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仮面卿外伝【第二章 太陽が沈んだその後に】
第九話 死が二人を分かってもなお
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はっとなって振り返り、オーギュストが目にしたのは血に染まったブリュンヒルデの姿だ。思考が完全に止まったと言ってもいい。驚愕に目を見開く。目にした光景がただただ信じられなかった。
首を切り落としたはずの女が何故生きている?
そう、屠った兵士の剣を手に取り、ブリュンヒルデに剣を突き立てたのは、先程首を切り落とした筈のケイトリンという女だった。ブリュンヒルデが背から襲われたのは、咄嗟に我が子を庇ったせいなのだろう、彼女がローザに覆い被さっている。
「ヒルデ! ローザ!」
踏み出しかけたオーギュストの足が止まった。かの女が泣き声上げているローザをヒルデから取り上げ、血のついた剣をピタリと突きつけたからだ。ぐらりとオーギュストの視界が揺れる。
「よせ、やめろ……」
足下が崩れ落ちるような錯覚を覚える。ベッドの上には血を流しているブリュンヒルデがいて……
嘘だ、嘘だ、嘘だ……何故、どうしてこんな……
「かえ、せ」
「んー……どうしよっかなぁ」
ケイトリンは手にしていた剣で自分の指先を切り落とし、それをローザにしゃぶらせる。
「何を……」
「あたいの血ねぇ、美味しいみたいなんだ。ほら、喜んで飲むでしょ?」
「よせ!」
何て真似を!
「ロ……ザ……」
ヒルデ!
「あーあ、まだ生きてる? しぶといなぁ」
ケイトリンがとどめを刺そうと剣を振り上げ、瞬間、オーギュストが床を蹴った。ケイトリンのそれは素人の剣だ。振り方も大ぶりで、隙だらけである。
疾風の勢いで一気に距離を詰め、剣を持ったケイトリンの手を切り落とすも、悲鳴は上がらなかった。ケイトリンの腕ごと、剣がガランと落ちる。
ブリュンヒルデを背に庇い、ローザを取り戻そうとオーギュストが動けば、ケイトリンが抱えていたローザをぽんっと放り投げた。
「あはは! ほら、返すよ!」
オーギュストは驚いた。まさか、人質の赤ん坊を放り投げるとは思わなかったのだ。オーギュストが慌てて受け止めれば、ローザがさらに激しく泣き出した。顔を真っ赤にし、まるでひきつけを起こしたかのようである。力の限り叫んでいるようにも見える。
「ローザ? よしよし、大丈夫だ、ほら……」
必死であやすオーギュストをケイトリンが嘲笑う。
「ああん、無駄だよ? 絶対、絶対、泣き止まないからね。だって、あたいの血を飲んだ人間は、みーんなオーギュを嫌いになるんだ」
「なに?」
「滅びの魔女の秘薬? あたいね、あれを飲んだらこうなったの。いいよね、これ。オーギュを慕う人間を全部排除できるんだもん。オーギュを好きなのはあたいだけでいい。オーギュを愛するのも愛されるのもあたいだけ。あはっ! 最高! そんでもって、あたいは何やっても死なないしさぁ、あははははは、笑いが止まらない」
「オー……ギュ……」
血に染まったブリュンヒルデの手が伸ばされ、オーギュストはすかさずその手を取った。傍にあった衣類を傷口に押し当てたが、あっという間に赤く染まっていく。
くそっ、血が……
「ヒルデ? しっかりしろ、今、医者を……」
ヒューヒューという苦しい息の下からブリュンヒルデが声を絞り出す。彼女が微かに笑ったように見えた。苦しい筈なのに、申し訳なさそうに笑う。涙が、一つ、二つと碧い瞳から零れ落ちて……
「ごめ、なさ……オーギュ……ロー……ザ、おね、がい……」
ふっと、掴んでいたブリュンヒルデの手から力が抜け落ちる。オーギュストは、目を見張った。
ヒルデ?
「ヒル、デ? ヒルデ!」
自分の声なのにどこか遠い。
駄目だ駄目だ駄目だ……どうして、ヒルデ!
見開いたブリュンヒルデの目から光が消えている。
美しかった碧い瞳が……
――オーギュ、愛しているわ。
彼女の甘い声が耳朶を打つ。幻だとしても今の自分には現実と変わらない。
嘘、だ……こんな……
私には君しかいないんだ、君しか……手を取り合って生きていくと、誓った……誓っただろ? 死が二人を分かつまで……違う、違う、違う……死が二人を分かってもなお、だ……だから、私を置いて逝くな、逝かないで、くれ……
「ブリュンヒルデ様!」
買い物から帰ってきたアンバーが悲鳴を上げ、買い物袋を取り落とす。ローザの為にと買ってきたケーキが、落下の衝撃でぐしゃりと潰れた。ローザの誕生日を祝いたいわ……そうブリュンヒルデが言ったのだ。それが、たったの数時間前……理解が追いつかない。
「あはは、ようやく死んだ? しぶとかったね」
ケイトリンが満足げに笑う。
瞬間、オーギュストが動いた。
「うあああああああああああ!」
緑の瞳に宿るのは激しい憎しみの色である。怒りに駆られた彼の猛攻は凄まじい。
だが、怒りのままに剣を振るい、ケイトリンを切って捨てようとしても傷口があっという間に塞がってしまう。その異様な光景を目の当たりにしたアンバーが更に悲鳴を上げた。
剣を振るうたびにケイトリンの体は損傷するのに、彼女はただただ笑っていて、本当に不気味である。一方、オーギュストの怒りと憎しみは膨れ上がるばかりだ。
不死だと? 馬鹿な……ブリュンヒルデ!
「あは、あははははははは! 死なないって言ったじゃん。痛くないからいいけどぉ」
「アンバー! ローザを!」
泣き止まない赤子のローザをアンバーに託し、オーギュストがケイトリンという女を拘束するため縛り上げれば、布が腐り落ちた。ヴィスタニア兵が所持していた鉄製の拘束具を使っても同じで腐食する。錆びて役立たずだ。
くふっとケイトリンが笑う。
「あたいを拘束するのは無理だよ? あのヨルグってお偉いさんもそんなこと何度もやったけどさぁ。やるだけ無駄って感じ? だから傍にいてくれって泣きつかれたんだよね。オーギュの首をくれるって言ったから、今まで大人しくしてたけどぉ。あ、でも、王城の西塔にいた時は違ったな。窓からオーギュの処刑を目にした時、出せって暴れたんだけど扉はびくともしなかった。何でだろう?」
王城の西塔? 貴人用の牢だ。まさかずっとそこに囚われていたのか?
「まぁ、いいや。ああ、オーギュ、ようやく一緒になれる。愛してる。ずっとずっと一緒だよ? 絶対離れないから」
うっとりと夢見るような眼差しに吐き気がし、今一度殴りつけたが、やはり女は笑うだけ。
痛覚が麻痺しているのか?
ヨルグはいつの間にか姿を消していた。いかれた女を押しつける形で。相変わらずうっとりとした眼差しを向けるケイトリンの首根っこを引っ掴み、引きずり始める。
「オーギュ? ちょっと、何すんのぉ?」
煩い、黙れ!
嫌がって暴れるケイトリンを地下室の入り口まで引きずって行き、中へ蹴り落とし、上げ蓋を閉じる。閉じ込めたところで金属も木も腐食するから意味はないのだろうが……ありったけの家具を地下へ通じる入り口の上に積み上げる。
何としてもあの女を殺す方法を見つけないと……
オーギュストがブリュンヒルデの遺体をベッドのシーツで包み始めると、ローザを抱きかかえたアンバーがしゃくり上げながら言った。
「で、殿下……な、なんで……ブリュンヒルデ様が殺されたんですか?」
「……分からない」
あんないかれた女の考えていることなど分かってたまるか!
肩に担ぎ上げた遺体の重さに心が引き裂かれそうだった。
オーギュストがアンバーからローザを受け取ると、やはり激しく泣く。まるで引きつけを起こしたかのよう。真っ赤になった顔は泣く、というより、泣き叫んでいるように見える。
「よしよしよし、一体どうしたの?」
アンバーが今一度ローザを受け取り、彼女をあやし始めた。アンバーは困り果てているようだが、それはオーギュストも同じだった。
何故、私が抱き上げた途端に泣き出す?
――あたいの血を飲んだ人間は、みーんなオーギュを嫌いになるんだ。
血……確かにローザはあの女の血を口にしたようだが……
――滅びの魔女の秘薬? あたいね、あれを飲んだらこうなったの。いいよね、これ。オーギュを慕う人間を全部排除できるんだもん。
滅びの魔女の秘薬……滅びの魔女の秘薬……滅びの魔女の秘薬を飲んだ人間は、他者に強い敵愾心を抱くようになる。これは伝説上の言葉だ。敵愾心を植え付ける薬……敵愾心を植え付ける……腹心の部下の裏切り、エクトルの豹変は……まさか……
ふっと全ての点が繋がったような気がした。
オーギュストは愕然となる。
まさか、伝説で語られている滅びの魔女の秘薬が原因なのか? いや、そんな馬鹿な……滅びの魔女など伝説上の、架空の存在だ。そんなものにどうやって対抗すれば……いや、待て、そうだ! 「滅びの魔女の手記」と「聖王リンドルンの手記」が王城の秘宝庫に残されていたはず。王族以外手を触れることを許されていない禁書だ。
――父上は読んでみたことが?
――いや、古代語で書かれているから、私は読んだことがない。だが、内容を知りたいのなら一度目を通して見るといい。古代語を習得した後で。
かつて父は、そう言っていた。特に興味を惹かれなかったから、すっかり忘れて……城へ戻って内容を読破すれば、解決方法が見付かるかもしれない。
「オーギュスト殿下?」
アンバーの呼びかけではっとなる。
ああ、とにかくここにいては駄目だ。ヨルグに居場所がばれている。一刻も早く移動しないと。追撃を掛けられたらことだ。
しかし……どこへ行けば……
アルバンは……駄目だ。医療院の誰が裏切ったのか分からない。
オーギュストは布で覆ったブリュンヒルデの遺体を抱え上げ、ローザを抱いたアンバーを連れ、人目を避けつつ移動し、ダニーのいる森の丸太小屋へと舞い戻る。
小屋に到着した頃には、日は沈みかけていて、辺りは真っ赤な夕焼け色に染まっていた。いつもなら美しいと感じる光景ですら、起こった惨劇を彷彿とさせる。見る者の心がそこに投影されるからかもしれない。
「オーギュスト殿下、え? どうしたの? もしかしてヴィスタニアから迎えが来た?」
ダニーの台詞にオーギュストは首を横に振る。
ヒルデが殺された……喉元まででかかった言葉をオーギュストは飲み込んだ。口にすると実感がどっと襲ってきそうで、恐ろしかった。このまま動けなくなりそうである。
「……ローザとアンバーをほんの少しの間、ここでかくまって欲しいんだ」
「え? 何故? あ、いや、うん、いいよ。殿下の頼みだからね」
ダニーが二つ返事で引き受けてくれた。
「……殿下、何がありました?」
ダニーの祖母のリズもまた戸口から顔を出した。不安からか、柔和な顔が幾分硬い。
「すまないが、説明はあとだ。アンバー、私が戻るまでここで待っていて欲しい。ローザを頼めるか?」
「ええ、それはもちろん。でも、どちらへ行かれるんですか? ブリュンヒルデ様が……」
アンバーの視線の先は、オーギュストが肩に担ぎ上げたブリュンヒルデの遺体だ。
オーギュストの胸に鋭い痛みが走る。
私だって彼女を残して行きたくはない。だが、どうしても城に行って、滅びの魔女の手記と聖王リンドルンの手記を手に入れる必要がある。ローザはあの女の血を口にした。この先どんなことになるか分からない。一刻も早く対抗策を見つけないと……
「ローザの為にどうしても必要なんだ。頼む!」
アンバーは不承不承頷いてくれた。ブリュンヒルデの遺体は、自分の寝室としてあてがわれている部屋へ運び込んだ。一緒に寝起きした場所である。
まさかこんなことになるとは、な……
秘密の通路を通り、熟知している城の内部を進む。王家伝来の秘宝庫へ通じる通路を選んで進み、そっと忍び込んだ。夜目が利くので、ぼんやりとした月明かりでも十分目的のものを探し出せる。
目的の書物は記憶にある通りの場所にあった。表紙を繰れば、父が言った通り目にしたのは古代語だったが、自分は問題なく読める。
手記の内容は驚くべきものだった。
滅びの魔女の秘薬は、恋の秘薬として作り出されたらしいが、どう考えても恋の秘薬だとは思えない。恋した男に対する敵愾心を植え付け、周囲から孤立させるものだからだ。これでは、自分を愛さなければ破滅するという脅しである。
オーギュストは何時間も一心不乱に読みふけり、驚愕の内容に本を取り落としそうになる。
滅びの魔女の秘薬で魔女となった者を殺す方法は……魔女を愛する事、だと? あの魔女を! ブリュンヒルデを殺した女を愛する! 死んだ方がましだ!
本を投げつけそうになるも、ローザの泣き顔が目に浮かぶ。
駄目だ駄目だ、癇癪を起こすな。何か別の方法があるかもしれない、探ってみよう。
二つの書物を手にしたオーギュストは、秘密の通路を再び通って街壁の外へと出る。森へ戻る最中、目にした光景に目を見張った。
これ、は……
首を切り落としたはずの女が何故生きている?
そう、屠った兵士の剣を手に取り、ブリュンヒルデに剣を突き立てたのは、先程首を切り落とした筈のケイトリンという女だった。ブリュンヒルデが背から襲われたのは、咄嗟に我が子を庇ったせいなのだろう、彼女がローザに覆い被さっている。
「ヒルデ! ローザ!」
踏み出しかけたオーギュストの足が止まった。かの女が泣き声上げているローザをヒルデから取り上げ、血のついた剣をピタリと突きつけたからだ。ぐらりとオーギュストの視界が揺れる。
「よせ、やめろ……」
足下が崩れ落ちるような錯覚を覚える。ベッドの上には血を流しているブリュンヒルデがいて……
嘘だ、嘘だ、嘘だ……何故、どうしてこんな……
「かえ、せ」
「んー……どうしよっかなぁ」
ケイトリンは手にしていた剣で自分の指先を切り落とし、それをローザにしゃぶらせる。
「何を……」
「あたいの血ねぇ、美味しいみたいなんだ。ほら、喜んで飲むでしょ?」
「よせ!」
何て真似を!
「ロ……ザ……」
ヒルデ!
「あーあ、まだ生きてる? しぶといなぁ」
ケイトリンがとどめを刺そうと剣を振り上げ、瞬間、オーギュストが床を蹴った。ケイトリンのそれは素人の剣だ。振り方も大ぶりで、隙だらけである。
疾風の勢いで一気に距離を詰め、剣を持ったケイトリンの手を切り落とすも、悲鳴は上がらなかった。ケイトリンの腕ごと、剣がガランと落ちる。
ブリュンヒルデを背に庇い、ローザを取り戻そうとオーギュストが動けば、ケイトリンが抱えていたローザをぽんっと放り投げた。
「あはは! ほら、返すよ!」
オーギュストは驚いた。まさか、人質の赤ん坊を放り投げるとは思わなかったのだ。オーギュストが慌てて受け止めれば、ローザがさらに激しく泣き出した。顔を真っ赤にし、まるでひきつけを起こしたかのようである。力の限り叫んでいるようにも見える。
「ローザ? よしよし、大丈夫だ、ほら……」
必死であやすオーギュストをケイトリンが嘲笑う。
「ああん、無駄だよ? 絶対、絶対、泣き止まないからね。だって、あたいの血を飲んだ人間は、みーんなオーギュを嫌いになるんだ」
「なに?」
「滅びの魔女の秘薬? あたいね、あれを飲んだらこうなったの。いいよね、これ。オーギュを慕う人間を全部排除できるんだもん。オーギュを好きなのはあたいだけでいい。オーギュを愛するのも愛されるのもあたいだけ。あはっ! 最高! そんでもって、あたいは何やっても死なないしさぁ、あははははは、笑いが止まらない」
「オー……ギュ……」
血に染まったブリュンヒルデの手が伸ばされ、オーギュストはすかさずその手を取った。傍にあった衣類を傷口に押し当てたが、あっという間に赤く染まっていく。
くそっ、血が……
「ヒルデ? しっかりしろ、今、医者を……」
ヒューヒューという苦しい息の下からブリュンヒルデが声を絞り出す。彼女が微かに笑ったように見えた。苦しい筈なのに、申し訳なさそうに笑う。涙が、一つ、二つと碧い瞳から零れ落ちて……
「ごめ、なさ……オーギュ……ロー……ザ、おね、がい……」
ふっと、掴んでいたブリュンヒルデの手から力が抜け落ちる。オーギュストは、目を見張った。
ヒルデ?
「ヒル、デ? ヒルデ!」
自分の声なのにどこか遠い。
駄目だ駄目だ駄目だ……どうして、ヒルデ!
見開いたブリュンヒルデの目から光が消えている。
美しかった碧い瞳が……
――オーギュ、愛しているわ。
彼女の甘い声が耳朶を打つ。幻だとしても今の自分には現実と変わらない。
嘘、だ……こんな……
私には君しかいないんだ、君しか……手を取り合って生きていくと、誓った……誓っただろ? 死が二人を分かつまで……違う、違う、違う……死が二人を分かってもなお、だ……だから、私を置いて逝くな、逝かないで、くれ……
「ブリュンヒルデ様!」
買い物から帰ってきたアンバーが悲鳴を上げ、買い物袋を取り落とす。ローザの為にと買ってきたケーキが、落下の衝撃でぐしゃりと潰れた。ローザの誕生日を祝いたいわ……そうブリュンヒルデが言ったのだ。それが、たったの数時間前……理解が追いつかない。
「あはは、ようやく死んだ? しぶとかったね」
ケイトリンが満足げに笑う。
瞬間、オーギュストが動いた。
「うあああああああああああ!」
緑の瞳に宿るのは激しい憎しみの色である。怒りに駆られた彼の猛攻は凄まじい。
だが、怒りのままに剣を振るい、ケイトリンを切って捨てようとしても傷口があっという間に塞がってしまう。その異様な光景を目の当たりにしたアンバーが更に悲鳴を上げた。
剣を振るうたびにケイトリンの体は損傷するのに、彼女はただただ笑っていて、本当に不気味である。一方、オーギュストの怒りと憎しみは膨れ上がるばかりだ。
不死だと? 馬鹿な……ブリュンヒルデ!
「あは、あははははははは! 死なないって言ったじゃん。痛くないからいいけどぉ」
「アンバー! ローザを!」
泣き止まない赤子のローザをアンバーに託し、オーギュストがケイトリンという女を拘束するため縛り上げれば、布が腐り落ちた。ヴィスタニア兵が所持していた鉄製の拘束具を使っても同じで腐食する。錆びて役立たずだ。
くふっとケイトリンが笑う。
「あたいを拘束するのは無理だよ? あのヨルグってお偉いさんもそんなこと何度もやったけどさぁ。やるだけ無駄って感じ? だから傍にいてくれって泣きつかれたんだよね。オーギュの首をくれるって言ったから、今まで大人しくしてたけどぉ。あ、でも、王城の西塔にいた時は違ったな。窓からオーギュの処刑を目にした時、出せって暴れたんだけど扉はびくともしなかった。何でだろう?」
王城の西塔? 貴人用の牢だ。まさかずっとそこに囚われていたのか?
「まぁ、いいや。ああ、オーギュ、ようやく一緒になれる。愛してる。ずっとずっと一緒だよ? 絶対離れないから」
うっとりと夢見るような眼差しに吐き気がし、今一度殴りつけたが、やはり女は笑うだけ。
痛覚が麻痺しているのか?
ヨルグはいつの間にか姿を消していた。いかれた女を押しつける形で。相変わらずうっとりとした眼差しを向けるケイトリンの首根っこを引っ掴み、引きずり始める。
「オーギュ? ちょっと、何すんのぉ?」
煩い、黙れ!
嫌がって暴れるケイトリンを地下室の入り口まで引きずって行き、中へ蹴り落とし、上げ蓋を閉じる。閉じ込めたところで金属も木も腐食するから意味はないのだろうが……ありったけの家具を地下へ通じる入り口の上に積み上げる。
何としてもあの女を殺す方法を見つけないと……
オーギュストがブリュンヒルデの遺体をベッドのシーツで包み始めると、ローザを抱きかかえたアンバーがしゃくり上げながら言った。
「で、殿下……な、なんで……ブリュンヒルデ様が殺されたんですか?」
「……分からない」
あんないかれた女の考えていることなど分かってたまるか!
肩に担ぎ上げた遺体の重さに心が引き裂かれそうだった。
オーギュストがアンバーからローザを受け取ると、やはり激しく泣く。まるで引きつけを起こしたかのよう。真っ赤になった顔は泣く、というより、泣き叫んでいるように見える。
「よしよしよし、一体どうしたの?」
アンバーが今一度ローザを受け取り、彼女をあやし始めた。アンバーは困り果てているようだが、それはオーギュストも同じだった。
何故、私が抱き上げた途端に泣き出す?
――あたいの血を飲んだ人間は、みーんなオーギュを嫌いになるんだ。
血……確かにローザはあの女の血を口にしたようだが……
――滅びの魔女の秘薬? あたいね、あれを飲んだらこうなったの。いいよね、これ。オーギュを慕う人間を全部排除できるんだもん。
滅びの魔女の秘薬……滅びの魔女の秘薬……滅びの魔女の秘薬を飲んだ人間は、他者に強い敵愾心を抱くようになる。これは伝説上の言葉だ。敵愾心を植え付ける薬……敵愾心を植え付ける……腹心の部下の裏切り、エクトルの豹変は……まさか……
ふっと全ての点が繋がったような気がした。
オーギュストは愕然となる。
まさか、伝説で語られている滅びの魔女の秘薬が原因なのか? いや、そんな馬鹿な……滅びの魔女など伝説上の、架空の存在だ。そんなものにどうやって対抗すれば……いや、待て、そうだ! 「滅びの魔女の手記」と「聖王リンドルンの手記」が王城の秘宝庫に残されていたはず。王族以外手を触れることを許されていない禁書だ。
――父上は読んでみたことが?
――いや、古代語で書かれているから、私は読んだことがない。だが、内容を知りたいのなら一度目を通して見るといい。古代語を習得した後で。
かつて父は、そう言っていた。特に興味を惹かれなかったから、すっかり忘れて……城へ戻って内容を読破すれば、解決方法が見付かるかもしれない。
「オーギュスト殿下?」
アンバーの呼びかけではっとなる。
ああ、とにかくここにいては駄目だ。ヨルグに居場所がばれている。一刻も早く移動しないと。追撃を掛けられたらことだ。
しかし……どこへ行けば……
アルバンは……駄目だ。医療院の誰が裏切ったのか分からない。
オーギュストは布で覆ったブリュンヒルデの遺体を抱え上げ、ローザを抱いたアンバーを連れ、人目を避けつつ移動し、ダニーのいる森の丸太小屋へと舞い戻る。
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「オーギュスト殿下、え? どうしたの? もしかしてヴィスタニアから迎えが来た?」
ダニーの台詞にオーギュストは首を横に振る。
ヒルデが殺された……喉元まででかかった言葉をオーギュストは飲み込んだ。口にすると実感がどっと襲ってきそうで、恐ろしかった。このまま動けなくなりそうである。
「……ローザとアンバーをほんの少しの間、ここでかくまって欲しいんだ」
「え? 何故? あ、いや、うん、いいよ。殿下の頼みだからね」
ダニーが二つ返事で引き受けてくれた。
「……殿下、何がありました?」
ダニーの祖母のリズもまた戸口から顔を出した。不安からか、柔和な顔が幾分硬い。
「すまないが、説明はあとだ。アンバー、私が戻るまでここで待っていて欲しい。ローザを頼めるか?」
「ええ、それはもちろん。でも、どちらへ行かれるんですか? ブリュンヒルデ様が……」
アンバーの視線の先は、オーギュストが肩に担ぎ上げたブリュンヒルデの遺体だ。
オーギュストの胸に鋭い痛みが走る。
私だって彼女を残して行きたくはない。だが、どうしても城に行って、滅びの魔女の手記と聖王リンドルンの手記を手に入れる必要がある。ローザはあの女の血を口にした。この先どんなことになるか分からない。一刻も早く対抗策を見つけないと……
「ローザの為にどうしても必要なんだ。頼む!」
アンバーは不承不承頷いてくれた。ブリュンヒルデの遺体は、自分の寝室としてあてがわれている部屋へ運び込んだ。一緒に寝起きした場所である。
まさかこんなことになるとは、な……
秘密の通路を通り、熟知している城の内部を進む。王家伝来の秘宝庫へ通じる通路を選んで進み、そっと忍び込んだ。夜目が利くので、ぼんやりとした月明かりでも十分目的のものを探し出せる。
目的の書物は記憶にある通りの場所にあった。表紙を繰れば、父が言った通り目にしたのは古代語だったが、自分は問題なく読める。
手記の内容は驚くべきものだった。
滅びの魔女の秘薬は、恋の秘薬として作り出されたらしいが、どう考えても恋の秘薬だとは思えない。恋した男に対する敵愾心を植え付け、周囲から孤立させるものだからだ。これでは、自分を愛さなければ破滅するという脅しである。
オーギュストは何時間も一心不乱に読みふけり、驚愕の内容に本を取り落としそうになる。
滅びの魔女の秘薬で魔女となった者を殺す方法は……魔女を愛する事、だと? あの魔女を! ブリュンヒルデを殺した女を愛する! 死んだ方がましだ!
本を投げつけそうになるも、ローザの泣き顔が目に浮かぶ。
駄目だ駄目だ、癇癪を起こすな。何か別の方法があるかもしれない、探ってみよう。
二つの書物を手にしたオーギュストは、秘密の通路を再び通って街壁の外へと出る。森へ戻る最中、目にした光景に目を見張った。
これ、は……
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なか
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