酒池肉林王と7番目の天使

日向かなた

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第19話ー6

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 ――夜が明け、朝が来た。

 アクアーリオ国からもらった薬が、もう僅かとなった頃。

 それまで魘されながら眠っていたヴィットーリアが、ゆっくりと目を開けて部屋の中を見渡した。

「…コラードとティーナはどこじゃ……?」

 フェデリコが「義姉上!」とその手を握った後、「連れて来ます!」と言って、未だコニッリョに魔法を教え続けているヴァレンティーナの下へと駆けて行った。

 フラヴィオがヴィットーリアの手を握る。

「待っていろ、ヴィットーリア。コラードは、シャルロッテと共にもう少しで来る。薬を持って来てくれるんだ、頑張れ……!」

 ヴィットーリアは「うむ」とフラヴィオに微笑を返した後、近くの椅子に座っていたベルを見てこう言った。

「皆の者、少し席を外してくれるか…? 私は、ベルと話がしたい……」

 それに従い、ベルを除く一同が部屋から出て行った。

 ベルは立ち上がり、片足を引きずって、ヴィットーリアの傍らに立って手を取る。

 その顔は平然としたふりをしているが、呼吸が乱れ始めていた。

 ヴィットーリアの手も熱いが、その手もまた熱を持っていると分かる。

「ベル、そなたも毒に掛かっておるな……?」

「平気です。私は怪我をしておらず、肌から染み込んだだけ。まだ歩けますし、大した苦しさでもありません」

 そう返したベルが、塗り薬をヴィットーリアの傷口に塗っていく。

 しかしその肌はもう、左腕を超えて顔のすぐ下まで紫色に染まってしまっていた。

「もう良い、ベルや。残りの薬も、コラードが持って来てくれる薬も、そなたが使うのじゃ。それを使って、ハナたちが来てくれるまで耐えるのじゃ。私はもう、駄目じゃから……」

「何を仰るのです……!」

 と返したベルから涙が溢れ出す。

 今すぐハナたちが来てくれるかもしれないし、コニッリョが毒消しの魔法を覚えてくれるかもしれない奇跡を、諦めたわけではない。

 でももう、見れば分かった。

 ヴィットーリアはもう、きっと30分も持たない。

「7番目の天使ベルナデッタや……そなたの仕事を言ってみるのじゃ」

「フラヴィオ様を――国王陛下を愛し、国王陛下の癒しとなり、時には国王陛下の助けとなり、国王陛下のためにいつまでも美しくあり、そして国王陛下のために『生きること』です」

「そうじゃ、『生きること』……それがそなたの一番の仕事じゃ。いつだって、どんなときだって、それを忘れてはならぬよ?」

 ベルの記憶の中の母のような、優しい微笑。

 優しい声。

 優しい手が、ベルの頬を撫でる。

 これがもう、最後なのだと分かった。

 嗚咽するベルの一方、ヴィットーリアが少し笑った。

「なんて、こんな私が偉そうなことを言ってしまったな。あの男の最期は、私の膝枕で看取ってやりたかったが……そなたに託すことにする。あの男を――フラヴィオを、頼んだぞ、ベルや。天使の中で誰よりもフラヴィオを愛し、尽くし、助けとなり、生きてきたそなたこそが、次期天使軍の元帥じゃ。あの男はとても繊細で、私が亡きあと、とてもではないが支え無しでは生きられぬ。他の天使も、しばらくは涙に暮れてしまって駄目じゃから……頼んだぞえ、7番目の天使や。私がこの世の誰よりも愛した男を、支えてやっておくれ」

「スィー、王妃陛下っ…! 私が、これからも、必ずフラヴィオ様をお支え致します……!」

 その言葉に、ヴィットーリアが安堵したように微笑した。

「ありがとう……7番目の天使や。そなたはまこと、優秀じゃのう」

 そのとき、ヴァレンティーナとコラード、シャルロッテの声が部屋の外から聞こえて来た。

 一同が部屋の中に雪崩れ込んで来る。

 コラードとシャルロッテが薬を取り出すと、ヴィットーリアが首を横に振って拒否した。

 コラードとシャルロッテの手から、薬の入った袋が落ちる。

 ベルに続いて、一同ももう、分かった――

「良いか、コラードや。アクアーリオの王太子殿下を責めてはならぬ。今回のことは、誰も悪くないのじゃから。良いな、コラードや……?」

 コラードがきっと無理に、「スィー」と返事をした。

 シャルロッテが涙を飲み込んで笑顔を作る。

「聞いて、ヴィットーリア陛下。昨日、お伝えするのを忘れていたことがあるの。あのね、コラードは来年成人したら私と結婚するでしょう? そうしたらね、サジッターリオの国王になるのよ。王配じゃなくて、国王よ。コラードは、サジッターリオの国王陛下になるのよ」

 ヴィットーリアが「そうか」と嬉しそうに微笑して、コラードの頬を撫でる。

「立派になったのう、コラードや。妻子を、国民を、しかと支えるのじゃぞ」

「スィー……スィー、母上……母上っ……!」

 泣き崩れるコラードから、ヴァレンティーナへとヴィットーリアの視線が移る。

「ティーナや……そなたはやはり、アクアーリオの王太子殿下と婚姻するのじゃ。それがそなたの愛する皆や、愛するこの国を助けることになるのじゃから。何、大丈夫じゃ。離れていたってそなたは皆に守られているし、私も草葉の陰から見守っているからの」

「ええ、分かったわ、母上……分かったわ。心配しないで、私、立派な王太子妃になるわ……!」

 とコラードに続いてヴァレンティーナも泣き崩れ、それはヴィットーリアから遺言を託された者たちへと続いていく。

 その中で機嫌良さそうにしているのは、レオナルドとジルベルトの2人だった。

 その深い金色の髪と、逆立つ銀の髪を、ヴィットーリアが撫でる。

「レオや、ジルや。私は、生きているあいだにそなたたちに出会えて良かった。この国の未来を頼んだぞえ……希望の光たちや」

 まるで承知の返事をするように、ジルベルトが黒く小さな手でヴィットーリアの指を握った。

 その赤子とは思えない力に、「ほほ」と笑ったヴィットーリア。

 命の灯が小さくなっていくのを感じながら、最後に、この世の誰よりも愛した男を見つめた。

「フラヴィオや……」

「ヴィットーリア……!」

 別れが辛くとも、悲しくとも、覚悟が出来ていなくとも、ヴィットーリアを安心させて送り出すために、その遺言に皆が『スィー』の返事をした。

 だがフラヴィオだけ、どうしてもそれが出来そうになかった。

(――どうやったら、出来るのだ)

 教えて欲しかった。

 この『女神』を、妻を、失った後の生き方など知らない。

 約17年間繋いできたこの手を、どんな状況の中でも握り合っていたこの手を、離す勇気などまるで湧いてこない。

 だって呼吸をするように、すぐ傍らに寄り添っていることが当然のものなのだ。

 それが居なくることを受け入れるということは、魚が水のない世界で泳ぐくらい、困難だ。

「大丈夫じゃ、フラヴィオや……」

 そう言って見せた微笑は、まさに想像上の女神のように優しく、美しい。

 フラヴィオが、何よりも愛したものだった。

「そなたには天使たちがいる。優秀な補佐たちもいる。今や未来を担う希望の光たちだっている。何も困らぬし、怖くなどない」

(――何を、言っているのだ)

 意味が分からない。

 今、酷く困っている。

 震えて、怯えている。

 この、深淵よりも深い悲しみに。

 自身を殴り殺したくなるような不甲斐なさに。

 そして、『女神』を失うという広大無辺の、恐怖に――

「待ってくれっ……置いて行かないでくれ、ヴィットーリア! 『女神』を失った隙間を埋められるのなんて、『女神』だけなのだ! そなただけなのだ!」

「しっかりするのじゃ、フラヴィオや……そなたは、どこよりも笑顔溢れるこの国を造った王なのじゃから」

「しっかりしろって――生きろって、そなたの居なくなったこの世界でか! だったら『王』という肩書など、地位など、権力など、欲しい奴にくれてやる! 余はもう、生まれて来た意味すら分からないっ……!」

「フラヴィオや……」

 と、その顔を両手で包み込んだヴィットーリア。

 一度ベルを見て、それがしかと頷いたのを確認したあと、この世で一番愛した男の顔に戻す。

 それはまるで覚悟が出来ていない様子だったが、もう別れのときが迫っていた。

 出会ってからというもの、感情を素直に表に出すこの男の、色んな表情を見てきた。

 その中でも一番愛したのは、この男もそうであるように、その『笑顔』だった。

 辛いときも、苦しいときも、その優しく明るい笑顔でヴィットーリアを元気付けてくれた。

 陽気な笑い声で、心を弾ませてくれた。

 その周りを囲う幾多もの女たちの中で、このヴィットーリアを『妻』という特別な存在に選び、ずっとずっと愛し、大切にしてくれた。

 あまり格好良く決まらなかった求婚を、フラヴィオの方は思い出したくないようだが、ヴィットーリアはその時を思い出すと今でも胸が詰まり、涙が込み上げてくる。

 この男のために日々美しくいる努力をし、いつまでも求められることに、どれだけ女として生まれて来て良かったと思ったことだろう。

 また、可愛い子供たちを授かり、それを腕に抱いたとき、どれだけ母になれた悦びを感じたことだろう。

「ありがとう……フラヴィオや。私は、とてもとても、幸せじゃった……」

「待ってくれっ!」

 発狂じみたフラヴィオの絶叫。

 その願い虚しく、命の灯が消えていく。

 ヴィットーリアが見せた最期の涙と笑顔は、その言葉通りの幸福と、それから安堵に満ちている。

「フラヴィオや……たとえ住む世界が変わろうと、私はそなたを見守っている、愛している。愛している、フラヴィオや……」

 それが『女神』の最期の言葉だった。

 フラヴィオに優しく口付けてから間もなく、急に激しく苦しみ出し、たちまち顔中が紫色に染まっていく。

 一同が大きく息を呑んだ次の刹那、その顔がふっと楽になると同時に、最後の息吹がフラヴィオの頬を撫でた。

 1490年5月末日。

 カプリコルノ国の『女神』――王妃ヴィットーリア・マストランジェロが、旅立って行った。



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