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2巻

2-3

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 わたくしの目の色に合わせたのかしらね? 流石さすがですわ、お父様。目利きのお父様が選んだだけあって、素晴らしい一品です。

「夕食の席で着けてみますか? 旦那様が喜ぶと思いますけれど」
「いいえ、やめておくわ。仰々しすぎるもの」

 アンバーの申し出を、ローザはやんわりと断った。

「左様でございますか」

 アンバーの残念そうな様子に、ローザは苦笑する。
 ええ、たかが夕食の席でこれは大げさすぎますわ。素晴らしく豪奢ごうしゃで重々しい。まるで王族が着けるような首飾りですもの。本当にお父様はちぐはぐです。
 温かな言葉一つかけて下さらないのに、わたくしへの配慮はいつだってきめ細やかで、驚かされてばかりいます。わたくしの好きな食べ物、好きな色、好きな書物、父はなんでも知っていますから、贈り物で気に入らなかったものなどありませんでした。
 父の心が分かりませんわ……。愛している、本当に? 信じたくても信じられないのは、冷酷無比な人柄のせいでしょうか? 何故か父に対する恐怖心が消えてくれません。父の前へ出れば、どうしても恐ろしさに身をすくめてしまいます。
 血に染まった父の手と赤い薔薇……
 本当にこの記憶は一体なんなのでしょう?


 ドルシア邸の夕食の席はとても静かだ。傍に控える侍女侍従達は、こそりとも音を立てない。息が詰まりそうなほどの静寂である。
 ローザにとっては見慣れた光景だ。テーブルに並ぶのは彩り豊かな素晴らしい料理の数々だが、会話らしい会話もなく、やはり寒々しい。黙々と料理を口に運ぶだけである。
 ローザがちらりと目を向ければ、仮面を着けた父親の姿が映る。
 お父様が仮面を外すのは、わたくしと二人っきりの時だけ……。本当に徹底していますわね。

「お嬢様、お味はいかがでしたか?」

 デザートを運んできた料理長が、ローザに尋ねた。

「ええ、とても美味しかったですわ」
「それはようございました」

 料理長が老齢の顔をほころばせた。ドルシア子爵には何も尋ねない。これもいつものことだが、ローザは不思議に思う。どうして主人であるドルシア子爵には、料理の出来を尋ねないのか……。普通であれば、真っ先に尋ねるべき人物である。
 何を食べても美味しいと言わないからでしょうか?
 ローザは下がった料理長の背を見送り、父親であるドルシア子爵に目を向けた。

「お父様、お食事はどうでしたか?」
「……問題ない」

 ドルシア子爵の返答に、ローザはため息をつきそうになる。これもまたいつも通りの返答だ。
 やはり、美味しいとは言いませんのね。とても素晴らしい料理だと思いますけれど。
 ローザの視線を感じ取ったか、ドルシア子爵が言い直す。

「お前が美味しいと思う料理なら、それで問題ない」

 そうですの……

「お父様、宝石とドレスをありがとうございました」

 ローザが礼を口にすると、ドルシア子爵が薄く笑った。

「気に入ったか?」
「ええ、とても」

 あれを気に入らない、などと言う人はいないでしょうね。

「そうか」

 笑うドルシア子爵の顔を、ローザはじっと見つめる。
 不思議ですわ。この瞬間だけ、冷たいお父様の顔にわずかな温もりが宿ったかのよう。そう、幼い日、抱っこをねだったわたくしを抱き上げて下さった時のように……


 翌日、ローザがダスティーノ公爵邸へ帰ると、ウォレンが迎えてくれた。幼い彼はエイドリアンのおいで、ローザを母親としてしたっている。まだまだ甘えたい盛りだ。

「おかあしゃま!」

 廊下の奥から、てとてと走ってくるウォレンの姿に、ローザは顔を輝かせた。ウォレンを抱き上げて頬にキスをすると、ウォレンがくすぐったそうに笑う。くるくるとした茶の巻き毛がまとわりつく。ぷにぷにほっぺはリンゴのようだ。


「ただいまですわ、いい子にしていましたか?」

 うふふ、可愛いですわぁ。最近は真っ先にこうしてお迎えしてくれます。

「はいですぅ。いい子、いい子、してました! もう一回キスしてくだしゃい!」

 お願い通り、もう一度キスをすると、にぱっとウォレンが笑う。

「ローザ、どうだった?」

 そう尋ねたのは、執事のセバスチャンを連れたエイドリアンだ。

「部屋に行きましょうか」

 ローザは真面目な様子でそう言って、移動を促した。
 ウォレンをセバスチャンに預け、エイドリアンと共に応接室へ移動する。侍女のテレサにお茶をれてもらい、彼女が退出したところで、ローザは切り出した。

「旦那様は王配になる覚悟がおありですか?」

 エイドリアンはぽかんと口を開けた。
 ええ、気持ちは分かります。

「それって……」
「ええ、そういうお話でしたわ。父の正体は旦那様が思っている通り、第一王子のオーギュスト・ルルーシュ・リンドルンです。そして、父はわたくしを女王にするつもりだとおっしゃいました」
「女王……」

 ぼんやりとエイドリアンが呟く。

「ええ。父が言う以上、父は必ず冤罪えんざいを晴らし、王室に返り咲くでしょう。その件についてわたくしは関与しておりませんので、詳しいことは分かりませんが……それでもその結果は分かりますとも。そこで最初の質問に戻ります。旦那様、王配になる覚悟がおありですか?」
「……やっぱり父王殺しは冤罪えんざいなのか?」

 エイドリアンの質問に、ローザが頷く。

「そうか……」

 エイドリアンは両手に顔を埋めた。

「いきなりすぎて……」

 そうでしょうとも。それはわたくしも同じですわ。父のあの厳しい教育を受けてきたわたくしでさえ戸惑うのですから、旦那様が戸惑うのも無理はありませんわ。
 ソファに腰掛け、体を丸めるエイドリアンを、ローザはじっと見下ろした。
 たとえ逃げ出したとしても、嫌だと思ったとしても、それは自然なこと。無理強いするつもりはありませんわ、旦那様。ようく考えて下さいまし。わたくしも父から女王の話を振られた当初は面食らい、放り投げたい、そんな風に思いましたもの。
 ローザは気持ちを引き締め、エイドリアンに向き直った。

「それともう一つ、お伝えしておかなければなりません」
「他にも何か?」
「旦那様のお父様の死因について、ですわ。旦那様のお父様はわたくしの父の身代わりになって亡くなりました。処刑されたのは当時のバークレア伯爵ですの」

 エイドリアンは心底驚いたようだ。ソファから腰が浮く。
 ええ、ショックですわよね。

「どうして!」
「ご自分で身代わりを買って出たとか……」
「父が自分から?」
「そう聞いております」
「……冤罪えんざいだったからかばったのか?」
「おそらく」

 エイドリアンは口を閉じ、どさりとソファに座り直した。

「もしかして、それが功績? 仮面卿がバークレア伯爵家を復興させようとした理由なのか?」
「だと思います」
「借金を肩代わりしてくれたのは、命の値段だったんだな……」

 エイドリアンが大きく息を吐き出す。

「わたくしの父を恨みますか?」

 ローザは単刀直入にそう尋ねた。
 身代わりを買って出たとは言え、少なくとも先々代伯爵を喪失したことが、バークレア家が没落しかける一因にはなったはずだ。寂しい思いも、辛い思いもきっとたくさんしたはず……。たとえ父を恨んだとしても無理もない、ローザはそう考える。
 旦那様から責められるのは、応えますけれど……
 何故そう思ったのか分からないまま、ローザはぐっと気を引き締める。殴られる直前の人間が身構える心境によく似ていた。

「……正直言ってよく分からない」

 ややあって、エイドリアンが口にした言葉はこれだ。ローザは目をぱちくりさせる。拍子抜けしたと言ってもいい。
 罵詈雑言ばりぞうごんを予想していましたのに……

「父親の失踪を聞かされたのはたった五つの時だったし、その後の生活に変化がほとんどなかったせいもあって、喪失感が稀薄だったんだ。私を取り巻く世界は相変わらず平和で、財政難におちいったのは、家督を継いだ兄がギャンブルにおぼれ出してからだから、ああ、いや……」

 エイドリアンが首を横に振る。

「財政難におちいっていると私が本当に実感したのは、間抜けなことに兄が死んだ後なんだ。ドルシア子爵が援助してくれていたことも知らず、大丈夫だってずっと思っていて……本当はとっくのとうに潰れていてもおかしくない状態だったというのに、呑気に……」

 ローザが口を挟んだ。

「お父様が生きていれば、お兄様もギャンブルに走ることはなかったかもしれませんわ?」
「……かもしれない」

 エイドリアンが同意する。

「でも、セバスチャンは私によくこう言ったんだ。立派なお父君だったと。私はその父をずっと尊敬していた。多少美化はしていても、ずっとずっとそうだったんだ。なぁ、ローザ。父はきっと、君の父親を命をかけるに値する主君だと、そう思ったんだと思う。だったら、その息子である私が主君を責めてどうする。私は父を誇りに思う」

 ローザは驚き、次いで胸が詰まった。じわりと涙が浮かびそうになる。
 意外ですわ。旦那様はちっとも貴族らしくありませんのに、臣下として一番必要な資質を持っていらっしゃるんですのね。主君のために全てを投げ出せる臣下は、本当に貴重ですわ。
 エイドリアンがぽつりと言う。

「……ローザ、私に王配が務まると思うか?」
「どうでしょう?」

 前向きなエイドリアンの言葉をまたまた意外に思いつつも、ローザは返した。
 王配になる覚悟があるということですの? 王族の重責は……いえ、今それを論じても仕方がありませんわね。

「はっきり言ってくれ」
「そうですわね。王になるのはわたくしですから、旦那様は補佐という形になります。王と王妃という関係を見ても分かるように、采配を振るのはあくまでわたくしですから、そこまで気負う必要はないかと……。もちろんそれなりの教育が必要だとは思いますが、一番の問題は父ですわね」

 エイドリアンの口元がひくりと引きつった。

「父に認められるか認められないか、これに尽きると思いますわ。王配が務まる務まらない以前に、今のままでは放逐ほうちくされて終わりのような気がいたします」

 ローザはじっとエイドリアンの顔を見つめた。
 わたくしは旦那様のことをどう思っているのでしょう?
 ――私に王配が務まると思うか?
 旦那様はこうして、添い遂げる意志を見せて下さっています。でも、わたくしは? 旦那様は黙って立っていれば見目うるわしい若者ですが、何故でしょう? ときめきません。
 ローザは両手で、エイドリアンの頬をぐにいっと左右に引っ張った。

「ろ、ろーじゃ?」

 ローザはぷっと噴き出す。
 あら、間抜けなお顔。こちらの方が、ふふ、可愛らしいですわね。……って、どうしてこっちの方がいいんですのぉ? 自分の感性を疑ってしまいますわ。
 ハンサムなきりりっとしたお顔は、どことなくお父様を彷彿ほうふつ……ああ、もしかしたらわたくし、父親アレルギーでしょうか? ハンサムな顔が全部駄目? でも、宰相さいしょう様はとっても素敵……ですけれど、父とはタイプが真逆ですわね。
 ああ、それで大丈夫でしたの? 宰相さいしょう様の素敵なお顔は、柔らかな春風のようで、父はどう見ても厳しい北風のよう。ええ、全然違いますわ。とどのつまり、わたくしは父親を彷彿ほうふつとさせる容姿が苦手? それで旦那様のお顔まで駄目と言うことですの?
 でも、こんな風に情けないお顔になると可愛らしい……
 結局、わたくしは旦那様のことが好きですの? 嫌いですの? ああ、分かりませんわ!

「旦那様!」
「ふぁい!」

 あら、顔を引っ張ったままでしたわね。
 ローザは掴んでいたエイドリアンの頬から手を放し、コホンと咳払いをする。

「お父様をこちらに招待しましょう」
「え」

 はい、顔を引きつらせても駄目です。先程も言ったように、鍵はわたくしではなく、お父様です。お父様を説得できなければ、わたくしとの結婚の継続は無理ですわ。わたくしが女王になるなら、お父様はそれに相応しい相手を選ぶでしょうから。父に認められなければ、わたくしがどう言おうと、旦那様は力尽くで排除されるでしょう。
 王族の結婚に恋愛感情は二の次、三の次。好きな相手と結婚できるのは条件が揃った時のみですものね。どうか慣れて下さいまし!

「接待も重要なお仕事ですわよ、旦那様。貴族として必要な社交性を学んで下さいまし。ポルトア伯爵のような気の合う方々とばかり付き合うわけにはまいりません! 貴族の繋がりは、お友達同士のれ合いとは違いますから! これからびしばし鍛え上げますので、そのおつもりで!」

 ポルトア伯爵は、エイドリアンと同じく馬好きの穏やかな老紳士である。二人は話がやたらと合うので、晩餐会ばんさんかいに招かれようものなら食事中はずっと馬の話ばかりになること請け合いだ。

「わ、分かった」

 エイドリアンが頷く。
 相変わらす素直ですわね。助かりますわ。

「ではさっそく、ヴィラトール伯爵の夜会に出席しましょう」

 ローザはほほほと笑う。
 旦那様はヴィラトール伯爵とは面識もございませんが、ここは一つ交流を持っていただきましょう。なにせ彼はポルトア伯爵と違って、とっても野心家です。夜会には当然そういった方々が多く集まりますので、旦那様の社交性を鍛えるのに最適ですわ!
 ローザはそう考え、彼が主催する夜会に出席することにしたのだが……


「あらぁ、素敵だわ、あなた。踊って下さいませんこと?」

 夜会会場でエイドリアンを捕まえたのは、なんと赤毛の美女、寵姫ちょうきマリアベルだった。その光景を目にしたローザは顔を引きつらせる。
 はっきり言って、これは心底嫌だった。寵姫ちょうきマリアベルの機嫌を損ねれば陛下が出てきて、良くて地下ろう行き、悪くすれば斬首である。関わりたくない人物の筆頭であろう。
 ローザは笑顔を保ったまま、心の中で目をいた。
 ちょっとちょっと、いきなりなに最難関にぶち当たってますのぉ! 寵姫ちょうきマリアベルははかなげな雰囲気の一見可愛らしい方ですが! 性格はちっとも可愛くありません! 旦那様に彼女をあしらえるわけがないでしょう! 旦那様はもしかして歩くトラブルメーカーですか!?

「え? は、はぁ、その……えぇっと、喜んで?」

 エイドリアンがぎこちないながらも、マリアベルの手を取った。
 ええ、うまく断れないのなら、確かにお相手をした方がよろしいでしょう。問題はこの後ですわね……。彼女の不興を買えば、必ず陛下が乗り出してきますもの。まったく、無駄に顔がいいのも考えものですわ。
 ダンスホールに向かった二人をローザはハラハラしつつ見送った。が、そんなローザの心配などそっちのけで、二曲、三曲と続けて踊る二人の姿に、ローザは次第に苛つきを覚え始める。心配と胸のむかつきがごっちゃになって、かなり不快だった。
 ほほほ、楽しそうですわね、旦那様。少し、引っつきすぎではありませんこと? 鼻の下を伸ばして良いご身分ですこと。もう少し節度ある距離を心がけて下さいませ。それから! 決まった相手がいない場合ならともかく! 妻や婚約者がいる場合、他の女性と続けて踊るのはマナー違反ですわよ!
 顔は淑女の微笑みを浮かべたまま、食べようと手にしたクラッカーが、ローザの口に入る前に粉々だ。少し力を入れすぎたようである。ダンスを終え、どこかへ行こうとしている二人をローザはすかさず追いかけた。
 お待ちなさい!
 心は特攻隊のような気分で、行動はあくまで淑女らしく楚々そそとした態度を崩さない。

「マリアベル様、少々よろしいですか?」
「何よ、あんた」

 不快感もあらわなマリアベルの返事に、ローザは内心驚いた。
 あら? 言葉遣いが……。爵位は伯爵のはずですけれど、元平民って噂は本当なのかしら?
 ローザはそんな心の内を隠し、にっこりと愛想良く笑う。

「わたくしはバークレア伯爵の妻で、ローザ・バークレアと申します。申し訳ありませんが、そろそろ主人を返していただけますか? ヴィラトール伯爵のところへご挨拶に行かなければいけませんので……」
「そんなの後にしなさいよ。わたしの方が偉いんだから」

 マリアベルはふんっと鼻を鳴らし、ローザの姿をじろじろと眺める。気に入らない、彼女の視線が既にそう訴えていて、早くも危険を予感させる。マリアベルの悪行は有名だ。侍女侍従をしいたげるのはもちろんのこと、気に入らない女性を襲わせて修道院送りにもする、らしい。噂、ではあるが……
 陛下がもみ消しているのなら、表沙汰にはなりませんわね。
 ローザはそう判断し、にっこりと笑った。引き際が肝心である。

「旦那様、マリアベル様はいちごのリキュールがお好きですの。是非すすめて差し上げて下さいませ。くれぐれも、粗相をなさらないように」
「い、いや、しかし……」

 エイドリアンは困ったように、ローザとマリアベルを交互に見る。

「マリアベル様は寵姫ちょうき、ですのよ? ちょ、う、き。旦那様は貴族として相応しい振る舞いをなさいませ。よろしいですわね?」

 ローザがエイドリアンを説き伏せれば、マリアベルは上機嫌だ。

「ふうん? あんた、きちんとをわきまえているじゃないの。そこだけは褒めてあげるわ」

 マリアベルは勝ち誇った笑みを浮かべ、エイドリアンの腕を引いてその場を離れた。
 一方、その場で二人を見送ったローザは、急ぎ会場を巡って、今度は助けになりそうな人物を探し回る。目をつけたのは、若き伯爵ヒュース・ワイアットだ。銀の貴公子と渾名あだなされるほど美しい顔に洗練された立ち振る舞いは、女性に人気である。

「これはこれは、ローザ夫人! 相変わらずお綺麗ですね」

 ローザが声をかけると、彼は嬉しそうに笑った。

「ふふ、相変わらずお上手ですわね。ワイアット伯爵」

 ローザもまた笑う。
 ヒュース・ワイアットはエイドリアンと同じように女性にモテる。違うのは、ヒュースの場合、社交術にけ、女の扱いにも慣れているという点であろうか。降りかかる災厄のかわし方も抜群にうまい。彼なら寵姫ちょうきマリアベルの機嫌を損ねることもあるまい。
 ローザはそう判断し、助けを求めたのだけれど、ヒュースは何やら面白くなさそうだ。

「……まぁ、あなたの頼みですから? 引き受けますけど、ね」

 どうやらエイドリアンを助け出すという頼みが気に入らないらしい。微笑むローザを見返し、ヒュースはため息だ。

「ドルシア子爵は何故、バークレア伯爵をあなたの結婚相手に選んだのでしょうね? その判断がどうも理解できなくて……。彼のような切れ者が、借金まみれの無能な伯爵をどうして……おっと失礼、口が過ぎましたね。では、さっさと終わらせましょうか?」

 ヒュースはおどけるように言い、エイドリアンにぴったり張りついているマリアベルのところへさりげなく足を運んだ。

「ご機嫌よう、マリアベル様。相変わらずお美しいですね」

 ヒュースがマリアベルの手を取り、そこに口づける。なんとも優美な仕草である。

「どうですか? 私と一緒にテラスへ出てみませんか? 星が綺麗ですよ。あなたの美しさにはかないませんが」

 ヒュースの賛辞に、マリアベルが満足そうに笑う。

「ふふっ、正直な方ね。ええ、もちろん、喜んで」

 マリアベルの注意がヒュースに逸れた隙を狙い、エイドリアンがそうっとその場を抜け出せば、社交用の笑みを浮かべたローザが待っていた。そう、完璧な作り笑いである。エイドリアンが急ぎ近寄ると、すかさず鼻をつままれ涙目だ。

「ひでで、ひでで、ローザ?」
「今後は彼女に目を付けられないように!」

 ローザに叱られ、エイドリアンの顔に喜色が浮かぶ。

「もしかして焼き餅か?」

 やきもち? 焼き餅……意味を理解したローザの顔が、かぁっと熱くなった。

「ち、違いますわ!」

 にまにま笑うエイドリアンを、蹴飛ばしてやりたくなる。
 違います、違います、違いますわよ!

「マリアベル様の不興を買うと、地下ろうに放り込まれますのよ! その上、陛下は酷い焼き餅焼きですので、関係を疑われただけで殺されます! 断頭台行きになりますわ! ご自分が置かれた状況を少しは理解して下さいませ!」

 その言葉に、エイドリアンの顔が一気にさぁっと青ざめた。
 今頃危険に気がつきましたの?
 ローザは額を押さえ、はぁっとため息を漏らす。

「それにしても……ヴィラトール伯爵の人選が予想外でした。よっぽど陛下のご機嫌を取りたいんですわね。今後彼が主催する夜会は避けましょう。父に怒られますわ」
「ドルシア子爵に怒られる?」
「陛下にこびを売る連中は避けろと、そう言われておりますの」
「……オーギュスト殿下と陛下は仲が悪かったのか?」
「さあ? 知りませんわ、そんなこと……。そもそも先王の第一王子の話は禁句で、誰も話しませんもの」
「ドルシア子爵からは」
「もっと聞けません! 逆鱗げきりんですわ、逆鱗げきりん!」

 ローザが急ぎ足でその場を離れる。

「なあ、ローザ」
「なんですの?」
「第一王子の件が冤罪えんざいってことは、他に前国王を殺した奴がいるってことだよな? 犯人は誰なんだ?」

 ローザはピタリと足を止めた。エイドリアンの耳元で「ハインリヒ陛下ですわ」とささやけば、彼の表情が凍りつく。ええ、気持ちは分かりますわ。



    第三話 赤い戦神


 ヴィスタニア帝国皇帝ギデオンは、いつになく苛ついていた。報告をしに上がった部下を早々に下がらせてしまう。うっとうしいと言いたいらしい。
 ギデオンが前にしている肖像画の中で微笑む女性は、月の女神もかくやという美しさだ。金の髪はそのまま黄金を溶かしたかのよう。
 皇帝ギデオンの最愛の妹であり、ローザの母親であるブリュンヒルデの肖像画だ。

「兄上、どうしました? 機嫌が悪いですね」

 弟のヨルグが執務室に顔を出す。
 戦神の異名を持つギデオンは、筋骨隆々とした体躯たいくに虎のような猛々たけだけしい面差しで、珍しい金色の瞳がさらに野性味を増長していた。対して、弟のヨルグはほっそりとしており、眼鏡をかけた顔は知的である。実に対照的な二人であった。

「……ブリュンヒルデが見つからぬ」

 不機嫌そうにギデオンが答えると、またかと言うように皇弟ヨルグは肩をすくめた。

「もう、かれこれ二十年近く行方ゆくえ知れずですよ、兄上。そろそろ諦めて――」
「黙れ」

 ひと睨みで弟を黙らせ、ギデオンは立ち上がる。

「あれだ、あれのせいだ!」

 腹立ち紛れに傍の椅子を蹴倒した。ガゴンという重々しい音が響く。


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