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10、ここは住み慣れた現実ではない。

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 そこは、白い部屋だった。
 違う、赤かった。
 いいや、緑かもしれない。
 舶来物の洒落た灯油ストーブがあって、室内は暖かかった。
 それなのに、ひどい寒けがした。
 内臓が冷えきっているのだ。
 わたしは、狭くて硬いベッドの上で仰向けにひとり寝ていて、茶色い毛布を被っている。
 茶色い毛布?
 それは確かなことだろうか?
 色彩があやふやだった。
 低い天井には、拳くらいの大きさの黄色い蜘蛛が三匹も這っていた。
 ぞっとして立ち上がろうとしたが、わたしの両の手足は、鉄の柵にゴツい紐でしっかりと縛られていた。
 鬱血するくらいだ。
 窓には鉄格子がはめてあって、太陽のひかりが射し込んでいた。
 楽しげな鳥たちの鳴き声が聞こえる。
 あなたは生きているわ、と唄っているようだった。
 ここは監獄か?
 病院なのか?
 それとも。
 わたしが着ているのは、灰色の…たぶん、灰色の薄い生地の寝間着なのに鉛の甲冑を着ているみたいに体が重かった。
 おかしい。なにもかも、感覚が狂っている。
 おまえは誰なんだ?
 とわたしは突然叫んでしまう。
 誰もいないのに。
 そして、激しく泣いた。
 どうして泣いているのか、分からなかった。
 無性に悲しかった。
 ベッドに拘束されたまま、ワァッとわめき散らし、涙と鼻水にまみれた。
 自分では無いみたいだ。
 それから、ずいぶんと時間が経って、ノックする音が聞こえた。
 ガチャガチャと鍵は開けられ、ドアがゆっくりと開けられる。
 太った白衣の看護婦が入ってきて、右手には大きな注射器をかまえていた。
 わたしは目を背けた。
 注射器にではない。
 ナースキャップを被った彼女には、顔がなかったのだ。
 のっぺらぼうだった。
 だんだん、良くなりますからね。さぁ、もう、二、三年、眠りましょう。
 口も無いのに、看護婦はそう言った。
 化けものめ。近よるな。
 とわたしは怒鳴った。
 化けものですって?そりゃあ、確かに不器量かもしれませんけど。これでも、堅実なシベリアン・ハスキーと結婚して、二匹の仔犬の母親なんですのよ。
 と看護婦は笑い、わたしの左腕に容赦なく注射針を刺した。
 驚くほど痛みはなかったが、冷たい液体が体内に流れていくのが感じられた。
 これは幻覚なのか?
 とわたしは聞いた。
 無理もないでしょう。あれだけのハーデス錠を飲まれたのだから。命が助かっただけでも、三笠様に感謝しなければ。
 と看護婦が答える。
 三笠様って?
 意識が薄れながら、わたしは訊ねた。
 それは、そのうちに。
 と看護婦が言う。
 ねぇ、女は無事だったろうか?
 おやすみなさい、作家きどりさん。
 看護婦は部屋から出ていった。
 ドアが閉まり、ガチャガチャと鍵がかけられる。
 大げさな足音が次第に遠ざかっていく。
 わたしの意識と共に。


 次に目が覚めたのは夜だった。
 それが分かったのは、鉄格子の外側が暗がりだったからである。
 天井からは裸電球がぶら下がっていて、白い壁にはわたしの三倍くらいの大きさの影が映っていた。
 それは幻覚ではなく、ただの影だった。
 自分自身の影だった。
 いつの間にか、拘束は解かれていた。
 手足が自由に動く。
 からだも軽くなっている。
 わたしは重い頭を枕から持ちあげ、慎重に上半身を起こして、ベッドの端に腰かけた。
 そして、あの虚ろな人間と眼を合わせたのだった。


 WE ARE THE HOLLOW MEN.
 WE ARE THE STUFFED MEN.


 黄色いスーツを着て、オレンジ色のアフリカン・デイジーの花束を持ち、壁ぎわのパイプ椅子に姿勢良く背筋を伸ばして座っている。
 小柄で角刈り、筋骨隆々、目付きの悪い、白濁したひとみ。
 一度見たら忘れられない男だった。
 親分の次男で、あの女をひいきにしているとか。
 具合はどうだ?
 と男が訊いた。
 砂みたいに、かすれた声だった。
 どうでしょう。わたしには、あなたのスーツが鮮やかな黄色に見えるのですが。
 とわたしは答えた。
 安心しろ、正常だ。これは、ミラノのバドルッチョの仕立てなんだ。
 と男が笑う。
 失礼ですが、あなたは?
 誰だっていい。
 以前、お会いしましたね?
 あぁ、覚えている。あの時、どうしようもないくらい、あんたは間抜けだったな。
 これは長い会話になりそうだなと思って、わたしはからだを壁にもたれさせた。
 冷んやりとする。
 ここは病院ですか?
 北山にある三笠組の別荘さ。あの晩、あんたは俺たちに保護されたのだ。相当、危なかったらしいぜ。
 女は?
 男は、ふふんと言い、花束をナイトテーブルの上にそっと置いた。
 会えますか?
 会えないな。
 無事ですね?
 あいつは間に合わなかったんだ。
 俺たちが埋葬した。娘と一緒にな。
 男はそう言い、
 この部屋には花瓶がないと呟いた。
 胃のあたりが冷たくなった。
 めまいがする。
 どうして、助けたんです?
 とわたしは男を責めるように聞いた。
 女は逝ってしまったのに。
 知りたいか?
 知りたいです。
 親切からじゃないんだ。
 善意と違う。
 何故です?
 分からないか?
 分かりません。
 男はにやりとした。
 あんたには、もっと悲惨な死に方をさせたかったんだよ。簡単には死なせたくなかった。嫉妬心だな。おかしな話さ。俺には、あの女と心中する気なんか少しも無かったのにな。
 わたしには理解できなかった。
 殺すために生かしたわけか?
 男は話し続けた。
 あんたは、ギリシア神話を知ってるか?
 読んだことはあります。
 芸術の神でハーデスというのがいるんだ。
 芸術の神はアポロンです。ハーデスは冥府の神だ。
 確かか?
 確かです。
 あんたは学があるんだな。とにかく、そのアポロンって奴の話だよ。アポロンは、他の神と音楽で競い合って、勝ったんだ。勝った者は何をしてもいいという約束だったから、アポロンは、相手の神の全身の皮を剥いで殺したそうだ。
 想像できるか?
 全身の皮を剥いだんだ。
 生きたままだぞ。
 実は、俺も二人殺ったことがある。
 人間の皮をナイフで剥いだんだ。
 アポロンがやったみたいに。
 生きたまま。
 皮を剥がれても、なかなか人間は死なないものなんだよ。何度も何度も気を失いながら、ゆっくり、ゆっくりと死ぬ。
 あんたも、そうしてやろうかと思った。
 手間はかかるんだが。
 あなたは、わたしを脅しているだけだ。
 純粋に思ったことを話している。あんたに相応しい死に方じゃないか。全身の皮を剥がれるんだぜ。ぜひ、そうしてやろうと考えたよ。なにしろ、俺は猛烈に腹を立てていたから。
 狂っている。
 男が静かに続けた。
 しかし、それは叶わないだろう。
 残念だが、実行出来そうにない。
 何故なら。
 わたしは男の言葉を待つ。
 俺の親父を知っているか?
 三笠組の三笠漱石氏です。
 新聞で名前だけは。
 そういう意味じゃない。
 どういう人間なのかを知っているか?
 いや、知らないです。
 わたしには接点がありませんから。
 接点は無いほうがいい。
 あると、あんたも気がふれてしまうだろう。
 異常なんだ。
 皮剥ぎの話だって十分に異常でしたが、
 とわたしは言った。
 男の回りくどさ苛立ちを感じていた。
 たぶん、男は薬をやっているのだ。
 そこで、男は声を大きくした。
 違う、あんたは異常という意味が分かっていない。親父は本物なんだ。覚悟しておけよ。あんたをどうするかは、親父が決める。親父は、あの女の面倒をずっと見てきた。七年だよ。ただの商品だと思っていない。あんたは、その女を死なせてしまったんだ。
 わたしは男にうんざりして、
 命なんか惜しくありませんよと言った。
 じっと背筋を伸ばしたまま、男はパイプ椅子に座っていた。
 なぁ、言うは易しだ。この世界には、死より怖しいことが山ほどある。
 そのことを分からせてやるよ。
 わたしは男の耳を見た。
 左の耳たぶがなかった。
 なぜ、今まで気付かなかったのだろう。
 ここは住み慣れた現実ではない。
 そのことがはっきりした。
 あんた、顔色が悪いぞ、と男が笑う。
 わたしは返事をしなかった。
 男はすっくと立ちあがって、わたしに強引に握手させると、
「すぐに花瓶は届けさせるから」
 と言い、部屋から出て行った。
 再び、ガチャガチャと鍵がかけられた。



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