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仮面卿外伝【第二章 太陽が沈んだその後に】

第一話 いつもと違う朝

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 その日、目を覚ましたブリュンヒルデの気分は、最高とは言いがたかった。頭が痛くて体がだるい。天蓋付きのベッドの上で、ぼうっとしてしまう。

「おはよう、ヒルデ」

 同じように目を覚ましたオーギュストが、ブリュンヒルデの唇にそっとキスをする。ブリュンヒルデは微笑んだ。体調は優れなかったけれど、彼のキスが甘いことには変わりない。結婚二年目になるけれど、こうした彼の愛情表現は相変わらずである。嬉しくてくすぐったい。

「おはよう」

 そう挨拶を返すも、ふっとオーギュストの顔が曇ったように見えた。

「……体調はどうだ?」

 額に手を当てられて、ブリュンヒルデはゆるりと笑った。
 オーギュに隠し事はできないわね……

「ええ、大丈夫よ。少しだるいだけ」
「……昨夜、無理をさせたか?」

 頬を撫でる手がとても優しい。オーギュストにそう問われ、ブリュンヒルデは「いいえ、とても素敵だったわ」そう言いそうになって、ふと口ごもった。やはり閨のこととなると、気恥ずかしさが先に立つ。もう生娘ではないのに、こうして彼の姿を見ると、初めて肌を重ねたあの時へ戻ってしまう。最高に甘く切なかったあの瞬間に……
 愛しているわ、オーギュ……
 心配げに見下ろす緑の瞳を見返し、ブリュンヒルデは微笑んだ。

「大丈夫よ、心配しないで?」

 ブリュンヒルデは身を起こし、オーギュストにそっとキスを返す。



「ブリュンヒルデ様、顔色が優れませんね?」

 身支度を調える最中、侍女のアンバーにまで心配されてしまった。彼女はヴィスタニアから唯一付いてきてくれた侍女なので、気心が知れている。他の侍女は皆リンドルン出身だ。
 そんなに顔色が悪いかしら?

「大丈夫よ」

 ブリュンヒルデはあえてそう答えたものの、やはり調子は良くない。身支度を整え、オーギュストと共に食堂に向かったものの、食物の匂いに吐き戻しそうになってしまう。ほんの少し口に入れただけで、あとは手つかずだ。

「食欲がない?」

 オーギュストが問えば、ブリュンヒルデが頷く。

「ええ、その……何となくムカムカして食べられないの」
「医者を呼ぼう」
「ふふ、大げさね」

 ブリュンヒルデは断ったが、オーギュストは引かなかった。寝室へ連れて行かれ、医者を呼ばれてしまう。その後、医師が寝室に姿を見せてもオーギュストはその場を離れようとせず、ブリュンヒルデの苦笑を誘った。

「オーギュ、大丈夫だからもう行ってちょうだい? ほんの少し疲れただけよ。大事な会議があるのでしょう? 陛下を待たせるのは失礼よ」

 ブリュンヒルデにそう諭され、オーギュストはしぶしぶ椅子から立ち上がった。出来るならこちらを優先させたい、そんな意向が垣間見え、ブリュンヒルデは笑ってしまいそうになる。本当に彼は自分に対して甘い。施政者としての彼しか知らない者が見れば、きっとビックリするに違いない。

「……何かあったら呼ぶように」
「ええ、いってらっしゃい」

 軽いキスの後、オーギュストは従僕を連れ、朝の軍会議へと向かった。ふわりと艶やかな黒髪が揺れる。神の造形美を宿した体躯はやはりしなやかで美しい。
 ブリュンヒルデは微笑んでその後ろ姿を見送った。見慣れた光景だった。いつもと変わらない日常の筈だった。まさか、彼が二度とここへ戻ってこないなど、誰が思うだろう。この時のブリュンヒルデは、この先巻き起こる悲劇を想像だにしなかった。


◇◇◇


「オーギュスト殿下、タルトリアとの平和調印、おめでとうございます!」

 会議室へ向かう途中、出会った騎士がオーギュストに祝辞を述べた。

「陛下もさぞお喜びかと。そうそう、お祝いにとハインリヒ殿下が上等なワインを用意してくださいましたよ。今丁度会議室で振る舞ってくださっています」

 騎士は喜んでいるようだったが、オーギュストはため息をつきそうになる。
 朝っぱらから酒か……。頭の回転が鈍るから、会議前は控えて欲しかったんだが、用意してしまったものは仕方がない。

「兵士達にまで大盤振る舞いでしたよ。ハインリヒ殿下は気前がいいですね。あ、私はこの書類を届けなければなりませんので、失礼致します。オーギュスト殿下、また後で……」

 足早にその場を離れていく騎士の背を見送り、オーギュストも足を速めた。ブリュンヒルデの一件で会議に少し遅れている。

「陛下、申し訳ありません。少々遅くなり……」

 会議室のドアを開け、オーギュストは目にした光景に驚いた。惨憺たる状況である。父王が倒れていて、床は真っ赤に染まっている。血臭が鼻を突いた。

「父上!」

 オーギュストは倒れ伏している父親に急ぎ駆け寄るも、既に事切れている。

「捕まえろ! 陛下を殺害したのはオーギュストだ!」

 ハインリヒの叫びにオーギュストはかっとなった。
 返り血まで浴びていて、よくもぬけぬけと……
 どう見ても、犯人はハインリヒだ。オーギュストは血の付いた剣を手にしたハインリヒを睨み付ける。飛びかかりかけるも、近衛兵達がそれを阻み、オーギュストは混乱した。ハインリヒを庇うように立つ近衛兵達に唖然としたと言っていい。

「お前達! 気でも狂ったか! 下がれ!」

 オーギュストが一喝する。
 その迫力に一旦は押されたように見えたが、近衛兵達は踏み止まった。これでも鍛え上げられた精鋭である。勇猛果敢な者達の集まりだ。

「あなたを、逮捕、します」

 近衛兵の一人が呻くように言う。

「何?」
「陛下を手に掛けた反逆者として、あなたを拘束します」

 オーギュストは再度唖然となった。二の句が継げない。
 自分がこの場へやって来た時には、父王は既に事切れていた。それはこの場にいた者達全員が見ていたはず……。なのにこれはどうしたことだ?

「な、何を言っているんですか! 正気ですか? 無茶苦茶だ! 殿下が来た時には陛下はもう事切れていたではありませんか!」

 それに抗議したのがオーギュストが連れていた従僕だ。だが、その抗議は近くにいた近衛兵によって阻まれる。羽交い締めだ。
 オーギュストは今一度ぐるりと周囲を見回した。
 まるで親の仇を目にしたかのような眼差しに、どうしたって困惑を隠せない。いや、もし本当に自分が父王を手に掛けていたのなら、この反応も理解出来る。近衛兵は王家に、そして父王に忠誠を誓った者達ばかりだからだ。親の敵も同然だろう。

 だが、実際は違う。ハインリヒは血の付いた剣を手に、返り血を浴びているではないか。誰がどう見ても犯人はハインリヒだと分かる。なのに何故だ?

 オーギュストは混乱した。
 全員が口裏を合わせ、自分に謀反の罪を着せようとしている? だが、この場にいる殆どが自分の味方だった筈だ。ハインリヒ側に付く貴族は、ごく少数派だったはず……

「……ハインリヒ、お前の企みか?」
「はて、何のことだが」

 ハインリヒがおどけてみせる。

「レアンドル?」

 オーギュストに忠誠を誓ったはずの騎士団長に呼びかければ、撥ね付けられる。

「……俺の名を呼ぶな、この謀反人が!」

 この反応にもオーギュストは驚いた。愕然としたと言ってもいい。

「一体どうしたと言うんだ!」
「どうもしない! 目が覚めただけだ! あなたのような卑劣漢を盲信していた自分が恥ずかしい!」
「オーギュスト殿下、ご同行を願います」

 比較的穏やかにそう口にしたのはリトラーゼ侯爵だ。
 がっちりとした体躯の偉丈夫である。騎士団総団長をも勤め上げた男だ。病死した兄に代わり侯爵位を継いだので現場を退いたが、彼も勇猛果敢な男で、オーギュストと共に戦場を駆け抜けた事もある。戦友といってもいい。なのに、その目にはやはり憎悪が宿っている。

「それとも、我ら全員敵に回しますか?」

 周囲を今一度見回したオーギュストは肩の力を抜いた。まさか仲間を斬り殺すわけにもいかない。

「……エクトルを呼べ」
「牢に行かせましょう」

 リトラーゼ侯爵が請け負った。近衛兵と共に貴人用の牢まで大人しく移動したオーギュストの前に、程なくしてエクトルが姿を見せた。かなり慌てている。

「殿下、一体、一体どうなさいました! 殿下が陛下を斬り殺したと、そう聞かされましたぞ! 何故かようなことに!」
「……分からない」

 オーギュストが呻くように言う。
 本当に分からなかった。ハインリヒに組みする者達だけなら、まだ分かる。だが、あの場にいたのは自分の味方だった者達ばかりだ。それが一転この有様だ。一体何故、ハインリヒ側に寝返ったのか分からない。簡単に裏切るような者達ではなかったはずだ。
 オーギュストが自分の身に起こったことを説明すれば、エクトルは何とも言えない顔をした。

「……リトラーゼ侯爵は殿下が犯人だと」

 オーギュストが声を荒げた。

「違う! エクトル! いま説明したように濡れ衣だ!」
「それは、ええ、はい。殿下がそんなことをなさるはずがない……しかし、これは一体どういうことなのか……その場にいた者全員が、こぞって殿下が犯人だと口にする。これをひっくり返すのは至難の業ですぞ?」

 オーギュストが頷いた。

「ああ、そうだな。何か裏がある。もしかしたら家族の命を盾にとられているのかもしれない。エクトル、原因を探ってくれ」
「承知致しました、殿下。全力で調査いたますので、今しばらくご辛抱を」
「頼む。出来るなら報告はこまめにしてくれ」

 エクトルは頷き、その場から姿を消す。オーギュストはソファに身を預け、用意されたワインを口にした。牢と言っても貴人用なので、豪奢な客室とほぼ変わらない。高窓に鉄格子がはまっているのが、唯一牢らしいと言えば牢らしいところだろう。

 それから僅かひと月の間に、悪夢が加速した。自分の味方だった者達が、次々ハインリヒ側に寝返っていくのだ。オーギュストの無実を証明しようと躍起になっていた者達が、こぞって自分を罵倒する側に回る。まさに悪夢だった。
 国王を弑逆しただけではなく、不正行為まで発覚したと言う。でっち上げもいいところだ。それが、つい昨日まで自分の味方だったはずの者達からやられれば、どう反応すればいいのかすら分からない。

「証拠は!?」
「不正の証拠ならここにあります!」

 オーギュストが詰め寄れば、宰相補佐のセザールが書類を叩きつける。一見貧相に見える男だがセザールは頭の切れる男だ。手にした書類に目を通し、オーギュストは唸った。

「……私の字ではない」
「また嘘をつきましたな、殿下。ほとほと呆れます」

 オーギュストの眼差しが険しくなる。
 呆れるのはこちらだ。私の字かどうかくらいお前なら判断できるはずだ。

「……本気で言っているのか?」
「当たり前でしょう。殿下こそそろそろ観念なさったら如何ですか?」

 オーギュストがかっとなって一歩前へ出れば、セザールは気圧されたように下がる。怯えてはいても、見て取れるのは憎悪の色だ。自分が王族でさえなければ、その場に唾でも吐きそうな風体である。ふっと怒りが沈下した。怒りよりもどうしたって困惑が勝る。

 そうだ、これだ……
 一体どうなっている? まるで敵国の人間を見るような目つきだ。家族を盾に取られて……当初はそう考えたが、どうもおかしい。これでは私が彼らの家族を殺してまわったようではないか。
 日に日に敵が増え、味方が減っていく。
 最終宣告はエクトルだった。

「殿下、あなたが陛下を殺したんですな?」

 貴人の牢に現れたエクトルにそう言われて、オーギュストは言葉を失った。宰相としてのエクトルの鋭い眼差しが自分を見据えている。恰幅のいい体をきっちりとした貴族服に包み、背筋を伸ばして立つ姿は他の誰でもない、友であり、最も信頼していた部下のエクトルだ。

 まさか……お前まで疑うのか?
 侮蔑に満ちたエクトルの眼差しが突き刺さる。

「違う、エクトル! 私は無実だ! やっていない!」
「言い訳は見苦しいですぞ、殿下! 証人が山のようにいる。このような嘘つきを尊敬していたとは、ああ、嘆かわしい! 自分で自分が許せませんな!」

 エクトルが立ち去り、混乱は最高潮に達したと言ってもいい。唖然とその背を見送った。その日からオーギュストは貴人用の牢ではなく、地下牢へと押し込められた。王族が地下牢に入るなどまずもってない。不当な扱いを抗議すれば、ここから逃げ出せばブリュンヒルデを処刑するとハインリヒが口にし、オーギュストは我が耳を疑った。
 正気か? ヴィスタニアと戦争になるぞ?
 ハインリヒが勝ち誇ったように笑う。

「ははは、お前が逃げ出さなければいいだけの話だ。なんなら、彼女を見捨ててみるか? ブリュンヒルデはお前を見捨てたぞ? 謀反人の夫などおぞましいと、そう言ってな!」
「嘘だ! デタラメを言うな!」

 オーギュストが力任せに鉄格子を叩けば変形し、牢番がびくりと体をふるわせた。

「エクトルも見ての通りお前を見捨てた」

 ハインリヒが嘲笑い、オーギュストは言葉に詰まった。それについては何も言えない。

「思い出せ。ここへお前を連れてきたのは誰だ? エクトルだな?」

 ハインリヒのそれは、まさに悪魔の囁きだった。けれど、今のオーギュストには覿面に効いた。信じていた者達に次々裏切られたのだから、疑心暗鬼になったとしても無理はない。
 そうだ、ここへ私を押し込めたのは、他の誰でもないエクトルと私の腹心の部下達……なら、ブリュンヒルデも?

「会わせてくれ……ヒルデに……」

 オーギュストの要求をハインリヒが一蹴する。

「はははははは! 会いたくないとさ! あいにくだったな!」

 嘘だ、嘘だ、嘘だ……ヒルデ!

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