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3巻

3-2

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 何故だ? 何故魔女の血が効かない? 確かに同じ祝杯を口にしたはず……。父王は聖王リンドルンの血を引いている。魔女をほうむった聖王の直系だ。そのせいか?
 理由は分からなかったが、父王が正常のままではまずい。そう判断したハインリヒは、迷わず近衛兵から奪い取った剣で父王に斬りかかっていた。父王は帯剣していなかった。とっさに抜刀するような仕草をしていたが、ない剣を抜くことはできない。
 ハインリヒの刃が届いた瞬間、何故だ、という顔で父王に見られたような気がしたが、お前が悪いと心の中で吐き捨てた。兄上なんかを庇うからだと、そうののしった。ぐらりと父王の体が傾ぎ、どうっと倒れる。赤い血潮が床一面にざあっと広がった。
 ――父上!
 そこへ、軍会議に遅れてやってきたオーギュストが叫ぶ。ハインリヒの口角が上がった。
 ははは、丁度いい。
 ――捕まえろ! 陛下を殺害したのはオーギュストだ!
 ハインリヒがそう叫べば、祝杯を口にした全員がそれに賛同する。すぐさま近衛兵を含め、会議に参加していた者全員がオーギュストを取り囲んだ。
 ああ、おかしい。これまで味方だった者達が全て敵に回った気分はどうだ? ああ、いくらお前でも、自分の仲間を斬り殺すなんて真似はしないよな?
 思惑通り、オーギュストは抵抗しなかった。「無実を証明してみせる」? ふん、馬鹿め。お前の味方などいるものか。
 その後もハインリヒは魔女――ケイトリンの血を使い、次々とオーギュストの味方を寝返らせた。
 ――違う、エクトル! 私は無実だ! やっていない!
 ――言い訳は見苦しいですぞ、殿下! 証人が山のようにいる。このような嘘つきを尊敬していたとは、ああ、嘆かわしい! 自分が許せませんな!
 オーギュストの乳兄弟のエクトルはそう叫んだ。エクトルの紳士然とした知的な顔が今や怒りにゆがんでいる。ハインリヒはオーギュストの絶望に満ちた顔に歓喜した。
 ははは、どうだ? 昨日までお前の無実を信じて必ず助け出すと約束していた者達が、明日には次々なじる側に回る。悪夢を見ているようだろう? まさに魔女の血だ。おかしくて仕方がない。
 その勢いに乗って、地下ろうに拘束されたオーギュストの尊厳を踏みにじってやろうとしたが……これは失敗に終わった。拘束は解かなかったのに、剣の勝負に負けたのだ。
 くそっ! くそっ! くそっ! どうしてああなった?
 怒り狂ったオーギュストに殺されると思い、ハインリヒはとっさに近衛兵に助けろと命じた。手を出すなと命じていたにもかかわらず、だ。あれは屈辱以外の何物でもなかった。
 ハインリヒの声に従って動いた近衛兵が偶然手に取った焼けた火かき棒がオーギュストの顔面を捉え、自分は事なきを得たが、起こったことをなかったことにはできない。ああ、思い出したくもない出来事だ。あれさえなければ、愉快そのものだったというのに。
 後日、オーギュストの処刑は速やかに行われた。
 これでうれいはなくなった、そう思ったが……
 ――あたいにくれるって言ったじゃない!
 オーギュストを処刑した翌日、怒り狂ったケイトリンがハインリヒに噛みつき、近衛兵達の手を振り切って逃げ出した。追っ手をかけたが、今なお行方ゆくえは知れない。そして、ケイトリンに噛まれたハインリヒは、三日三晩高熱を出して寝込むことになった。
 くそっ、あの魔女めが……
 ――ハインリヒ殿下、あの女は不死身です。
 ケイトリンを追いかけた近衛兵が震えつつそう漏らした。
 ――け、剣で突いても切っても、死なない。死なないんです……
 ハインリヒは舌打ちを漏らした。そんなれ言聞く気にもなれない。逃がした言い訳か? 第二皇子のヨルグは勘違いをしていただけだ。あれは不死の秘薬などではない。
 国王となった後、ハインリヒはブリュンヒルデに求婚したが、手酷くねつけられて憤慨する。
 この私が! せっかく言い寄ってやったというのに! それならば力尽くで……
 ハインリヒはブリュンヒルデを手込めにしようと動いたが、彼女は抵抗した。
 ――下がりなさい。
 あおい瞳が毅然きぜんとハインリヒを見据みすえた。
 ――わたくしに対する無礼は、ヴィスタニア帝国に対する侮辱ぶじょくだと、兄は判断するでしょう。ヴィスタニア帝国との戦争をお望みですの?
 まさに皇女の風格であろうか、ブリュンヒルデはハインリヒを威圧してみせた。その姿は忌々いまいましいほどに美しい。結局手が出せないまま、ブリュンヒルデはひと月ほどで軟禁していた城から姿を消した。一体どこへ消えたのか……
 回想からふっと我に返ったハインリヒは、ブリュンヒルデの肖像画をじっと見つめた。
 見た目だけは最高の女だったのにな。残念だ。そう、見た目だけは最高だった。ローザか……今度こそ手に入れてみせる。絶対逃がさない。
 ハインリヒはそう考え、にんまりと笑った。



    第二話 秘めた恋は美しい


 マデリアナ・ドリスデン伯爵令嬢のアトリエを訪れたローザは驚いた。正面にある白薔薇の騎士が描かれた巨大キャンバスに目を奪われたからではない。アトリエのそこここに散らばったスケッチ画に描かれているのが、どう見ても自分の父親だったからだ。そう、ドルシア子爵の絵姿である。
 これは……
 床に散らばったスケッチ画から、マデリアナが今まさに筆を乗せているキャンバスに視線を移すと、そこに描かれているのはやはりドルシア子爵――仮面卿かめんきょうだ。白い仮面を着け漆黒のマントを羽織った姿は、ただそれだけで見る者を圧倒する。背景に描かれているのは深紅の薔薇だ。
 赤い薔薇は血の香り……
 ぞくりと怖気おぞけを覚え、ローザはこくりと生唾を飲み込む。
 ああ、駄目ですわ。どうしても、どうしても父の場合、赤い薔薇と合わさると血を連想してしまう。美しい花のはずなのに、まるで死の象徴のよう。何故でしょう?
 ――唯一無二の光……私の宝……
 耳によみがえった父親の声を、ローザはぶるぶると顔を横に振って追い払う。この声だけはいつだって包み込むように優しい。だからこそ余計に混乱する。
 キャンバスに今一度視線を戻せば、仮面の奥から覗く緑の双眸そうぼうはやはり恐ろしくも美しい。蠱惑的こわくてきだけれど、底なしの闇を映し出しているかのようなあの瞳が、そこに再現されている。
 ローザは思わず見入ってしまった。感嘆したと言ってもいい。
 見事です。本当に素晴らしい。マデリアナ嬢は画家としての才をお持ちでしたのね。歴代の名画と並べても遜色そんしょくのない出来映えです。きっと誰もが賞賛するに違いありませんわ。

「マデリアナ嬢、これは?」

 ローザが声をかけると、マデリアナの筆の動きがピタリと止まる。彼女が振り向き、いつもの人形のように作り物めいた微笑みに迎えられた。

「ようこそ、ローザ夫人。ええ、素敵でしょう? わたくし、仮面卿がとてもとても気に入ってしまって、最近はもっぱらこうして彼の姿を描いておりますの」

 マデリアナが、うっとりとした眼差しを自分の絵に向ける。頬を染めた姿は、まるで恋する乙女のよう。ローザはある種の予感に身を震わせた。

「……マデリアナ嬢は、もしかして父に恋を?」
「ええ、そうかもしれませんわね?」

 ローザはヒッと悲鳴を上げそうになる。

「では、結婚したいとかそういう?」

 まさかという思いをローザが込めると、マデリアナはコロコロと軽快に笑った。

「いいえ、結婚したいとは思いませんわ、ローザ夫人。恋と結婚は別物ですもの」
「別物?」
「ええ、恋は崇高すうこうで美しいもの。わたくしはそう思っております。現実とはかけ離れた夢ですのよ、ローザ夫人。ですが結婚は現実ですわ。現実に生きようとするなら、たとえ凡庸でも、わたくしはわたくしに寛容な若者を選びますわ。そうそう、家柄も釣り合っていなければいけませんわね?」
「恋する相手は結婚対象にはならないと?」
「わたくしの場合は、ですけれど」

 マデリアナが今一度くすりと笑い、ローザの顔を覗き込む。

「ローザ夫人はもう結婚されていますけれど、伯父のダスティーノ公に恋をしましたか?」

 ローザはどきりとする。マデリアナが訳知り顔で指摘した。

「ほら、オークション会場で、告白なさったではありませんの。伯父がいないと生きていられないと。びっくりしましたわ。でも、誰にも言いません。秘めた恋ですものね? 美しいですわ」
「秘めた恋……」
「ええ、とっても素敵な響きでしょう?」

 うっとりとしたマデリアナの表情を見て、ローザは気がついた。マデリアナは美しいと感じるものが好きなのだと……。至高の芸術品をこよなく愛するように、美しいと感じるものを愛してやまない。

「……わたくし、恋と結婚は同一のものと思っておりましたわ」

 ローザがぽつりと言うと、マデリアナが微笑んだ。

「ええ、そういう方もいらっしゃると思いますわ。わたくしは違うだけ。それでよろしいのでは?」

 マデリアナがそう言ってまたコロコロと笑った。ローザは不思議に思う。
 何故でしょう? 恋に関してはマデリアナ嬢の方が、ずっと大人のような気がしますわ。

「マデリアナ嬢はたくさん恋をしましたのね?」
「ええ、とても。初恋は五つの時ですわ。でも、今は仮面卿が一番ですわね。寝ても覚めても彼のことばかり。ええ、とても素敵な夢ですわ」

 あらまあ、本当におませさんでしたのね。でも、わたくしの場合は環境が悪すぎましたわ。いつだってお父様という巨大な壁が立ちはだかっていましたもの。

「わたくし、その、自分の気持ちが分かりませんの。誰が好きなのか分からず、迷ってしまって……。どうすれば自分の気持ちがはっきりするのでしょう?」

 マデリアナは不思議そうに首を傾げた。

「伯父の他にも恋を?」
「恋ではないと思いますが、主人のエイディーに……」

 ローザがそう告白すると、マデリアナはおかしそうに笑った。

「あらまぁ、では両思いではありませんか。仲がよろしくてうらやましいですわ」
「ですから、それが分からなくて……。どちらが本当に好きなのか、自分でも分かりませんの」

 ローザの返答に、マデリアナが目を丸くする。

「あら、ということは……どちらも気になるけれど、本命がどちらか分からないと、そういうことですの?」

 ローザが頷けば、マデリアナは細い顎に人差し指を当てた。

「わたくしは迷ったことがないので、よく分かりませんが……そうですわね、一度すっぱり別れてみるという手もありますわ」
「主人と?」
「ええ、近くにいすぎて分からないのかも。離縁までいかなくても、別居という方法もありますわ? 好きでしたら、そう……離れて寂しく感じるのではありませんか?」

 ローザはマデリアナの顔をじっと見返した。
 ええ、そうかもしれませんわね。ただ、バークレア伯爵家の再興という目的がある以上、別居は少々難しいような気がしますけれど。

「それはそうと、ローザ夫人は今年も剣術大会に出場なさいますの?」

 白薔薇の騎士として。そうささやかれ、ローザは頷く。

「ええ、もちろんですわ」
「ふふっ、それは楽しみですわ。そうだわ! 剣術大会にはドルシア子爵もいらっしゃいますか?」
「え? いえ、父は貴族が集まるような場所へは参りませんの」

 そう、父のドルシア子爵が貴族の会合に顔を出すことはない。エクトルのように親しい人物と顔を合わせたら、仮面を着けていても正体がバレる危険があるからだと、今ならば分かる。
 だから、父はわたくしを高位貴族との繋ぎに使った……

「そうですの。残念ですわ。まぁ、ドルシア子爵の正体が、処刑されたはずの元第一王子では致し方ありませんけれど」

 マデリアナがさらりと口にした言葉に、ローザは驚いた。
 これは宰相さいしょう様が教えた、ということですわね。

「……口が軽いと、父が怒りそうですわ」

 ローザがため息をつくと、マデリアナが笑う。

「あら、伯父のせいではありませんわ。強いて言うなら……わたくしの前で、伯父に正体を見破られてしまったドルシア子爵の失態ということでいかが?」
「……オークション会場での出来事は仕組まれたことですわ。わざと、ですのよ?」

 そう、お父様は宰相さいしょう様に会うためにオークション会場にまで足を運んだ。恐らくあの時、宰相さいしょう様に自分の正体を明かすつもりだったのでしょう。わたくし達が飛び入り参加しなければ、きっと父はそうしていたはず……
 マデリアナが言い添えた。

「でしたら、わたくしを信頼して下さった、ということでよろしいではありませんの。ふふ、わたくしの父はドルシア子爵と交流がありますのよ? ですから、わたくしを助けて下さったのでしょうね」

 マデリアナの発言にローザは目を見張った。

「父が助けた……? マデリアナ嬢を?」
「ええ、偽の仮面卿がわたくしに接触してきましたので、排除して下さいましたわ」
「偽……」
「ええ、偽ですわ。でも、そのお陰で仮面卿に会うことができましたので、わたくしは幸運とも言えますわね。本物の仮面卿に助けていただいたんですもの」

 ローザはやはり驚いた。
 そんなことまで……お父様の動きは本当に読めませんわ。

「わたくしも何かお手伝いをと申し出ましたけれど、けんもほろろに断られてしまいましたの。ねぇ、ローザ夫人、わたくしに何かしてほしいことはありませんの?」
「父の計画にわたくしは関与しておりませんので、申し訳ありませんが……」

 マデリアナが目を丸くする。

「あら、ローザ夫人は当事者ですのに」
「今更、ですわね。父の秘密主義はいつものことですわ」
「ふふっ、ローザ夫人は貴重な戦力だと思いますけれど……ああ、もしかしたらお父様は、あなたを守ろうと必死なのかもしれませんわね? 大事な愛娘ですもの」

 マデリアナの指摘には答えず、ローザは曖昧あいまいに笑った。父の真意は読めない。大事な愛娘……そうだったらどんなにか。思っても詮ないことではあるが……
 マデリアナのアトリエを後にし、夕暮れの街並みを馬車で移動していたローザは、窓の外に、花売りの少女が同じような年頃の子供達に囲まれ、べそをかいている様子を見て取った。ローザはとっさに口を開く。

「トーマス、馬車を停めて」
「へい、奥様」

 年老いた御者のトーマスが手綱を引く。ローザが馬車を降りると、侍女のテレサが付き従った。テレサは明るく人懐っこそうに見える女性だが、ドルシア子爵の密偵で腕が立つ。最近は護衛を兼ね、外出の際はこうしてローザの傍を離れない。

「あなた達、何をやっているんですの!」

 子供達の足下にはたくさんの花が散らばっている。恐らく花売りの少女の商品だろう。

「あ……」
「やべっ……」

 女の子に詰め寄っていた子供達が慌てて散っていく。地面に落ちている花をローザが一緒に拾い集めると、花売りの少女が「ありがとう」と小さく礼を言った。

「先程の子達は?」
「あ、その……花の代金をもらおうとしたら、枯れかけの花なんかに払う金はないって……それより迷惑料をよこせって……」

 どうやら売り上げを巻き上げられそうになっていたらしい。あんな子供までがゆすりたかりの真似をするなんて……ローザはため息を漏らす。

「そう、災難だったわね。お花を売ってもらえるかしら」
「でも、踏まれたから……」

 無残な有様になった花を手に、女の子はうなだれる。

「いいのよ、全部もらうわ」

 ローザが金貨を出すと、花売りの女の子の顔がぱっと明るくなった。

「ありがとう、お姉さん! 仮面卿みたいだわ!」

 そう言われ、ローザは面食らった。どこが似ていると言うのだろう?

「あたしはルナよ! 優しいお姉さん、良かったらまたお花を買いに来て!」

 急ぎ家路についたルナの背を見送っていると、テレサがくすりと笑い、「仮面卿は常に金貨を出します。普通は銅貨ですわ、奥様」とささやいた。ローザは納得する。
 ああ、そういうこと。気前が良いと言いたかったのね。

「父は平民の間では人気があるとか……」

 以前、ヴィスタニア帝国の皇帝ギデオンがそう言っていた。テレサが頷く。

「ええ。貧しい者には富を与えて下さいますし、小さな子供を大人の暴力から守って下さいます。時には恐ろしい制裁を加えますが、多くの者達が彼を必要としています」
「テレサ、あなたも?」

 いつも明るい笑みを浮かべてくれる彼女が、ふっと真顔になった。

「ええ、わたくしもですわ、奥様。仮面卿に拾われなければ今のわたくしはありません。きっと……ええ、どこかで命を落としていたでしょう」
「家族は……」
「いません。唯一の肉親であった兄は処刑されました。言いがかりもはなはだしい理由で」

 テレサの拳が震えているのをローザは見て取った。

「ハインリヒ陛下に?」
「ええ、そうです。原因は寵姫ちょうきですけれど……」

 テレサが悲しげに顔を曇らせる。
 原因は寵姫ちょうきマリアベル。なら、彼女の機嫌を損ねた、ということね。

「あの時のわたくしはまだほんの子供で、復讐しようにもその手立てもなく、途方に暮れておりました。そんなわたくしを拾って下さったのが仮面卿です。ですから仮面卿がわたくしの父親代わりで……も、申し訳ありません! 失礼なことを!」

 テレサがはっとしたように口元を押さえ、慌てて頭を下げる。

「いえ、いいのよ。ふふ、そうやって父を素直にしたえるあなたがうらやましいわ」
「……奥様は違うのですか?」
「どうしても恐ろしいと、そう感じてしまって。したうどころではありませんの」

 ローザの返答にテレサは驚いたらしい。

「奥様はお強いですが……それでも恐ろしいですか?」
「ええ。どうしても父の前に出ると萎縮いしゅくしてしまうわ」

 抱きしめても下さらないとそう不満に思いながらも、父との触れ合いを怖いと感じる自分もいる。
 よそよそしい父の態度を寂しく思いつつも、近づかれるのが怖くて仕方がないなんて、自分の気持ちなのに本当、ままなりませんわね。
 ローザは自分の手元に視線を落とし、そっとため息をついた。



    第三話 昨日の敵は今日の友


「……王座はいつ取り戻すんだ?」

 ドルシア子爵の真向かいに座る赤銅色の髪をした巨漢――ヴィスタニア帝国皇帝ギデオンが問う。ギデオンはローザの母親ブリュンヒルデの兄で、妹を溺愛していた彼はめいのローザをも溺愛している。
 二人がいるここはドルシア子爵邸の客間で、彼らの間にあるのはチェス盤だ。一度もドルシア子爵に勝てたことがないのに、ギデオンはこうして挑戦することをやめない。
 仮面の下の唇が言葉をつむぐ。

「すぐだ」
「すぐ、ねぇ……にしては王都は平和だな? 物資の移動は普段のままだし、武器の移動もなし。内乱の準備が整っているようには全然見えないぞ?」

 ギデオンがそう口にする。どうやらリンドルン王国の動きを探らせているらしい。

「……内乱など起こさない」

 ドルシア子爵の言葉にギデオンは目を丸くし、次いでにやりと笑った。

「はっ、それはまた、大きく出たな? 王冠を取り戻すとなると、お前とハインリヒとで権力が真っ二つに割れるんだぞ? 血を流さずにどうやって王座を取り戻すんだ? お前が冤罪えんざいだったと分かっても、ハインリヒの甘い汁にしがみつく阿呆は大勢いるぞ?」
「主要勢力は既に制圧済みだ」
「……あん?」
「一つ一つ薄皮を剥がすように……力を削いでやったとも。くっ、ははは、あの豚は勢力圏が入れ替わったことにも気づいていない。信じていた者達に、いや、自分の飼い犬だと思っていた者達に首を食いちぎられる様は、さぞ見物だろうな?」
「……はっ、これはこれは、品行方正な王太子様が随分ずいぶんと良い性格になったな?」

 そんな嫌みにも、ドルシア子爵の表情は変わらない。

「自分で自分の首を絞めたのはあいつだ。後ろ盾になっていた祖父の前バイエ公爵を粛清しゅくせいしたのだからな。それで勢力が完全にひっくり返った。自業自得だろう?」

 ドルシア子爵が告げた内容に、ギデオンが目の玉をひんいた。

「は? おいおいおい、まさかあいつが自分で? 正気か? 自分の味方だろう?」
「敵だと思わせてやればいい」
「思わせてやればって、そんな簡単に……」
「元々仲は良くなかった。そこにほんの少しの毒を混ぜてやっただけ。どちらも自分が一番でないと気が済まないたちだからな。火種さえ作ってやれば双方疑心暗鬼になり、勝手に争って自滅する」

 ドルシア子爵の手が動き、コツンと駒を置いた音が響く。ギデオンが仮面をかぶったドルシア子爵の顔をめつけた。

「……ほんっと良い性格になったな、お前……」
「お前は変わらんな?」
「ああ、ああ、馬鹿だって言いたいんだろ? 聞き飽きたよ」

 ギデオンの言いように、ドルシア子爵がふっと笑う。

「チェックメイト」

 ギデオンの腰がソファから浮いた。

「ああああ! これで二百回目の負け!」
「違う、二百二回目だ」
「んな細かいこといーんだよ! 少しは花を持たせろ!」
「……お前の場合、手が単純すぎる。戦術は組み立てるな」
「いちいち腹立つぅ!」

 ギデオンが赤銅色の髪をかきむしる。そこへノックの音が響いた。

「失礼します、旦那様」

 現れたのは銀髪の執事、ザインだ。王家の影だった男で、今はドルシア子爵の手足として働いている。ドルシア子爵はザインから受け取った紙片に目を通し、ぐしゃりとそれを握りつぶした。立ち上がって、暖炉にその紙片をべる。

「どうした?」

 それが爆ぜる様子を見守ることもなく動き出したドルシア子爵を、ギデオンが呼び止めた。

「……ローザがあの豚に見つかった」
「え? あの豚って……まさかハインリヒか⁉ おい、ちょ、ま、待て。だったら俺も行くぞ! あんな野郎にローザちゃんをいいようにされてたまるか!」

 皇帝になってからは「私」と口調を改めていたギデオンだったが、気が緩むと「俺」になってしまうようだ。扉に手をかけたドルシア子爵が足を止め、ギデオンを振り返る。

「そうだな。だったら……ハインリヒに会って、ローザを側室にしたいとごねろ。ブリュンヒルデ失踪の一件を水に流し、国交正常化のために必要だと言え」

 ドルシア子爵の要求に、ギデオンの顎ががくんと落ちた。リンドルンの王太子妃となったブリュンヒルデは、オーギュストの処刑から約ひと月後に王城から姿を消し、現在も行方ゆくえ知れずとなっている。その件でヴィスタニア帝国とリンドルン王国の仲はこじれにこじれ、今やほぼ国交断絶状態となっていた。

「はぁ? 側室って……ローザちゃんはめいだぞ?」
「振りだ、たわけ。協力する気がないのなら国へ帰れ。国境までザインに送らせる」
「ああ、分かった、分かったよ。協力するって」

 ぶつぶつ言いながら、ギデオンは黒い重厚な背を追う。

「皇帝である俺の協力がないと困るんだろ? だったら素直にお願いしますと――」

 ギデオンの言葉を、うなるような声がさえぎった。

「お前の協力を得られず、ローザに無体な真似を強いるようなら……あの腐った豚を薬漬けにしてやるまでだ! あの豚は建国記念祭まで生きていれば、それでいい」

 ギデオンが首をひねる。


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