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5、川の底に沈んでいくようだった。
しおりを挟むそこまで話して、ぼくの美しい女優の妻はゆっくりと席を立った。
それから、まるで…羽虫か何かが飛んでいるのを追うように、ベニスのガラス細工みたいな瞳で部屋の中をぐるりと見渡し、ぼくの存在を無視して、寝室へ歩いていく。
壁の時計を見ると、一時四十七分だった。
本当に静かな夜だ。
五十五分になるまで、そこでじっとしていた。
なぜか、疲れは感じなかった。
…素晴らしい即興演技だったな、とぼくは思う。
インプロヴァイゼーション。
台本もないのに…妻は作家の才能があるのかもしれない。
…大したものだ。
寝室へ入っていくと、妻がベッドに座って、すすり泣いていた。
これも演技の一部だろうか?それとも、現実の彼女として泣いているのだろうか?
時折、熱中し過ぎて、妻はその役柄から抜け出せなくなることがある。ひどい時は、何時間でも、眠りに就くまで続くのだ。
仕方ないな、ぼくは覚悟を決める。
…物分かりの良い夫と、彼女のオーディエンスの両方を演じてみよう。
出来る限り、素人なりに。
ぼくはベッドに上がり、妻を背中からやんわりと抱きしめる。
朝が来れば、妻に憑いている空想は消えてしまう。
それまでの辛抱だ。
ぼくは女優と結婚したのだから。
…夢の少女を川に突き落とすことは出来なかったわ、と妻が続ける。
あの万能感を失ったら、わたしはやっていけるはずがなかった。
凡人として生きるなんて、耐えられない。
どうしても、女優になりたかったの。
そのためには、人間の大切な何かを犠牲にする必要があった。
そうして、あの夢の中で、散歩しながら、無毛の少女が三度目の言葉を発した。
わたしの声にそっくりだったわ。
…死んでしまえばいい、と。
たった一言だったけれど、何故か、わたしには理解出来た。
あれは、母のことだったの。
「それで、きみは若くして、天涯孤独になってしまったのだね」
とぼくは言った。
我ながら、見事な演技だった。
そうなのよと妻は頷いて、ぼくのシャツを使って涙を拭ってから、急に微笑んだ。
「どんなふうに母が死んだのか、あなたは知りたくない?」
「自殺じゃないね。保険金が貰えないから」
「そう、自殺じゃなかったわ」
「分からないな。想像もつかない」
「ふふっ。裏の倉庫街が大火事になって、マンションが全焼したのよ。他にも、たくさんの人たちが死んだわ」
「関係のない人たちが?」
「そう、巻き添えを食った…凡人たちが」
「ひどい話だ」
「誰もが事故だと信じたのよ」
妻は、ぼくの両方の手を握った。
氷みたいに冷たかった。
「ねぇ、なんとかして、わたしがその嫌な部長さんに会うことは出来ないかしら?そうしたほうが、確実だと思うの」
…何と答えたらいいのか、分からなかった。
はたして、殺したいほど、ぼくはあの部長を憎んでいるだろうか?
「今、決めなくてもいいのよ。あなたには、そういう選択肢があるってことを知っておいて欲しかっただけ」
妻はそう呟いて、目を閉じた。
ぼくたちは、ベッドに寝転がった。
ふたりを眠気が襲った。
川の底に沈んでいくようだった。
まだ、パジャマに着替えていないし、歯だって磨いていないというのに。
The End
ー或る魔女の告白ー
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