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仮面卿外伝【第一章 太陽と月が出会う時】

第六話 吐息さえも甘い

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 水を噴き上げる噴水は、月の光を跳ね返して美しかった。ブリュンヒルデは降り注ぐ水に手をかざし、はしゃいだ声を上げる。

「ね、ほら、オーギュ、水がとっても気持ちいい……」

 ブリュンヒルデの声が途中で止まった。ふらりと姿を現したオレールに目を止めたからだ。同じように散歩でもしていたのだろうか? オレールの長いホワイトブロンドの髪がふわりと揺れる。

「ご機嫌よう、ブリュンヒルデ皇女殿下にオーギュスト王太子殿下。また会いましたね」

 オレールは愛想良く笑ったけれど、ブリュンヒルデは顔を曇らせた。

「ご機嫌よう、オレール王子殿下」

 オーギュストが答える。けれども、ブリュンヒルデは笑えない。先程のやりとりから、どうしたって警戒してしまう。彼は自分に振られたことを根に持っているようだった。ブリュンヒルデは身構えたが、彼が話し相手に選んだのはオーギュストだった。

「私はあなたが羨ましい……」

 オレールがそう口にする。

「あなたは私と同じ第一王子ですが……立場は同じようでいて同じではない。あなたの母親は王妃で、私の母親は側室です。王太子は第二王子と、王妃に子供が生まれた時に決まってしまった。母親が側室でさえなければ私が次期王だったのに。あなたの弟も心のどこかで、そんな風に思っているのでは? 母親が側室でさえなければ、もう少し早く生まれていれば、と……」

 オーギュストがオレールをじっと見つめる。

「オレール王子は王になりたいと?」
「ええ、それはもう。王族に生まれれば誰もがそう思うでしょう?」
「王になって何がしたい?」
「権力をこの手に治めて、もっと国を豊かにしたいですね」

 オレールがそう熱弁し、オーギュストが言う。

「……国を豊かにしたいというだけの理由なら、王という立場にこだわる必要はないのでは? 王を補佐して、国が潤うよう立ち回ればいい。それで十分国に貢献できる」

 オーギュストがそう切り返すと、オレールの視線がすっと冷たくなる。笑顔の仮面が剥がれた、そんな風に見えた。

「は、馬鹿馬鹿しい。なら、あなたは王でなくてもいいと?」
「……私よりも王にふさわしい者がいるのなら」

 オレールがさもおかしげに笑った。

「ははははははは! 成る程! あなたは御自分が一番王にふさわしいと、そう思っているんですね! よほど御自分に自信があると見える! ですが、あなたが言うと実に様になる。頭脳明晰、文武両道! そして魔性の美貌だ! どんな女も虜に出来るでしょう!」

 オーギュストの表情は変わらない。むしろ冷め切った眼差しだ。

「次期王を選ぶのは私ではなく、父王であり臣下達だ」
「……正妃の第一王子であれば選ばれますとも」

 吐き捨てるようにオレールが言う。オーギュストは特別否定はしない。

「そうだな。国の仕組みがそうなっている。だが、その仕組みに囚われているのは貴殿だけか? こうなりたいと言って、そうなれる者がどれだけいる。人はどうしたって生まれ育ちに縛られる。与えられた役割をこなすことだな。第一王子という立場を利用して、国を豊かにすればいい。貴殿の立場を羨む者もいよう」

 オレールがぎりっと奥歯を噛みしめた。

「……詭弁だ。あなたは何でも持っているから、そう言える」
「王にならなければ、国を豊かに出来ないと言う方がおかしいだろう。貴殿が望んでいるのはもっと別のもののようだな? 王になってやりたい放題やりたいだけなら王にはならないほうがいい。被害は被るのはいつだって民だ」

 オーギュストの緑の瞳とオレールの赤い眼差しが交差する。
 王になって何がしたい?
 このオーギュストの問いを、オレールは聞き流した。最も重要な問いかけであったにも関わらず、だ。王とは役割。単なる手段である。自分の価値と同一視するものではない。

 王という役割を通して何をしたい?
 国を富ませて人々を幸福に……
 その願いが真実なら王でなくともよい。極端な話、財を成すだけなら商人でもいいはずなのだ。なのに何故、王にこだわるのか……

 自らを飾り立てたいだけではなかったか? それは欲、である。そのまま突き進めば、その欲を増幅し、多くの者を不幸にしてしまうだろう。
 先に目をそらしたのはオレールの方だった。
 視線の圧力に耐えられなくなったというところか……

 オレールが再びブリュンヒルデを見た。絡みつくような視線にブリュンヒルデはびくりと体を震わせる。オーギュストが横に移動し、ブリュンヒルデを後ろへ下がらせた。その仕草もまた気に障ったか、忌々しそうにオレールが言う。

「……ブリュンヒルデ皇女殿下には私も結婚を申し込んでいた」
「そのようだな?」
「あなたのような者なら女など選び放題でしょうに。なぜわざわざ私の思い人を選んだのか……一つくらい譲ってくれてもよかったのでは?」
「ヒルデの意志は無視か?」

 オレールがきっとオーギュストを睨み付けた。怒りの色がありありと見て取れる。

「……本当にあなたは腹立たしい」

 オレールが唸るように言う。もはや敵意がむき出した。

「二番煎じに甘んじなければならない者の気持ちなど分かろうともしない」
「オレール王子殿下こそ、何故上ばかりを見る? 先程も言ったが、貴殿の立場を羨む者もいるのでは? その者に貴殿は何を与えるつもりだ? 一つくらい譲れと言われて、好きな女を譲るのか?」
「もういい!」

 ふいっと脇を通り、歩き出す。

「あなたから全てを奪ったら、どんな顔をするのか一度見てみたいですよ。そうなっても、今のような台詞を言えるのか……。見ものです」

 オレールが立ち去ると、ブリュンヒルデがオーギュストの腕をぎゅっと掴んだ。その手が震えていることに気が付いたオーギュストが言う。

「怖かったか?」
「え、ええ、その……オーギュが恨まれているようで」

「あれくらい大したことはない。君を取られた不満が噴き出したんだろう。ハインリヒも不満を吐き出せば、あんな感じになる」

 ブリュンヒルデは驚いた。

「そ、そうなの?」
「ああ、うまく隠しているが……時折そういった言動が出る。側室腹でさえなければ、と……かといって王位を譲る気はない。あれは駄目だ。欲が深すぎる」
「わたくしも、オーギュが王にならない姿なんて想像出来ないわ」

 オーギュストが薄く笑った。

「……私の場合は、生まれた時からそう決まってしまっていたからな」
「オーギュは他にやりたいことが?」
「いや……私は運命を受け入れている。そら、前に話しただろう? 国民の一人一人が幸せになる国作りをと……そう願った通りに生きるとも」
「わたくしにもお手伝いさせてください。あなたの夢がわたくしの夢ですから」

 ブリュンヒルデがそう伝えると、オーギュストがふわりと笑う。その手がブリュンヒルデの頬にそっと添えられた。

「……君は私の命だ」

 ブリュンヒルデの心臓が、とくんと波打つ。
 見つめられただけで恋に落ちる……ええ、きっとそうなるわ。ほら、グリーンアイから目が離せないもの。唇が触れ合えば、吐息さえも甘い……
 気が付けば、ブリュンヒルデは唇を奪われていた。力強い腕がしっかりと腰に回されている。

「口をもう少し開いて、そう……」

 薔薇の芳香のように甘い声に、体の芯が熱くなる。
 まるで恋のレッスンを受けているかのようよ。キスがとてもうまいわ。溶けてしまいそう……



 その夜、自室に届けられたのは一輪のピンクの薔薇だ。丁寧に棘が抜かれているので、触れても指先が傷つくことはない。ピンクの薔薇の花言葉は「愛の誓い」である。

「オーギュスト殿下は本当にロマンチストですねぇ」

 ピンクの薔薇を目にしたアンバーの浮かれようが凄い。彼女はロマンティックな話が大好きで、そういった小説を読みあさっている。ブリュンヒルデはくすりと笑ってしまった。
 ええ、本当にそうね……彼は愛情表現を惜しみなくする人だわ。

 一輪挿しに飾られたピンクの薔薇を眺めながら、幸せな気持ちで眠りにつく。
 お休みなさい、オーギュ……
 ブリュンヒルデは唇に手を当て、同じように眠っているであろう彼にキスを送った。
 愛しているわ。


◇◇◇


 同時刻、オーギュストの寝所までやって来たダーラ王女は、扉の前に立っていた騎士のレアンドルに止められ、コンコンと説教されていた。

「王女殿下のような身分の方がなさることではありません」

 レアンドルの言葉を通訳した侍女の台詞を耳にしたダーラ王女は、ふんっと鼻を鳴らした。彼女が身につけているのは、かなりきわどいナイトドレスである。

「あら、随分とお堅いわね。これくらい普通よ。側室狙いの娘は、王の寝所に忍び込むものだわ」
「オーギュスト殿下はまだ即位前で、結婚もしておりません。どうかお引き取りを」
「あなたじゃ話にならないわ。とにかく通してちょうだい。殿下と直接交渉するわ」

 レアンドルがくそ真面目に言った。

「……では、言います。全員追い返せと命令されております。あなたのような娘が後を絶たないので、正直うんざりだと」

 ダーラ王女が目を剥いた。

「うんざりって、そ、そんなにたくさん相手をしたの?」
「お応え致しかねます」
「誰、その羨ましい女! どうやって相手をしてもらったの! 教えなさいよ!」
「お応え致しかねます」
「ね、お願い。お、し、え、て?」

 しなを作った王女の台詞まで、侍女がきっちり通訳する。通訳をしている侍女は、こういった事に慣れきっているようだった。対するレアンドルの表情は、ぴくりとも動かない。こちらも職務に忠実といったところか……

「お答え致しかねます」

 レアンドルの返答に、ダーラが顔をしかめた。

「そのくそ真面目な顔、どうにかならない?」
「これが地です」
「ねぇ、じゃあ、これでどう? キスして、あ、げ、る?」
「王女殿下……」
「もう! じゃあ、オーギュスト殿下の好みを教えて!」
「ブリュンヒルデ皇女殿下です」
「くそむかつく女の名前は口にしないで!」
「いい加減にしろ」

 突如、別の声が割って入り、ダーラ王女はぎくりとなる。薔薇の芳香のように甘い声は、怒気をはらんで鋭利だ。

「レアンドル、いつまで掛け合い漫才をやっている気だ。放り出せ」
「は……」

 視線を向ければ案の定、閉まっていたはずの扉が開いていて、そこに立っていたのはオーギュストだ。寝衣を身につけた彼は、乱れた髪に胸元が垣間見え、やたらと色っぽい。ダーラはぼうっとなりかけるも、騎士のレアンドルに腕を掴まれ、はっとなった。

「待って、待ってちょうだい。あなたに抱いて欲しいの。ほ、ほら、体の相性もあるわ、一度試してみるだけでも……」

 オーギュストが煩わしそうに言う。口にした言葉はプロトワ語で通訳いらずだ。

「私は娼婦以外相手にしない」

 ダーラが目を剥いた。

「娼婦って……なによそれ? 下賤な女じゃない! 生まれも育ちも卑しいわ! 金を払えば誰にだってほいほい体を開く女達の集まりよ! あんなののどこがいいのよ? 王女のわたくしとじゃ、比べものにならないわ!」

 オーギュストの眉間に皺が寄る。

「ああ、そうだな? 比べものにならない。彼女達は身分差を理解し、きちんと分をわきまえている。身分を笠に着て、こんな風に夜中に煩く騒ぎ立てたりしない」

 ダーラは慌てた。迷惑だと言われたも同然である。

「も、もうやらないわ。あなたの言う通りにする。だから……」

 オーギュストがたたみかけた。

「……言ったろう? 私は娼婦以外相手にしない。トラブルの元だ。なにより私はもう婚約している。たとえ君が王籍離脱して娼婦になったとしても手は出さない。レアンドル?」
「は、承知」
「ちょ、ちょっとぉ!」

 力で騎士であるレアンドルにかなうはずもない。ダーラがずりずり引きずられ始めると、オーギュストが最終宣告を放った。

「ダーラ王女殿下、私は側室を持つ気はない。忠告するが、この先ヒルデに余計なちょっかいをかければ、まともな縁談は組めなくなるぞ? 托卵疑惑のある王女なんて、誰も引き取りたがらない」
「わ、わたくしは!」
「処女ではないだろう? 調べれば直ぐ分かる。国王は君に甘いようだが……王妃はどうかな? 君を嫌っている。不義密通の証拠を提示してやれば、さぞ喜ぶだろうな?」

 ダーラの顔が強ばった。
 確かに修道女のように敬虔な王妃は自分を嫌っている。性に奔放な自分が許せないらしい。国王が健在なうちはまだよかったけれど、王が体調を崩し、王妃が代わって政務を行うようになってからは大人しくならざるを得ず……

 だからこそ、だからこそダーラは、オーギュストの側室になりたかった。
 一人の男に縛られるのなら、彼のような男に抱かれたい、そう希望した。彼が相手なら一人でも我慢できる。いえ、彼が相手ならば他の男などいなくてもいい、そう思ったのに……。彼は自分の体を見ても眉一つ動かさない。どうして……

 ダーラが改めてオーギュストに目を向ければ、そこにはため息が出そうな程美しい男が立っている。神の創作物を思わせる顔立ちも、均整の取れた素晴らしい体躯の何もかもが魅力的だ。今まで手に入らなかった男はいない。なのに、唯一と望んだ男は自分を突っぱねた……

 ああ、どうして……
 恋い焦がれるようにダーラが一歩前へ出れば、オーギュストの瞳に怒りの色が浮かぶ。オーギュストの苛烈な本質を垣間見るのはこんな時だろうか、オーギュストが瞳から穏やかさをかき消せば、それは獰猛な獣そのものだ。そう、それは戦場を駆け抜ける時に放つもの……

 ひやりとした身の危険を感じるには十分で、ダーラは思わず後ずさっていた。彼の眼力に恐怖したなどと意識せぬまま、こくりと喉を鳴らす。

「……修道院行きになりたくないなら、今後は身を慎むことだ」

 オーギュストはそう告げ、ドア向こうへ消えた。いつもなら甘く感じるその声さえ、底冷えがするようだった。ダーラは自分が震えていることを知ったのは、彼が姿を消してから大分経ってからである。

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