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第42話ー2

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 すぐ目前にリエンの団子頭があり、ワン・ジンが「うわっ」と驚いて飛び退る。

「ご、ご主人様。昼の仕事、もう終わったの?」

「ああ、いつもよりちょっと早く終わったんだ。やっぱりエミはここだったか」

 と、ワン・ジンが安堵の溜め息を吐いた後、その場にいる愛犬以外の一同を見回す。

 それらは咄嗟に、その場に膝を突いていた。

「なんだ? ここで何してたんだ?」

 リンリーが「陛下」と口を開く。

「私は、内閣首輔マー・ルイの妻リンリーと申します。町医者をやっております」

 興味なさそうなワン・ジンが、「用件は何だ」と催促した。

「王妃陛下のご出産の際、どうされるご予定ですか」

「どういう意味だ」

 リエンが口を挟む。

「実はリエンも心配だヨ、ご主人様。宮廷医にお産を任せた場合、王太后陛下の耳に入ったりするんじゃなイ?」

「そういうことか。言われてみれば、たしかに心配か……」

「だかラ、このマー中堂の奥さんに任せようヨ。町医者だから、メッゾサングエのお産いっぱい経験してるシ。大丈夫、リンリー先生は信用できるヨ。リエンが保障すル。あとお産のとキ、リエンも付き添うかラ」

「そうか。じゃー任せる。ところで、そのマル……マー・ルイ? は、どいつだったか」

 マー・ルイが咳払いをして、小さく挙手した。

「こいつです」

 ワン・ジンはマー・ルイの頭の先から爪先を見て「そうか」と言うと、大学士堂の中へ入っていった。

 香の匂いに「うっ」と倒れそうになったが、それと同時に目に入ったのはまだ泣いていたベル。

「は?」と声を低くするなりテレトラスポルトし、ベルを囲っていたサン、シー、ゴ・カクの下へ飛んで横っ面をぶっ飛ばす。

 ワン・ジンが大学士堂の中に入ってから数えて、たった3秒間のその出来事を誰も止めることが出来ず、ベルが驚愕して声高になる。

「――なっ、何をするのです!」

「こいつらがおまえを泣かせたんだろ?」

「早とちりです! リエンさん!」

 リエンが「はイ!」と鼻を摘まみながら駆け寄って来て、慌てて床に倒れている3人に治癒魔法を掛ける。

 ゴ・カクは気を失っていて、リンリーが診察したところ「脳震盪でしょう」とのことだった。

「酷いことを」

 とベルがワン・ジンを睨むと、それはフンと鼻を鳴らした。

「さっさと言わなかったのが悪い」

「言う間もありませんでしたが?」

 再びフンと鼻を鳴らしたワン・ジン。

「リエン、ちょっと1時間くらい母上と話でもしてろ。たぶん後宮にいる」

 と命じるなり、ベルを連れて副都イビスコの邸宅の中庭にテレトラスポルトした。

 不機嫌そうにツンとして北の正房に入っていくベルの後を、狼狽しながら追い駆けて行く。

「お、怒るなよっ……」

「怒ります。王太后陛下よりはマシなのは分かりますが、すぐカッとして暴力を振るうのはあなたの悪いところです」

「わ、悪かった」

「私に謝ってどうするのですか?」

「あいつらに謝れって言うのか? 俺は国王だぞ」

「ええ、そうですね」

 と、冷めた栗色の瞳で見つめられたワン・ジンの口が尖っていく。

「謝ればいいんだろ、謝れば。あとで謝りに行ってやるよ、嫌だが」

 と、窓辺に置いてある筝を「はい」と指差す。

「5秒でよろしいですか?」

「いや、短いだろ」

「悪いことをして謝るのは当然のことです」

「ぐ……。で、でも俺、さっき国民の笑顔のために減税したんす」

「そのようで」

 とベルが立ち上がって筝の方へと向かうと、安堵したワン・ジンから笑みが零れた。

「40秒くらい弾いてくれるのか?」

「1分ほど弾きましょう」

「おおっ」

 と歓喜の声を上げ、ショウ(ベッド)に姿勢を正して腰掛け、ベルの奏でる筝の音色に耳を傾ける。

 以前のベルはよく『作り笑顔』をくれたが、今はあまりそれも無く、また心からの笑顔をくれたこともきっと無い。

 笑顔より怒った顔の方がよく見るし、日頃から結構素っ気ない。

 さっきの母との会話が脳裏に蘇る。

(俺はたしかに、エミに愛されていないのかもしれない)

 そんな自覚が心の奥底にあり、それはとても悲しく、寂しく、時に腹立たしくなる。

 でも母の予想に反してベルはカプリコルノ国王を覚えているわけでは無いし、良いことをするとベルはワン・ジンのために筝を奏でてくれる。

 その音色も、牀から見える端整な横顔もとても美しく、またこの時だけはベルに愛されている感じがして、最高の褒美だった。

 だからその分、終わってしまった瞬間、孤独感に落とされる。

 でもこの日は、筝を奏で終わった後にベルがこんなことを言った。

「明日には民衆の笑顔が見られることでしょう」

 と、とても満足げな横顔だ。

「昼餉はこれからですか?」

「ああ」

「内閣大学士の方々はカプリコルノ国に詳しいので、カプリコルノ料理を少し習ったのですが」

「まさか作ってくれるのか?」

 ベルが「はい」と言うと、ワン・ジンに刹那の硬直が訪れた。

 その後「え!?」と仰天して、もう一度「作ってくれるのか!?」と問うた。

 再びのベルの「はい」の返事に、ワン・ジンの口が大きく開いていく。

 喜怒哀楽のどれにも当て嵌まらない、ただひたすらに驚いただけの顔がそこにある。

「なんでしょう、その反応は」

「いや、俺っ……俺、おまえと出会ったときに干し肉をもらってるんだが、実はその味が忘れられないんだっ……!」

 ベルの口から、小さく小さく「さすが犬」と出る。

 あれはベルが作ったものでは無いのだが、ワン・ジンの中ではベルの味になっているらしい。

 ベルはふと、ハナに「ワン・ジンの飼い主になりかけてないか?」なんて言われたことを思い出した。

 純血のカーネ・ロッソではない故に、飼い主とまでは行かないのだろうが、たしかにどこか似たような感じがする。

 その瞳は爛々と煌めいてベルを見つめ、カーネ・ロッソの外見的特徴を受け継いでいるメッゾサングエだったなら、犬の尻尾を元気良く振られていたことだろうと思う。

「干し肉は無いので、それ以外を使ったお料理でも良いですか?」

「もちろんだ!」

 厨房は、邸宅の敷地内の門の脇――南側にある。

 レオーネ国のように、この国でも一家に一台が当たり前になりつつあるらしい冷蔵箱の中にある材料で、ベルが手早く料理を作っていく。

 干し肉は無いが、生の豚肉があったのでそれも使っておく。

 出来上がったのは、カンクロ国の香辛料やハーブエルベで味付けした簡単な肉と野菜のスープツッパだった。

 それを北の正房に持っていくのを待ち切れず、厨房内で味見したワン・ジンの顔が再び仰天していく。

「――なっ、なんだコレっ……美味すぎる!」

 きっと王太后やリエンでも見たことの無い表情だろうと思う。

 まるで顔芸をやっているように見えて、ベルが思わず噴き出すと、ワン・ジンが「え」と一瞬目を疑った。

(エミが笑ってる)

 しかも作り笑顔でない、本物の笑顔だと分かる。

 胸が締め付けられる感じがして、栗色の頭を引き寄せて口付けたら怒られた。

「嫌でございます」

「夫婦だろオイ」

 でも良い。

 よっぽどおかしかったのか、笑壺に嵌ったらしいベルがまた笑い出す。

 今まで知らなかった幸せの空間に包まれる。

(これで俺の子が産まれたら、もっと幸せなのか?)

 それはどれほどのものなのか想像も付かなくて、ただ期待に胸が大きく膨らんでいく。

(そのうち後宮暮らしに戻って、俺が仕事から帰って王妃の寝殿に行ったら、エミがいて、男か女か分からんが赤ん坊がいて、あと愛犬リエンもいて……ああ、それだけでいいな)

 欲を言えば、大切にしてくれた母の姿もあれば良い。

(でも無理だ。母上の人間の女嫌いは、もうどうにもならない。俺の離宮を2つ3つあげて、そっちで暮らしてもらうか? それとも……)

 と、唸りながら考えていたとき、中庭の方からリエンの声が聞こえて来た。

「ご主人様! ――って、あレ? 正房じゃなくて、厨房から良い匂イ」

 と、厨房の戸口に現れる。

「大変だヨ、ご主人様! 王太后陛下が後宮からどっか行っちゃったヨ!」

「エミ探しに出掛けたのか。不安だから探して後宮に戻してくれ」

「承知!」

 と言いながら飛んでいかないリエンの口の端から、涎が零れている。

 ワン・ジンが仕方なくツッパを「ほら」と一口やると、それは「うまっ!」と声を上げてからテレトラスポルトで邸宅を後にした。

「今さらですが、犬が犬を飼ってるのですねぇ」

「い、言うな……」

 それから10分ほど経つと、今度は邸宅の外――町から悲鳴が聞こえて来た。

「王太后だ! 女たちを早く逃がせ!」

「待って! あたしの娘が掴まったんだよ!」

「駄目だ、諦めろ! あんたまで殺されるぞ!」

「嫌だよ! 助けてっ! 誰かっ……誰か、あたしの娘を!」

 状況を理解したベルとワン・ジンが、息を呑んで立ち上がる。

「大丈夫だ、エミ。俺が行く」

 とワン・ジンはすぐさまベルを大学士堂に届けると、副都イビスコへと戻った。

 民衆が逃げていく方向とは逆の方へと、テレトラスポルトを繰り返して向かって行く。

 母を見つけると、それは愉快げに笑んでいた。

 父の側室の処刑などもそうだったが、母は人間の女を苦しめずに一瞬で殺めることはほとんど無い。

 掴まった町娘は、手首と足首を縄を縛られ、その4本の縄の先は牛に繋がれていた。

 ちょうど牛が四方向に向かって歩き出し、恐怖に泣き叫ぶ町娘の身体が引き裂かれる寸前のところだった。

「止めろ!」

 自身の属性である土とは反対の、風の刃を投げつける。

 メッゾサングエとなったら尚のこと微弱だが、通常の太さの縄くらいなら容易に切ることが出来た。

「――ジンジン」

 と驚いた顔をした母の腕を掴み、後宮にある母の部屋にテレトラスポルトする。

「あなたという人は! いや、犬は!」

 たまらず怒号した。

「これ以上俺の命令に背くなと、さっき言ったばかりでしょう!」

「だって、さっきあの女が――」

「もう聞きたくない! さっきは未遂で済みましたが、次人間の女を殺したら、俺は母上を死罪にします! 俺の手で、あなたを殺す!」

 さっきに続いて、また母の傷付いた顔があった。

「ジンジンにそんなこと出来るわけがないわ」

「いいえ、出来ます! 何故なら母上がそうやって、俺の幸せを邪魔するからだ! 母上が国民を恐怖に陥れ、悲しませる以上、俺のエミは笑ってくれない! 母上が俺を不幸にする!」

「あなたやっぱりあの女に唆されて……! 目を覚ましなさ――」

 王太后の言葉を遮るように、ワン・ジンがひとりでテレトラスポルトした。

(あの女……!)

 王太后の犬の牙が歯ぎしりを立てた。

(許さないわよ…! 人間の女というだけでも醜いのに、私の息子を騙して、唆して……! 殺してやるわ!)

 もう居場所は見当が付いている。

 さっき副都イビスコに突如ワン・ジンが現れたのは、あまりにも不自然だった。

(でも、今あの女を殺したら、ジンジンは私を殺そうとするでしょう)

 メッゾサングエである息子に負ける気はなく、殺される気もしない。

 また大事になり、息子が兵を挙げて襲ってきたとしても負ける気はしない。

 山に行けば、純血カーネ・ロッソの仲間が大勢いる故に。

 でも、大切な息子相手にそんなことにはなりたくなかった。

(ジンジンの目を覚ませないと駄目だわ。私の手であの女を殺したら、私が恨まれるだけ。ジンジン自身の手で、あの女を殺すよう仕向けないと……――)


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