酒池肉林王と7番目の天使

日向かなた

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第2話ー3

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 ベルは口を布で塞がれ、コートカッポットを被され、エステ・スキーパの馬に乗せられた。

 ガタガタと震えているうちに、王都オルキデーアにあるエステ・スキーパの屋敷に辿り着いた。

 木枠と土壁の家が多い中で、貴族の家は石造りのしっかりしたものだった。

「喜べ、ベル。おまえは今日から俺の『養女』だ」

 明るい月明りの下で、その顔をようやくまともに見た。

 当時年齢36歳で、もみあげから顎まで髭を生やしており、豚のような鼻をしていた。

 日々軍事訓練に勤しんでいるらしいオルキデーア軍の将軍――少将だというから、身体は引き締まっていそうなものだが、でっぷりとした腹だった。

 養女――娘と言った割りには、その手付きは乱暴だった。

 ベルの細い手首を引っ掴み、地下へと続く階段を下りて行き、そこにあった部屋にベルを放り投げて扉を閉めた。

 真っ暗だった。

 ふと蝋燭の火が灯されてそちらを見ると、行方不明になっていたラチェレの姿があった。

「――ああ、そんなっ……ベル……!」

 ラチェレに口を塞いでいた布を解いてもらった刹那、ベルはその胸にしがみ付いて泣き出した。

 母が殺された悲しみ。

 これから確実に起こる恐怖。

 朝まで涙が止まらなかった。

 朝に涙が止まったのは、エステ・スキーパの母親や妻、娘といった女たちが入って来て、ラチェレと共にあれやこれやと家事を命じられたからだ。

 その頃のベルは、まともに料理が出来なくて文句を言われた。

 食器を落として割ってしまい、怒号された。

 まだ小さいからとベルを庇ってくれたラチェレの服に火の付いた蝋燭が投げられ、そのスカートゴンナに穴が空いた。

 これだけでもベルにとっては地獄だった。

 だが本当の恐怖は、女たちが寝静まったその日の夜中から始まった。

 蝋燭を持ち、2人の息子――当時16歳と15歳――を連れて、エステ・スキーパが地下室に入って来た。

 ベルを見ながら、興奮しているのが分かった。

「見ろ、おまえたち。新入りのベルナデッタだ。奴隷のクセに偉く可愛い顔をしてるだろ。なぁに、大丈夫だ。ラチェレみたいにまた死んだことにすると酒池肉林王に怪しまれるからな、母親が死んだ哀れなこいつを『養女』として迎えてやったということにした」

 父親そっくりな息子2人の顔も、興奮していた。

 これから何が起こるか分からなかったが、ただひたすらに恐怖に震えていたベルの前に、ラチェレが立ち塞がった。

「お許しください! この子はまだ5つばかりの子供なのです!」

 黙れと怒号され、エステ・スキーパに張り飛ばされたラチェレが床の上に倒れた。

 しかしエステ・スキーパの手がベルに伸びると、その背に飛び掛かり、首元に噛みついた。

 その行動はエステ・スキーパだけでなく2人の息子も激昂させ、3人束になり、ラチェレを殴る蹴るの暴行が始まった。

 泣き叫んでいたベルにも、やがて3人の手が伸びて来た。

 力ずくで引っ張られた服が、呆気なく破かれていった。

「やめてっ……!」

 ボロボロになったラチェレの精一杯の叫び声は覚えている。

 でも、その後何が行われたのかは、恐怖で頭が真っ白になっていたベルは、よく覚えていない。

 ただ、下半身を裂かれるような痛烈な痛みは感じたし、全てが終わり、脚の間から真っ赤な血と白濁した液体が流れているのを見たとき、自身は何かとても大切なものを失い、とてもとても穢れたということだけは分かった。

 エステ・スキーパたち親子が去った後、膝の震えが止まらなかった。

 吐き気を催し、その日ほとんど食べ物を与えられていなかった胃から出たものは、液体だけだった。

 床の上を這うようにして寄って来たラチェレはベルを腕に抱き、泣きながら呼んでいた。

「陛下っ…陛下っ……! どうか、どうか、わたしたちをお助け下さいっ……フラヴィオ・マストランジェロ陛下っ……!」

 朝が来たら、ラチェレの身体は冷たくなっていた。

 その後、現在の生活が続くことになった。

 日中は家中の家事をしながら女たちの嫌がらせを受け、夜中は男たちに弄ばれる。

 母に通うよう言われた学校に行くことは許されず、言葉を喋ることが出来ても読み書きは出来ない。

 家事は出来ぬものが無いほどに上達したが、代わりに笑顔も涙も消え、表情は『無』になった。

 フラヴィオが数度に渡り、ベルを訪ねて来てくれたのは知っている。

 その都度ここの住人は、ベルの口を塞いで地下室に閉じ込め、フラヴィオにそれっぽい嘘の理由を言って帰らせた。
 
 一度、わざと音を立ててフラヴィオに訴えてみた。

 ネズミが出るということにされ、気付いてもらえなかった。

 そしてその後、わざと音を立てたことで住人皆が激昂し、酷い暴行を受けた。

 だからもう、フラヴィオが来ても膝を抱え、声を殺して帰るのを待った。

 でも先ほど、ついにフラヴィオの視界に入ったのだ。

 あまりの派手さに呆然としてしまったが、たしかにフラヴィオはこのベルを見つめていた。

 少し鋭く、澄んだ蒼の瞳で、真っ直ぐにベルを見つめていた。

(――でも、わずかな時間だった)

 忘れ物をしたことに気付いたらしいエステ・スキーパが踵を返し、その際に玄関先にベルがいるのを見て、慌てて家の中に押し込んだからだ。

「あの王に見られたか……!?」

 どうやらフラヴィオが、ベルを見ていたことには気付かなかったらしい。

 ベルは久々に、この返事をしていた。

「ノ」

 エステ・スキーパは胸を撫で下ろすと、ベルの手から忘れ物を奪うように取った。
 ベルの頭を一発叩いて地下に行くよう命じ、再び家を後にした。

(きっと、何も変わらない……)

 甲高い声で昼食はまだかと女たちに怒号され、ベルは止まっていた手を動かして料理を再開した。

 そして今夜は外に出たことを理由に、いつもに増した地獄が待っていた。





 ――しかし、その翌朝のことだった。

 国王の常備軍であるオルキデーア軍と、プリームラ軍。

 その内、前者に所属するエステ・スキーパとその息子2人が、本日の仕事――軍事訓練――に行った後のことだった。

 地下で朝食の片付け――皿洗いをしていたベルの耳に、聞き覚えのある声が聞こえて来た。

 ベルよりもずっと低いけれど、優しく、明るく、穏やかな声だ。

「こんな朝っぱらから訪ねて来て申し訳ない。今日はベルナデッタに用があって来た」

 どきっとして皿を洗う手が止まった。

 フラヴィオが来た。

 昨日のあの僅かな出会いの、次の日に。

「おはようございます、陛下。ベルは今、その……」

 エステ・スキーパの娘の声が聞こえた。嘘の口実を考えているらしい。

「まだ7時だ。今日はどこかに出掛けていたりしないだろう?」

「い、いえ、あの子ったら、朝食を食べたばかりだというのに、足りないと言ってパン屋パネッテリーアにっ……」

「そうか、では中で待たせて頂こう」

「陛下っ……!」

 フラヴィオが強引に家の中に入ったのが分かった。

 いつもはそんなことをしないし、その足はこの地下へと続く階段を下りて来ていると分かって、ベルの動悸がより一層高鳴る。

 どうしよう。

 どうすべきなのか。

 突然のことに困惑し、狼狽し、皿を投げ出した。

 近くの酒樽の傍らに、小さくなって身を隠す。

「陛下、お待ちください! そこは厨房ですから、客間へご案内致しますわ!」

 今度はエステ・スキーパの妻の声が聞こえた。

「陛下、なりません! そこは……!」

 エステ・スキーパの年老いた母親の声も聞こえた。

 しかし、ベルの方へと向かってくる足音が止むことは無かった。

 間もなく、地下室の扉が開かれる。

 もう駄目だと思ったらしい女たちが、一斉に声を呑んだ。

 フラヴィオの碧眼が、部屋の中を見回した後、酒樽に目を留める。

 そこから見えているベルの小さな足を見つけると、「ふふ」と笑った。
 
かくれんぼナンコンディーノか?」

 ベルは、慌てて汚れた爪先を引っ込めた。

 でも、もう遅い。

 その足音は尚のこと迫って来て、そして膝を抱えているベルの真正面で止まった。

 どうやら、普段からあの黄金こがね色の派手な板金鎧でいるわけではないらしい。

 そのピカピカに磨かれた黒の大きなブーツスティヴァーレが、ベルの目に入る。

 同時に、母の声が蘇った。

 ――フラヴィオ・マストランジェロ陛下は、絶対にあんたを助けてくれるよ。

 ベルの小さな小さな肩を、大きな手がすっぽりと包み込む。

(ああ……)

 ベルの鶏がらのような脚の膝の裏に、金糸の刺繍の入ったシャツマッリェッタを纏っている大きな腕が差し込まれた。

(お母さん…本当ね……お母さん)

 綿にでもなったように、ふわり、と身体が浮く。

(フラヴィオ・マストランジェロ陛下は、本当に私を助けてくれるのね……――)

 顔を上げたベルの視界に映る。

 見慣れたエステ・スキーパとは真逆に近い、整った顔立ち。

 襟足で束ねた高貴な金の髪に、本日の左耳には青の宝石――オルキデーア石。

 少し鋭く澄んだ碧眼がベルの顔を見つめ、柔らかく、明るく、綻んだ。

「見つけたぞ、7番目の天使アンジェラ――ベルナデッタよ」

 そして――

「よし、行こう。ふふふ」

 問答無用で即刻、宮廷オルキデーア城に連れ去られた。




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