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仮面卿外伝【第一章 太陽と月が出会う時】
第七話 逆転大勝利
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ブリュンヒルデがリンドルン王国訪問を果たしたのは、婚約披露を兼ねた誕生日からひと月ほど経った頃だ。毎年リンドルン王国内で行われる馬術大会を見学しにやって来たのである。
階段状の観客席に設置された彼女の席は、もちろんオーギュストの隣だ。
「ようこそ、ブリュンヒルデ皇女殿下。歓迎致します」
オーギュストの側近であるエクトルが、ブリュンヒルデに向かって、そう挨拶をする。きっちりとした貴族服に身を包み、濃い茶の髪を綺麗になでつけている。眼差しは知的で鋭いが、顔つきは彼の人柄がにじみ出ていて柔らかい。
オーギュストの乳兄弟でもあるエクトルは、皇太子ギデオン同様、ブリュンヒルデとも懇意にしていた。
「この度は、オーギュスト殿下とのご婚約おめでとうございます。まことにめでたいですな。両国間のますますの発展を願っております」
ブリュンヒルデが微笑んだ。
「ありがとう、エクトル卿。今夜の夜会では、あなたのお相手を紹介していただけるのかしら?」
「は、それは、その、ですな……」
エクトルが困ったように視線を泳がせる。期待に満ち満ちたブリュンヒルデの顔を見て、観念したように答えた。
「まだ、婚約者がいないものですから、また次の機会ということで……」
ブリュンヒルデが目を丸くする。
「あら、ダスティーノ公爵家はリンドルンの二大公爵家の一つでしょう? 見合い話が殺到しているものとばかり……それともエクトル卿のお眼鏡にかなった女性がいないのかしら?」
「それは、ええ、その、検討中です」
はははとエクトルは笑って誤魔化した。失恋したばかりなので、見合いをする気になれないとは口が裂けても言いたくなかった。
本人にはとくに……
エクトルは美しいブリュンヒルデの横顔をそっと眺めた。波打つ髪は黄金色。肌は抜けるように白く、碧い瞳は神秘的で美しい。微笑む姿はまさに女神である。
初恋は実らない、か……一体誰が言ったものか。
はふうと付きそうになるため息を、エクトルは飲み込んだ。自分には当てはまってもオーギュスト殿下には当てはまらない、そう思ってしまう。
ちらりとオーギュストを見れば、やはり惚れ惚れするような美貌だ。神の御手による造形美を宿した顔はもとより、蠱惑的な緑の瞳にどうしても圧倒される。どっしりとした貫禄もあって、男の自分から見てもいい男だと思う。
「オーギュスト殿下……」
エクトルがつと声を掛けると、馬場の方に視線を向けたままオーギュストが答えた。
「何だ?」
「あー……殿下の初恋はどなたでしょうな?」
「わざわざ言う必要が?」
オーギュストの視線がブリュンヒルデに向き、ああ、そうですねとエクトルは納得してしまう。やっぱりオーギュスト殿下には当てはまらない、そう再確認してしまった。
彼は生まれながらの王者だ。
天賦の才に恵まれ、全てを跪かせられるカリスマ性がある。きっと手に入らないものなどないに違いない。羨ましいと思う一方で、そんな彼を自分は誇らしく思ってもいる。彼ならば、きっと民の事を思う良き王になるに違いない。
エクトルはぐいっと胸を張った。
そこへ、オーギュストの弟であるハインリヒがやってきた。出場予定なので騎乗服を身につけている。体格は父王と同じく大柄で、頬骨の張った顔は厳めしい。腹違の兄弟だが、両者は全くと言っていいほど似ていなかった。
「ご婚約おめでとうございます。ブリュンヒルデ皇女殿下。美男美女でお似合いですよ」
愛想良くハインリヒが笑い、ブリュンヒルデは失笑してしまった。
「あら? ふふ、ありがとう。随分とお世辞がうまくなったのね? 以前、馬術大会で会った時は、不細工皇女って言われたわ?」
そう、ブリュンヒルデが十才の頃、子供の部の馬術大会に飛び入り参加して、ハインリヒに勝った事がある。その時、当時のハインリヒは相当腹が立ったのか、この出しゃばりの不細工皇女め! と罵った。それを耳にした父王に叱られて、彼は直ぐに謝罪する羽目となったのだが……
それ以降、たまに顔を合わせる事があっても、彼は不機嫌さを隠すこともなく、挨拶もそこそこに通り過ぎるばかりだった。大人になった、ということなのかもしれない。
ハインリヒがおどけたように肩をすくめた。
「おや、そうでしたか? 子供の時の戯れ言ですので、どうかご容赦を」
ハインリヒが笑いながらそう口にした。確かに、とも思う。あの時の彼の年は十二才。少年特有の負け惜しみだったのかもしれない。そう考えれば、致し方ないとも言えた。
「どう、どう、どう!」
馬を宥めているらしい声を耳にし、ブリュンヒルデは何気にそちらに目を向けた。会場内で暴れる馬を押さえている黒髪の男には見覚えがあった。背の高い穏やかな顔つきの男性である。
「あら? 彼はバークレア伯爵ではありませんの?」
十才の時、飛び入り参加したブリュンヒルデに合う馬を見繕ってくれたのが、バークレア伯爵である。オーギュストが頷いた。
「ああ、彼は大の馬好きでね。王城の厩番達とも親しいから、こうして仕事を手伝うこともある。今、彼が相手をしているのはレッドキングだな。気性が荒くて扱いが難しいが、彼には懐いているようだ」
「乗り手は?」
ブリュンヒルデの問いに答えたのはハインリヒだ。
「ああ、私だ。ははは、優勝は決まりだな」
ハインリヒは上機嫌でそう答え、馬場内へ降りていった。オーギュストが眉をひそめる。
「乗り手は騎士団長のベルクだった筈だが……」
「どうも、その……ベルク卿と馬を取り替えたようです」
エクトルが言いにくそうに横手から口を挟んだ。オーギュストはやはり困惑顔だ。
「取り替えた? 何故? 今回ライアは随分といい状態に仕上がっていたぞ? 何が不満だ?」
「ライアは、その……過去一度もレッドキングに勝ったことがございません。それで、ハインリヒ殿下は、安易にあちらがいいと考えたようです。お止めしたのですが、聞く耳を持たずで……」
「あの馬鹿が……」
オーギュストが額に手を当てる。
「大丈夫ですの? あの馬は気性が荒そうですけれど」
ブリュンヒルデが心配そうに言う。
案の定、なにやら馬場内でもめている。危ないです、殿下、どうか別の馬をと、ハインリヒを必死で止めているのはバークレア伯爵だ。ハインリヒがそれを押して背に乗り、暴れて振り落とされる。それを何度か繰り返せば、流石に諦めるかと思いきや、レッドキングを処分しろと怒鳴り始め、てんやわんやだ。
「オーギュ、あの……」
馬場内での騒ぎを目にしたブリュンヒルデが、オロオロし始めると、オーギュストが無言で立ち上がり、そのまま姿を消す。しばらくして別の馬を引いたオーギュストが馬場内に姿を現した。オーギュストが引っ張ってきた栗毛の馬は、元々ハインリヒが乗る予定だったライアである。
「ハインリヒ、こちらに乗れ」
「……その馬では勝てない」
ハインリヒが不機嫌そうにそっぽを向く。
「勝てるぞ?」
オーギュストが笑う。
「絶対だ」
オーギュストが太鼓判を押すも、ハインリヒは鼻でせせら笑った。
「はっ、適当な事を。その馬はレッドキングに勝てたためしがない」
「そうだな。だが、馬は体調によって走りが変化するんだ。今回は厩番がお前のために、最高の状態にまで持って行っている。かつてないコンディションだ。ライアに乗れ。絶対勝てる」
「だったら、兄上がそれに乗ればいい」
ハインリヒはそう言って取り合わない。続いてにやりと笑う。
「そうそう、レッドキングは予定通りベルクが乗れ。いいな?」
傍にいた騎士団長にそう命令し、ハインリヒは背を向けた。恥を掻けばいい、ハインリヒが口の動きだけでそう告げる。
「オーギュスト王太子殿下、出場されるのですか?」
バークレア伯爵にそう尋ねられ、ハインリヒの背を見送ったオーギュストが笑う。
「……そうだな。ハインリヒの代わりに出場しよう」
その知らせを聞いた観客達が湧いた。オーギュストが出場すると、大抵は優勝をさらう。彼が乗れば駄馬でも勝てるなどと言い出す者もいるくらいだ。
「聞いたか? オーギュスト殿下が出場されるそうだ」
「そりゃ凄い。掛け金が変わるな」
そんな声がそこここを飛び交った。試合が始まると、先程までオーギュストが座っていた王族専用の席に、今度はハインリヒがどっかりと腰掛けた。不機嫌そうにふんぞり返る。
「ハインリヒ殿下、出場はなさらないのですか?」
騎乗服を身につけたままのハインリヒに、ブリュンヒルデが声を掛ける。
「ん? ああ……兄上が私に変わって優勝してくれるらしい。何と、兄上が乗るあの駄馬は、レッドキングに勝てるそうだ。兄上はそう言い切ったぞ!」
ハインリヒがそう言って、はははと笑う。にやにやと笑う顔がなんとも不快だったが、ブリュンヒルデは口を閉じた。レッドキングが殺されずにすんだのだから、特別文句を言うこともない。
試合が始まると、その様子を目にしたハインリヒがぶつぶつと言う。
「……やっぱりあの馬は駄馬だ。負ける。絶対勝てるなどと、兄上も適当な事を言う」
最後尾について走っているオーギュストの馬を、そう言ってなじった。
「あら、最後まで勝負は分かりませんわ。それがレースの醍醐味ではありませんの」
ブリュンヒルデがそう反論する。ハインリヒがじろりと横手のブリュンヒルデを睨め付けた。
「……兄上が勝つと思っているのか?」
「オーギュがそう言ったのなら、きっとそうなりますとも」
ハインリヒがせせら笑った。
「ふんっ、大した自信だ。だったらそうだな……兄上が勝ったら兄上にキスをして、レッドキングが勝ったら私にキスをするというのはどうだ?」
ブリュンヒルデが目を丸くする。何を言い出すのだと言いたげだ。
「それとも、前言撤回するか? それでも一向に構わんぞ?」
ハインリヒににやりと笑われ、ブリュンヒルデは憤慨し、勢いよく席を立った。
「いいですとも! その代わりオーギュが勝ったら、彼を疑ったことを誠心誠意謝っていただきますわ! いいですね!」
売り言葉に買い言葉で、ブリュンヒルデがそう言った途端、わあっと観客が沸いた。何事かとブリュンヒルデが振り返れば、最後尾だったオーギュストの馬が、ぐんぐん順位を上げ始めているではないか。それを目にした観客達が興奮したのだ。
「いいぞー!」
「いけいけいけ! 勝っちまえ!」
「すげぇ! ごぼう抜きだ!」
頑張れー、負けるなー! との声援が凄い。
そのまま駆け抜け、オーギュストが乗った馬が、半馬身差でレッドキングに勝ち、さらに大興奮だ。快挙である。勝った、負けたー! などという声がそこここで飛び交った。こちらは掛け金のことであろうが。
「やった、やった、やりましたわ!」
と、ブリュンヒルデも手を叩くも、はっとなって、ストンと座る。はしゃぎすぎたことを恥じたのだ。ブリュンヒルデは誤魔化すように、こほんと咳払いをする。
「ほら、どうですか? オーギュが勝ちましたわ。約束通り謝って下さいませ」
「……さい」
「何ですの?」
ハインリヒが手にしていた鞭を地面に叩きつけた。
「うるさいと言ったんだ! こ、こんなの誰が認めるか! ベルクが、ベルクが手を抜いたに決まってる! 兄上に勝ちを譲ったんだ!」
ブリュンヒルデは眉をひそめた。
「ベルク卿は騎士ですのよ? ハインリヒ殿下。そんな真似は……」
「うるさい!」
ハインリヒは再度怒鳴り散らし、肩を怒らせてその場を立ち去った。
ブリュンヒルデはあっけにとられるも、観客の歓声がそれを打ち消して余りある。オーギュスト殿下、オーギュスト殿下と大騒ぎだ。歓声と共に戻ってきたオーギュストにブリュンヒルデは抱きつき、約束のキスをした。再度わっと周囲が沸く。
オーギュストが口元をほころばせた。
「勝利の女神のキスかな?」
「ええ、あなたがそう思うなら」
ブリュンヒルデが笑う。そこへオーギュストが身をかがめ、再度彼女にキスを施した。祝福の拍手が鳴り止まない。喜び合う観客達の声がそこここを飛び交った。
その様子を遠くから見ていたハインリヒは臍を噛む。悔しげに噛みしめた歯がギリギリとなる。今に見ていろ、憎々しげな眼差しでハインリヒはそう呟いた。
階段状の観客席に設置された彼女の席は、もちろんオーギュストの隣だ。
「ようこそ、ブリュンヒルデ皇女殿下。歓迎致します」
オーギュストの側近であるエクトルが、ブリュンヒルデに向かって、そう挨拶をする。きっちりとした貴族服に身を包み、濃い茶の髪を綺麗になでつけている。眼差しは知的で鋭いが、顔つきは彼の人柄がにじみ出ていて柔らかい。
オーギュストの乳兄弟でもあるエクトルは、皇太子ギデオン同様、ブリュンヒルデとも懇意にしていた。
「この度は、オーギュスト殿下とのご婚約おめでとうございます。まことにめでたいですな。両国間のますますの発展を願っております」
ブリュンヒルデが微笑んだ。
「ありがとう、エクトル卿。今夜の夜会では、あなたのお相手を紹介していただけるのかしら?」
「は、それは、その、ですな……」
エクトルが困ったように視線を泳がせる。期待に満ち満ちたブリュンヒルデの顔を見て、観念したように答えた。
「まだ、婚約者がいないものですから、また次の機会ということで……」
ブリュンヒルデが目を丸くする。
「あら、ダスティーノ公爵家はリンドルンの二大公爵家の一つでしょう? 見合い話が殺到しているものとばかり……それともエクトル卿のお眼鏡にかなった女性がいないのかしら?」
「それは、ええ、その、検討中です」
はははとエクトルは笑って誤魔化した。失恋したばかりなので、見合いをする気になれないとは口が裂けても言いたくなかった。
本人にはとくに……
エクトルは美しいブリュンヒルデの横顔をそっと眺めた。波打つ髪は黄金色。肌は抜けるように白く、碧い瞳は神秘的で美しい。微笑む姿はまさに女神である。
初恋は実らない、か……一体誰が言ったものか。
はふうと付きそうになるため息を、エクトルは飲み込んだ。自分には当てはまってもオーギュスト殿下には当てはまらない、そう思ってしまう。
ちらりとオーギュストを見れば、やはり惚れ惚れするような美貌だ。神の御手による造形美を宿した顔はもとより、蠱惑的な緑の瞳にどうしても圧倒される。どっしりとした貫禄もあって、男の自分から見てもいい男だと思う。
「オーギュスト殿下……」
エクトルがつと声を掛けると、馬場の方に視線を向けたままオーギュストが答えた。
「何だ?」
「あー……殿下の初恋はどなたでしょうな?」
「わざわざ言う必要が?」
オーギュストの視線がブリュンヒルデに向き、ああ、そうですねとエクトルは納得してしまう。やっぱりオーギュスト殿下には当てはまらない、そう再確認してしまった。
彼は生まれながらの王者だ。
天賦の才に恵まれ、全てを跪かせられるカリスマ性がある。きっと手に入らないものなどないに違いない。羨ましいと思う一方で、そんな彼を自分は誇らしく思ってもいる。彼ならば、きっと民の事を思う良き王になるに違いない。
エクトルはぐいっと胸を張った。
そこへ、オーギュストの弟であるハインリヒがやってきた。出場予定なので騎乗服を身につけている。体格は父王と同じく大柄で、頬骨の張った顔は厳めしい。腹違の兄弟だが、両者は全くと言っていいほど似ていなかった。
「ご婚約おめでとうございます。ブリュンヒルデ皇女殿下。美男美女でお似合いですよ」
愛想良くハインリヒが笑い、ブリュンヒルデは失笑してしまった。
「あら? ふふ、ありがとう。随分とお世辞がうまくなったのね? 以前、馬術大会で会った時は、不細工皇女って言われたわ?」
そう、ブリュンヒルデが十才の頃、子供の部の馬術大会に飛び入り参加して、ハインリヒに勝った事がある。その時、当時のハインリヒは相当腹が立ったのか、この出しゃばりの不細工皇女め! と罵った。それを耳にした父王に叱られて、彼は直ぐに謝罪する羽目となったのだが……
それ以降、たまに顔を合わせる事があっても、彼は不機嫌さを隠すこともなく、挨拶もそこそこに通り過ぎるばかりだった。大人になった、ということなのかもしれない。
ハインリヒがおどけたように肩をすくめた。
「おや、そうでしたか? 子供の時の戯れ言ですので、どうかご容赦を」
ハインリヒが笑いながらそう口にした。確かに、とも思う。あの時の彼の年は十二才。少年特有の負け惜しみだったのかもしれない。そう考えれば、致し方ないとも言えた。
「どう、どう、どう!」
馬を宥めているらしい声を耳にし、ブリュンヒルデは何気にそちらに目を向けた。会場内で暴れる馬を押さえている黒髪の男には見覚えがあった。背の高い穏やかな顔つきの男性である。
「あら? 彼はバークレア伯爵ではありませんの?」
十才の時、飛び入り参加したブリュンヒルデに合う馬を見繕ってくれたのが、バークレア伯爵である。オーギュストが頷いた。
「ああ、彼は大の馬好きでね。王城の厩番達とも親しいから、こうして仕事を手伝うこともある。今、彼が相手をしているのはレッドキングだな。気性が荒くて扱いが難しいが、彼には懐いているようだ」
「乗り手は?」
ブリュンヒルデの問いに答えたのはハインリヒだ。
「ああ、私だ。ははは、優勝は決まりだな」
ハインリヒは上機嫌でそう答え、馬場内へ降りていった。オーギュストが眉をひそめる。
「乗り手は騎士団長のベルクだった筈だが……」
「どうも、その……ベルク卿と馬を取り替えたようです」
エクトルが言いにくそうに横手から口を挟んだ。オーギュストはやはり困惑顔だ。
「取り替えた? 何故? 今回ライアは随分といい状態に仕上がっていたぞ? 何が不満だ?」
「ライアは、その……過去一度もレッドキングに勝ったことがございません。それで、ハインリヒ殿下は、安易にあちらがいいと考えたようです。お止めしたのですが、聞く耳を持たずで……」
「あの馬鹿が……」
オーギュストが額に手を当てる。
「大丈夫ですの? あの馬は気性が荒そうですけれど」
ブリュンヒルデが心配そうに言う。
案の定、なにやら馬場内でもめている。危ないです、殿下、どうか別の馬をと、ハインリヒを必死で止めているのはバークレア伯爵だ。ハインリヒがそれを押して背に乗り、暴れて振り落とされる。それを何度か繰り返せば、流石に諦めるかと思いきや、レッドキングを処分しろと怒鳴り始め、てんやわんやだ。
「オーギュ、あの……」
馬場内での騒ぎを目にしたブリュンヒルデが、オロオロし始めると、オーギュストが無言で立ち上がり、そのまま姿を消す。しばらくして別の馬を引いたオーギュストが馬場内に姿を現した。オーギュストが引っ張ってきた栗毛の馬は、元々ハインリヒが乗る予定だったライアである。
「ハインリヒ、こちらに乗れ」
「……その馬では勝てない」
ハインリヒが不機嫌そうにそっぽを向く。
「勝てるぞ?」
オーギュストが笑う。
「絶対だ」
オーギュストが太鼓判を押すも、ハインリヒは鼻でせせら笑った。
「はっ、適当な事を。その馬はレッドキングに勝てたためしがない」
「そうだな。だが、馬は体調によって走りが変化するんだ。今回は厩番がお前のために、最高の状態にまで持って行っている。かつてないコンディションだ。ライアに乗れ。絶対勝てる」
「だったら、兄上がそれに乗ればいい」
ハインリヒはそう言って取り合わない。続いてにやりと笑う。
「そうそう、レッドキングは予定通りベルクが乗れ。いいな?」
傍にいた騎士団長にそう命令し、ハインリヒは背を向けた。恥を掻けばいい、ハインリヒが口の動きだけでそう告げる。
「オーギュスト王太子殿下、出場されるのですか?」
バークレア伯爵にそう尋ねられ、ハインリヒの背を見送ったオーギュストが笑う。
「……そうだな。ハインリヒの代わりに出場しよう」
その知らせを聞いた観客達が湧いた。オーギュストが出場すると、大抵は優勝をさらう。彼が乗れば駄馬でも勝てるなどと言い出す者もいるくらいだ。
「聞いたか? オーギュスト殿下が出場されるそうだ」
「そりゃ凄い。掛け金が変わるな」
そんな声がそこここを飛び交った。試合が始まると、先程までオーギュストが座っていた王族専用の席に、今度はハインリヒがどっかりと腰掛けた。不機嫌そうにふんぞり返る。
「ハインリヒ殿下、出場はなさらないのですか?」
騎乗服を身につけたままのハインリヒに、ブリュンヒルデが声を掛ける。
「ん? ああ……兄上が私に変わって優勝してくれるらしい。何と、兄上が乗るあの駄馬は、レッドキングに勝てるそうだ。兄上はそう言い切ったぞ!」
ハインリヒがそう言って、はははと笑う。にやにやと笑う顔がなんとも不快だったが、ブリュンヒルデは口を閉じた。レッドキングが殺されずにすんだのだから、特別文句を言うこともない。
試合が始まると、その様子を目にしたハインリヒがぶつぶつと言う。
「……やっぱりあの馬は駄馬だ。負ける。絶対勝てるなどと、兄上も適当な事を言う」
最後尾について走っているオーギュストの馬を、そう言ってなじった。
「あら、最後まで勝負は分かりませんわ。それがレースの醍醐味ではありませんの」
ブリュンヒルデがそう反論する。ハインリヒがじろりと横手のブリュンヒルデを睨め付けた。
「……兄上が勝つと思っているのか?」
「オーギュがそう言ったのなら、きっとそうなりますとも」
ハインリヒがせせら笑った。
「ふんっ、大した自信だ。だったらそうだな……兄上が勝ったら兄上にキスをして、レッドキングが勝ったら私にキスをするというのはどうだ?」
ブリュンヒルデが目を丸くする。何を言い出すのだと言いたげだ。
「それとも、前言撤回するか? それでも一向に構わんぞ?」
ハインリヒににやりと笑われ、ブリュンヒルデは憤慨し、勢いよく席を立った。
「いいですとも! その代わりオーギュが勝ったら、彼を疑ったことを誠心誠意謝っていただきますわ! いいですね!」
売り言葉に買い言葉で、ブリュンヒルデがそう言った途端、わあっと観客が沸いた。何事かとブリュンヒルデが振り返れば、最後尾だったオーギュストの馬が、ぐんぐん順位を上げ始めているではないか。それを目にした観客達が興奮したのだ。
「いいぞー!」
「いけいけいけ! 勝っちまえ!」
「すげぇ! ごぼう抜きだ!」
頑張れー、負けるなー! との声援が凄い。
そのまま駆け抜け、オーギュストが乗った馬が、半馬身差でレッドキングに勝ち、さらに大興奮だ。快挙である。勝った、負けたー! などという声がそこここで飛び交った。こちらは掛け金のことであろうが。
「やった、やった、やりましたわ!」
と、ブリュンヒルデも手を叩くも、はっとなって、ストンと座る。はしゃぎすぎたことを恥じたのだ。ブリュンヒルデは誤魔化すように、こほんと咳払いをする。
「ほら、どうですか? オーギュが勝ちましたわ。約束通り謝って下さいませ」
「……さい」
「何ですの?」
ハインリヒが手にしていた鞭を地面に叩きつけた。
「うるさいと言ったんだ! こ、こんなの誰が認めるか! ベルクが、ベルクが手を抜いたに決まってる! 兄上に勝ちを譲ったんだ!」
ブリュンヒルデは眉をひそめた。
「ベルク卿は騎士ですのよ? ハインリヒ殿下。そんな真似は……」
「うるさい!」
ハインリヒは再度怒鳴り散らし、肩を怒らせてその場を立ち去った。
ブリュンヒルデはあっけにとられるも、観客の歓声がそれを打ち消して余りある。オーギュスト殿下、オーギュスト殿下と大騒ぎだ。歓声と共に戻ってきたオーギュストにブリュンヒルデは抱きつき、約束のキスをした。再度わっと周囲が沸く。
オーギュストが口元をほころばせた。
「勝利の女神のキスかな?」
「ええ、あなたがそう思うなら」
ブリュンヒルデが笑う。そこへオーギュストが身をかがめ、再度彼女にキスを施した。祝福の拍手が鳴り止まない。喜び合う観客達の声がそこここを飛び交った。
その様子を遠くから見ていたハインリヒは臍を噛む。悔しげに噛みしめた歯がギリギリとなる。今に見ていろ、憎々しげな眼差しでハインリヒはそう呟いた。
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王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつまりはない。
私を軽んじて。
捨てた彼らに自身の価値を示すため。
捨てられたのは、どちらか……。
後悔するのはどちらかを示すために。
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