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第50話ー5
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――午後2時。
ヴァレンティーナが『あんこ鍋』の仕事を終えてアクアーリオ国に戻ると、宮廷の玄関前で侍女が待っていた。
「おかえりなさいませ、ヴァレンティーナ殿下」
「ええ、ただいま」
幸い侍女とは同い年ということもあって気が合い、昼間は談笑しながら過ごしていた。
カプリコルノに負けず劣らずの豪奢な宮廷の中に入り、共にヴァレンティーナの部屋――王太子夫婦の部屋へと向かって行く。
「はあーあ、羨ましいわ。カプリコルノ陛下とご結婚だなんて。カンクロ女王陛下はあんなにお美しいのですから、当然ですけれど。わたくしも100人目でもいいから、カプリコルノ陛下の側室になってみたいわ。それか大公閣下の」
「一夫一妻のアクアーリオ国育ちでもそういう風に思うの?」
「ええ、思いますわ殿下。だぁーって、カプリコルノ国の王侯貴族の男性と、アクアーリオ国のそれは、まるで別の生き物なんだもの。女性は皆言ってますわよ、カプリコルノ国が羨ましいって。それに一夫一妻って言ったって、裏では皆よく浮気してるし」
と部屋の前に辿り着き、「どうぞ」と扉を開けた侍女。
「きゃっ!」と驚いて、両手の指先で口を塞いだ。
続いて「どうしたの?」と部屋に入ったヴァレンティーナが、目に飛び込んで来た光景に「えっ……?」と呆然と立ち尽くす。
レットの上で、裸の王太子とどこかの貴族と分かる女が絡み合っていた。
侍女が大慌てでヴァレンティーナを引っ張り、部屋の外へと出る。
「ねぇ……今のって、浮気?」
「いいえ、空目ですわ、空目! あれは王太子殿下ではありませんでした!」
「でも、ここは私と王太子殿下の部屋で……」
「きっとあの方々が部屋を間違ったのでしょう、そうに違いありません。そうだわ、昼下がりですし居間でお茶にしましょう」
と侍女がヴァレンティーナの手を引っ張り、その場から駆け出して間もなく、後方から扉の音がした。
2人が思わず立ち止まっておそるおそる振り返ると、ヴァレンティーナと王太子の部屋から、先ほどレットにいた女が出て来た。
乱れているヴェスティートは慌てて着用したのだと分かり、それはヴァレンティーナの姿を見るなり「申し訳ございません!」と頭を下げ、こちらとは反対の方向へと逃走していく。
そしてその背が見えなくなった頃、部屋の中から王太子が出て来た。
「やっぱり王太子殿下……」
動揺を覚えたヴァレンティーナの下へと、それがやって来る。
そして目前で立ち止まったと思ったら、悪びれる様子もなくこう問うた。
「文句あるのか?」
その態度や言葉にムッとした侍女が、ヴァレンティーナに代わって問う。
「どういうおつもりでしょうか、王太子殿下」
「どうもこうもない。ボクにこのまま子孫を残すなって言うのか? ヴァレンティーナは、もう1年以上も孕まない。その癖、上から目線で父上にああしろ、ここしろって」
「ヴァレンティーナ殿下が上から目線であったことなど、わたくしは一度も目にしたことがありませんが」
「政に口を出す時点で上から目線だって言っているんだ。おまえも侍女の癖になんだ? ボクは王太子だぞ? ここはカプリコルノじゃないんだ、死にたいのか?」
侍女が押し黙ると、王太子がヴァレンティーナを見て「こうしよう」と話を続けた。
「結婚してから2年目となる来年の7月1日だ。その日までに孕まなかったら、ボクと離婚してもらう。ただし、その後も宮廷に置いておいてやるから、カプリコルノには言うなよ? これは父上からの命令だ」
「あ、あの……」
とヴァレンティーナが口を開くと、王太子が威圧的に「なんだ?」と返した。
「文句があるのか? 仕方ないだろう、ここは一夫一妻なんだ。新しい妻を迎えるとなったら、離婚するしかないんだ。安心しろ、君は見た目だけなら誰よりもボクに相応しいから、その後も愛人として抱いてやる。それでいいだろう?」
「わ、私は国民を救いたく――」
「黙れ!」と、王太子の怒号が辺りに鳴り渡った。
「女の癖に政に口出しをしたいと言うなら、せめて男を産んでからにしろ!」
「そうですか、失礼いたします」
と声高に返したのは侍女で、それはヴァレンティーナの手を引っ張って足早に歩き出した。
宮廷の外へ出て、人のいない庭の木陰へとやって来て、ヴァレンティーナの方へと振り返ったその顔は涙で濡れていた。
「もう、もうこんな国、カプリコルノ陛下に奪っていただきましょう!」
「駄目よ。戦争は駄目」
と、ヴァレンティーナがハンカチを取り出して、侍女の目元に当てる。
「王太子殿下が怒るのも、別の女性とのあいだに子供を作ろうとしたのも、仕方が無いのよ。だって私が悪いのだもの」
「そんなことはありません!」
ヴァレンティーナが首を横に振って、笑顔を作った。
「大丈夫よ、来年の7月1日まではまだ時間があるもの。それまでにきっと赤ちゃんを授かるわ。大丈夫よ、心配しないで。さぁ、お茶にしましょう?」
と今度はヴァレンティーナが侍女の手を引っ張って、居間の方へと歩いて行く。
侍女を心配させないようにと明るい笑顔ではいるものの、その蒼の瞳は動揺を隠し切れないでいた。
(来年の7月1日まで、あと10ヶ月…! それまでに絶対、男の子を授からなきゃ……!)
不安に駆られて動悸がし、激しい焦燥が胸の中で渦巻いていく。
脳内にベルや父たちの姿が思い浮かんだが、こればかりは助けを求めたところでどうにもならないことは分かった。
だからもう、神頼みするしかなかった。
(お願い、神様…! 私に赤ちゃんをください……!)
神は、願いを叶えてはくれなかった――
――1495年7月のサジッターリオ国。
天才ヴァイオリニストを謳われるハーゲンの山小屋を訪れた3人の兵士たち。
手作り感に溢れ、雨漏りと隙間風が酷そうな小屋の中から、ハーゲンにしてはずいぶんと幼稚なヴァイオリンの演奏が聴こえてきた。
不審に思いながら玄関の扉を開けるや否や、絶叫を響かせ、酷く狼狽しながら馬に飛び乗って、王都へと踵を返して行く。
真っ青なその顔の口々に、こんな言葉が出て来た。
「死んだんだ!」
「ハーゲンは死んだんだ!」
「ピピストレッロに殺されたんだ!」
そうでは無いようだった。
しばらく馬を走らせていると、正面から同様に馬に乗ったハーゲンがやって来た。
「あれ? 兵士の皆さん、申し訳ございませーん」
と、片手を振る。
「今日は宮廷に呼ばれていたので、私も王都に行っていたのです」
互いに近寄ったところで馬を止めると、ハーゲンが兵士の様子がおかしいことに気付く。
「どうされました?」
「どうじゃない!」
と、兵士たちが声を上げた。
「おまえ大丈夫なのか!」
「さっきおまえの山小屋に入ったら、ピピストレッロがヴィオリーノを弾いてたぞ!」
ハーゲンが「えっ」と銀色の瞳を揺れ動かした。
「そのピピストレッロに何もしてしませんよね……!?」
「ああ、していない。すぐに逃げてきたからな」
「良かった」
とハーゲンが胸を撫で下ろす。
「驚かせてすみません。小屋には時々ピピストレッロが入って来るのです。鍵を掛けていないもので」
「掛けろよ! いつか殺されるぞ、おまえ!」
「大丈夫です。私が――人間が、彼らに危害を加えない限りは」
ハーゲンが山小屋へと帰ると、まだ幼稚なヴィオリーノの音色が響いていた。
ハーゲンは「ふふ」と笑って下馬すると、山小屋に入って「ただいま」と言った。
ヴィオリーノの音色が止む。
「おかエり」
と、そこにいた幼稚なヴィオリーノの演奏者――メスのピピストレッロがカタコト口調で返した。
赤の瞳がハーゲンの顔を捉える。
「ヴィオリーノが上手になってきたね、ソフィア」
とハーゲンが褒めると、メスのピピストレッロ――ソフィアは首を傾げ、今一つといった表情を見せた。
「まぁ、ソフィアが一番上手なのは歌だから。私は君のように透明で、可憐な歌声を他に知らないよ」
ハーゲンは荷物を椅子の上に置くと、その中から一本のワインを取り出した。
「これはね、ブドウのお酒なんだ。さっき宮廷に行ったときに父からもらったんだ。飲んでみる?」
ヴィーノをグラスに注いでソフィアに手渡すと、それはまず鼻を寄せて匂いを嗅いだ。
そしてグラスを傾け、舌先で味をたしかめてから口に含み、喉を鳴らして飲み込んだ。
どうやら気に入ったようで、その後も飲み続けるその姿を見ながら、ハーゲンが「ふふ」と嬉しそうに笑った。
簡素な手作りレットに腰掛けて、隣を「はい」と叩くと、ソフィアがそこに腰掛ける。
「聞いて、ソフィア。来月にカプリコルノ陛下とカンクロ女王陛下がご結婚されるんだけどね、私は楽士として招待されたんだ。とても光栄だよ」
「けっコん?」
「そう。愛し合う男女が――いや、そうじゃないときもあるみたいだけど――永遠の愛を誓い合って、一緒になるんだ」
ソフィアが難しそうな顔をして首を傾げる。
「分からないよね、ピピストレッロは人間とは違うから」
とハーゲンが「でもね」と続ける。
「男はこんなことあまり思わないかもしれないけど、私は結婚式が好きなんだ。表面上の愛だけかもしれなくても、見ていてとても美しい儀式だから。特に花嫁衣裳が……」
とハーゲンが言葉を切って、ソフィアの身体を見つめた。
いつも裸でいるそれは、その真っ黒な蝙蝠の翼とは正反対の、真っ白な色をしている。
誰にも踏みにじられていない、降り積もったばかりの美しい雪のような肌だ。
「花嫁衣裳がとても綺麗で、ソフィアに似合いそうなんだ。花嫁はそれを着て、花婿もそれ用の衣装を着て、誓いの言葉を交わして、誓いの指輪交換をして、誓いの口付けをするんだ。見ていて本当に美しい儀式だよ」
「くチづけ?」
「人間ならではの愛情表現だよ。恋人でも家族でも友人でも、愛してる人にするんだ」
また首を傾げたソフィアが、ビッキエーレを傾けた。
ヴィーノを飲む妖艶な紅の唇を見つめながら、ハーゲンの胸が静かに鼓動を上げていく。
「ソフィア……」
ビッキエーレを動かしている華奢な手を、握って止めた。
「口付け、してもいい……?」
瞬きをしただけで、特に反応を示さないソフィアの紅の唇に、ハーゲンがそっと唇を重ねる。
でもすぐに離して、一度ソフィアの様子を確認する。
それはまた首を傾げて、こう問うてきた。
「ハーゲン、ソフィア、あイしてル?」
「そう、愛してるんだ、ソフィア。これは人間には秘密なんだけど、私は君を愛してるよ、ソフィア……――」
ハーゲンの唇が、再び紅の唇に重なっていった。
ヴァレンティーナが『あんこ鍋』の仕事を終えてアクアーリオ国に戻ると、宮廷の玄関前で侍女が待っていた。
「おかえりなさいませ、ヴァレンティーナ殿下」
「ええ、ただいま」
幸い侍女とは同い年ということもあって気が合い、昼間は談笑しながら過ごしていた。
カプリコルノに負けず劣らずの豪奢な宮廷の中に入り、共にヴァレンティーナの部屋――王太子夫婦の部屋へと向かって行く。
「はあーあ、羨ましいわ。カプリコルノ陛下とご結婚だなんて。カンクロ女王陛下はあんなにお美しいのですから、当然ですけれど。わたくしも100人目でもいいから、カプリコルノ陛下の側室になってみたいわ。それか大公閣下の」
「一夫一妻のアクアーリオ国育ちでもそういう風に思うの?」
「ええ、思いますわ殿下。だぁーって、カプリコルノ国の王侯貴族の男性と、アクアーリオ国のそれは、まるで別の生き物なんだもの。女性は皆言ってますわよ、カプリコルノ国が羨ましいって。それに一夫一妻って言ったって、裏では皆よく浮気してるし」
と部屋の前に辿り着き、「どうぞ」と扉を開けた侍女。
「きゃっ!」と驚いて、両手の指先で口を塞いだ。
続いて「どうしたの?」と部屋に入ったヴァレンティーナが、目に飛び込んで来た光景に「えっ……?」と呆然と立ち尽くす。
レットの上で、裸の王太子とどこかの貴族と分かる女が絡み合っていた。
侍女が大慌てでヴァレンティーナを引っ張り、部屋の外へと出る。
「ねぇ……今のって、浮気?」
「いいえ、空目ですわ、空目! あれは王太子殿下ではありませんでした!」
「でも、ここは私と王太子殿下の部屋で……」
「きっとあの方々が部屋を間違ったのでしょう、そうに違いありません。そうだわ、昼下がりですし居間でお茶にしましょう」
と侍女がヴァレンティーナの手を引っ張り、その場から駆け出して間もなく、後方から扉の音がした。
2人が思わず立ち止まっておそるおそる振り返ると、ヴァレンティーナと王太子の部屋から、先ほどレットにいた女が出て来た。
乱れているヴェスティートは慌てて着用したのだと分かり、それはヴァレンティーナの姿を見るなり「申し訳ございません!」と頭を下げ、こちらとは反対の方向へと逃走していく。
そしてその背が見えなくなった頃、部屋の中から王太子が出て来た。
「やっぱり王太子殿下……」
動揺を覚えたヴァレンティーナの下へと、それがやって来る。
そして目前で立ち止まったと思ったら、悪びれる様子もなくこう問うた。
「文句あるのか?」
その態度や言葉にムッとした侍女が、ヴァレンティーナに代わって問う。
「どういうおつもりでしょうか、王太子殿下」
「どうもこうもない。ボクにこのまま子孫を残すなって言うのか? ヴァレンティーナは、もう1年以上も孕まない。その癖、上から目線で父上にああしろ、ここしろって」
「ヴァレンティーナ殿下が上から目線であったことなど、わたくしは一度も目にしたことがありませんが」
「政に口を出す時点で上から目線だって言っているんだ。おまえも侍女の癖になんだ? ボクは王太子だぞ? ここはカプリコルノじゃないんだ、死にたいのか?」
侍女が押し黙ると、王太子がヴァレンティーナを見て「こうしよう」と話を続けた。
「結婚してから2年目となる来年の7月1日だ。その日までに孕まなかったら、ボクと離婚してもらう。ただし、その後も宮廷に置いておいてやるから、カプリコルノには言うなよ? これは父上からの命令だ」
「あ、あの……」
とヴァレンティーナが口を開くと、王太子が威圧的に「なんだ?」と返した。
「文句があるのか? 仕方ないだろう、ここは一夫一妻なんだ。新しい妻を迎えるとなったら、離婚するしかないんだ。安心しろ、君は見た目だけなら誰よりもボクに相応しいから、その後も愛人として抱いてやる。それでいいだろう?」
「わ、私は国民を救いたく――」
「黙れ!」と、王太子の怒号が辺りに鳴り渡った。
「女の癖に政に口出しをしたいと言うなら、せめて男を産んでからにしろ!」
「そうですか、失礼いたします」
と声高に返したのは侍女で、それはヴァレンティーナの手を引っ張って足早に歩き出した。
宮廷の外へ出て、人のいない庭の木陰へとやって来て、ヴァレンティーナの方へと振り返ったその顔は涙で濡れていた。
「もう、もうこんな国、カプリコルノ陛下に奪っていただきましょう!」
「駄目よ。戦争は駄目」
と、ヴァレンティーナがハンカチを取り出して、侍女の目元に当てる。
「王太子殿下が怒るのも、別の女性とのあいだに子供を作ろうとしたのも、仕方が無いのよ。だって私が悪いのだもの」
「そんなことはありません!」
ヴァレンティーナが首を横に振って、笑顔を作った。
「大丈夫よ、来年の7月1日まではまだ時間があるもの。それまでにきっと赤ちゃんを授かるわ。大丈夫よ、心配しないで。さぁ、お茶にしましょう?」
と今度はヴァレンティーナが侍女の手を引っ張って、居間の方へと歩いて行く。
侍女を心配させないようにと明るい笑顔ではいるものの、その蒼の瞳は動揺を隠し切れないでいた。
(来年の7月1日まで、あと10ヶ月…! それまでに絶対、男の子を授からなきゃ……!)
不安に駆られて動悸がし、激しい焦燥が胸の中で渦巻いていく。
脳内にベルや父たちの姿が思い浮かんだが、こればかりは助けを求めたところでどうにもならないことは分かった。
だからもう、神頼みするしかなかった。
(お願い、神様…! 私に赤ちゃんをください……!)
神は、願いを叶えてはくれなかった――
――1495年7月のサジッターリオ国。
天才ヴァイオリニストを謳われるハーゲンの山小屋を訪れた3人の兵士たち。
手作り感に溢れ、雨漏りと隙間風が酷そうな小屋の中から、ハーゲンにしてはずいぶんと幼稚なヴァイオリンの演奏が聴こえてきた。
不審に思いながら玄関の扉を開けるや否や、絶叫を響かせ、酷く狼狽しながら馬に飛び乗って、王都へと踵を返して行く。
真っ青なその顔の口々に、こんな言葉が出て来た。
「死んだんだ!」
「ハーゲンは死んだんだ!」
「ピピストレッロに殺されたんだ!」
そうでは無いようだった。
しばらく馬を走らせていると、正面から同様に馬に乗ったハーゲンがやって来た。
「あれ? 兵士の皆さん、申し訳ございませーん」
と、片手を振る。
「今日は宮廷に呼ばれていたので、私も王都に行っていたのです」
互いに近寄ったところで馬を止めると、ハーゲンが兵士の様子がおかしいことに気付く。
「どうされました?」
「どうじゃない!」
と、兵士たちが声を上げた。
「おまえ大丈夫なのか!」
「さっきおまえの山小屋に入ったら、ピピストレッロがヴィオリーノを弾いてたぞ!」
ハーゲンが「えっ」と銀色の瞳を揺れ動かした。
「そのピピストレッロに何もしてしませんよね……!?」
「ああ、していない。すぐに逃げてきたからな」
「良かった」
とハーゲンが胸を撫で下ろす。
「驚かせてすみません。小屋には時々ピピストレッロが入って来るのです。鍵を掛けていないもので」
「掛けろよ! いつか殺されるぞ、おまえ!」
「大丈夫です。私が――人間が、彼らに危害を加えない限りは」
ハーゲンが山小屋へと帰ると、まだ幼稚なヴィオリーノの音色が響いていた。
ハーゲンは「ふふ」と笑って下馬すると、山小屋に入って「ただいま」と言った。
ヴィオリーノの音色が止む。
「おかエり」
と、そこにいた幼稚なヴィオリーノの演奏者――メスのピピストレッロがカタコト口調で返した。
赤の瞳がハーゲンの顔を捉える。
「ヴィオリーノが上手になってきたね、ソフィア」
とハーゲンが褒めると、メスのピピストレッロ――ソフィアは首を傾げ、今一つといった表情を見せた。
「まぁ、ソフィアが一番上手なのは歌だから。私は君のように透明で、可憐な歌声を他に知らないよ」
ハーゲンは荷物を椅子の上に置くと、その中から一本のワインを取り出した。
「これはね、ブドウのお酒なんだ。さっき宮廷に行ったときに父からもらったんだ。飲んでみる?」
ヴィーノをグラスに注いでソフィアに手渡すと、それはまず鼻を寄せて匂いを嗅いだ。
そしてグラスを傾け、舌先で味をたしかめてから口に含み、喉を鳴らして飲み込んだ。
どうやら気に入ったようで、その後も飲み続けるその姿を見ながら、ハーゲンが「ふふ」と嬉しそうに笑った。
簡素な手作りレットに腰掛けて、隣を「はい」と叩くと、ソフィアがそこに腰掛ける。
「聞いて、ソフィア。来月にカプリコルノ陛下とカンクロ女王陛下がご結婚されるんだけどね、私は楽士として招待されたんだ。とても光栄だよ」
「けっコん?」
「そう。愛し合う男女が――いや、そうじゃないときもあるみたいだけど――永遠の愛を誓い合って、一緒になるんだ」
ソフィアが難しそうな顔をして首を傾げる。
「分からないよね、ピピストレッロは人間とは違うから」
とハーゲンが「でもね」と続ける。
「男はこんなことあまり思わないかもしれないけど、私は結婚式が好きなんだ。表面上の愛だけかもしれなくても、見ていてとても美しい儀式だから。特に花嫁衣裳が……」
とハーゲンが言葉を切って、ソフィアの身体を見つめた。
いつも裸でいるそれは、その真っ黒な蝙蝠の翼とは正反対の、真っ白な色をしている。
誰にも踏みにじられていない、降り積もったばかりの美しい雪のような肌だ。
「花嫁衣裳がとても綺麗で、ソフィアに似合いそうなんだ。花嫁はそれを着て、花婿もそれ用の衣装を着て、誓いの言葉を交わして、誓いの指輪交換をして、誓いの口付けをするんだ。見ていて本当に美しい儀式だよ」
「くチづけ?」
「人間ならではの愛情表現だよ。恋人でも家族でも友人でも、愛してる人にするんだ」
また首を傾げたソフィアが、ビッキエーレを傾けた。
ヴィーノを飲む妖艶な紅の唇を見つめながら、ハーゲンの胸が静かに鼓動を上げていく。
「ソフィア……」
ビッキエーレを動かしている華奢な手を、握って止めた。
「口付け、してもいい……?」
瞬きをしただけで、特に反応を示さないソフィアの紅の唇に、ハーゲンがそっと唇を重ねる。
でもすぐに離して、一度ソフィアの様子を確認する。
それはまた首を傾げて、こう問うてきた。
「ハーゲン、ソフィア、あイしてル?」
「そう、愛してるんだ、ソフィア。これは人間には秘密なんだけど、私は君を愛してるよ、ソフィア……――」
ハーゲンの唇が、再び紅の唇に重なっていった。
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