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1巻
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そんなローザの声が聞こえてきそうだ。そう、空気。まさに空気だ。何故だ? 傍にいられると迷惑という気配すらするぞ? あれで愛されている? 本当か?
「なぁ、もしかしてお前、まだセシル嬢に未練があるのか?」
クレマンの言葉に、エイドリアンは顔をしかめた。
「……だったらどうだと言うんだ」
たとえそうだったとしても、責められるいわれはない。彼女と別れてからまだ半年も経っていないんだ。そんなに早く気持ちを切り替えられるものか。
エイドリアンの返答に、クレマンがひょいっと肩をすくめた。
「俺はセシル嬢みたいな乳臭いガキなんかお断りだけどな」
「なんだと!」
「まぁ、まぁ。そう怒るなよ。好みは人それぞれだ。だからほら、お前がセシル嬢と婚約した時だって、俺は別に反対しなかったろ?」
クレマンがエイドリアンの肩を叩き、顔を寄せる。
「だからさ、ここは一つ、セシル嬢を愛人にしたらどうだ?」
そう囁いた。エイドリアンが目を剥くと、クレマンはにやにやと笑う。
「セシル嬢はよ、お前にぞっこんだったろ? 惚れ込んでた。今のお前は金があるだろうから、女の一人や二人、囲えるんじゃないのか?」
エイドリアンは拳をぐっと握った。
冗談じゃない!
「やめろ! 私はセシルをそんな風に扱うつもりはない!」
そうだ、愛人などという日陰者にしてたまるか!
エイドリアンはそう憤るも、遊び人であるクレマンの軽い口調は止まらない。
「ふうん? ほんっとお前ってお堅いよなぁ。どうしてそうなんだか……。女が寄ってきても大抵袖にしちまう。もったいないと俺は思うね。少しは女遊びをしろよ。肩の力を抜けって。お前のその顔なら愛人を四、五人囲っていたっておかしかない」
クレマンのにやにや笑いとは対照的に、エイドリアンの表情は険しくなる。
そうだ、こいつは根っからの遊び人だ。あちこちの女に手を出しては袖にしている。そんな真似をしてたまるか!
「余計な世話だ!」
エイドリアンが怒りも露わに叫ぶと、女の声が割って入った。
「ええ、本当、余計なお世話ですわね」
怒りのこもったその声を耳にして、悪友共々エイドリアン自身も飛び上がる。
「おあ!」
「ロ、ローザ夫人!」
そう、彼らのすぐ横には、銀のトレイを手にした笑顔のローザが立っていたのだ。
い、いつの間に? 心臓に悪い……
エイドリアンは思わず波打つ心臓を押さえる。ローザがほほほと笑った。
「お久しぶりですわねぇ、お二方。ええ、よく覚えておりますわ。夜会で何度かお会いしましたものねぇ。その節はどうも。相変わらずですのね。女遊びもほどほどになさいませ。主人を巻き込むのは、どうか勘弁していただけませんか?」
柔らかい物腰で笑っているが、目が完全に据わっている。怒っているのは一目瞭然である。
「わ、悪かった! 謝る!」
「悪乗りしすぎた、申し訳ない!」
悪友二人は完全に及び腰だ。
女相手に情けないと思うなかれ。ローザの顔は迫力がある。扇子を持たせればまさに女王様だ。
「お茶をお持ちいたしましたの。よろしければどうぞ」
ローザが銀のトレイをローテーブルへと置く。トレイには焼き菓子と茶器が載っていた。ぷんっと甘い香りが鼻をくすぐる。菓子は焼き立てのようだ。
「あ、これはどうも」
「伯爵夫人手ずからとは、いやあ、感激だな」
ローザの給仕に悪友二人がデレデレと鼻の下を伸ばす。いや、単に人手が足りないだけだと、エイドリアンは心の中で呟いた。が、もちろんそれを口に出すことはない。恥ずかしい内情など知られたくない。
焼き菓子を口に運んだクレマンが首を傾げる。
「ん? こいつはうまい。トニーはこういった物も作るのか……」
「いえ、そちらはわたくしが」
「え?」
ローザの言葉に悪友二人が目を丸くしたが、エイドリアンも驚いた。ローザが台所に立った事実に仰天したのだ。
料理までするのか?
「え? これ、ローザ夫人が?」
「ええ、そうですわ。お口に合いましたか?」
にっこりとローザが笑う。
「ええ、それはもう! なあ?」
「ああ、うまい。うちの料理人にも見習わせたいよ」
「まぁ、お上手ね」
ほほほとローザが優雅に笑う。外見に負けず劣らず所作も美しい。ここだけ見ると、確かに今まで目にしていた夜会の薔薇そのものだ。
エイドリアンはローザの横顔にじっと見入ってしまう。
化粧をした顔はやはり妖艶だ。
しかしその実、使用人に混じって邸中をピカピカに磨き上げ、農民も顔負けの身のこなしで畑を耕し、乳母以上の手腕で子供の世話をしてのけ、果ては料理まで……
エイドリアンは手にした焼き菓子をまじまじと眺め、口へ運んだ。文句なしにうまい。きっと料理人のトニーも唸るだろうと思う。おかしい。絶対おかしい。エイドリアンの思考がぐるぐると迷走する。
男を惑わす魔性の星……あの噂は本当なのか?
エイドリアンはローザの横顔をまじまじと眺めてしまう。
妖婦のような外見だが、もしかして内面は違う? 噂通りではない? いや、しかし……
エイドリアンは困惑する。
実際、ローザが男に色目を使っている場面は何度も目撃しているし、自分もその毒牙にかかったと言っても過言ではない。こうして無理矢理、婚姻関係を結ばされたのだから。その事実はどうしたって覆らない。一体どう考えれば良いというのか。分からない……
その後、悪友二人は「相変わらず綺麗だねぇ」などという美辞麗句を散々吐いてくだらない話をくっちゃべり、夕方になってようよう帰っていった。
エイドリアンは複雑な気分で、友人二人の背を見送った。どうしても心のもやもやが晴れない。ローザの客対応は完璧だった。妖婦のように友人に媚びることもなく、伯爵夫人としての節度を守り、所作には品があった。どこからどう見ても立派な貴婦人だ。
これのどこが毒花だ?
ちらりとローザの横顔に視線を走らせると、やはり美しい。妖婦のようだと思っていたが、こうしてみると清楚にも感じられる。耳にした噂話はもとより、夜会で目にした彼女の姿と今の姿が一致しない。
一体これはどういうことなのか……
悶々としたままエイドリアンが自室に戻ろうとすると、ローザに呼び止められた。
「旦那様」
振り返ると碧い瞳がそこにあった。吸い込まれそうなほど深い色合いの……
「この先、もし愛人を持つつもりでしたら、きちんと避妊して下さいね? でないと父に消されますから」
ローザの台詞に、思いを巡らせていたエイドリアンは我に返って眉をひそめた。
「どういう意味――」
「わたくしの父が、自分の孫以外の跡継ぎなど認めるはずがありませんもの。邪魔者は排除されますよ。あなたが他の女との間に子をもうけようものなら、絶対、母子共々消されます。肝に銘じて下さいまし」
エイドリアンは、かっとなって怒鳴った。
「お前、また私を脅すつもりか! セシルの時と同じように!」
ローザも負けじと目をきりりとつり上げる。
「脅しではなくて忠告です!」
「忠告だと?」
「そうですとも! あなたは父の力をどれだけ侮れば気が済むんですか? 仮面卿の名を出したのに、どうして反応しないんですの? 危機意識が低すぎます! 本当に貴族ですか? 裏情報ちゃんと掴んでます? セシル嬢の時だって、守れる力もないくせに別れたくないとか駄々をこねるから、ああなるんじゃないですか! 偉そうにふんぞり返るのなら、ちゃんと守りたい者を守れるだけの力をつけてからにして下さい、この甲斐性なし!」
「か、甲斐性なし……」
ローザの猛攻に、エイドリアンは目を白黒させた。
「わたくしもあなたのような残念男と結婚なんて、したくてしたわけじゃありません! そこはあなたと同じです! でも、結婚しないと、それこそ見せしめに何をされるか分かりませんからね! 翌日、テーム川にぷっかりなんてゴメンです! ですから、渋々、嫌々、ここに嫁ぎました!」
エイドリアンは仰天した。そんな話は今初めて聞いたからだ。
「し、渋々? 嫌々? な、なら何故、セシルと別れろと脅したりした!? 私と結婚したかったからじゃないのか!?」
「ち、が、い、ま、す! どれだけうぬぼれが強いんですか! この顔だけ男!」
「顔だけ男……」
「セシル嬢の身が危なかったからです! 無知も大概にして下さいまし! 裏社会を牛耳っている三大勢力の一つをまとめ上げているのが、わたくしの父です! 筋金入りのとんでもない悪党です! セシル嬢がろくでもない男達に輪姦されずにすんだのは、本当に幸運以外の何ものでもありません!」
「ま、まわ……」
エイドリアンは口をぱくぱくさせる。言葉が出ない。
「それと、正直に言わせてもらえば、顔の良い中身残念男より、頭の切れるはげデブ親父の方がずっと魅力的ですから! あなたのような甲斐性なしは範疇外です! 論外です! せめてその顔で金を稼いできてから文句を言って下さい!」
ローザは憤然と身を翻すと、放心して立ち尽くすエイドリアンを残し、さっさと自室へ引き上げていった。
顔だけ男……
そんなローザの言葉がエイドリアンの頭の中をわんわんと木霊した。
自分との結婚を望んだのは、ローザではなかった。父親に命じられたから……
ぼんやりとその事実を考える。
ローザの父親が婚姻を望んだというのなら、おそらく狙いは爵位だろう。高位貴族にとって、バークレアの名はさして価値のないものだが、成金のドルシア子爵にとっては、より大きな権力を得るために必要だったというわけか。
やられた……
てっきり娘の我が儘を聞いたものと思い込んでいたから、その可能性を全く考えなかった。
――お前ほど醜い女はいないな。
初夜での出来事を思い出し、エイドリアンは途方に暮れる。随分と酷いことを言ったものだ。
――どれだけうぬぼれが強いんですか!
思わず笑ってしまった。
そう、うぬぼれも入っていたのだろう。私の容姿に惚れ込み、まとわりつく女が多かったから、つい彼女もその類だと……。だが、そうだ、自分もセシルを容姿で選んだわけではない。心が純粋だと、そう感じたから……。見た目で選ばない者もいるのだと、どうして気がつかなかったのか。もしかしたら、ローザにも自分と同じように他に好きな男がいたのかもしれない。そうだとしたら、彼女も被害者か……
エイドリアンの中に今更ながら後悔が湧き上がる。
申し訳ないことをした。
「なぁ、トニー、相談なんだが……」
「え? あ、はい! だ、旦那様!」
どうしたものかと考えあぐね、苦し紛れにエイドリアンが調理場に顔を出すと、料理長のトニーが直立不動の姿勢をとった。
仕事中にまずかったか?
「もし、その……お前が恋人と喧嘩をした場合、どうやって謝る?」
「は? 私が恋人と喧嘩ですか? そりゃー、もう、私の場合は許してくれるまで土下座一択ですね。泣いて謝ります」
「それ以外で」
エイドリアンは即答する。
やれるか、馬鹿者! もう少しプライドを持て!
「はあ、では花束を贈るとか?」
「贈り物か」
そうだな、それが無難かもしれない。と言っても予算が……
謝罪の贈り物が安物というわけにもいかず、エイドリアンはその後、何日も金の工面に苦慮する羽目となる。
その僅か数日後。
当のローザの着飾った格好を目にして、エイドリアンはついむっとなってしまった。
どこかへ出かけるところなのだろう、美しく着飾ったローザの姿を、エイドリアンは上から下までじっくり眺めてしまう。身につけた青いドレスも宝石も一級品だ。綺麗だった。文句なしに美しい。
なんだこれは。流石に貧乏暮らしが嫌になったか?
「……なんだ、その格好は」
どうしても不機嫌な声になってしまう。自分の不甲斐なさを見せつけられるようで面白くない。こっちはドレスも宝石も、贈りたくても贈れないというのに……
自分で購入したのか? まさか男からの贈り物じゃないだろうな?
つい勘繰ってしまう。
「お茶会に行くのですから、着飾るのは当然でしょう?」
しかし、ローザにはしれっとそう返された。
お茶会だと?
「……茶会になど行く必要はない」
エイドリアンの機嫌の悪さに拍車がかかる。
どうせ遊びだろう。行くのなら、せめて私が贈った宝石を身につけられるようになってからにしてほしい。でないと立つ瀬がないではないか。
「必要ありますとも。ああいったところは、お金のなる木ですからね」
「何?」
「人脈作りですよ、当然でしょう。では行ってきます」
「ちょ、待て! 許可した覚えは……」
「では、旦那様がこの貧困生活から抜け出るだけのお金をがっぽがっぽ稼いできて下さるのですね?」
ローザにそう言われ、エイドリアンはぐっと言葉に詰まる。それができるのなら苦労はしない。
「節約!」
着飾った背中に苦し紛れにそう叫んでも、返ってくるのはローザの冷たい一瞥だ。
「だけでは足りません。では」
さっさと出ていってしまった。前途多難だ。
第五話 夢見る乙女
「姉上、どうか泣かないで」
「フィーリー……」
すんっとしゃくり上げ、セシルはぽろぽろと涙をこぼす。たった今読み終えたエイドリアンからの別れの手紙をぎゅっと握りしめた。
ここはランドルフ男爵邸にあるセシルの自室だ。白いレースのカーテンにピンク色の絨毯、白い家具でまとめられた部屋は可愛らしい。
「エイドリアンを愛しているの」
「分かっている」
弟のフィーリーは、そう言って姉のセシルを慰める。
「別れたくなんかなかったわ。彼と結婚の約束をしていたのよ。あの女のせいよ。夜会の薔薇なんて言われているけど、魔性の女よ。男をたらし込む毒花よ。あんな女と一緒になったエイドリアンが可哀想。こんなの変よ。絶対おかしいわ。彼に愛されているのは私なのに。いなくなればいいのよ、あんな女……」
セシルは涙ながらに訴える。
フィーリーは、姉の長いストロベリーブロンドの髪を労るように撫でた。フィーリーと同じ色の髪だ。双子ではないけれど、顔立ちもよく似ていると思う。
けれど性格は正反対かもしれない。
夢見がちな姉と違い、フィーリーは現実的だった。愛だの恋だのにうつつを抜かすことはない。自分の結婚も、家の事情を真っ先に考えるだろう。
そんなフィーリーの目から見れば、莫大な資産を持つローザ嬢を選んだバークレア伯爵の判断は正しいように思える。なにせ負債の額が半端ない。姉に彼との結婚を許した父親の判断にこそ、当時のフィーリーは眉をひそめたものだ。
バークレア伯爵家は名家だ。名前だけは誰もが知っている。
けれど、彼が抱える負債は巨額だった。弱小貴族のランドルフ男爵家ごときが背負えるものではない。その事実にあえて目をつぶりバークレア伯爵との結婚を認めた父親の判断は、今でもどうかと思う。結婚すれば姉が苦労するのは目に見えている。姉がそれに耐えられるかということも疑問だった。
姉のセシルは甘やかされて育った、それこそ箱入り娘だ。苦労を知らない。いつだって夢見がちで、バークレア伯爵を自分の王子様だと言って憚らない。
――エイドリアンは優しくて、とっても素敵な人なの。私の王子様よ。
そう、確かに彼は優しくて誠実だ。それは否定しない。
だが、それだけで世の中を渡っていけるほど甘くはないと、フィーリーは思う。こうして悲しむ姉の様子は痛々しかったが、この方が姉のためには良かったのではないかと考えてしまう。
「そうだ、姉上。白薔薇の騎士は今年も優勝したようだね?」
フィーリーは努めて明るくそう言った。
白薔薇の騎士は、この国で行われる剣術大会で毎年優勝を果たしている、人気の女剣士だ。覆面をしているので素性は分からないが、見事な剣捌きで他の剣士達を手玉に取って圧勝する。
凜々しくて素敵だと、特に女性からの人気が高い。握手を求めたファンの一人が「彼女から薔薇の香りがした」と言い出し、優雅な彼女の物腰と相まって、それ以降、彼女は「白薔薇の騎士」とそう呼ばれるようになった。
姉のセシルもまた彼女の大ファンだ。
彼女の話をするといつも元気になるのだが、今回ばかりは違った。そうねと、答えてうなだれる。エイドリアンの事がどうしても頭から離れないらしい。
フィーリーはそっとため息をつく。そこへ、小さな弟のニコルが顔を出した。
「お姉ちゃま、ご本を読んで?」
そうおねだりするも、答える様子のない姉の悲しげな顔を見て、ニコルは怪訝そうに眉を寄せた。
「……お姉ちゃま、なんで泣いているの?」
「なんでもないわ」
「貸してごらん、僕が読んであげるから」
絵本を手に取り、フィーリーが童話の文字を目で追い始める。「昔々あるところに」から始まるお伽話はいつでも美しい。若く美しい男女が恋をして、幸せになるお話だ。
けれど、決まってその恋を邪魔する悪が登場する。それが一層物語を美しく見せてくれるのだけれど、今のセシルはそれが気に入らないようで、顔をしかめた。
「意地悪な魔女が、私からエイドリアンを取り上げたの」
お伽話の美しさをなじるように、そう口にする。
「姉上」
フィーリーが眉をひそめる。幼い弟に聞かせるような話ではないと思ったのだ。けれどセシルの罵りは止まらない。
「ローザっていう伯爵夫人が、その悪い魔女なのよ。私からエイドリアンを取り上げたの。見た目は綺麗だけれど、心は恐ろしい毒花よ。物語の中の醜い魔女そのものだわ。あの女がいる限り、私は彼とは結婚できないの。どうして真実の愛があんな女に負けるの?」
「……どうすればお姉ちゃまは結婚できるの?」
ニコルが無邪気に問うた。
「分からない……」
セシルが、すんっとしゃくり上げる。
「あの女がエイドリアンを諦めれば……いいえ、不貞でも働いて家から追い出されればいいんだわ。男をとっかえひっかえしてきたんだもの。きっとすぐにそうなるわよ。あんな女、修道院送りにでもなればいい」
憎々しげにそう言った。
「ふてい?」
「姉上」
フィーリーの叱責にもセシルはめげない。ぷいっとそっぽを向いてしまう。
「ふていってなあに?」
弟が無邪気に問うも、流石にその意味をそのまま口にすることは憚られたのだろう、セシルはかなり遠回しな表現を選んだ。
「そうね、若い男女が一つの部屋にいるのは良くないことなの。ローザという女が、他の若い男と一緒の部屋にいれば、不貞を働いたってことになって、きっとエイドリアンも愛想を尽かすはずよ」
「ふうん? じゃあその、ローザって人と僕が一緒の部屋で遊べば、ふていになる?」
無邪気な弟の問いに、セシルは声を立てて笑った。
「そうね。ええ、そうなるかもね」
「じゃあ、僕がお姉ちゃまを助けてあげる」
「そうなの? ニコルは優しいわね」
セシルが微笑む。ようやっと姉が笑ったので、フィーリーはやれやれというように頭を振り、その話題を終えた。
第六話 あきらめた方が賢明ですわ
「まあぁ、奥様、お綺麗ですわ」
侍女のテレサがそう言って褒め称えた。ローザは今、青い豪奢なドレスと宝石で身を飾り立てている。鏡に向かって微笑みかければ、結婚前の夜会の薔薇がそこにいた。
ふふっ。さあ、戦闘開始よ。
ローザは気合いを入れ、手にした扇をパシンと打ち鳴らした。
女にとってお茶会は、情報交換と人脈作りの大切な場だ。貴族相手に商売をするなら、お茶会には積極的に参加した方がいい。うまくいけば大金を稼ぐことができる。
「……なんだ、その格好は」
玄関先で鉢合わせたエイドリアンに足を止められた。最近の彼はよく邸にいて、こうして顔を合わせることが多い。ローザはエイドリアンをしげしげ眺める。美麗な顔は何やら複雑そうだ。
文句を言いたげですね、旦那様。でも言わせません。
ローザはつんっとすまして言う。
「お茶会に行くのですから、着飾るのは当然でしょう?」
「……茶会になど行く必要はない」
エイドリアンが、むくれたように言う。
「必要ありますとも。ああいったところは、お金のなる木ですからね」
「何?」
「人脈作りですよ、当然でしょう。では行ってきます」
「ちょ、待て! 許可した覚えは……」
「では、旦那様がこの貧困生活から抜け出るだけのお金をがっぽがっぽ稼いできて下さるのですね?」
ぐっと言葉に詰まるエイドリアンを見て、そこは嘘でも良いからできるって言うところでしょうと、ローザは思ってしまう。甲斐性なしに加えて、小心者という称号もあげましょうね、旦那様。
「節約!」
「だけでは足りません、では」
エイドリアンの言葉を完全に無視し、ローザは馬車に乗り込んで会場へ向かう。
節約だけでは、いつになったら目標額に達するのか分からない。こうして自由に動けるのも、三年が限度だろう。それ以上はきっと父が別の手段に出るはず……
ドリスデン伯爵邸は、美しく秀麗だった。潤沢な資金をつぎ込んで建てられた白亜の邸は圧巻の迫力である。
確か、ドリスデン伯爵は美術品の収集家だったわね……
ローザは白く美しい建物を眺めた。
伯爵の趣味を反映してるってわけね。
目の前の建物はまさに美術品のように美しい。ドリスデン伯爵の愛娘マデリアナ嬢と懇意にできれば、良い商売相手になるかもしれない。ローザはそう考え、ほくそ笑む。
「なぁ、もしかしてお前、まだセシル嬢に未練があるのか?」
クレマンの言葉に、エイドリアンは顔をしかめた。
「……だったらどうだと言うんだ」
たとえそうだったとしても、責められるいわれはない。彼女と別れてからまだ半年も経っていないんだ。そんなに早く気持ちを切り替えられるものか。
エイドリアンの返答に、クレマンがひょいっと肩をすくめた。
「俺はセシル嬢みたいな乳臭いガキなんかお断りだけどな」
「なんだと!」
「まぁ、まぁ。そう怒るなよ。好みは人それぞれだ。だからほら、お前がセシル嬢と婚約した時だって、俺は別に反対しなかったろ?」
クレマンがエイドリアンの肩を叩き、顔を寄せる。
「だからさ、ここは一つ、セシル嬢を愛人にしたらどうだ?」
そう囁いた。エイドリアンが目を剥くと、クレマンはにやにやと笑う。
「セシル嬢はよ、お前にぞっこんだったろ? 惚れ込んでた。今のお前は金があるだろうから、女の一人や二人、囲えるんじゃないのか?」
エイドリアンは拳をぐっと握った。
冗談じゃない!
「やめろ! 私はセシルをそんな風に扱うつもりはない!」
そうだ、愛人などという日陰者にしてたまるか!
エイドリアンはそう憤るも、遊び人であるクレマンの軽い口調は止まらない。
「ふうん? ほんっとお前ってお堅いよなぁ。どうしてそうなんだか……。女が寄ってきても大抵袖にしちまう。もったいないと俺は思うね。少しは女遊びをしろよ。肩の力を抜けって。お前のその顔なら愛人を四、五人囲っていたっておかしかない」
クレマンのにやにや笑いとは対照的に、エイドリアンの表情は険しくなる。
そうだ、こいつは根っからの遊び人だ。あちこちの女に手を出しては袖にしている。そんな真似をしてたまるか!
「余計な世話だ!」
エイドリアンが怒りも露わに叫ぶと、女の声が割って入った。
「ええ、本当、余計なお世話ですわね」
怒りのこもったその声を耳にして、悪友共々エイドリアン自身も飛び上がる。
「おあ!」
「ロ、ローザ夫人!」
そう、彼らのすぐ横には、銀のトレイを手にした笑顔のローザが立っていたのだ。
い、いつの間に? 心臓に悪い……
エイドリアンは思わず波打つ心臓を押さえる。ローザがほほほと笑った。
「お久しぶりですわねぇ、お二方。ええ、よく覚えておりますわ。夜会で何度かお会いしましたものねぇ。その節はどうも。相変わらずですのね。女遊びもほどほどになさいませ。主人を巻き込むのは、どうか勘弁していただけませんか?」
柔らかい物腰で笑っているが、目が完全に据わっている。怒っているのは一目瞭然である。
「わ、悪かった! 謝る!」
「悪乗りしすぎた、申し訳ない!」
悪友二人は完全に及び腰だ。
女相手に情けないと思うなかれ。ローザの顔は迫力がある。扇子を持たせればまさに女王様だ。
「お茶をお持ちいたしましたの。よろしければどうぞ」
ローザが銀のトレイをローテーブルへと置く。トレイには焼き菓子と茶器が載っていた。ぷんっと甘い香りが鼻をくすぐる。菓子は焼き立てのようだ。
「あ、これはどうも」
「伯爵夫人手ずからとは、いやあ、感激だな」
ローザの給仕に悪友二人がデレデレと鼻の下を伸ばす。いや、単に人手が足りないだけだと、エイドリアンは心の中で呟いた。が、もちろんそれを口に出すことはない。恥ずかしい内情など知られたくない。
焼き菓子を口に運んだクレマンが首を傾げる。
「ん? こいつはうまい。トニーはこういった物も作るのか……」
「いえ、そちらはわたくしが」
「え?」
ローザの言葉に悪友二人が目を丸くしたが、エイドリアンも驚いた。ローザが台所に立った事実に仰天したのだ。
料理までするのか?
「え? これ、ローザ夫人が?」
「ええ、そうですわ。お口に合いましたか?」
にっこりとローザが笑う。
「ええ、それはもう! なあ?」
「ああ、うまい。うちの料理人にも見習わせたいよ」
「まぁ、お上手ね」
ほほほとローザが優雅に笑う。外見に負けず劣らず所作も美しい。ここだけ見ると、確かに今まで目にしていた夜会の薔薇そのものだ。
エイドリアンはローザの横顔にじっと見入ってしまう。
化粧をした顔はやはり妖艶だ。
しかしその実、使用人に混じって邸中をピカピカに磨き上げ、農民も顔負けの身のこなしで畑を耕し、乳母以上の手腕で子供の世話をしてのけ、果ては料理まで……
エイドリアンは手にした焼き菓子をまじまじと眺め、口へ運んだ。文句なしにうまい。きっと料理人のトニーも唸るだろうと思う。おかしい。絶対おかしい。エイドリアンの思考がぐるぐると迷走する。
男を惑わす魔性の星……あの噂は本当なのか?
エイドリアンはローザの横顔をまじまじと眺めてしまう。
妖婦のような外見だが、もしかして内面は違う? 噂通りではない? いや、しかし……
エイドリアンは困惑する。
実際、ローザが男に色目を使っている場面は何度も目撃しているし、自分もその毒牙にかかったと言っても過言ではない。こうして無理矢理、婚姻関係を結ばされたのだから。その事実はどうしたって覆らない。一体どう考えれば良いというのか。分からない……
その後、悪友二人は「相変わらず綺麗だねぇ」などという美辞麗句を散々吐いてくだらない話をくっちゃべり、夕方になってようよう帰っていった。
エイドリアンは複雑な気分で、友人二人の背を見送った。どうしても心のもやもやが晴れない。ローザの客対応は完璧だった。妖婦のように友人に媚びることもなく、伯爵夫人としての節度を守り、所作には品があった。どこからどう見ても立派な貴婦人だ。
これのどこが毒花だ?
ちらりとローザの横顔に視線を走らせると、やはり美しい。妖婦のようだと思っていたが、こうしてみると清楚にも感じられる。耳にした噂話はもとより、夜会で目にした彼女の姿と今の姿が一致しない。
一体これはどういうことなのか……
悶々としたままエイドリアンが自室に戻ろうとすると、ローザに呼び止められた。
「旦那様」
振り返ると碧い瞳がそこにあった。吸い込まれそうなほど深い色合いの……
「この先、もし愛人を持つつもりでしたら、きちんと避妊して下さいね? でないと父に消されますから」
ローザの台詞に、思いを巡らせていたエイドリアンは我に返って眉をひそめた。
「どういう意味――」
「わたくしの父が、自分の孫以外の跡継ぎなど認めるはずがありませんもの。邪魔者は排除されますよ。あなたが他の女との間に子をもうけようものなら、絶対、母子共々消されます。肝に銘じて下さいまし」
エイドリアンは、かっとなって怒鳴った。
「お前、また私を脅すつもりか! セシルの時と同じように!」
ローザも負けじと目をきりりとつり上げる。
「脅しではなくて忠告です!」
「忠告だと?」
「そうですとも! あなたは父の力をどれだけ侮れば気が済むんですか? 仮面卿の名を出したのに、どうして反応しないんですの? 危機意識が低すぎます! 本当に貴族ですか? 裏情報ちゃんと掴んでます? セシル嬢の時だって、守れる力もないくせに別れたくないとか駄々をこねるから、ああなるんじゃないですか! 偉そうにふんぞり返るのなら、ちゃんと守りたい者を守れるだけの力をつけてからにして下さい、この甲斐性なし!」
「か、甲斐性なし……」
ローザの猛攻に、エイドリアンは目を白黒させた。
「わたくしもあなたのような残念男と結婚なんて、したくてしたわけじゃありません! そこはあなたと同じです! でも、結婚しないと、それこそ見せしめに何をされるか分かりませんからね! 翌日、テーム川にぷっかりなんてゴメンです! ですから、渋々、嫌々、ここに嫁ぎました!」
エイドリアンは仰天した。そんな話は今初めて聞いたからだ。
「し、渋々? 嫌々? な、なら何故、セシルと別れろと脅したりした!? 私と結婚したかったからじゃないのか!?」
「ち、が、い、ま、す! どれだけうぬぼれが強いんですか! この顔だけ男!」
「顔だけ男……」
「セシル嬢の身が危なかったからです! 無知も大概にして下さいまし! 裏社会を牛耳っている三大勢力の一つをまとめ上げているのが、わたくしの父です! 筋金入りのとんでもない悪党です! セシル嬢がろくでもない男達に輪姦されずにすんだのは、本当に幸運以外の何ものでもありません!」
「ま、まわ……」
エイドリアンは口をぱくぱくさせる。言葉が出ない。
「それと、正直に言わせてもらえば、顔の良い中身残念男より、頭の切れるはげデブ親父の方がずっと魅力的ですから! あなたのような甲斐性なしは範疇外です! 論外です! せめてその顔で金を稼いできてから文句を言って下さい!」
ローザは憤然と身を翻すと、放心して立ち尽くすエイドリアンを残し、さっさと自室へ引き上げていった。
顔だけ男……
そんなローザの言葉がエイドリアンの頭の中をわんわんと木霊した。
自分との結婚を望んだのは、ローザではなかった。父親に命じられたから……
ぼんやりとその事実を考える。
ローザの父親が婚姻を望んだというのなら、おそらく狙いは爵位だろう。高位貴族にとって、バークレアの名はさして価値のないものだが、成金のドルシア子爵にとっては、より大きな権力を得るために必要だったというわけか。
やられた……
てっきり娘の我が儘を聞いたものと思い込んでいたから、その可能性を全く考えなかった。
――お前ほど醜い女はいないな。
初夜での出来事を思い出し、エイドリアンは途方に暮れる。随分と酷いことを言ったものだ。
――どれだけうぬぼれが強いんですか!
思わず笑ってしまった。
そう、うぬぼれも入っていたのだろう。私の容姿に惚れ込み、まとわりつく女が多かったから、つい彼女もその類だと……。だが、そうだ、自分もセシルを容姿で選んだわけではない。心が純粋だと、そう感じたから……。見た目で選ばない者もいるのだと、どうして気がつかなかったのか。もしかしたら、ローザにも自分と同じように他に好きな男がいたのかもしれない。そうだとしたら、彼女も被害者か……
エイドリアンの中に今更ながら後悔が湧き上がる。
申し訳ないことをした。
「なぁ、トニー、相談なんだが……」
「え? あ、はい! だ、旦那様!」
どうしたものかと考えあぐね、苦し紛れにエイドリアンが調理場に顔を出すと、料理長のトニーが直立不動の姿勢をとった。
仕事中にまずかったか?
「もし、その……お前が恋人と喧嘩をした場合、どうやって謝る?」
「は? 私が恋人と喧嘩ですか? そりゃー、もう、私の場合は許してくれるまで土下座一択ですね。泣いて謝ります」
「それ以外で」
エイドリアンは即答する。
やれるか、馬鹿者! もう少しプライドを持て!
「はあ、では花束を贈るとか?」
「贈り物か」
そうだな、それが無難かもしれない。と言っても予算が……
謝罪の贈り物が安物というわけにもいかず、エイドリアンはその後、何日も金の工面に苦慮する羽目となる。
その僅か数日後。
当のローザの着飾った格好を目にして、エイドリアンはついむっとなってしまった。
どこかへ出かけるところなのだろう、美しく着飾ったローザの姿を、エイドリアンは上から下までじっくり眺めてしまう。身につけた青いドレスも宝石も一級品だ。綺麗だった。文句なしに美しい。
なんだこれは。流石に貧乏暮らしが嫌になったか?
「……なんだ、その格好は」
どうしても不機嫌な声になってしまう。自分の不甲斐なさを見せつけられるようで面白くない。こっちはドレスも宝石も、贈りたくても贈れないというのに……
自分で購入したのか? まさか男からの贈り物じゃないだろうな?
つい勘繰ってしまう。
「お茶会に行くのですから、着飾るのは当然でしょう?」
しかし、ローザにはしれっとそう返された。
お茶会だと?
「……茶会になど行く必要はない」
エイドリアンの機嫌の悪さに拍車がかかる。
どうせ遊びだろう。行くのなら、せめて私が贈った宝石を身につけられるようになってからにしてほしい。でないと立つ瀬がないではないか。
「必要ありますとも。ああいったところは、お金のなる木ですからね」
「何?」
「人脈作りですよ、当然でしょう。では行ってきます」
「ちょ、待て! 許可した覚えは……」
「では、旦那様がこの貧困生活から抜け出るだけのお金をがっぽがっぽ稼いできて下さるのですね?」
ローザにそう言われ、エイドリアンはぐっと言葉に詰まる。それができるのなら苦労はしない。
「節約!」
着飾った背中に苦し紛れにそう叫んでも、返ってくるのはローザの冷たい一瞥だ。
「だけでは足りません。では」
さっさと出ていってしまった。前途多難だ。
第五話 夢見る乙女
「姉上、どうか泣かないで」
「フィーリー……」
すんっとしゃくり上げ、セシルはぽろぽろと涙をこぼす。たった今読み終えたエイドリアンからの別れの手紙をぎゅっと握りしめた。
ここはランドルフ男爵邸にあるセシルの自室だ。白いレースのカーテンにピンク色の絨毯、白い家具でまとめられた部屋は可愛らしい。
「エイドリアンを愛しているの」
「分かっている」
弟のフィーリーは、そう言って姉のセシルを慰める。
「別れたくなんかなかったわ。彼と結婚の約束をしていたのよ。あの女のせいよ。夜会の薔薇なんて言われているけど、魔性の女よ。男をたらし込む毒花よ。あんな女と一緒になったエイドリアンが可哀想。こんなの変よ。絶対おかしいわ。彼に愛されているのは私なのに。いなくなればいいのよ、あんな女……」
セシルは涙ながらに訴える。
フィーリーは、姉の長いストロベリーブロンドの髪を労るように撫でた。フィーリーと同じ色の髪だ。双子ではないけれど、顔立ちもよく似ていると思う。
けれど性格は正反対かもしれない。
夢見がちな姉と違い、フィーリーは現実的だった。愛だの恋だのにうつつを抜かすことはない。自分の結婚も、家の事情を真っ先に考えるだろう。
そんなフィーリーの目から見れば、莫大な資産を持つローザ嬢を選んだバークレア伯爵の判断は正しいように思える。なにせ負債の額が半端ない。姉に彼との結婚を許した父親の判断にこそ、当時のフィーリーは眉をひそめたものだ。
バークレア伯爵家は名家だ。名前だけは誰もが知っている。
けれど、彼が抱える負債は巨額だった。弱小貴族のランドルフ男爵家ごときが背負えるものではない。その事実にあえて目をつぶりバークレア伯爵との結婚を認めた父親の判断は、今でもどうかと思う。結婚すれば姉が苦労するのは目に見えている。姉がそれに耐えられるかということも疑問だった。
姉のセシルは甘やかされて育った、それこそ箱入り娘だ。苦労を知らない。いつだって夢見がちで、バークレア伯爵を自分の王子様だと言って憚らない。
――エイドリアンは優しくて、とっても素敵な人なの。私の王子様よ。
そう、確かに彼は優しくて誠実だ。それは否定しない。
だが、それだけで世の中を渡っていけるほど甘くはないと、フィーリーは思う。こうして悲しむ姉の様子は痛々しかったが、この方が姉のためには良かったのではないかと考えてしまう。
「そうだ、姉上。白薔薇の騎士は今年も優勝したようだね?」
フィーリーは努めて明るくそう言った。
白薔薇の騎士は、この国で行われる剣術大会で毎年優勝を果たしている、人気の女剣士だ。覆面をしているので素性は分からないが、見事な剣捌きで他の剣士達を手玉に取って圧勝する。
凜々しくて素敵だと、特に女性からの人気が高い。握手を求めたファンの一人が「彼女から薔薇の香りがした」と言い出し、優雅な彼女の物腰と相まって、それ以降、彼女は「白薔薇の騎士」とそう呼ばれるようになった。
姉のセシルもまた彼女の大ファンだ。
彼女の話をするといつも元気になるのだが、今回ばかりは違った。そうねと、答えてうなだれる。エイドリアンの事がどうしても頭から離れないらしい。
フィーリーはそっとため息をつく。そこへ、小さな弟のニコルが顔を出した。
「お姉ちゃま、ご本を読んで?」
そうおねだりするも、答える様子のない姉の悲しげな顔を見て、ニコルは怪訝そうに眉を寄せた。
「……お姉ちゃま、なんで泣いているの?」
「なんでもないわ」
「貸してごらん、僕が読んであげるから」
絵本を手に取り、フィーリーが童話の文字を目で追い始める。「昔々あるところに」から始まるお伽話はいつでも美しい。若く美しい男女が恋をして、幸せになるお話だ。
けれど、決まってその恋を邪魔する悪が登場する。それが一層物語を美しく見せてくれるのだけれど、今のセシルはそれが気に入らないようで、顔をしかめた。
「意地悪な魔女が、私からエイドリアンを取り上げたの」
お伽話の美しさをなじるように、そう口にする。
「姉上」
フィーリーが眉をひそめる。幼い弟に聞かせるような話ではないと思ったのだ。けれどセシルの罵りは止まらない。
「ローザっていう伯爵夫人が、その悪い魔女なのよ。私からエイドリアンを取り上げたの。見た目は綺麗だけれど、心は恐ろしい毒花よ。物語の中の醜い魔女そのものだわ。あの女がいる限り、私は彼とは結婚できないの。どうして真実の愛があんな女に負けるの?」
「……どうすればお姉ちゃまは結婚できるの?」
ニコルが無邪気に問うた。
「分からない……」
セシルが、すんっとしゃくり上げる。
「あの女がエイドリアンを諦めれば……いいえ、不貞でも働いて家から追い出されればいいんだわ。男をとっかえひっかえしてきたんだもの。きっとすぐにそうなるわよ。あんな女、修道院送りにでもなればいい」
憎々しげにそう言った。
「ふてい?」
「姉上」
フィーリーの叱責にもセシルはめげない。ぷいっとそっぽを向いてしまう。
「ふていってなあに?」
弟が無邪気に問うも、流石にその意味をそのまま口にすることは憚られたのだろう、セシルはかなり遠回しな表現を選んだ。
「そうね、若い男女が一つの部屋にいるのは良くないことなの。ローザという女が、他の若い男と一緒の部屋にいれば、不貞を働いたってことになって、きっとエイドリアンも愛想を尽かすはずよ」
「ふうん? じゃあその、ローザって人と僕が一緒の部屋で遊べば、ふていになる?」
無邪気な弟の問いに、セシルは声を立てて笑った。
「そうね。ええ、そうなるかもね」
「じゃあ、僕がお姉ちゃまを助けてあげる」
「そうなの? ニコルは優しいわね」
セシルが微笑む。ようやっと姉が笑ったので、フィーリーはやれやれというように頭を振り、その話題を終えた。
第六話 あきらめた方が賢明ですわ
「まあぁ、奥様、お綺麗ですわ」
侍女のテレサがそう言って褒め称えた。ローザは今、青い豪奢なドレスと宝石で身を飾り立てている。鏡に向かって微笑みかければ、結婚前の夜会の薔薇がそこにいた。
ふふっ。さあ、戦闘開始よ。
ローザは気合いを入れ、手にした扇をパシンと打ち鳴らした。
女にとってお茶会は、情報交換と人脈作りの大切な場だ。貴族相手に商売をするなら、お茶会には積極的に参加した方がいい。うまくいけば大金を稼ぐことができる。
「……なんだ、その格好は」
玄関先で鉢合わせたエイドリアンに足を止められた。最近の彼はよく邸にいて、こうして顔を合わせることが多い。ローザはエイドリアンをしげしげ眺める。美麗な顔は何やら複雑そうだ。
文句を言いたげですね、旦那様。でも言わせません。
ローザはつんっとすまして言う。
「お茶会に行くのですから、着飾るのは当然でしょう?」
「……茶会になど行く必要はない」
エイドリアンが、むくれたように言う。
「必要ありますとも。ああいったところは、お金のなる木ですからね」
「何?」
「人脈作りですよ、当然でしょう。では行ってきます」
「ちょ、待て! 許可した覚えは……」
「では、旦那様がこの貧困生活から抜け出るだけのお金をがっぽがっぽ稼いできて下さるのですね?」
ぐっと言葉に詰まるエイドリアンを見て、そこは嘘でも良いからできるって言うところでしょうと、ローザは思ってしまう。甲斐性なしに加えて、小心者という称号もあげましょうね、旦那様。
「節約!」
「だけでは足りません、では」
エイドリアンの言葉を完全に無視し、ローザは馬車に乗り込んで会場へ向かう。
節約だけでは、いつになったら目標額に達するのか分からない。こうして自由に動けるのも、三年が限度だろう。それ以上はきっと父が別の手段に出るはず……
ドリスデン伯爵邸は、美しく秀麗だった。潤沢な資金をつぎ込んで建てられた白亜の邸は圧巻の迫力である。
確か、ドリスデン伯爵は美術品の収集家だったわね……
ローザは白く美しい建物を眺めた。
伯爵の趣味を反映してるってわけね。
目の前の建物はまさに美術品のように美しい。ドリスデン伯爵の愛娘マデリアナ嬢と懇意にできれば、良い商売相手になるかもしれない。ローザはそう考え、ほくそ笑む。
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