで聞いていた。
見間違えるはずがない。クリフは幼なじみで、ずっと一緒に育ってきた仲だ。
思った通り、クリフは三年前よりもずっと男らしく精悍になっていた。
けれど、騎士学校の制服を身に着けた彼は嬉しそうに他の女の子の肩を抱いていて、なんと声をかけて良いのか分からない。相手は黒髪の美少女だ。王都から連れてきたのか身に着ける衣服も化粧をした顔も垢抜けていた。二人で会話する様子が本当に楽しそうで、胸が詰まる。
そのクリフの目が、ふっと後方のレイチェルの姿を捉えた途端、顔が強ばった。レイチェルは逃げ帰りたい衝動にかられたが、こらえた。逃げ帰ったらもっと惨めだわ。そう考え、勇気を振り絞り、一歩二歩とクリフに向かって歩みを進める。
「クリフ、その人、誰?」
声は震えてしまったけれど、これは致し方ないと思う。
「え、その……それは、その……」
他の女性の肩を抱いたクリフの目は泳ぎ、しどろもどろだ。浮気現場を見付かった男の態度そのものである。そこで軽快に笑ったのは、クリフと一緒にいた大剣を背負った大柄な女剣士だった。日に焼けて背が高いので女性なのに精悍だ。
「なぁに照れてんだよ! 恋人だってちゃんと紹介しな!」
バシンとクリフの背を叩いたその女剣士の言葉にもレイチェルは衝撃を受けた。
恋人……彼女が恋人? 私ではなく?
レイチェルはクリフに寄り添っている黒髪の美少女に目を向け、ぐらりと視界が揺れた。
クリフが夏祭りには帰ってくる、その台詞をレイチェルは彼の両親から聞かされ、ほんの少し怪訝に思った。どうして自分に知らせないのだろうと……
クリフとの手紙のやり取りは、ここ一年の間ぱったり途絶えていた。何度手紙を出してもなしのつぶてである。きっと騎士になる修行で忙しいのだろうと、レイチェルはそう考え、自分を納得させたけれど……まさか、プロポーズまでしてくれた彼が、浮気をしているとは思わなかった。
――ごめん、今は安物だけど、後でもっといい指輪を贈るから……
三年前の夏祭りのクリフの台詞だ。
――レイチェルの為に聖騎士になるんだ、応援してくれ!
十五才で騎士学校へ入学する時は、そう言ってくれた。自分は聖女候補だから、正式な聖女になれば護衛士をつける義務が発生する。その聖騎士に自分がなると、クリフは言ってくれたのだ。一生、自分を守ると宣言してくれたのである。
嬉しかった。
なのに……
「恋人って……どういう、事?」
「レイチェル、その、悪い!」
クリフが平謝りだ。
「その、彼女はルモン男爵家の令嬢セイラで、君と同じ聖女候補生だ。王都の神殿で神学を学んでいたんだけど、そこで知り合って恋に落ちたんだよ。俺の運命の相手なんだ」
肩を抱いた黒髪の清楚系美少女をぐいっと引き寄せる。
「……運命の相手……」
ぽつんとレイチェルが繰り返す。
運命の相手……彼女が? 私じゃなくて?
レイチェルが黒髪の美少女に目を向ければ、彼女が勝ち誇ったように笑う。彼に選ばれたのは自分なのと言いたげに。レイチェルの顔が悲しみでくしゃりと歪む。
クリフが言葉を続けた。
「そう、何かと相談に乗っているうちに、セイラと恋仲になっちゃってさぁ、君との結婚の約束は、なかったことにしてくれないか? ほ、ほら、単なる口約束だし……」
単なる口約束……あれが? 指輪を贈って結婚しようって言ってくれて……彼にとって自分は特別な存在になったのだと思ったのに……そう思ったのは私だけ? クリフは違ったの?
レイチェルは何も言えず、溢れそうになる涙をぐっとこらえ、唇をきゅっと噛んだ。
「……」
「さいってー……」
ぽつりとそう言ったのはエイミーだ。そばかすの浮いた顔は憤怒の形相である。
「つまり、王都で浮気して、結婚の約束までしたレイチェルを捨てたんだ、へー……」
エイミーの責めにクリフが声を荒げた。
「ひ、人聞きの悪い事言うなよ! 結婚して、なんていうのは、ほ、ほら、子供同士のお遊びでよくあることだろ? お、俺達は、その、友達だったし……」
「あんたねぇ!」
「ぶっ!」
エイミーが前へ出ようとしたその瞬間、クリフの顔にクリームパイが直撃していた。レイチェルは目を丸くした。目にした出来事に思考が追いつかない。
どこから、クリームパイが飛んできたの? もったいない……などと思ってしまう。パイを焼いた人が気の毒だわ、などとあさっての思考がよぎる。
「きゃあ、クリフ!」
クリームだらけになったクリフを見て悲鳴を上げたのは、黒髪の美少女セイラだ。
「誰だ!」
「俺だよ」
クリフが怒り心頭叫ぶと、ふっと虚空から人影が現れた。あまりにも唐突な出現に誰もが驚いたけれど、レイチェルは動じなかった。いつもの事である。そう、いつもの事だ。
レイチェルとクリフの間に割って入ったのは、幼なじみのヴァンパイア、ブラッド・フォークスである。体を霧に変えられるので、彼はよくこういった現れ方をする。見た目は十七、八才の青年で、黒髪に赤い瞳、死人のように痩せこけた顔立ちをしている。本当の年齢は分からない。幼い頃から彼はこの姿のままだ。
「……フォークス?」
クリーム塗れになったクリフがそう口にし、数歩後ずさった。ブラッドがずいっと詰め寄ったからだ。顔は憤怒の形相である。
「子供同士のお遊びだぁ? よく言う……」
自分を見据える赤い瞳に、クリフの腰が完璧引けている。
「三年前の夏、レイチェルに指輪を贈って、王都の騎士学校を卒業したら結婚しようって言ったのはどこのどいつだよ? 三年前のお前は十五歳で! 成人前だとしても、流石に子供同士のお遊びなんて言える年じゃねーだろーが? ああ?」
「そ、それは、その……」
決まり悪げにクリフが視線を逸らせば、セイラが庇うように割って入った。
「待って、待ってください! お願いだから、やめて! クリフは悪くありません、私が! 私が彼に恋したばっかりに! 私が悪いの! 本当にごめんなさい!」
「違う、君が悪いんじゃない! 俺が君を好きになったから……悪いのは俺だ!」
クリフがはっしとセイラの手を握る。
「でも、仕方がないわ。私とクリフがこうして出会うのは、運命だったんだもの」
「ああ、そうだな。俺も君に会ってそう思ったよ」
見つめ合い、手を握り合う二人は、完璧自分達の世界に入り込んでいる。
運命……
その台詞に、ずきんとレイチェルの心が痛んだ。
レイチェルは自分の胸を飾るマーガレットのブローチを、ぎゅっと握る。
自分もあの時、同じように思った。川でなくしたはずのマーガレットのブローチを、クリフが探し出してくれた時、運命を感じた。
――たかがブローチじゃないんだろうなって思ったし……
そう、父親から贈られたこのブローチは、他の人にとってはたかがブローチでも、自分にとってはたかがブローチではなかった。
どうしてこのブローチを特別だと思うのか、自分でも説明の出来ない感情だったから、誰にも言わなかったけれど、クリフにそう言われて、自分の気持ちを分かってもらえた気がした。本当に嬉しかった。会いたかった誰かにやっと会えたような気がして……。それが、自分の独りよがりだと分かると、立つ瀬がない。一体どうすればいいというのか。
「……分かり、ました」
レイチェルは気が付けばそう答えていた。
この場から一刻も早く立ち去りたい、その一心である。
「ちょっと、レイチェル? 大人しく引いちゃ駄目よ。ここは一発ガツンと言ってやらなくっちゃ!」
エイミーが徹底抗戦の構えを見せるも、レイチェルはとてもそんな気にはなれなかった。思い合う二人を引き裂くなんて、自分には出来ない。
好きだった相手ならなおのこと……
レイチェルは、はめていた指輪を外し、無理矢理笑顔を作った。
「これ、返すわ。あの、どうかお幸せに……」
クリフに例のガラス細工の指輪を押しつけると、くるりと踵を返してレイチェルは駆け出した。慌ててその後をエイミーが追う。
「待って、待って、レイチェル! ああ、もう、クリフの馬鹿ぁ! もげろ!」
そんな罵声を叩きつけ、エイミーもまた背を向けた。不吉な事を言うなと言い返したクリフは、ブラッドに猫の子よろしくつまみ上げられ、荷車に積まれていた馬糞の中に投げ込まれる。「きゃあ、クリフ!」とセイラが悲鳴を上げ、「何すんだ!」と馬糞まみれになったクリフは怒鳴ったが、その時にはもうブラッドも姿を消していた。
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