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1巻
1-2
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父がいないというだけで、解放感が凄いですわ。情報収集と人脈開拓のため、高位貴族に媚を売りまくってこいとお父様に厳命され、出席しまくった夜会巡りは本当に大変でしたもの。
優雅に妖艶にと、自分のイメージ作りも大切でしたから、料理にがっつくわけにもいきませんし! ちっとも楽しくありませんでしたわ!
料理を手に、きゃっきゃうふふしているお嬢さん方を何度羨ましいと思ったことか! ああ、わたくしも混ざりたい! そう思っても、そう思っても!
――ろ、ローザ嬢!
――ご、ご機嫌麗しゅう!
わたくしが声をかける令嬢達は、何故かびくびくおどおどと緊張なさいます。雰囲気を和ませようと微笑みかけても、どうやら逆効果なようで、更に萎縮してしまいます。
――お、お、恐れ多いですわ!
――わ、わたくしどもでは、お美しいローザ嬢のお相手は、とてもとても!
いえ、爵位は同じでしてよ? というか伯爵家のお嬢さんも混じっていますわよ? 何故引くんですの? 何故かようにお嬢様方の腰が低くなるのか……
ああ、逃げていく……
どうも、自分の顔に迫力があるようだとローザが気がついたのは、かなり後になってからだ。
もうこれはどうしようもないですわね。遠巻きにされる美貌って、悲しいですわ。男性に媚を売るには最適らしいですが……
どの殿方も、少し色目を使うだけで、鼻の下を伸ばして下さいます。でも、これだと、喜ぶのはお父様だけじゃありませんの。はあ……もう少しふんわりとした、可愛らしいお嬢さんに生まれたかったですわ。
そう、旦那様の元婚約者のセシル嬢のように……
ストロベリーブロンドのふんわりとした髪に、愛くるしいぱっちりとした瞳。思わず守ってあげたくなるような、そんな感じのお嬢さんでしたものね。
対してわたくしは夜会の薔薇、男を惑わす星って……
全然嬉しくありませんわね。どう見ても女性に敬遠される女じゃありませんの、もう。こうして自由になれたのですから、男に取り囲まれるより、可愛らしいお嬢さん達ときゃっきゃうふふしたいですわ。
昼食はいつも通りエイドリアンとは別々にとり、その後も精を出した結果、連日に及ぶ草むしりがやっと終わった。やりきった達成感に浸りながら、この庭は芋畑にでもしましょうかと、ローザはそんな事を考える。
質実剛健が一番ですわ。花なんて植えたってお腹は膨れませんものね。食べたいものを植えて、自給自足をすれば、お金が貯まりますわね。うふふ。明日は埃だらけの邸の掃除をしましょう。
ウォレンを膝に乗せ、ローザが粗末な夕食をとっていると、珍しくエイドリアンが姿を見せた。ローザは目を丸くする。
あらぁ? 一体どういう風の吹き回しでしょう? もしかして監視ですか? 変なことはしていませんよ?
「……甥を手なずけてどうするつもりだ?」
どうやら旦那様の不興を買ったようですわね。旦那様の眉間には、いつも通りの皺。綺麗な顔が台無しですよ?
「別に何も?」
「甥を使って私を懐柔しようなどと考えているのなら……」
ああ、煩いですねぇ。
「分かりました、お返しします。ちゃんとあやして下さいね?」
ひょいっとウォレンを抱え、旦那様に抱っこさせれば、それまでにっこり笑顔だったウォレンの顔がふっと崩れ、マンマとか言ってくれちゃう。う、可愛い。しかも、あ、これは、泣くな……
ウォレンは手足をばたばたさせて、ローザに抱っこされないと分かると、火がついたように泣き出した。
「うぉ、ウォレン? ほ、ほーら、ほーら、高い高い!」
全然慣れていませんね、旦那様。手つきが危なっかしいですわ。落とさないで下さいよ?
散々あたふたさせた後、頃合いを見て、ローザは助け船を出す。
「預かりましょうか?」
ローザがそう言うと、エイドリアンは渋々ウォレンを手渡した。するとウォレンはピタリと泣き止み、きゃっきゃと笑う。エイドリアンは苦虫を噛みつぶしたような顔だ。
「何か文句でも?」
「……ない」
本当に嫌そうですね。だったらちゃんとした乳母を雇ったらどうですか? そんなお金はないのでしょうけれど……
◇◇◇
なんなのだ? あの女は……
エイドリアンは今日も心の中で独りごちる。
イライラしっぱなしだ。
料理人に命じてローザの食事は質素にさせ、付ける侍女も一人だけ。というより一人しかいないから自分と掛け持ちだ。そしてもちろん、ドレスや宝石などの贈り物は全くない。夫婦としての会話もなく、夜の営みもない。
なのに何故、文句の一つも言ってこない!
だんっと乱暴に壁を叩いてしまう。
絶対に怒鳴り込んでくると思っていたのだ。あの高慢ちきな女が、こうした質素な生活に耐えられるわけがない。遠からず癇癪を起こすだろうと踏んでいた。その時は満面の笑みで、こう言ってやるつもりだったのだ。
――なら、実家へ帰ったらどうだ? その方が私も助かる。
お前など必要ない、そういう意味を込めて嫌みたっぷりに。きっとあの女は悔しがり、顔を真っ赤にして怒るだろう。そう思っていたのに……
実際は楽しそうに鼻歌交じりで邸中の掃除をしている。
なんなのだあれは!
エイドリアンは再び壁を叩いてしまう。
悔しがるのが何故こっちなのか……
あの光景は夢か幻か? 初めてあれを見た時は、我が目を疑った。夜会の薔薇と囁かれたあの高慢ちきな女が掃除? ありえない。しかも、化粧もせずに作業着姿で。あれでは使用人と変わらないではないか。一体なんの真似だ? 私の気を引くお芝居か? それにしては堂に入りすぎている。
エイドリアンは改めて、ローザが掃除をした邸内を見やった。どこもかしこもピカピカだ。使用人全員が感心するほどの手並みである。
と言っても、使用人は料理人と侍女と執事のたった三人しかいないのだが。いや、いつも眠っているような年老いた厩番を加えれば四人か……
――旦那様! 奥様は素晴らしい方ですわ!
侍女のテレサが興奮気味にそう言っていた。そばかすの浮いた人懐っこい顔が、きらきらと輝いている。
――こうしてわたくしどもの至らなさを補って下さるだけでなく、わたくしどものような使用人をも気遣って下さいます。手が荒れれば、ほら、ご自分が使っていた薬用クリームを下さいました! こんな方は見たことがございません! 大事になさいませ!
そう言われても、エイドリアンには戸惑いしかない。夜会で見たあの女の姿と違いすぎて、まるで狐につままれたようだ。
一体あれは誰だ? 夜会の薔薇? 違うと思う……
エイドリアンがなんの気なしに窓の外を見ると、そこにローザがいて、今も農作業の真っ最中だ。鍬を手に土を掘り返している。エイドリアンは、ぼんやりとその光景を眺め……目にした事態の異様さに思考が追いつき、仰天した。
はあ? 農作業? あの女は庭で一体何をしているのか!
慌てて庭へ出ると、ローザがもの凄い勢いで土を掘り返している。そう、もの凄い勢いだ。とてもひ弱な女性の作業とは思えない。
というか、子爵令嬢が、貴族の娘が! 息切れもせず元気に農作業って……なんの冗談だ、これは? 現実か?
「ローザ!」
ついあの女の名前を呼ぶと、彼女はようやっと手を休めて、顔を上げた。
「あら、旦那様、何かご用ですか?」
なんて涼しい顔で言ってくる。爽やかな笑顔、そう言ってもいい。
「これは、なんだ、これは!」
エイドリアンが掘り返された土を指差すと、芋畑を作っていますと、ローザはけろりと返す。
「芋畑?」
「ええ、そうです。これだけ無駄に……いえ、広いお庭があるのですから、有効活用いたしませんとね。旦那様はしがない伯爵ですし」
しがない言うなあ!
エイドリアンが心の中で絶叫するも、ローザはにっこりと笑った。
「高位貴族の方達をここへお招きするということもございませんでしょう? なら花を植えるより、実用的な芋がよろしいかと」
「いや、そ……そういう問題じゃない!」
そうだ、そういう問題じゃない! 貴族の娘が! 伯爵夫人が農作業をしている光景が異様すぎるんだ!
エイドリアンは頭をかきむしりそうになる。
「なら、どういう問題でしょう?」
「あ、あれだ! つ、疲れないのか?」
「いえ、全然」
「全然!?」
エイドリアンは目を剥いてしまった。
先程からもの凄い運動量だぞ? というか、鍬の振り方が異様なほど速かった。あれはなんだ? 人間業じゃないような……
エイドリアンの背に、たらりと冷や汗が伝う。
「あら、もしかして、旦那様はわたくしの体調を気遣って下さっているのですか?」
ほほほとローザが笑う。
「え? いや、その……」
そうだとは言いにくく、エイドリアンは言葉を濁してしまう。
「なら、心配無用ですわ。健康には自信があります。というより、あの家では健康でないと死にますから」
「はあ?」
「なにせ父は風邪一つ引かない化け物……いえ、強靱な肉体の持ち主ですので、常識が全く通用しません。朝昼晩と休む暇もなく、必要な淑女教育の他に、過酷な剣の鍛錬を課せられます。これっくらいできて当然って顔で」
剣の鍛錬? 普通の淑女教育ではやらないような気が……ドルシア子爵って一体……
エイドリアンは心の中で自問自答する。
「ですので、かようにしっかりとした体になりました! 雨風に負けぬよう! ええ、しっかりがっつりと!」
「鍛えすぎだろう!」
エイドリアンは速攻つっこんだ。
「体力が尋常じゃな……いや、こ、こんな風に農作業をする子爵令嬢など見たことがないぞ!」
「ここにおりますわ、旦那様。了見の狭いことをおっしゃらないで」
ほほほとローザが笑う。エイドリアンは目を剥いた。
「私の了見が狭いのか?」
違う、絶対違う。調子が狂いっぱなしだ。
「後、邪魔です。手伝って下さるなら話は別ですが」
鍬を持たされそうになり、エイドリアンは慌てて退散した。
あれが夜会の薔薇、男を惑わす星って……
しかもすっぴんの方が可愛いって、ど、どういうことだ? ローザは化粧をすると毒花のような怪しい美しさを醸し出していたが、今のようにすっぴんだと、綺麗だが愛らしい感じになる。可愛らしい……って、いやいやいや、あれが可愛いなど気の迷いだ、気の迷い。
頭を振って、エイドリアンはもやもやした感情を追い払う。
一体なんなのだ? あの女は。
エイドリアンは大きく息を吐き出した。
意図が全く読めない。何故、私に媚びない? 絶対すり寄ってくると思っていたのに、私が傍にいてもいなくてもまるで空気という態度を崩さない。拍子抜けだ。
そして、邸中を掃除し、甥の世話をし、芋畑を作る子爵令嬢……
規格外すぎる。こんな令嬢は見たことがない。
執務室で一人悶々としていると、執事のセバスチャンが手紙を持って現れた。
その手紙の差出人を見て、エイドリアンは表情を引き締める。セシルからだった。震える手で開封すると、今はすっかり体調も元通りで、元気にしているとのこと。できれば一度会いたいという旨が記されている。
私も会いたい……
しかし、不本意とはいえ私は既に結婚している身だ。既婚者である自分と逢瀬を繰り返せば、彼女の評判に傷がつく。それだけは避けたい。幸せになってくれ、そういった意味を込めて、エイドリアンは別れの手紙を書いた。
第四話 おかしな旦那様
ローザは毎日せっせと働いた。
とにかくやる事はまだまだたくさんある。休んでなどいられない。
まとまった資金を貯めて、華麗なる離縁を果たした後は、あの狸親父の手の届かない所まで逃亡するのよ、ほーっほっほっほっ!
ローザは心の中でいつものように高笑い。日没まで農作業を続け、邸へ戻った。
「マンマ」
邸に入ると、テレサにあやされていたウォレンが顔をくしゃくしゃにして喜び、ぴっとりと張り付いて離れない。思わず口元がほころんでしまう。ウォレンが可愛くて仕方がない。
お風呂に一緒に入りましょうか。ああ、ほら、暴れない暴れない。ちゃんと洗わせてちょうだいな。
着替えを済ませ、ウォレンを抱っこして食堂に行くと、エイドリアンが椅子に座っていた。ローザは目を丸くしてしまう。
何故、旦那様がここにいらっしゃるのでしょう? 思わず二度見してしまいました。幻、ではありませんよね? きっちり背筋を伸ばした旦那様がそこにいらっしゃいます。艶やかな黒髪に端整な顔立ち。相変わらず絵になりますね。中身は残念ですけれど……
「……何か言いたげだな?」
エイドリアンの眉間に皺が寄った。
どうやらまじまじと見過ぎたようです。まぁ、言わせていただけるのでしたら、いつものようにお部屋でどうぞ、と言いたいところですが、それも大人げないですわね。ま、家具の一部と思えばいいでしょう。気にしない、気にしないと。
「いえ、とんでもございませんわ。どうぞお好きになさって下さいませ」
ローザが愛想良くほほほと笑うと、エイドリアンの眉間の皺が一層深くなった。
本当、腹芸のできない人ですねぇ。感情が全部顔に出ていますよ? 怒っていても、にこにこ笑うくらいしてほしいものです。
ローザがすまして椅子に座ると、料理が運ばれてくる。
ん? 出てくるお料理がいつもより豪勢ですね。貧困層の食事が庶民層になった、という程度ですが……
食卓に並べられた食事に、じっと見入ってしまう。
「冷めないうちにどうぞ。今日は料理人のトニーが奥様のために張り切って作りましたの」
侍女のテレサが、奥様のためにとやけに強調する。
「品数も多くなりましたわね。予算は大丈夫ですの?」
「ええ! 旦那様から許可が――あ……」
テレサがぱっと口元を押さえる。気まずそうに視線を逸らしたテレサを見て、ローザは気がついた。
ああ、そういうこと……。旦那様の嫌がらせだったのね? あの食事。てっきり倹約に励んでいるのかと思っていたわ。でも、甘いわねぇ。旦那様とは鍛え方が違いますからね! あのくらいの嫌がらせなんて、なんともありませんわぁ!
ほーっほっほっほっとローザは心の中で高笑い。
ちらりと視線を走らせれば、やはり旦那様もどこか居心地が悪そうです。小物臭が漂っていますわよ、旦那様。悪だくみくらい堂々とやる度量を身につけて下さいまし。
「申し訳ございません」
テレサが身を縮める。こちらは本当に申し訳なさそうだ。
もしかしてこれまでの食事内容は不本意だったということかしらね?
ローザはくすりと笑った。
まぁ、本当は仕える主人の企みをばらしてしまった不手際の方が問題ですけれど、そこは不問にしましょうか。
「いいのよ、テレサ。忠誠心が厚いのは良いことだわ」
にっこりと笑ってみせる。
そう、使用人は主に忠実であるべし。これは基本中の基本。でも、今後はわたくしの側についてもらいたいものね。
「でも、その忠誠心を、ほんの少しで良いの、わたくしにも分けてもらえないかしら? そうしてくれたら嬉しいわ」
テレサがぱあっと顔を輝かせた。自分に仕えてほしい、ローザにそう言われたも同然だ。
「も、もちろんです、奥様! 誠心誠意お仕えいたしますとも!」
テレサが喜んでそう答え、ローザは再びにっこりと笑う。
うふふ。期待しているわよ?
「……邸が随分と綺麗になった」
食事の途中で、エイドリアンがぽつりとそう口にした。
相変わらず不機嫌そうですね。邸が綺麗になったのだから、もっと嬉しそうにしたらどうですか?
「ええ、掃除しましたから」
ローザの返答に、エイドリアンは一瞬押し黙り、ずいっと身を乗り出した。
「お前は一体、今までどんな生活をしてきたんだ?」
そう、胡散臭げに問いただす。
「草むしりをし、邸中の掃除をする。畑まで……。苦労知らずの子爵令嬢だとばかり思っていたが……」
「ええ、そう見えるように躾けられていますからね」
そう、高位貴族に取り入るために仕込まれたマナーのおかげです。
「子供の扱いにも慣れている」
エイドリアンが、ローザのあやしている甥のウォレンに目を向けた。
「ええ、こうしてお世話をしていましたから。大勢」
「大勢……」
エイドリアンはローザをまじまじと見つめた。
「……教会で孤児達の世話を?」
「いいえ、そういった慈善事業ではありません。時は金なり、無駄にするべからず、そう言ってあの男は憚りません。要するに、金にならないことはするなということですわ」
「金の亡者だな」
「ええ、まさにその通りです」
人の命より、金、金、金ですからね。どうしてあそこまで強欲になったんだか。
「……普通はそこで否定しそうなものだが」
父親だろう? エイドリアンはそう言いたげだ。
本当、幸せ者ですわね、旦那様。きっとあなたのお父様は、真っ当な方だったんでしょうね。
「わたくしの父の本性は、きっちり知っておいた方がいいと思いますわ。でないと、とんでもない目に遭わされますので」
ローザがにっこり笑ってみせると、エイドリアンはなんとも言えない顔を返した。
「ローザ」
食事を終え、立ち去りかけたローザをエイドリアンが呼び止める。
「なんでしょう?」
振り返ると、エイドリアンは、何かを言いかけ、そして口を閉じた。その繰り返しだ。
一体なんなのでしょうね? 言いたいことがあるのでしたら、はっきり言った方が良いですよ?
ローザがじっと見つめると、ふいっと視線を逸らされる。
「……なんでもない」
結局そう言って、エイドリアンは立ち去った。
一体なんだったんでしょう? 謎ですわ。
◇◇◇
何をやっているんだ、私は!
廊下を早足で歩きながら、エイドリアンは自分を罵倒する。
感謝の意を伝えるんじゃなかったのか?
あの女が無理矢理自分と結婚した事実は許しがたいが、それでも彼女のお陰で使用人達の表情が明るくなったのは確かなのだ。借金まみれの自分にこうして仕え、給料も満足に払えていないこんな状況で、彼らの明るい笑い声を聞いたのは久しぶりだ。
――奥様は素晴らしい方です!
使用人達はこぞってそう褒め称える。よほど彼女を気に入ったのだろう。仲良くするようにと、使用人の誰もが言外にそういった意図を込めてくる。
それに賛成したわけではないが、人としての礼儀は忘れてはいけない、そう思い、彼女の働きには感謝していると、そう伝えるつもりだったのだが……
ローザの碧い瞳に見つめられると、妙な気分をかき立てられてしまう。そわそわと落ち着かなくなってしまうのだ。胸がざわつくこの感覚はなんなのか……
自分でも訳の分からない感情に戸惑い、結局エイドリアンは、その場を濁して終わってしまった。
情けない。いつの間にこんなに情けない男になったのか……
そう悶々としていた翌日のこと。
その憂さに拍車をかけるような出来事が起こった。二人の悪友がいきなり伯爵邸を訪ねてきたのだ。いや、押しかけてきたと言った方がいい。どちらも女好きの遊び人だ。夜会の薔薇と称されていたローザとの結婚に興味津々といった風である。
「夜会の薔薇に一目会おうと思ってな!」
子爵家嫡男、金髪優男のクレマンがそう言って笑う。
「独り占めか、羨ましいぞ、この野郎!」
体格のいい伯爵家令息のヒューゴが、示し合わせたように肩を叩く。
そんなつもりは毛頭ない!
エイドリアンはそう叫びそうになってしまう。
それと、羨ましいならお前らが嫁にもらってくれ!
エイドリアンはそう言いたかったが、借金のかたとして彼女を娶らされたのだ。そんな真似、できようはずもない。エイドリアン自ら邸の中を案内し、二人を客間へ通すと、彼らは驚いた様子だった。
「……随分綺麗になったな」
クレマンがぽつりと言う。
「ああ、その……掃除をしたんだ」
「ふうん? やっぱり彼女を選んで正解だったんじゃないか?」
「どういう……」
「ん? だって、新しい使用人を雇ったんだろ? 彼女の持参金で」
いや、ドルシア子爵の援助は借金の清算までだったから、まとまった金が手に入ったわけじゃない。掃除をしたのはローザだ。生活はいまだ困窮している。
どう言えば良いのか分からず、エイドリアンが答えあぐねていると、ヒューゴがにやにや笑いつつ、肩を叩いてきた。
「しっかし顔のいい男は得だねぇ。借金まみれでも、こうして女が寄ってくるんだから。普通の男だったら、結婚相手なんかまず見つからないね。しかも、大金持ちのあんな美女……ほんっと羨ましいよ。彼女の美貌と財産に目がくらんで、婚約者だったセシル嬢を捨てるのも無理はない」
ヒューゴの揶揄に、エイドリアンはいきり立った。
「捨てたわけじゃない! 私はセシルを愛して……」
「ああ、言い訳はいいから、いいから。分かってるって。俺だってな、ローザ嬢とセシル嬢だったら、絶対ローザ嬢をとるね。お前の選択は当然だよ」
「だから、違う! 借金を返せないなら結婚しろと迫られたんだ! セシルとは無理矢理別れさせられたんだよ! 私はあの女と結婚する気なんか毛頭なかった!」
悪友二人が顔を見合わせる。
「え、それも羨ましい」
声を揃えて言われ、エイドリアンは目を剥いた。
「なんでだ!」
「なんでって……」
「なぁ?」
二人は訳知り顔で目配せし、困ったように笑う。
「あんな美人に結婚してって迫られたんだろ? しかも大金持ち」
「俺もそうされたい。愛されてるなぁ、お前」
「違う!」
いや、違わない、のか?
エイドリアンは、はたと考える。
あの女が借金のかたに、私に結婚を迫ったのは事実だ。いや、でも、私に対して全く興味がなさそうに見えるのは何故だ? ウォレンは目に入れても痛くない程の可愛がりようだが、私は常に空気扱いされているような気がしてならない。
――あら、そこにいましたの?
優雅に妖艶にと、自分のイメージ作りも大切でしたから、料理にがっつくわけにもいきませんし! ちっとも楽しくありませんでしたわ!
料理を手に、きゃっきゃうふふしているお嬢さん方を何度羨ましいと思ったことか! ああ、わたくしも混ざりたい! そう思っても、そう思っても!
――ろ、ローザ嬢!
――ご、ご機嫌麗しゅう!
わたくしが声をかける令嬢達は、何故かびくびくおどおどと緊張なさいます。雰囲気を和ませようと微笑みかけても、どうやら逆効果なようで、更に萎縮してしまいます。
――お、お、恐れ多いですわ!
――わ、わたくしどもでは、お美しいローザ嬢のお相手は、とてもとても!
いえ、爵位は同じでしてよ? というか伯爵家のお嬢さんも混じっていますわよ? 何故引くんですの? 何故かようにお嬢様方の腰が低くなるのか……
ああ、逃げていく……
どうも、自分の顔に迫力があるようだとローザが気がついたのは、かなり後になってからだ。
もうこれはどうしようもないですわね。遠巻きにされる美貌って、悲しいですわ。男性に媚を売るには最適らしいですが……
どの殿方も、少し色目を使うだけで、鼻の下を伸ばして下さいます。でも、これだと、喜ぶのはお父様だけじゃありませんの。はあ……もう少しふんわりとした、可愛らしいお嬢さんに生まれたかったですわ。
そう、旦那様の元婚約者のセシル嬢のように……
ストロベリーブロンドのふんわりとした髪に、愛くるしいぱっちりとした瞳。思わず守ってあげたくなるような、そんな感じのお嬢さんでしたものね。
対してわたくしは夜会の薔薇、男を惑わす星って……
全然嬉しくありませんわね。どう見ても女性に敬遠される女じゃありませんの、もう。こうして自由になれたのですから、男に取り囲まれるより、可愛らしいお嬢さん達ときゃっきゃうふふしたいですわ。
昼食はいつも通りエイドリアンとは別々にとり、その後も精を出した結果、連日に及ぶ草むしりがやっと終わった。やりきった達成感に浸りながら、この庭は芋畑にでもしましょうかと、ローザはそんな事を考える。
質実剛健が一番ですわ。花なんて植えたってお腹は膨れませんものね。食べたいものを植えて、自給自足をすれば、お金が貯まりますわね。うふふ。明日は埃だらけの邸の掃除をしましょう。
ウォレンを膝に乗せ、ローザが粗末な夕食をとっていると、珍しくエイドリアンが姿を見せた。ローザは目を丸くする。
あらぁ? 一体どういう風の吹き回しでしょう? もしかして監視ですか? 変なことはしていませんよ?
「……甥を手なずけてどうするつもりだ?」
どうやら旦那様の不興を買ったようですわね。旦那様の眉間には、いつも通りの皺。綺麗な顔が台無しですよ?
「別に何も?」
「甥を使って私を懐柔しようなどと考えているのなら……」
ああ、煩いですねぇ。
「分かりました、お返しします。ちゃんとあやして下さいね?」
ひょいっとウォレンを抱え、旦那様に抱っこさせれば、それまでにっこり笑顔だったウォレンの顔がふっと崩れ、マンマとか言ってくれちゃう。う、可愛い。しかも、あ、これは、泣くな……
ウォレンは手足をばたばたさせて、ローザに抱っこされないと分かると、火がついたように泣き出した。
「うぉ、ウォレン? ほ、ほーら、ほーら、高い高い!」
全然慣れていませんね、旦那様。手つきが危なっかしいですわ。落とさないで下さいよ?
散々あたふたさせた後、頃合いを見て、ローザは助け船を出す。
「預かりましょうか?」
ローザがそう言うと、エイドリアンは渋々ウォレンを手渡した。するとウォレンはピタリと泣き止み、きゃっきゃと笑う。エイドリアンは苦虫を噛みつぶしたような顔だ。
「何か文句でも?」
「……ない」
本当に嫌そうですね。だったらちゃんとした乳母を雇ったらどうですか? そんなお金はないのでしょうけれど……
◇◇◇
なんなのだ? あの女は……
エイドリアンは今日も心の中で独りごちる。
イライラしっぱなしだ。
料理人に命じてローザの食事は質素にさせ、付ける侍女も一人だけ。というより一人しかいないから自分と掛け持ちだ。そしてもちろん、ドレスや宝石などの贈り物は全くない。夫婦としての会話もなく、夜の営みもない。
なのに何故、文句の一つも言ってこない!
だんっと乱暴に壁を叩いてしまう。
絶対に怒鳴り込んでくると思っていたのだ。あの高慢ちきな女が、こうした質素な生活に耐えられるわけがない。遠からず癇癪を起こすだろうと踏んでいた。その時は満面の笑みで、こう言ってやるつもりだったのだ。
――なら、実家へ帰ったらどうだ? その方が私も助かる。
お前など必要ない、そういう意味を込めて嫌みたっぷりに。きっとあの女は悔しがり、顔を真っ赤にして怒るだろう。そう思っていたのに……
実際は楽しそうに鼻歌交じりで邸中の掃除をしている。
なんなのだあれは!
エイドリアンは再び壁を叩いてしまう。
悔しがるのが何故こっちなのか……
あの光景は夢か幻か? 初めてあれを見た時は、我が目を疑った。夜会の薔薇と囁かれたあの高慢ちきな女が掃除? ありえない。しかも、化粧もせずに作業着姿で。あれでは使用人と変わらないではないか。一体なんの真似だ? 私の気を引くお芝居か? それにしては堂に入りすぎている。
エイドリアンは改めて、ローザが掃除をした邸内を見やった。どこもかしこもピカピカだ。使用人全員が感心するほどの手並みである。
と言っても、使用人は料理人と侍女と執事のたった三人しかいないのだが。いや、いつも眠っているような年老いた厩番を加えれば四人か……
――旦那様! 奥様は素晴らしい方ですわ!
侍女のテレサが興奮気味にそう言っていた。そばかすの浮いた人懐っこい顔が、きらきらと輝いている。
――こうしてわたくしどもの至らなさを補って下さるだけでなく、わたくしどものような使用人をも気遣って下さいます。手が荒れれば、ほら、ご自分が使っていた薬用クリームを下さいました! こんな方は見たことがございません! 大事になさいませ!
そう言われても、エイドリアンには戸惑いしかない。夜会で見たあの女の姿と違いすぎて、まるで狐につままれたようだ。
一体あれは誰だ? 夜会の薔薇? 違うと思う……
エイドリアンがなんの気なしに窓の外を見ると、そこにローザがいて、今も農作業の真っ最中だ。鍬を手に土を掘り返している。エイドリアンは、ぼんやりとその光景を眺め……目にした事態の異様さに思考が追いつき、仰天した。
はあ? 農作業? あの女は庭で一体何をしているのか!
慌てて庭へ出ると、ローザがもの凄い勢いで土を掘り返している。そう、もの凄い勢いだ。とてもひ弱な女性の作業とは思えない。
というか、子爵令嬢が、貴族の娘が! 息切れもせず元気に農作業って……なんの冗談だ、これは? 現実か?
「ローザ!」
ついあの女の名前を呼ぶと、彼女はようやっと手を休めて、顔を上げた。
「あら、旦那様、何かご用ですか?」
なんて涼しい顔で言ってくる。爽やかな笑顔、そう言ってもいい。
「これは、なんだ、これは!」
エイドリアンが掘り返された土を指差すと、芋畑を作っていますと、ローザはけろりと返す。
「芋畑?」
「ええ、そうです。これだけ無駄に……いえ、広いお庭があるのですから、有効活用いたしませんとね。旦那様はしがない伯爵ですし」
しがない言うなあ!
エイドリアンが心の中で絶叫するも、ローザはにっこりと笑った。
「高位貴族の方達をここへお招きするということもございませんでしょう? なら花を植えるより、実用的な芋がよろしいかと」
「いや、そ……そういう問題じゃない!」
そうだ、そういう問題じゃない! 貴族の娘が! 伯爵夫人が農作業をしている光景が異様すぎるんだ!
エイドリアンは頭をかきむしりそうになる。
「なら、どういう問題でしょう?」
「あ、あれだ! つ、疲れないのか?」
「いえ、全然」
「全然!?」
エイドリアンは目を剥いてしまった。
先程からもの凄い運動量だぞ? というか、鍬の振り方が異様なほど速かった。あれはなんだ? 人間業じゃないような……
エイドリアンの背に、たらりと冷や汗が伝う。
「あら、もしかして、旦那様はわたくしの体調を気遣って下さっているのですか?」
ほほほとローザが笑う。
「え? いや、その……」
そうだとは言いにくく、エイドリアンは言葉を濁してしまう。
「なら、心配無用ですわ。健康には自信があります。というより、あの家では健康でないと死にますから」
「はあ?」
「なにせ父は風邪一つ引かない化け物……いえ、強靱な肉体の持ち主ですので、常識が全く通用しません。朝昼晩と休む暇もなく、必要な淑女教育の他に、過酷な剣の鍛錬を課せられます。これっくらいできて当然って顔で」
剣の鍛錬? 普通の淑女教育ではやらないような気が……ドルシア子爵って一体……
エイドリアンは心の中で自問自答する。
「ですので、かようにしっかりとした体になりました! 雨風に負けぬよう! ええ、しっかりがっつりと!」
「鍛えすぎだろう!」
エイドリアンは速攻つっこんだ。
「体力が尋常じゃな……いや、こ、こんな風に農作業をする子爵令嬢など見たことがないぞ!」
「ここにおりますわ、旦那様。了見の狭いことをおっしゃらないで」
ほほほとローザが笑う。エイドリアンは目を剥いた。
「私の了見が狭いのか?」
違う、絶対違う。調子が狂いっぱなしだ。
「後、邪魔です。手伝って下さるなら話は別ですが」
鍬を持たされそうになり、エイドリアンは慌てて退散した。
あれが夜会の薔薇、男を惑わす星って……
しかもすっぴんの方が可愛いって、ど、どういうことだ? ローザは化粧をすると毒花のような怪しい美しさを醸し出していたが、今のようにすっぴんだと、綺麗だが愛らしい感じになる。可愛らしい……って、いやいやいや、あれが可愛いなど気の迷いだ、気の迷い。
頭を振って、エイドリアンはもやもやした感情を追い払う。
一体なんなのだ? あの女は。
エイドリアンは大きく息を吐き出した。
意図が全く読めない。何故、私に媚びない? 絶対すり寄ってくると思っていたのに、私が傍にいてもいなくてもまるで空気という態度を崩さない。拍子抜けだ。
そして、邸中を掃除し、甥の世話をし、芋畑を作る子爵令嬢……
規格外すぎる。こんな令嬢は見たことがない。
執務室で一人悶々としていると、執事のセバスチャンが手紙を持って現れた。
その手紙の差出人を見て、エイドリアンは表情を引き締める。セシルからだった。震える手で開封すると、今はすっかり体調も元通りで、元気にしているとのこと。できれば一度会いたいという旨が記されている。
私も会いたい……
しかし、不本意とはいえ私は既に結婚している身だ。既婚者である自分と逢瀬を繰り返せば、彼女の評判に傷がつく。それだけは避けたい。幸せになってくれ、そういった意味を込めて、エイドリアンは別れの手紙を書いた。
第四話 おかしな旦那様
ローザは毎日せっせと働いた。
とにかくやる事はまだまだたくさんある。休んでなどいられない。
まとまった資金を貯めて、華麗なる離縁を果たした後は、あの狸親父の手の届かない所まで逃亡するのよ、ほーっほっほっほっ!
ローザは心の中でいつものように高笑い。日没まで農作業を続け、邸へ戻った。
「マンマ」
邸に入ると、テレサにあやされていたウォレンが顔をくしゃくしゃにして喜び、ぴっとりと張り付いて離れない。思わず口元がほころんでしまう。ウォレンが可愛くて仕方がない。
お風呂に一緒に入りましょうか。ああ、ほら、暴れない暴れない。ちゃんと洗わせてちょうだいな。
着替えを済ませ、ウォレンを抱っこして食堂に行くと、エイドリアンが椅子に座っていた。ローザは目を丸くしてしまう。
何故、旦那様がここにいらっしゃるのでしょう? 思わず二度見してしまいました。幻、ではありませんよね? きっちり背筋を伸ばした旦那様がそこにいらっしゃいます。艶やかな黒髪に端整な顔立ち。相変わらず絵になりますね。中身は残念ですけれど……
「……何か言いたげだな?」
エイドリアンの眉間に皺が寄った。
どうやらまじまじと見過ぎたようです。まぁ、言わせていただけるのでしたら、いつものようにお部屋でどうぞ、と言いたいところですが、それも大人げないですわね。ま、家具の一部と思えばいいでしょう。気にしない、気にしないと。
「いえ、とんでもございませんわ。どうぞお好きになさって下さいませ」
ローザが愛想良くほほほと笑うと、エイドリアンの眉間の皺が一層深くなった。
本当、腹芸のできない人ですねぇ。感情が全部顔に出ていますよ? 怒っていても、にこにこ笑うくらいしてほしいものです。
ローザがすまして椅子に座ると、料理が運ばれてくる。
ん? 出てくるお料理がいつもより豪勢ですね。貧困層の食事が庶民層になった、という程度ですが……
食卓に並べられた食事に、じっと見入ってしまう。
「冷めないうちにどうぞ。今日は料理人のトニーが奥様のために張り切って作りましたの」
侍女のテレサが、奥様のためにとやけに強調する。
「品数も多くなりましたわね。予算は大丈夫ですの?」
「ええ! 旦那様から許可が――あ……」
テレサがぱっと口元を押さえる。気まずそうに視線を逸らしたテレサを見て、ローザは気がついた。
ああ、そういうこと……。旦那様の嫌がらせだったのね? あの食事。てっきり倹約に励んでいるのかと思っていたわ。でも、甘いわねぇ。旦那様とは鍛え方が違いますからね! あのくらいの嫌がらせなんて、なんともありませんわぁ!
ほーっほっほっほっとローザは心の中で高笑い。
ちらりと視線を走らせれば、やはり旦那様もどこか居心地が悪そうです。小物臭が漂っていますわよ、旦那様。悪だくみくらい堂々とやる度量を身につけて下さいまし。
「申し訳ございません」
テレサが身を縮める。こちらは本当に申し訳なさそうだ。
もしかしてこれまでの食事内容は不本意だったということかしらね?
ローザはくすりと笑った。
まぁ、本当は仕える主人の企みをばらしてしまった不手際の方が問題ですけれど、そこは不問にしましょうか。
「いいのよ、テレサ。忠誠心が厚いのは良いことだわ」
にっこりと笑ってみせる。
そう、使用人は主に忠実であるべし。これは基本中の基本。でも、今後はわたくしの側についてもらいたいものね。
「でも、その忠誠心を、ほんの少しで良いの、わたくしにも分けてもらえないかしら? そうしてくれたら嬉しいわ」
テレサがぱあっと顔を輝かせた。自分に仕えてほしい、ローザにそう言われたも同然だ。
「も、もちろんです、奥様! 誠心誠意お仕えいたしますとも!」
テレサが喜んでそう答え、ローザは再びにっこりと笑う。
うふふ。期待しているわよ?
「……邸が随分と綺麗になった」
食事の途中で、エイドリアンがぽつりとそう口にした。
相変わらず不機嫌そうですね。邸が綺麗になったのだから、もっと嬉しそうにしたらどうですか?
「ええ、掃除しましたから」
ローザの返答に、エイドリアンは一瞬押し黙り、ずいっと身を乗り出した。
「お前は一体、今までどんな生活をしてきたんだ?」
そう、胡散臭げに問いただす。
「草むしりをし、邸中の掃除をする。畑まで……。苦労知らずの子爵令嬢だとばかり思っていたが……」
「ええ、そう見えるように躾けられていますからね」
そう、高位貴族に取り入るために仕込まれたマナーのおかげです。
「子供の扱いにも慣れている」
エイドリアンが、ローザのあやしている甥のウォレンに目を向けた。
「ええ、こうしてお世話をしていましたから。大勢」
「大勢……」
エイドリアンはローザをまじまじと見つめた。
「……教会で孤児達の世話を?」
「いいえ、そういった慈善事業ではありません。時は金なり、無駄にするべからず、そう言ってあの男は憚りません。要するに、金にならないことはするなということですわ」
「金の亡者だな」
「ええ、まさにその通りです」
人の命より、金、金、金ですからね。どうしてあそこまで強欲になったんだか。
「……普通はそこで否定しそうなものだが」
父親だろう? エイドリアンはそう言いたげだ。
本当、幸せ者ですわね、旦那様。きっとあなたのお父様は、真っ当な方だったんでしょうね。
「わたくしの父の本性は、きっちり知っておいた方がいいと思いますわ。でないと、とんでもない目に遭わされますので」
ローザがにっこり笑ってみせると、エイドリアンはなんとも言えない顔を返した。
「ローザ」
食事を終え、立ち去りかけたローザをエイドリアンが呼び止める。
「なんでしょう?」
振り返ると、エイドリアンは、何かを言いかけ、そして口を閉じた。その繰り返しだ。
一体なんなのでしょうね? 言いたいことがあるのでしたら、はっきり言った方が良いですよ?
ローザがじっと見つめると、ふいっと視線を逸らされる。
「……なんでもない」
結局そう言って、エイドリアンは立ち去った。
一体なんだったんでしょう? 謎ですわ。
◇◇◇
何をやっているんだ、私は!
廊下を早足で歩きながら、エイドリアンは自分を罵倒する。
感謝の意を伝えるんじゃなかったのか?
あの女が無理矢理自分と結婚した事実は許しがたいが、それでも彼女のお陰で使用人達の表情が明るくなったのは確かなのだ。借金まみれの自分にこうして仕え、給料も満足に払えていないこんな状況で、彼らの明るい笑い声を聞いたのは久しぶりだ。
――奥様は素晴らしい方です!
使用人達はこぞってそう褒め称える。よほど彼女を気に入ったのだろう。仲良くするようにと、使用人の誰もが言外にそういった意図を込めてくる。
それに賛成したわけではないが、人としての礼儀は忘れてはいけない、そう思い、彼女の働きには感謝していると、そう伝えるつもりだったのだが……
ローザの碧い瞳に見つめられると、妙な気分をかき立てられてしまう。そわそわと落ち着かなくなってしまうのだ。胸がざわつくこの感覚はなんなのか……
自分でも訳の分からない感情に戸惑い、結局エイドリアンは、その場を濁して終わってしまった。
情けない。いつの間にこんなに情けない男になったのか……
そう悶々としていた翌日のこと。
その憂さに拍車をかけるような出来事が起こった。二人の悪友がいきなり伯爵邸を訪ねてきたのだ。いや、押しかけてきたと言った方がいい。どちらも女好きの遊び人だ。夜会の薔薇と称されていたローザとの結婚に興味津々といった風である。
「夜会の薔薇に一目会おうと思ってな!」
子爵家嫡男、金髪優男のクレマンがそう言って笑う。
「独り占めか、羨ましいぞ、この野郎!」
体格のいい伯爵家令息のヒューゴが、示し合わせたように肩を叩く。
そんなつもりは毛頭ない!
エイドリアンはそう叫びそうになってしまう。
それと、羨ましいならお前らが嫁にもらってくれ!
エイドリアンはそう言いたかったが、借金のかたとして彼女を娶らされたのだ。そんな真似、できようはずもない。エイドリアン自ら邸の中を案内し、二人を客間へ通すと、彼らは驚いた様子だった。
「……随分綺麗になったな」
クレマンがぽつりと言う。
「ああ、その……掃除をしたんだ」
「ふうん? やっぱり彼女を選んで正解だったんじゃないか?」
「どういう……」
「ん? だって、新しい使用人を雇ったんだろ? 彼女の持参金で」
いや、ドルシア子爵の援助は借金の清算までだったから、まとまった金が手に入ったわけじゃない。掃除をしたのはローザだ。生活はいまだ困窮している。
どう言えば良いのか分からず、エイドリアンが答えあぐねていると、ヒューゴがにやにや笑いつつ、肩を叩いてきた。
「しっかし顔のいい男は得だねぇ。借金まみれでも、こうして女が寄ってくるんだから。普通の男だったら、結婚相手なんかまず見つからないね。しかも、大金持ちのあんな美女……ほんっと羨ましいよ。彼女の美貌と財産に目がくらんで、婚約者だったセシル嬢を捨てるのも無理はない」
ヒューゴの揶揄に、エイドリアンはいきり立った。
「捨てたわけじゃない! 私はセシルを愛して……」
「ああ、言い訳はいいから、いいから。分かってるって。俺だってな、ローザ嬢とセシル嬢だったら、絶対ローザ嬢をとるね。お前の選択は当然だよ」
「だから、違う! 借金を返せないなら結婚しろと迫られたんだ! セシルとは無理矢理別れさせられたんだよ! 私はあの女と結婚する気なんか毛頭なかった!」
悪友二人が顔を見合わせる。
「え、それも羨ましい」
声を揃えて言われ、エイドリアンは目を剥いた。
「なんでだ!」
「なんでって……」
「なぁ?」
二人は訳知り顔で目配せし、困ったように笑う。
「あんな美人に結婚してって迫られたんだろ? しかも大金持ち」
「俺もそうされたい。愛されてるなぁ、お前」
「違う!」
いや、違わない、のか?
エイドリアンは、はたと考える。
あの女が借金のかたに、私に結婚を迫ったのは事実だ。いや、でも、私に対して全く興味がなさそうに見えるのは何故だ? ウォレンは目に入れても痛くない程の可愛がりようだが、私は常に空気扱いされているような気がしてならない。
――あら、そこにいましたの?
応援ありがとうございます!
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