天使の愛人

野洲たか

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6、それは、生きていくための手段だもの

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 三年目の十二月十七日、水曜日の夜のことは忘れられそうにない。

 昼過ぎから降り始めた大雪が、東京を真っ白に覆ってしまった。

 いつもより少し遅く、午後七時ごろ、二十二歳の窪田拓斗は、二十六歳のわたしが待つガーデンスイートにやってきた。

 部屋にはしっかりと暖房が効いていたが、彼はモンクレールの黒いダウンコートやわたしがプレゼントしたラルフローレンの手袋を脱ごうともせず、ベッドの上でうつ伏せに寝転がって、じっと動かなくなった。

「なにかあったの?」

 とわたしは訊ねた。

「なんでもありません」

 と彼は答えた。

 わたしは冷蔵庫からサンペルグリーノの炭酸水を出して、モナンの苺シロップ割りを作ってあげた。それは、彼のお気に入りだった。

「仕事のこと?」

「イブの夜、一緒に過ごせなくなりました」

 そう言って、彼はやっとコートと手袋を脱ぎ、グラスを口にした。

「仕事なら仕方ないわ」

「仕事なんかじゃない」

 彼は、空になったグラスをナイトスタンドの横に乱暴に置いた。

 …ガラス窓の向こう側は、ひどい吹雪になっていた。

「社長から、久しぶりに声がかかったんです」

 と彼は告白した。

「事務所のパーティー?」

 とわたしは聞いた。

 悲しげな目を閉じて、彼は首を横に振った。

「十四歳の夏、博多のキャナルシティでスカウトされてこの世界に入りました。それ以来、ぼくは社長の愛人(ラ・マン)の一人なんです。あのひとは少年が好きだから、指名される回数はだんだん減ったんだけど…断れない自分が情けなくて」

 わたしは、三年前に会ったきりのハンサムで清潔感のある老人の顔を思い浮かべた。


 …サンデー・コミュニケーション株式会社
     代表取締役社長  サンデー湯河


「全然、情けなくないわ。それは、生きていくための手段だもの。そうやって、あなたは今の自分を手に入れた。何かを得たら何かを失う…人生なんて、そういうものよ」

 とわたしは言った。

「ぼくを軽蔑しませんか?」

「そんな、まさか…拓斗くんは、わたしが知っている誰よりも頑張っているし、世の中から必要とされている。心から尊敬しているわ。誰にも言えないけれど、あなたはわたしの誇りなのよ」

「社長から呼ばれる度、ぼくは本気で死にたくなります。以前は、マリファナの力を借りて、なんとか我慢できてたけど、近ごろは…いつだって、もえぎさんのことが頭に浮かんでしまって…なんだか、ひどい裏切りをしてるみたい
で…窒息しそうなんです」

「ありがとう。そんなふうに思ってくれて…嬉しいわ。でも、忘れないで。わたしも社長に雇われている身なのよ」

「そうでした…そもそも、もえぎさんはお金のために…ぼくと…」

 …本当はそうじゃないのよ、とわたしは心が破れてしまいそうだった。けれども、それではすべてが矛盾してしまう。

「大晦日は会えるのかしら?」

 無理に明るく、わたしは訊ねた。

「今年は、紅白歌合戦にゲスト出演するんです。もえぎさんの席も用意できるから、ぜひNHKホールへ見に来てください」

 わたしの気持ちを察してか、彼も明るく答えてくれた。





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