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仮面卿外伝【第二章 太陽が沈んだその後に】
第十四話 変化の兆し
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「愛している、ケイトリン」
鏡を見ながら何度そう言っただろう。まるで呪詛のようだとオーギュストは思う。いや、実際呪いだ。愛という名の呪い……。暗示を掛けるように言い聞かせるように、今日もまた口にするのだ。愛している、ケイトリンと……
「愛している、ケイトリン」
「愛している、ケイトリン」
いや、違うと心の深奥が叫び、オーギュストは咄嗟に拳で鏡を割っていた。微笑む自分の顔に吐き気がする、うんざりだった……。いつまで耐えなければならないのか、自害をした方が遙かに楽だ。
「ジャック様!」
ザインの声が聞こえ、手を取られていた。
「手を、手を開いてください」
手? ああ……
言われて初めてオーギュストは気が付いた。
鏡の破片を握り込んでいたのか。血が滴っている。
「大丈夫だ」
「大丈夫なわけがありません! お願いですから……」
指を一本一本開かされる。思ったより深く切っていたらしい。縫わないと血が止まりそうにない。
◇◇◇
「……御身を大切に」
手当てをしつつザインが言う。
「そうだな」
上の空で答えるオーギュストに、ザインは腹を立てた。どうでもいい、そんな風に言っているように聞こえてしまうからだ。
無頓着にも程があります!
「本当に分かっていらっしゃいますか? ジャック様は時々、自分を痛めつけるような行動をなさいます」
「……怒りで前後不覚になると、制御出来ないんだ」
やはり上の空だ。凪いだ緑の瞳はどこか遠い。
「……あの魔女のせいですか?」
ため息交じりにザインが言った。ザインもまた、アンバーと同じようにほぼ全ての事情を把握している。ケイトリンという女が不死身であることも、オーギュストの最愛だったブリュンヒルデを殺した仇だと言うことも……
オーギュストが冤罪で処刑寸前まで追い詰められたことを知り、ザインはその場に自分がいなかったことを悔やんだが、裏を返せば、任務で国を離れていたからこそ、彼は魔女の血を口にしなかったともいえる。その場にいたなら、他の仲間と同じように魔女の血に操られ、オーギュストを裏切っていたに違いない。
オーギュストの瞳がどこを見ているのか分からず、ザインがため息をつく。
「他に方法は……」
「ない。もう仕事に戻れ」
そっけなく返され、仕方なくザインが立ち上がる。
「ジャック様、どうか御身を大切に。あなた様のお命は、あなた様だけのものではありません。国民があなた様の帰りを待っています。王座に返り咲くその日を……」
今一度そう声を掛け、ザインは立ち去った。
◇◇◇
「オーギュ、手をどうしたの?」
食事の席でケイトリンが不思議そうに言う。オーギュストが笑った。やはり艶やかだ。
「ああ、うっかり鏡を割ってしまってな」
「もう、気を付けて? オーギュの綺麗な顔に傷が付いたらあたい悲しいしぃ」
そう言って、ケイトリンが口を尖らせる。
「この傷も……オーギュの顔を殴るなんて信じられない。そいつを見つけ出してずったずたにしてやりたいよ」
ハインリヒとやりあって、近衛兵に殴られた時の傷が、オーギュストのこめかみにある。焼けた火かき棒はオーギュストに酷い裂傷と火傷を負わせたが、エヴリンのエリクサーのお陰で、今やその傷は殆ど目立たない。うっすらとした痕が残る程度である。それでもケイトリンは誰にやられたのかと憤慨した。
「ね、本当に相手を覚えていないの?」
「血が目に入って、よく見えなかったんだ」
「そっかー……残念、っつ!」
「どうした?」
オーギュストは平静を装ったが、痛がったケイトリンを見て、内心目を見張っていた。
痛い? 痛覚の麻痺したこの女が? まさか……いや、ありうる。痛覚が戻ったのなら……
「ううん、何でもない。よそ見をしていたら、ナイフで指をついちゃった」
「そうか、見せてごらん?」
優しく手を握り、ケイトリンの切った指先を口に含む。
「オーギュ、ほんっと優しいね。あたい嬉しい」
オーギュストは目を見張った。
苦い……血が苦いと言うことは……
オーギュストは歓喜した。心の底から。この女を殺せる合図にほかならない。秘薬の力が反転し、毒の血が薬に変わっている。
「オーギュ? どうしたの?」
「いや、そうだ、いつもの採血を早めたい。いいか?」
週に一度、研究の為と称して、血の変化を調べるために採血している。甘い血が苦く感じるその時を、待って待って待ってこうして待ち続けた。毒の血が薬に変わったのなら、いまこそ反撃の時だ。研ぎ澄まされた牙がようやく、ようやく役に立つ。
「採血を? いいけど、どうして?」
「研究に必要なんだ」
「ふうん? うん、いいよ。オーギュの頼みだもんね。その代わり、今夜はうんとサービスして?」
オーギュストの口角が上がる。
ああ、いいとも。役立たずのこの体で良ければ……
一度として機能したことがない。流石にここまでは誤魔化せなかった。何度試しても反応しない。殺しに喜びを感じる殺人狂ならまだ反応したかもしれないが……。何度も何度もお前を殺す幻覚を見た。殺意を押し隠すのに必死で……その分、おぞましさから目をそらすのに役立った。殺したいほど憎い女と寝るのがどんな気分か、誰にも分かるまい……
「オーギュ、嬉しそうだね?」
「そうだな、最高の気分だ」
笑いが込み上げる。は、はは、既に、どこかおかしいのだろうが……ああ、構わない。ローザを取り戻せる。抜き取った血をローザに……いや、毒味が必要か。
聖王リンドルンの手記には無害だと書いてあったが、念のため水槽に注いでみる。魚が無事であることを確かめ、オーギュストは自分も口にした。
魔女の血は自分には効かないらしいが、これも念のため……
ローザ、待っていろ。もう少し、もう少しの辛抱だ。
十分時間をおいてから、オーギュストはローザに血を与えるよう指示を出した。
手記を信じるなら、直ぐに効果が現れるはず……
ローザが血を混ぜた飲料を口にするのを確認し、オーギュストは子供部屋へそっと足を踏み入れた。ローザと距離を取る生活を続けてからもう三年近い。期待と不安がどうしても入り交じる。
「ローザ様、ほら、お父様ですよ?」
自分が入り口に姿を見せると、アンバーがそう言ってくれたが、ローザは近付こうとしない。どことなく怯えているようにも見える。
ひやりとした。 まさか、薬の効果がなかったのか? 喜んで飛びついてくる、とまでは思っていなかったが、流石にこれは反応が悪すぎる。
「ローザ? パパだ。どうした? ほら、おいで……」
その場に膝をつき、オーギュストがそう呼びかけても、アンバーの後ろにさあっと隠れてしまう。これではらちがあかない。苛立ったオーギュストが、強引にローザを抱き上げようとすれば、ふえっと泣かれてしまい狼狽えた。
「あ、あの、殿下、申し訳ありません! 多分、見ず知らずの大人は怖いんだと思います。もうすこしゆっくり……」
アンバーが慌てて取りなし、オーギュストはその言葉を理解する。
見ず知らずの大人……ああ、そうか、そうだな。ローザとは殆ど顔を合わせたことがない。私が傍にいると嫌がって泣き出すから、食事も一緒に取らなかった。ローザから嫌悪感が消えても、今の私はほぼ垢の他人も同然か……
アンバーがローザを抱き上げれば、ようやく泣き止む。
子供部屋から出たところで、オーギュストはザインに指示を出した。
「ケイトリンに見張りをつけ、邸から出さないように」
どうせ私の傍から離れないだろうが、念のため……必要な分量の血を採取するまでは、どこぞで勝手に死なれても困る。
「かしこまりました」
ザインが頭を下げた。
もう、機嫌を取る必要もあるまい。おぞましい恋人ごっこはここで終わりだ。
その後、何度かお茶会の真似事を繰り返し、ローザに父親だと認識させるよう努力する。以前のような嫌悪感むき出しの表情がローザから消えていて、これだけでも喜びだった。
「おとうしゃま?」
「そうですよ、ジャック様はローザ様のお父様です。お膝に乗ってみますか?」
アンバーがそう言って促すと、ローザはじっとオーギュストの顔を見上げた。深海のように碧い瞳はブリュンヒルデに生き写しだ。何度その瞳に見惚れたか分からない。
オーギュストの口元が自然と綻んだ。
ローザ、唯一無二の光……私の宝……
オーギュストが笑いかければ、ローザの顔がきゅうっと赤くなる。恥ずかしそうにもじもじとし、ローザはくるりと後ろを向いてしまった。耳まで赤くした顔をアンバーの胸に埋めて動かない。
まだ無理か……
オーギュストはそっとため息をつく。
だが、時間はたっぷりある。これからはなるべく時間を取るようにしよう。二人の時間を……
ゆるゆると時は流れ、はっきりとした変化が現れたのは、ローザが三才の誕生日を迎えた翌日のことである。
「お、おとうしゃま、あの、これ……」
そろそろと食堂へ入ってきたローザが差し出したのは、一本の白い薔薇だった。ローザの方から話しかけられたのは初めてである。見ると、食堂の入り口付近でアンバーが「がんばってください」と口パクだ。
「おかちと、おにんぎょうの……おれい、でしゅ」
恥ずかしそうにうつむき、そっと薔薇を差し出すローザを見て、オーギュストは目を細めた。
こんなに喜びで心が満たされるのはいつ以来だろう。きっとローザが手渡したものなら、雑草でも嬉しかったに違いない。
「ありがとう」
オーギュストがローザの小さな手が差し出した花を受け取れば、ローザの顔がぱっと輝いた。その笑顔があまりにも眩しくて胸が詰まり、涙が一つ二つと頬を伝う。
「おとうしゃま?」
どこか痛いの? 大丈夫? 心配そうに、怪訝そうに顔を覗き込むローザもまた愛らしい。そっと手を伸ばし、金の頭を撫でた。まだまだ小さくてあどけない。守ると誓った命だ。ブリュンヒルデの忘れ形見……守ってみせる。絶対に……
「何でもない。嬉しいだけだ」
そう、嬉しくて仕方がない。
そんな幸福感を引き裂いたのは、耳障りな甲高い声だ。
「この、泥棒猫! なにやってんのさ!」
オーギュストが目を向ければ、ケイトリンが怒り心頭で、ずかずかと食堂に踏み込んで来るところだった。手袋をはめた手には剪定ばさみを握っている。
また赤い薔薇を温室から持ってきたのか……
ため息しか出ない。何もかもがうんざりだった。
彼女の行動が逐一癇に障ってどうしようもない。花屋へ足繁く通われるよりはと温室に赤い薔薇を用意させたが、これも止めさせるか……。そこいら中が赤い薔薇の花だらけだ。
「オーギュはあたいのもんなんだ! ガキのくせに色気づいて!」
ケイトリンが詰め寄った先はローザである。
一体何の真似だ?
オーギュストは椅子から立ち上がり、ローザを後ろへ下がらせた。
「お戯れを……二人は実の親子ではありませんか」
冷めた口調でそう告げたのは給仕をしていたザインである。
ケイトリンがまなじりを吊り上げた。
「親子ったって、女は女だよ! オーギュにまとわりついて鬱陶しいったら! 最近オーギュが冷たくなったのは絶対こいつのせいだ! 殺してやる!」
ケイトリンの叫びで、視界が真っ赤に染まったように思う。
――殺してやる!
誰を?
ローザに向かって剪定ばさみを振り上げたケイトリンの動きが、オーギュストには酷く緩慢な動作として目に映った。まるでスローモーションのよう。オーギュストはほぼ反射的にそれを手の甲で殴り、ケイトリンの暴挙を止めていた。
吹っ飛ばされるようにして、ケイトリンがもんどり打って転がったが、オーギュストの心にその光景は映らない。何の意味もないからだ。そう、彼女がどうなろうと知ったことではない。ガンガンと頭が痛み、耳鳴りがする。全身の血が沸騰したかのようだった。
鏡を見ながら何度そう言っただろう。まるで呪詛のようだとオーギュストは思う。いや、実際呪いだ。愛という名の呪い……。暗示を掛けるように言い聞かせるように、今日もまた口にするのだ。愛している、ケイトリンと……
「愛している、ケイトリン」
「愛している、ケイトリン」
いや、違うと心の深奥が叫び、オーギュストは咄嗟に拳で鏡を割っていた。微笑む自分の顔に吐き気がする、うんざりだった……。いつまで耐えなければならないのか、自害をした方が遙かに楽だ。
「ジャック様!」
ザインの声が聞こえ、手を取られていた。
「手を、手を開いてください」
手? ああ……
言われて初めてオーギュストは気が付いた。
鏡の破片を握り込んでいたのか。血が滴っている。
「大丈夫だ」
「大丈夫なわけがありません! お願いですから……」
指を一本一本開かされる。思ったより深く切っていたらしい。縫わないと血が止まりそうにない。
◇◇◇
「……御身を大切に」
手当てをしつつザインが言う。
「そうだな」
上の空で答えるオーギュストに、ザインは腹を立てた。どうでもいい、そんな風に言っているように聞こえてしまうからだ。
無頓着にも程があります!
「本当に分かっていらっしゃいますか? ジャック様は時々、自分を痛めつけるような行動をなさいます」
「……怒りで前後不覚になると、制御出来ないんだ」
やはり上の空だ。凪いだ緑の瞳はどこか遠い。
「……あの魔女のせいですか?」
ため息交じりにザインが言った。ザインもまた、アンバーと同じようにほぼ全ての事情を把握している。ケイトリンという女が不死身であることも、オーギュストの最愛だったブリュンヒルデを殺した仇だと言うことも……
オーギュストが冤罪で処刑寸前まで追い詰められたことを知り、ザインはその場に自分がいなかったことを悔やんだが、裏を返せば、任務で国を離れていたからこそ、彼は魔女の血を口にしなかったともいえる。その場にいたなら、他の仲間と同じように魔女の血に操られ、オーギュストを裏切っていたに違いない。
オーギュストの瞳がどこを見ているのか分からず、ザインがため息をつく。
「他に方法は……」
「ない。もう仕事に戻れ」
そっけなく返され、仕方なくザインが立ち上がる。
「ジャック様、どうか御身を大切に。あなた様のお命は、あなた様だけのものではありません。国民があなた様の帰りを待っています。王座に返り咲くその日を……」
今一度そう声を掛け、ザインは立ち去った。
◇◇◇
「オーギュ、手をどうしたの?」
食事の席でケイトリンが不思議そうに言う。オーギュストが笑った。やはり艶やかだ。
「ああ、うっかり鏡を割ってしまってな」
「もう、気を付けて? オーギュの綺麗な顔に傷が付いたらあたい悲しいしぃ」
そう言って、ケイトリンが口を尖らせる。
「この傷も……オーギュの顔を殴るなんて信じられない。そいつを見つけ出してずったずたにしてやりたいよ」
ハインリヒとやりあって、近衛兵に殴られた時の傷が、オーギュストのこめかみにある。焼けた火かき棒はオーギュストに酷い裂傷と火傷を負わせたが、エヴリンのエリクサーのお陰で、今やその傷は殆ど目立たない。うっすらとした痕が残る程度である。それでもケイトリンは誰にやられたのかと憤慨した。
「ね、本当に相手を覚えていないの?」
「血が目に入って、よく見えなかったんだ」
「そっかー……残念、っつ!」
「どうした?」
オーギュストは平静を装ったが、痛がったケイトリンを見て、内心目を見張っていた。
痛い? 痛覚の麻痺したこの女が? まさか……いや、ありうる。痛覚が戻ったのなら……
「ううん、何でもない。よそ見をしていたら、ナイフで指をついちゃった」
「そうか、見せてごらん?」
優しく手を握り、ケイトリンの切った指先を口に含む。
「オーギュ、ほんっと優しいね。あたい嬉しい」
オーギュストは目を見張った。
苦い……血が苦いと言うことは……
オーギュストは歓喜した。心の底から。この女を殺せる合図にほかならない。秘薬の力が反転し、毒の血が薬に変わっている。
「オーギュ? どうしたの?」
「いや、そうだ、いつもの採血を早めたい。いいか?」
週に一度、研究の為と称して、血の変化を調べるために採血している。甘い血が苦く感じるその時を、待って待って待ってこうして待ち続けた。毒の血が薬に変わったのなら、いまこそ反撃の時だ。研ぎ澄まされた牙がようやく、ようやく役に立つ。
「採血を? いいけど、どうして?」
「研究に必要なんだ」
「ふうん? うん、いいよ。オーギュの頼みだもんね。その代わり、今夜はうんとサービスして?」
オーギュストの口角が上がる。
ああ、いいとも。役立たずのこの体で良ければ……
一度として機能したことがない。流石にここまでは誤魔化せなかった。何度試しても反応しない。殺しに喜びを感じる殺人狂ならまだ反応したかもしれないが……。何度も何度もお前を殺す幻覚を見た。殺意を押し隠すのに必死で……その分、おぞましさから目をそらすのに役立った。殺したいほど憎い女と寝るのがどんな気分か、誰にも分かるまい……
「オーギュ、嬉しそうだね?」
「そうだな、最高の気分だ」
笑いが込み上げる。は、はは、既に、どこかおかしいのだろうが……ああ、構わない。ローザを取り戻せる。抜き取った血をローザに……いや、毒味が必要か。
聖王リンドルンの手記には無害だと書いてあったが、念のため水槽に注いでみる。魚が無事であることを確かめ、オーギュストは自分も口にした。
魔女の血は自分には効かないらしいが、これも念のため……
ローザ、待っていろ。もう少し、もう少しの辛抱だ。
十分時間をおいてから、オーギュストはローザに血を与えるよう指示を出した。
手記を信じるなら、直ぐに効果が現れるはず……
ローザが血を混ぜた飲料を口にするのを確認し、オーギュストは子供部屋へそっと足を踏み入れた。ローザと距離を取る生活を続けてからもう三年近い。期待と不安がどうしても入り交じる。
「ローザ様、ほら、お父様ですよ?」
自分が入り口に姿を見せると、アンバーがそう言ってくれたが、ローザは近付こうとしない。どことなく怯えているようにも見える。
ひやりとした。 まさか、薬の効果がなかったのか? 喜んで飛びついてくる、とまでは思っていなかったが、流石にこれは反応が悪すぎる。
「ローザ? パパだ。どうした? ほら、おいで……」
その場に膝をつき、オーギュストがそう呼びかけても、アンバーの後ろにさあっと隠れてしまう。これではらちがあかない。苛立ったオーギュストが、強引にローザを抱き上げようとすれば、ふえっと泣かれてしまい狼狽えた。
「あ、あの、殿下、申し訳ありません! 多分、見ず知らずの大人は怖いんだと思います。もうすこしゆっくり……」
アンバーが慌てて取りなし、オーギュストはその言葉を理解する。
見ず知らずの大人……ああ、そうか、そうだな。ローザとは殆ど顔を合わせたことがない。私が傍にいると嫌がって泣き出すから、食事も一緒に取らなかった。ローザから嫌悪感が消えても、今の私はほぼ垢の他人も同然か……
アンバーがローザを抱き上げれば、ようやく泣き止む。
子供部屋から出たところで、オーギュストはザインに指示を出した。
「ケイトリンに見張りをつけ、邸から出さないように」
どうせ私の傍から離れないだろうが、念のため……必要な分量の血を採取するまでは、どこぞで勝手に死なれても困る。
「かしこまりました」
ザインが頭を下げた。
もう、機嫌を取る必要もあるまい。おぞましい恋人ごっこはここで終わりだ。
その後、何度かお茶会の真似事を繰り返し、ローザに父親だと認識させるよう努力する。以前のような嫌悪感むき出しの表情がローザから消えていて、これだけでも喜びだった。
「おとうしゃま?」
「そうですよ、ジャック様はローザ様のお父様です。お膝に乗ってみますか?」
アンバーがそう言って促すと、ローザはじっとオーギュストの顔を見上げた。深海のように碧い瞳はブリュンヒルデに生き写しだ。何度その瞳に見惚れたか分からない。
オーギュストの口元が自然と綻んだ。
ローザ、唯一無二の光……私の宝……
オーギュストが笑いかければ、ローザの顔がきゅうっと赤くなる。恥ずかしそうにもじもじとし、ローザはくるりと後ろを向いてしまった。耳まで赤くした顔をアンバーの胸に埋めて動かない。
まだ無理か……
オーギュストはそっとため息をつく。
だが、時間はたっぷりある。これからはなるべく時間を取るようにしよう。二人の時間を……
ゆるゆると時は流れ、はっきりとした変化が現れたのは、ローザが三才の誕生日を迎えた翌日のことである。
「お、おとうしゃま、あの、これ……」
そろそろと食堂へ入ってきたローザが差し出したのは、一本の白い薔薇だった。ローザの方から話しかけられたのは初めてである。見ると、食堂の入り口付近でアンバーが「がんばってください」と口パクだ。
「おかちと、おにんぎょうの……おれい、でしゅ」
恥ずかしそうにうつむき、そっと薔薇を差し出すローザを見て、オーギュストは目を細めた。
こんなに喜びで心が満たされるのはいつ以来だろう。きっとローザが手渡したものなら、雑草でも嬉しかったに違いない。
「ありがとう」
オーギュストがローザの小さな手が差し出した花を受け取れば、ローザの顔がぱっと輝いた。その笑顔があまりにも眩しくて胸が詰まり、涙が一つ二つと頬を伝う。
「おとうしゃま?」
どこか痛いの? 大丈夫? 心配そうに、怪訝そうに顔を覗き込むローザもまた愛らしい。そっと手を伸ばし、金の頭を撫でた。まだまだ小さくてあどけない。守ると誓った命だ。ブリュンヒルデの忘れ形見……守ってみせる。絶対に……
「何でもない。嬉しいだけだ」
そう、嬉しくて仕方がない。
そんな幸福感を引き裂いたのは、耳障りな甲高い声だ。
「この、泥棒猫! なにやってんのさ!」
オーギュストが目を向ければ、ケイトリンが怒り心頭で、ずかずかと食堂に踏み込んで来るところだった。手袋をはめた手には剪定ばさみを握っている。
また赤い薔薇を温室から持ってきたのか……
ため息しか出ない。何もかもがうんざりだった。
彼女の行動が逐一癇に障ってどうしようもない。花屋へ足繁く通われるよりはと温室に赤い薔薇を用意させたが、これも止めさせるか……。そこいら中が赤い薔薇の花だらけだ。
「オーギュはあたいのもんなんだ! ガキのくせに色気づいて!」
ケイトリンが詰め寄った先はローザである。
一体何の真似だ?
オーギュストは椅子から立ち上がり、ローザを後ろへ下がらせた。
「お戯れを……二人は実の親子ではありませんか」
冷めた口調でそう告げたのは給仕をしていたザインである。
ケイトリンがまなじりを吊り上げた。
「親子ったって、女は女だよ! オーギュにまとわりついて鬱陶しいったら! 最近オーギュが冷たくなったのは絶対こいつのせいだ! 殺してやる!」
ケイトリンの叫びで、視界が真っ赤に染まったように思う。
――殺してやる!
誰を?
ローザに向かって剪定ばさみを振り上げたケイトリンの動きが、オーギュストには酷く緩慢な動作として目に映った。まるでスローモーションのよう。オーギュストはほぼ反射的にそれを手の甲で殴り、ケイトリンの暴挙を止めていた。
吹っ飛ばされるようにして、ケイトリンがもんどり打って転がったが、オーギュストの心にその光景は映らない。何の意味もないからだ。そう、彼女がどうなろうと知ったことではない。ガンガンと頭が痛み、耳鳴りがする。全身の血が沸騰したかのようだった。
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