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仮面卿外伝【第二章 太陽が沈んだその後に】

第三話 愛する者はただ一人

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「あなたの愛人にはなりません」

 ハインリヒの提案を、ブリュンヒルデが突っぱねる。
 ここは王太子妃の部屋ではない、西向きのこじんまりとした部屋だ。内装はそれなりに整えられていたが、処刑場がよく見える一番嫌な部屋である。もちろん、わざとだろうと思う。オーギュストの処刑を見せつけるための……

 ブリュンヒルデは涙をこらえ、ぐっと前を向いた。
 ハインリヒのこの提案は二度目だった。最初はオーギュストが捉えられ、ブリュンヒルデの妊娠が発覚した直後の事で、あの時は乱暴されそうになった。

 ――下がりなさい!

 ともすれば震えそうになる声を、ブリュンヒルデは必死で押さえた。表向きは威厳ある皇女の姿を保ったけれど、内心は震える程恐ろしかった。

 ――わたくしに対する無礼は、ヴィスタニア帝国に対する侮辱です。わたくしの兄ギデオンが黙ってはいませんわ。ヴィスタニア帝国との対立をお望みですの?

 ヴィスタニア帝国の威光を盾にブリュンヒルデが反撃し、ハインリヒは渋々引いた。戦神との異名を持つギデオン皇太子は妹を溺愛している。その彼女が乱暴されたなどと耳にすれば、烈火の如く怒り狂うに違いない。それこそ戦争になりかねない。

 ――このまま罪人として幽閉されるよりはずっといいだろう。よく考えることだな。

 そんな台詞を口にし、ハインリヒは立ち去った。
 ブリュンヒルデはほっと胸をなで下ろしたものの、この時の事が何故か噂になり、腹の子はハインリヒの子だということになってしまった。

 ベッドの上でブリュンヒルデは顔を曇らせ、大きくなった腹をさすった。今は妊娠六ヶ月目である。この子はオーギュストの子だ。なのに、ハインリヒの子だとはなんという言い草か。侮辱もいいところである。城内を駆け巡っている噂が腹立たしい。

 オーギュストに手配された医師から、妊娠三ヶ月だと知らされた時は幸せの絶頂にいた。あの日、朝食で食事の匂いに胸がむかついたのは、つわりだったのである。

 ――何かあったら呼ぶように。

 オーギュストのその言葉通り、ブリュンヒルデは喜ばしい知らせを夫である彼に真っ先に知らせようと、彼の元へ飛んでいった。その直後の事である。謀反の罪でオーギュストが捉えられた事を知り、不幸のどん底に叩き落とされたのだ。
 ハインリヒが鷹揚に言う。

「愛人ではない。正妃だ。お前もその気があったからこそ離縁書にサインしたのだろう?」

 かっとなってブリュンヒルデが叫んだ。

「あなたがわたくしを騙したのでしょう? 離縁書にサインをすればオーギュの命だけは助けると、そう約束したではありませんか! なのにあなたはオーギュを処刑させた!」

 悲しみと憎しみをハインリヒにぶつける。それでもなお、彼は涼しい顔だ。

「婚姻書にはサインしなかった」

 いけしゃあしゃあとハインリヒが言い、ブリュンヒルデはふいっと横を向く。

「ハインリヒ殿下にはもうエヴリンという立派な正妃がいるではありませんか」

 ブリュンヒルデがそう言った。ほんの半年前に結婚したばかりだというのに……そうブリュンヒルデが非難すると、ハインリヒがおどけてみせた。その仕草がなんとも腹立たしい。

「ああ、違う。殿下ではなく陛下だ、陛下。今はこの私が国王だからな。どうだ? 王子妃ではなく、王妃になれるぞ? 私と結婚すればリンドルンの国母だ」
「……わたくしの夫はオーギュストただ一人です」

 ブリュンヒルデがきっぱりと言う。ハインリヒが不快感を露わにした。

「それがどうした。あいつは死んだ。そら、奴の処刑を窓から見せてやったろう?」

 やはり……
 わざわざ窓から処刑場を望めるこの部屋に押し込めたのだと、ブリュンヒルデは確信する。ブリュンヒルデはきゅっと唇を噛んだ。じわりと涙がにじむ。散々泣いたというのに、涙が涸れ果てるということはないらしい。
 ブリュンヒルデがゆるゆると言った。

「……オーギュがいないのなら、わたくしは国へ帰ります。先程も言ったようにわたくしの夫はオーギュスト・ルルーシュ・リンドルンただ一人ですから」

 そう、オーギュの為にとこの国に踏み止まったが、こうなったら一刻も早く国へ帰りたい。ここにとどまるのは辛すぎる。彼の気配がそこここに残っているこの場所は身を切られるよう……

「帰すわけにはいかない」

 ハインリヒが憤然と言った。

「お前は罪人だと言っただろう? 夫をそそのかし、王家乗っ取りを企んだんだぞ? それなりの誠意を見せてもらわないとな」

 ブリュンヒルデはきっと睨み付ける。
 それなら斬首が相当では? ブリュンヒルデはそう思うも、それが悪手であることも知っている。たとえそれが事実であったとしても、ヴィスタニア帝国皇女を斬首などしようものなら、やはりヴィスタニア帝国との対立は避けられない。皇帝である父も皇太子の兄も血気盛んだ。開戦一直線になるだろう。

「そんな危険人物なら、なおさらわたくしを国へ帰した方がいいのでは?」

 ブリュンヒルデがそう指摘する。一番平和的解決方法だ。だが、ハインリヒは応じない。

「ははは、それは出来んな。ヴィスタニア帝国とはこれからも良い関係を維持したい。だからこそ、お前を王妃にしてやろうと言ってやっているんだ。何が不満だ? ん? 罪人が王妃だぞ、王妃。ヴィスタニア帝国側にとっても悪い話ではなかろう?」
「……皇帝陛下も兄のギデオンもわたくしの意志を尊重しますわ」

 特に兄のギデオンが……
 ブリュンヒルデが心の中でそう付け加える。
 ハインリヒが面白くもなさそうに言った。

「どちらにせよ、今お前を帰すわけにはいかない。再三言うが、お前は王家乗っ取りを企んだ大罪人だ。自分が罪人だということを自覚するんだな」

 ハインリヒが近衛兵を連れて立ち去ると、ブリュンヒルデは横手に立つ兄のヨルグに目を向けた。先程から彼は、まったく口を挟まず大人しいままだ。中立的な立場を貫いている。

「ヨルグお兄様、父に連絡をいれてちょうだい。迎えに来るようにと」
「……王妃の座を放棄するのか?」

 残念そうに言うヨルグを、ブリュンヒルデがきっと睨み付ける。

「世迷い言を。王妃はエヴリンです」
「ハインリヒ陛下は離婚すると言っていたじゃないか。だったら……」
「連絡を」

 ブリュンヒルデの碧い瞳に睨み付けられて、ヨルグは肩をすくめ、降参した。

「ああ、分かった、分かったよ。だが、先程ハインリヒ陛下が言ったように、お前は王家乗っ取りを企んだ罪人として拘束されている身だ。解放するのにはそれなりに時間がかかる。しばらく大人しくしててくれ」
「ヴィスタニアの護衛をもっと増やすことは?」

 ブリュンヒルデがそう提案する。今まで自分を守ってくれていたリンドルンの護衛騎士達は、今一つ信用できなくなっていた。オーギュストを辛辣にこき下ろすからだ。まるで人が変わったよう。

「私が連れてきた兵士を二人こちらへ回す。それでいいか?」

 ブリュンヒルデが頷くと、ヨルグはその場を後にした。

「何度も手紙を書いているのに、皇帝陛下から音沙汰がありませんね」

 侍女のアンバーが気落ちしたように言う。いつもの快活さが影を潜め、不安の色を滲ませていた。環境の激変に付いていけないのだろう。ブリュンヒルデ自身にもその気持ちは痛いほど分かった。

「……ハインリヒ殿下に握りつぶされているのでしょう」

 あの男ならやりかねないとブリュンヒルデが言う。

「皇帝陛下は現状を知らないということですか?」
「兄のギデオンがここへやってこないのが良い証拠です」

 自分が助けを求めれば、きっとギデオンお兄様はここへ飛んできたはず……
 ブリュンヒルデの言葉にアンバーが頷いた。

「確かに……ギデオン皇太子殿下なら、ブリュンヒルデ様が監禁されていると聞いただけで、軍隊を率いてやってきそうです」

 音沙汰なしはおかしいとアンバーが同意する。

「でも今回はヨルグ殿下が動いて下さるようですから、大丈夫ですよ。きっと皇帝陛下が派遣したヴィスタニア兵が、リンドルンまで迎えに来て下さるでしょう」
「ヨルグお兄様がもっと早く動いて下されば……」

 ブリュンヒルデは何度そう思っただろう。
 ヨルグがここへやってきたのは、オーギュストが謀反人として捉えられてからひと月ほどたってからだ。その時は兄ヨルグを通じて、帝国側に働きかけることは出来ると喜んだけれど、彼は動こうとしなかった。罪人を庇う気はないと一蹴されてしまったのだ。

 せめて、牢にいるオーギュストに会わせて欲しいと懇願しても、その願いが聞き届けられることはなかった。ブリュンヒルデもまた罪人として監禁され、身動きが取れず、オーギュストに忠誠を誓っていたはずのリンドルンの騎士達は、彼を辛辣にこき下ろすといった有様だ。その言いように何度腹を立てただろう。

「オーギュ……」

 再びブリュンヒルデの瞳から涙が零れる。
 たった、三ヶ月、三ヶ月で処刑……
 こんな馬鹿なと今でも思う。王族の場合、罪を犯しても優遇措置がとられて、最低一年は幽閉という形で処刑を免れるはずなのに、異例の速さで処刑された。誰も、誰もその措置に意を唱えなかったからだ。オーギュストに付いていた高位貴族達が、こぞってハインリヒ側に寝返った。だからすんなり処刑まで行ってしまったのだ。何故?

「オーギュスト殿下は本当に謀反を?」

 アンバーがぽつりと言い、ブリュンヒルデが首を横に振った。

「濡れ衣です。彼がそんな真似をするはずがありません」

 アンバーが頷く。

「ですよね……というか、リンドルン王国の貴族達そのものが、何やらおかしな事になっていませんか? 態度が一八〇度変わっています。オーギュスト殿下を慕っていた者達がこぞって彼を悪く言い、ハインリヒ殿下を持ち上げる。誰もが彼の方が王座にふさわしいとそう口にする。これではまるで評価がそっくり入れ替わったかのようです」

 ブリュンヒルデが顔を曇らせる。
 そう、確かにおかしい……

 ――エクトル、あなたはオーギュの無実を信じていないのですか?

 オーギュストを疑い始めた、否、反逆者だと決めつけてかかったエクトルの台詞が信じられず、ブリュンヒルデが問い返した。陛下を手に掛けるなど、不届き千万。殿下の本性が出たようですなと、彼はそう言ったのだ。
 本性? オーギュストの本質は善良だ……それをなんという事を!
 ブリュンヒルデが憤れば、エクトルも負けず劣らずまなじりを吊り上げた。

 ――目撃者が大勢います。ブリュンヒルデ様。これは流石に覆せません。ですが、オーギュスト殿下を擁護する声は多い。公平さという意味合いから、事件の全貌は明らかにしたいと思います。では、失礼。調査報告をまとめなければなりませんので。

 そう言って立ち去った。まるで、調査することさえ馬鹿馬鹿しいという言い方だった。ただ、義務感から、あるいは己の良心に従って公平さを失わないようにしている、そう言いたげである。
 ただただ、あっけにとられて、ブリュンヒルデは立ち去る彼の背を見送った。
 信じられない……。エクトルがあんな事を言うなんて……。あなたはオーギュストの一番の理解者だったはずなのに……
 そんな思いがブリュンヒルデの胸中を渦巻く。

 ドアの鍵が外され、食事が運び込まれる。
 食事を運んで来た侍従が外へと出ると、侍女のアンバーが食事を一つ一つ点検し始める。食事を少量別皿に取り、血液反応があるかどうかを調べるのだ。

「でも、これ、いつまで続けますか?」
「国へ帰るまでよ」
「はぁ……意味が分からないんですけど。血液反応が出たら食べるなって……。エヴリン様が命に関わるからとそうおっしゃったので、きちんとこうして調べていますが……。毒ならともかく、食事に血を混ぜる意味がわかりません。何かの呪術ですか? ブリュンヒルデ様を呪っている人がいるとか?」
「分からないわ。でも、エヴリン王子妃……いえ、王妃殿下は天才薬師ですもの。血を利用した薬が存在するのかも」
「血を利用した薬、ねぇ……あ、蛇の血を飲むと精力絶倫になるらし……申し訳ありません、もう言いませんから、その冷たい目はおやめ下さい」

 侍女のアンバーが身を縮めて平謝りだ。皇女であるブリュンヒルデの冷ややかな眼差しは、やはり圧があった。

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