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3巻
3-1
しおりを挟むプロローグ
旦那様の様子がおかしいですわ……
ローザがそう感じ始めたのはいつくらいからか。
バークレア領地の視察から帰ってきて、間もなくかもしれない。
数ヶ月に及ぶ領地視察で、エイドリアンは領主としてひと回りもふた回りも大きく成長した。勝手に代官を名乗っていたユースト・ハイゼンをお縄にし、農作物の上前を撥ねていた盗賊『銀ギツネ』にはきっちり仕置きを加え、銀ギツネの頭領であったベネット・グインを含めた盗賊団は全員、領主であるエイドリアンの手下になった。
領地内の馬の育成事業は新規販路開拓で息を吹き返し、隣接しているブロワ領からの横暴も見事に解決してのけ、今ではエイドリアンに対する領民達の信頼は回復している。
領地にはびこっていた数々の問題を解決し、こうして意気揚々と王都に帰ってきたはずなのに、どうしてかエイドリアンに元気がない。
「旦那様、どうなさいましたの?」
ローザはそう声をかけた。そして、執務机に向かっているエイドリアンの手元を見て首を捻ってしまう。先程から、手にした本のページが全然進んでいない。
「あ、いや、なんでもない」
エイドリアンが取り繕うように笑うので、ローザはますます怪訝に思う。
やはり覇気がありませんわ……。どう見ても意気消沈していらっしゃいます。お城で何かあったのでしょうか?
「ご一緒に庭を散歩しませんか?」
ローザはそう誘ってみた。芋畑にしてしまったバークレア伯爵邸の庭とは違って、ここダスティーノ公爵邸に広がるのは、手入れされた美しい庭園だ。気分転換になるかと思ったのだが、エイドリアンは意外そうな顔をした。
「私と? 宰相閣下とではなくて?」
まるで念押しするかのようである。そこでローザははたと気がついた。
あら、そういえば、宰相様も今日はダスティーノ公爵邸にいらっしゃいますわね。でも、わたくしが今お誘いしたのは旦那様ですわ。
「ええ、旦那様と……」
頷きかけて、ローザはふと口を閉じる。
「エイディーとですわ」
にっこり笑ってそう言い直すと、エイドリアンの顔がぱぁっと明るくなった。ローザはくすくすと笑ってしまう。
あら、本当に可愛らしいですわ。まるで尾っぽを振る子犬のよう。ふふ、こうまで喜ばれると、なんだかこちらまで嬉しくなってしまいますわね。
エイドリアンの差し出す腕を取り、エスコートされる形で庭に出た。
思った通り、ダスティーノ公爵邸の庭園はとても美しい。薔薇が咲き誇る温室に入ると、エイドリアンが庭師に声をかけ、白薔薇を一本手折ってもらった。
「君の髪に」
白薔薇を髪飾りに? あら、嬉しいわ。ありがとう。
少しばかりぎこちない手つきで、エイドリアンがローザの髪に白薔薇を飾る。
「似合うよ」
ふふ、旦那様の笑顔も素敵ですわ。これは掛け値なしの本音ですわよ? 最近、旦那様のお顔に嫌悪を感じなくなったせいでしょうか、素直に素敵だと思えますもの。
「お仕事は順調ですの?」
ローザが問う。エイドリアンは今、王城でこなしていた仕事――文書整理の残務処理をしていた。これから本格的に領主の仕事に専念するためだ。
「ああ、私の方はね。けれど宰相閣下は大変みたいだ」
大変? 宰相様は口が堅いので、ここは一つ、旦那様から聞き出した方が良さそうですわね。
ローザが話の先を促すと、エイドリアンは知っている情報を教えてくれた。
「第二王子のカール殿下と、第三王子のパトリス王太子殿下のいざこざの仲裁に入って、神経をすり減らしているみたいだよ。なんて言うか……エレナ・リトラーゼ侯爵令嬢の取り合いになっているみたいだ」
「エレナ様が板挟みに?」
エイドリアンが頷く。
「そう、パトリス王太子殿下も彼女と結婚したいらしい」
そのお二人が候補なら、お相手はきっと、パトリス王太子殿下になるでしょうね。あちこちで子供のような振る舞いをなさるカール殿下は素行に問題がありますもの。
「エレナ様のお気持ちは?」
ローザがそう問うと、エイドリアンは難しい顔をした。
「それが……困ったことにどっちも嫌みたいだね。相談役になっている宰相閣下に泣きついているみたいだよ。なんとかしてほしいって」
あらまぁ……第三王子のパトリス王太子殿下も駄目なんですの?
ローザは意外に思った。
パトリス王太子殿下は、第一王子のアムンセル殿下のような華はありませんけれど、彼のように横暴ではありませんし、頭も悪くはありません。そこそこ人気があったはず。そこまで嫌がる要素はないような気もしますが。
エイドリアンが苦笑する。
「カール殿下を虐めるのが嫌みたいだよ」
虐め?
「自分の優秀さを強調しようとして、カール殿下の悪口を言うのが嫌みたいだ。まぁ、第三王子はまだ成人前だろ? 王太子って言っても、まだ子供みたいなものだからしょうがないのかもな」
確かに成人は十六歳ですけれど、十五歳は十分に分別のつく年齢だと思いますわ。
けど、まぁ、大体分かりましたわ。
エレナ様のところへ一方的に押しかけるカール殿下を、パトリス王太子殿下がちくちく虐めるんですわね。それが嫌でしょうがないと……。といっても、貴族の結婚はほぼ父親の意向で決まりますから、エレナ様が嫌がっても、恐らくどうにもなりませんわね。
「気になるか?」
「ええ、エレナ様がお気の毒ですわ」
そう、政略結婚は他人事ではない。
ローザがほうっとため息を漏らすと、エイドリアンが困ったように言った。
「いや、そうじゃなくて。ほら、宰相閣下はリトラーゼ侯爵令嬢と、その、親密にしている」
「ええ、宰相様はお優しい方ですから、相談に乗って差し上げているのでしょう。エレナ様がアムンセル殿下の婚約者だった時からそうでしたもの」
本当にエレナ様は婚約者に恵まれませんわね。せめて、良好な関係を築ける相手と婚約できればいいのですけれど……
ローザから漏れ出るのはまたまたため息だ。
「いや、だから、君は宰相閣下が好きなんだろう? 焼き餅とか……」
焼き餅……わたくしが、エレナ様に?
ローザはきょとんとする。
「宰相様がエレナ様といい仲になりそうですの?」
「さあ? それは分からないけれど……」
「では、お仕事なのでしょう? 焼き餅を焼くようなものではないと思いますけれど」
「そういうもんか?」
エイドリアンは複雑そうだ。
焼き餅……。あら、でもそういえば、宰相様にそういった気持ちは湧きませんわね。恋をしたのも初めてですし……恋心なんて本当によく分かりませんわ。掴みどころがありません。
ローザは隣を歩くエイドリアンの横顔をじっと見つめた。
――エイディー!
思い出すのはやはり、エイドリアンが殺されると思ったあの瞬間である。今でもあの時のことを思い出すとひやりとしてしまう。エイドリアンが足を止め、こちらを覗き込んできた。
「キスしてもいいかな?」
ローザは笑ってしまった。
「夫婦ですのよ? いちいち断らなくても大丈夫ですわ」
本当に旦那様は律儀ですわね。
「そりゃ、本当の夫婦なら……」
エイドリアンは再度苦笑して、身をかがめた。
「愛しているよ、ローザ」
そう告げて、そっと唇を重ねる。本当に軽く触れるだけの……
顔が離れると、ローザは怪訝そうに自身の口元に手を当てた。やっぱりおかしいと、そう思ったからだ。遠慮されているような気が、どうしてもしてしまう。見上げると、目に映るのは黒髪の美貌の伯爵様だ。柔らかな眼差しがローザを包み込むよう。
ええ、父とは全然違います。だからでしょうか、嫌な感じは全くありません。むしろ可愛い、彼の場合はそう思ってしまう……綺麗な顔は苦手なはずなのに、どうして?
「……エイディー、どうしましたの?」
ローザはエイドリアンの頬にそっと手を添えた。顔は笑っているのに、何故か泣いているようにも見えて、胸を締めつけられて仕方がない。
本当にどうしたんですの?
「なんでもないよ、こうして君といられるだけで嬉しいんだ」
エイドリアンはそう言って笑い、頬に添えられたローザの手を握った。慈しむようにその手に接吻をし、そのまま手を引いて歩き出す。
ローザの口元が自然とほころんだ。
なんだかくすぐったいですわ。手を繋いで歩くなんて、ふふ、子供みたいですわね。小さなウォレンとおっきなウォレン。どちらも愛しくてたまらない。
「次はウォレンも一緒に散歩しましょうか」
ローザがそう言うと、エイドリアンも笑う。
「そうだね。そうしようか」
何気ない日常の何気ないやりとり、でもそれが限りなく愛おしい。
第四章 君の微笑みよ永遠なれ
第一話 愚者の選択
「わたくしの結婚相手は、やっぱりパトリス殿下でしょうか?」
ある晴れた日のこと。ローザにそう問うたのは侯爵令嬢のエレナである。意気消沈しているように見えた。今はローザとのお茶会の真っ最中で、目の前には美味しそうな菓子の数々が並んでいるにもかかわらず、心は晴れないらしい。紅茶のカップを手にしたローザは頷いた。
「ええ、そうですわね。なんと言ってもパトリス殿下は王太子ですし、最有力候補だと思いますが……エレナ様のお父様はなんとおっしゃっていますの?」
「それが……他に好きな人はいないのかと聞かれました。いるのならそちらを検討すると……」
あら、好きにして良いということですの? リトラーゼ侯爵様は随分と子煩悩……ではなくて、もしかして、ハインリヒ陛下が近々失脚することを知っているのかしら?
ローザはその可能性を鑑みた。
……ありうる。父のドルシア子爵が懇意にしている高位貴族には、リトラーゼ侯爵も含まれている。だとするなら、ドルシア子爵が元第一王子のオーギュストだと知らされ、王座奪還に協力している可能性もある。であれば、王太子との婚約は避けようとするだろう。自分の娘を、失脚することが確定している男の妻にしたいわけがない。
ローザはエレナに目を向けた。ブラウンの髪の楚々とした女性だ。無垢な笑顔が愛らしい。ローザはエレナに柔らかく笑いかける。安心を誘う笑みだ。
「エレナ様には好きな方がいらっしゃいますの?」
「え、その……気になる方はいます」
エレナが手をもじもじさせる。
あら、でしたら……
「お見合いなさってはいかが?」
「でも、二十五歳も年上です。父とさほど年が変わりません。なんと言われるか……」
二十五歳も年上? なら、エレナ様の思い人は、わたくしの父と同い年ということになりますわね。お父様と同い年……
――ほら、宰相閣下はリトラーゼ侯爵令嬢と、その、親密にしている。
ふとエイドリアンの言葉を思い出し、ローザははたと気がついた。
「もしかして、お相手はダスティーノ公爵様ですか?」
ローザがそう尋ねると、エレナの体がびくりと震え、顔がかぁっと赤くなる。
あらまぁ、本当にエレナ様は純情で可愛いらしい方ですわね。
「ええ、お気持ちは分かりますわ。宰相様はとっても素敵ですものね?」
ローザがそっと耳打ちすると、エレナの顔がぱっと明るくなった。
「そ、そうなんです! 頼り甲斐があって格好良くて、思いやりがあって優しくて……」
勢い付いたエレナの褒め言葉が延々続き、ローザもまたうんうんと頷く。
ええ、そうでしょうとも、そうでしょうとも。ほら、ご覧なさい、旦那様。見る目のある女性は皆宰相様を素敵だとおっしゃいますのよ? 少しは見習って下さいませ。
エレナがふっとうつむいた。
「でも、年が違いすぎて子供扱いされそうで、その……」
「あら、大丈夫ですわ。これから素敵な大人の女性になればいいだけですもの」
そう太鼓判を押し、ローザはふと思う。
――君は宰相閣下が好きなんだろう? 焼き餅とか……
焼き餅……あら? やっぱり焼きませんわね。むしろ宰相様を褒められて浮かれましたわ。エレナ様と一緒に宰相様を褒めちぎりたい気分です。となるとこれは恋ではない? あらぁ?
本格的に悩み始めたローザであった。
◇◇◇
「ねぇ、陛下、私が王妃になることはできないの?」
寵姫マリアベルが王妃エヴリンへの不満を露わにする。マリアベルは頭のいい女性が大っ嫌いだった。平民生まれの自分を見下されているような、嫌な気分になるからだ。自分にないものをひけらかす嫌みな女、そんな認識である。
今は酒宴の真っ最中で、踊り子達もいる。ハインリヒは自分の体にしなだれかかったマリアベルの肩を抱き、踊り子達の刺激的な踊りに見入っている。
「気に入りませんわ。陛下にちっとも愛されていないくせに、大きな顔をして。ほんの少し頭が良いからって、何様のつもりなのかしらね」
ぐびりと酒を呑み、ハインリヒが言う。
「……お前を王妃にするのは無理だ。流石に元平民の王妃ではいろいろと問題が出る」
「でも、陛下はなんでもできるでしょう? 私を王妃にすることだって……」
「マリアベル。あれはあれで重宝するのだ」
ハインリヒはそう言ってマリアベルを宥めた。
「重宝?」
「そうだ。あれがいろいろと必要な雑用をこなしてくれる。煩わしい政務から解放されるからこそ、こうしてお前とゆっくりできるというわけだ」
「あら、だったら下女と同じね」
マリアベルがふふんと鼻を鳴らす。
「ははは、そういうことだ」
ハインリヒが酒を口にし、上機嫌で言った。
「そういえば、もう一人気に入らない女がいるわ」
「うん?」
「ほんのちょっと綺麗だからって、それを鼻にかける嫌な女。どこへ行っても、みんながあの女を褒めるの。『夜会の薔薇』なんて言われていい気になって、気に入らないわ。ねぇ、陛下。あれを修道院に送ることはできないかしら?」
ハインリヒがにやりと笑う。
「ほう、お前の不興を買ったか。どんな女だ?」
「どんな……そうね、陛下の部屋に飾られている女の絵によく似ているわ」
「何⁉」
途端、ハインリヒの顔つきが変わる。
「あれに似た女? どこの誰だ? 名は?」
勢いよく肩を掴まれ、マリアベルは戸惑った。
「え? ええっと……ローザ? そんな風に言われていたわ」
「姓は? 爵位は?」
「さ、さあ? よく覚えていな――きゃあ!」
突然頬を叩かれ、マリアベルが悲鳴を上げる。
「それくらい覚えろ、この役立たずめが!」
「へ、陛下?」
ハインリヒの激変についていけず、マリアベルは大きな体にすがりついた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、陛下、許して……」
「ああ、もう、いい! フェイン!」
傍に控えていた近衛兵を呼びつける。王妃エヴリンの弟だ。
「マリアベルが言うローザという女を捜せ、いいな? 余のところへ確実に連れてこい」
「御意」
フェインが一礼して立ち去ると、ハインリヒは謝り続けるマリアベルをその場に放置し、自室へ戻る。肖像画の中で微笑む女性の姿に目を細め、ハインリヒはにんまりと笑った。ブリュンヒルデ・ラトゥーア・リンドルンの肖像画だ。
「お前に似た女か……面白い。もしお前の面影を宿していたら、絶対ものにしてやる。今度こそ逃がさないからな」
ハインリヒはそう呟いた。
――本当ならお前が王太子だったんだ。
これはハインリヒの母親の言葉だ。オーギュストを見かける度に、ハインリヒの母親ジョセフィーヌが何度そう口にしたか分からない。自分が王妃になるはずだったのだからと。正統な後継者はお前のはずだったのにと、呪詛のようにそう言い聞かせた。
そうだ、この女は余のものになるはずだったんだ。それを兄上が横取りした。
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忌々しい。あいつさえ、あいつさえいなければ……
――この私が王太子だった。
記憶の中のハインリヒがそう口にする。それは母親の呟きそのものだったろう。母親が死去し、支配から自由になっても、彼はその妄執から逃れられない。王太子の座に固執し、王になることに執念を燃やした。まるで母親の写し絵のように……
――この私こそが正統な跡継ぎだ。
ハインリヒがそう口にすれば、バイエ公爵の息のかかった従者達はハインリヒを褒めそやす。そうですとも、あなたこそが王に相応しい、と……
そうだ、自分こそが王に相応しい。
――ご機嫌麗しゅう、兄上。
ハインリヒは笑顔の奥に憎悪を押し隠した。それは母親の仕草そのものだ。憎しみでいっぱいになった心を笑顔の奥に押し込め、虎視眈々と相手が失脚する隙を狙う。だが、その隙がどうしても見当たらない。オーギュストは優秀すぎたのだ。問題が起こる前に解決してしまう。
いっそ暗殺を……
そんな考えが頭をもたげたが、バレれば自分を処分する格好の口実を与えてしまう。下手な真似はできない。そして、オーギュストが王太子としての地位を不動のものにすればするほど、ハインリヒは兄に対する鬱屈した思いを抱え、憎しみを募らせることになる。
あいつさえいなければ、と……
オーギュストへの憎しみが決定的になったのは、恋した女を取られた瞬間か。
幼い頃はおてんばだったブリュンヒルデを、ハインリヒは「出しゃばり女」と蔑み遠ざけたが、大きくなっておしとやかになればそんなことはすっかり忘れ、彼女の美しさにのぼせ上がった。なにせヴィスタニア帝国一の美女と言わしめたほどの美貌である。
ブリュンヒルデが十六歳の時、彼女と結婚したいと父王に打診したが、ブリュンヒルデは既にオーギュストの婚約者だと言われ、ハインリヒは仰天した。
――発表前だが、これは決定事項だ。
父王にぴしゃりと言われ、ハインリヒは歯噛みした。
横取りしやがって!
ハインリヒが吐き捨てる。
そうだ、この女は私のものだ。いつか、いつか絶対に取り返してやる。次期国王の座も何もかも……今に見ていろ!
そんな気持ちを持て余していたある日のこと。ヴィスタニア帝国第二皇子のヨルグが「滅びの魔女の手記」とやらを持ってきた。それは不完全な写本だった。魔女の秘薬の作製方法が記されているが、ところどころ抜けている。
不死の秘薬? 馬鹿馬鹿しい……
ハインリヒはそう思ったものの、リンドルン王家に伝わる秘蔵書の写本だと聞かされ、なんとなく気になった。「不死」がもし本当だったら? そんな考えがむくむくと湧き起こる。
そういえば、聖王リンドルンは滅びの魔女を討ち滅ぼしている。もしかしたらそういった神秘の技が記されているのかもしれない。ハインリヒはそんな淡い期待を持って原書を読もうとしたが、読めなかった。記された文字は古代語だったのだ。
古代語に堪能な者をと考え、ハインリヒは神官長に解読させることにする。
解読には随分と時間がかかったが、その内容は恐るべきものだった。これは不死の秘薬ではない。まさに滅びの秘薬そのものだ。
秘薬を飲んだ女は、意中の男への憎しみを周囲の人間に植えつけることができるだと? 恋した男を破滅させる秘薬とはな……本物か? 本物ならオーギュストを慕う女を利用して、あいつを王太子の座から引きずり下ろせる。この私が王になれる! 周囲が敵だらけになるのだからな! 本物かどうかを確かめる方法……そんなもの分かりきっている。実際に作って実験してみればいい。
そうして白羽の矢を立てたのが、当時薬師として名を馳せていたダスティーノ公爵令嬢のエヴリンだ。彼女ならこの意味不明な薬の作り方も理解できるに違いない。
――好きな男をものにできるそうだ。
ハインリヒが言葉巧みに欲望を煽れば、エヴリンは興味を示した。ハインリヒの口角が上がる。
やはりな……。ああ、分かっていたとも。お前の目はいつだってオーギュストを追っていたからな。オーギュストが婚約し、一旦は諦めたようだが諦めきれまい? 私がブリュンヒルデを諦められないように。
秘薬が完成した当初は気軽に試してみたが、これが失敗だった。三人の女は全員死んだ。秘薬は適合者でないと効果を発揮しないようだ。が、不適合者への副作用たるや凄まじい。三人の女はみるみるうちに干からび、ミイラのようになったのだ。眉唾ものだった思いが、一気に吹き飛んだ。
これは……本物かもしれない。
ハインリヒの中にぞくぞくとした愉悦が湧き上がる。
こんな効果を発揮する薬、他にどこを探せば見つかるというのか。いや、ありはしない。まさしく魔女の秘薬だ。適合者を探して貴族平民を含めた百人近い女が死んだが、構うものか。奇跡的にケイトリンという平民女が生き残った。こいつがいれば十分だ。
――あたい、オーギュと添い遂げられるようにね、今、呪術をかけてるの。絶対離さないんだから。あたいのオーギュに近づく女は全員殺してやる。
そう言って、ケイトリンはけらけらと笑う。オーギュストを自分の運命の恋人だと言って憚らない。面識すらないというのにだ。頭が少々おかしいと思ったが、そこもまたどうでも良かった。目的を達成したら殺せばいい。
秘薬を飲んだ女、ケイトリンから抜き取った血を、軍会議での祝杯に入れて振る舞った。タルトリア王国との平和調停が結ばれた祝杯だ。集まった重鎮も騎士も、一斉に杯を口に運ぶ。
効果は……あった! あったぞ!
ハインリヒは歓喜し、狂喜乱舞した。オーギュストに対する悪意を撒き散らす者が現れ始めたのだ。オーギュストは今回の平和調停の一番の功労者だというのに、である。
本物だ! 本物だ!
オーギュスト殿下よりハインリヒ殿下の方が王太子に相応しい! 誰かがそう叫び、そうだそうだと、次々呼応する者が現れる。
いいぞいいぞ、ははは!
ハインリヒがそう喜んだのも束の間。
――何を言っている、お前達! 気が触れたか? 王太子はオーギュストだ!
烈火の如く怒ったのは父王だ。
父王とオーギュストの気質はよく似ていた。兄のオーギュストも普段は温厚だが、怒らせると今の父王のように苛烈である。鍛え上げられた衛兵ですら腰を抜かす。こうして、鬼神の如く……そんな風に喩えられるほどに怒る姿は、瓜二つ。
――私が王太子と認めたのは第一王子のオーギュストだ。お前達、私に反旗を翻す気か? このたわけどもが! 反逆罪で処刑されたいか!
ハインリヒは動揺した。
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