酒池肉林王と7番目の天使

日向かなた

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第42話ー5

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 リンリーの言っていた通り、ベルの陣痛は翌朝――1492年6月1日に始まった。

 ワン・ジンが朝廷に行く寸前のことだった。

「リエン、あの町医者を呼んで来い! 早くしろ! 大丈夫か、エミ……!」

「そんなに慌てなくても大丈夫です、始まったばかりなのですから」

 とベルが返すと、リエンも「そうだヨ」と続いた。

「産まれるまでにまだまだ掛かるかラ、落ち着いてご主人様。いつも通り仕事しテ、今日はずっと王太后陛下の相手をよろしくネ」

「分かった、任せろ! 頑張るんだぞ、エミ……!」

 とベルの両手を握り締めて応援した後、ワン・ジンが朝廷へと飛んでいく。

 その後リエンも、リンリーを迎えに大学士堂へと飛んでいった。

(人間が生まれるよりも、三週間も早い……)

 短く笑ったベルの瞳から、涙が零れていく。

 先月リンリーから希望を捨ててはいけないと言われたとき、もしかしたらとほんの少しだけ期待した。

 その小さな光が、ふっと消えていく。

(やっぱりフラヴィオ様の子じゃなかった……私はもう、フラヴィオ様のお目に触れてはいけない。これを持っていて良い資格はない)

 寝るときも肌身離さず持っていたオルキデーア石の指輪をクン(スカート)の中から取り出して、部屋の中を見回す。

 どこに置いておこう。

 でも、ワン・ジンに見つかったらカプリコルノ国王を覚えているのかと疑われるだろうか。

 そしたら『生きること』の仕事に終止符を打つことになり、遠くからフラヴィオを支えることも、フラヴィオにこの大国を捧げることも出来なくなる。

(ならば、いっそのこと……)

 ベルが外に出ようかとき、リエンが連れて戻ってきたリンリーと鉢合わせになった。

 リンリーは指輪を見るなり、優しく微笑してベルの手にそれをしかと握らせた。

 そして牀の方へと連れて行き、ベルを横にさせる。

「まだ歩き回っていても問題ありませんが、念のため横になっていましょう」

「リエンは食べ物と飲み物を用意しておくネ! えト、腰? が、痛くなったらリエンが摩るかラ、頑張ってね王妃陛下!」

 こういうとき、愛した男の子供を産む女はどんな心境なのだろうと、ベルは想像してみる。

 出産の恐怖や不安もある一方で、やっぱり愛する人とのあいだに出来た我が子に会える楽しみがあるのではないだろうかと思う。

 だから命懸けの出産も頑張ろうと思えるのではないかと思う。

(でも私に、それはない)

 魔力の低いカーネ・ロッソの三分の一のメッゾサングエだからあまり人間と変わらないのだろうが、魔法が使える以上それなりの兵器になるのだから産まなければ、という義務感はある。

 でも、身籠ってから愛しいと思ったことが無い。

 我が子には間違いないが、その顔を見てみたいとも思えない。

 きっと最低の母親にしかなれない。

(私は本当に産めるの……?)

 心細さと、きっと想像を絶するだろう痛みに対する恐怖の中での出産が待っていた。

 時間が経つにつれて陣痛の間隔が短くなって、痛みが強くなり、最初は出来ていた食事や会話をする余裕がなくなっていく。

 リエンが懸命に摩ってくれていたお陰でマシなのだろうが、腰には想像を絶して、絶して絶して絶した、感じたことの無い激痛が走る。

 昔フラヴィオにバーチョされて腰砕けになった記憶があるが、きっと今、本物の腰砕けを味わおうとしているのだ。

 さらにリンリーが言っていた通り、本当にいきみたい感覚になって、それを堪えるのは更なる苦痛だった。

「刃物を持って来てください、リンリー先生! もうお腹を切って取り出します!」

「落ち着いてください、宰相閣下。死にますからねー」

「やったことあるので大丈夫です!」

「あら進んでますねー、カプリコルノ国。でも駄目ですよー、堪えてくださーい」

 汗だくになり、絶叫しながら、この世のすべての母親を心から尊敬する。

 破水が起こったときに、リンリーに「もう少しですよ」と言われ、ふと気になって訊いてみた。

「今、何時ですか?」

 返答したのはリエン。

「思ったより早いヨ! まだ午後2時ネ!」

 耳を疑った。

 それは3日後の午後2時のことだろうかと、本気で考えた。

 リンリーがふとベルの足元から離れ、窓辺へと向かって行く。

 窓の外に向かって何かをしたように見えたが、分からない。

 そしてすぐに戻って来ると、落ち着いた声で「はい、いきんで良いですよ」と言った。

 それは有難かった。

 でも、いよいよ腰がメキメキと砕かれてしまいそうな痛みと恐怖に、泣き叫ぶ。

「――いっ……痛い痛い痛い痛いっ!」

「声を出すと力が抜けてしまうので、息を止めていきんでくださいねー」

 今この場に相応しくないだろう、リンリーのにこやかな表情がある。

「もう少しで赤ちゃんに会えますよ。頑張ってください」

 会いたくないのだ。

 頑張れないのだ。

 激痛と苦しみだけで、なんの楽しみも待っていない。

 もはや、ただ憎いだけ。

 握り締めている指輪が、ぐにゃりと曲がってしまいそうだった。

(フラヴィオ様っ…フラヴィオ様っ……!)

 離れ離れになっても、脳裏から一瞬たりとも消えることのなかったその想像の姿に助けを求める。

 とても心細く、無性に怖く、ただ痛くて、その姿がひたすらに恋しかった。

 リンリーが何か言ったが、自身の泣き叫ぶ声に掻き消されて聞こえない。

 リエンが迷惑そうな顔をして、部屋から出て行く。

 何処へ何をしに行ったのか、考える余裕などなかった。

「痛い痛い痛い! 痛いっ……痛いです、フラヴィオ様!」

 とその名をついに口に出して叫んだときのこと――

「待っていろ!」

 と、その声が返ってきた。

「――えっ……?」

 戸口を見る。

 誰もいない。

(幻聴……)

 尚のこと涙が溢れ出た。

 今度は親友の名を叫ぶ。

「ハナ! 助けて、ハナ!」

「もちろんだ!」

「――えっ……?」

 戸口を見る。

 誰もいない。

 泣きじゃくった。

「フェーデ様! ドルフ様!」

「頑張るんだ、私の可愛い生徒よ!」

「俺たちは入るわけにはいかんから、ここから応援する!」

「――えっ……?」

 戸口を見る。

 誰もいない。

(やっぱり幻聴……?)

 聞き覚えのある声が、引き続き聞こえてくる。

「あの、ベル―? ワイもおんねんけどー」

「自分もいるっす、ベルさーん?」

「――ムネ殿下…? アラブさん……?」

 リンリーの「いきんでください」の声。

 叫ぶ。

「いっ……痛い痛い痛い痛いっ!」

 聞こえる。

「これだけグルグル巻きにしてあたいと繋いでれば、逃げようにも逃げられないだろ! このバカ犬!」

「よし、行くぞハナ!」

 叫ぶ。

「痛い痛い痛い痛いっ……フラヴィオ様ぁっ!」

「ああ、今行く!」

「ハナ!」

「待ってろ!」

「フェーデ様、ドルフ様!」

「頑張れ、ベル!」

「俺たちはここにいるぞ!」

「あと、ムネ殿下とアラブさん?」

「こらー、ベル―」

「ついで扱いしないでくださーい」

 幻聴にしては、妙にはっきり聞こえる。

 皆の声。

 慌ただしい足音。

 破壊されるような勢いで開いた扉。

 全身に鎖の鎧を装備しているかのごとく縛られ、床に放り投げられた白目を剥いたリエン。

 そして飛び込んできた――

「ベル!」

 親友ハナ

 それから、

「待たせたな、アモーレ」

 ベルよりもずっと低いけれど、穏やかで優しい声。

 高貴な金の髪。

 少し鋭い澄んだ碧眼。

 絶世の美男といっても過言ではない繊細な顔立ち。

 真夏の太陽のように明るく、優しい微笑。

「――フラヴィオ様……?」


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