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第十三話 歌物語の歌忘れ

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春の部屋から聞こえてくるのは、葵が瑞穂と初めて会った時に聞いた歌だった。

葵はそのことを思い出した瞬間、胡瓜の梅肉和えが入った深皿を持ったまま駆け出し、春の部屋に飛び込んだ。
葵はまるで獅子に追われているとでもいった勢いで春の部屋の襖を開けた。

血相を変えて部屋に飛び込んできた葵に驚いて、揚戸与と瑞穂は葵を見つめて固まっている。雨夜もびっくりして三味線を奏でる手をとめた。

「そ、その歌!雨夜さんの歌なんですか?」

「この歌?雨夜さんのって、私が作った歌じゃないよ」

雨夜は困惑した表情だ。

「この歌は童謡みたいなもんで昔からある歌やで。この歌がどうかしたんか?」

「その、私が河童になっちゃったときに聞こえてきた歌だったから。気になって…。ごめんなさい驚かせて」

葵は我に返って、自分の慌てふためき様が急に恥ずかしくなった。

「なんやどないしたんやお嬢ちゃん。えらい慌てて行って」

木蘭が春の部屋に入ってきた。

「今、雨夜が歌ってた歌が気になってんて」

揚戸与が少し心配そうな顔で答える。

 葵は、自分でもこの歌がどうしてこんなに気になったのか分からなかった。正直、今の今までこの歌のことなど忘れてしまっていた。それはこの歌を聞いた後に出会った神様の印象が強すぎたというのもあるが、あの時はこの歌に特に何も感じなかった。

でも今、雨夜が歌っているのが聞こえてきて、胸がざわざわする感じがしたのだ。なにか引っかかるような、切ないような、よく分からない感覚に襲われて、気づいたら歌が聞こえてくる方へと走り出していた。

冷静になって思い返すと、あの時聞こえた歌声と雨夜の歌声は確かに違う。初めて瑞穂と会ったあの時、この歌を歌っていたのは誰だったのか…。

「まあ憧楽調は有名な歌やさかい、そこら辺で誰かさんが歌ってはったのが聞こえてきたんとちゃうか」

「仕切り直して、他の曲やろうか」

そういって雨夜は、三味線をもう一度構えた。


皆は思い思いに稲荷寿司や胡瓜、ぬか漬けをつまみながら、雨夜の演奏と酒に酔いしれた。

雨夜の三味線は確かに木蘭の料理とつり合うだけの価値がある見事な音だった。葵も先ほどの歌のことは忘れて雨夜の奏でる音楽を楽しんだ。

瑞穂は一人、甜茶をすすっていたが、周りの雰囲気に吞まれたのか気が抜けた顔になっている。その隣では、雨音とゴンが花札を始めて、そこに揚戸与が横から茶々を入れていた。ゴンはそんな揚戸与をうっとうしがって反抗したが、余計に揚戸与に火をつけてしまい、花札どころではなくなって、いつの間にかどんちゃん騒ぎになっていた。

そして屋敷の中が最高潮に盛り上がってきたころ、


 ピカッ


と空が光った。と思うと、急に雨音が激しくなって土砂降りになってきた。遅れて雷の轟がやって来る。

「始まった」雨夜が呟いた。

どうやら、雷神と雨霧の喧嘩が本格的に始まったようだ。台風並みの豪雨と雷の轟で、屋敷が包まれていた。葵は内心、屋敷にたくさんひとがいる日でよかったと思った。普段から瑞穂やゴンもいるが、こういう嵐の日はなんとなく一人でも多い方が安心だ。

河童なのだから雨はむしろ好ましいはずだが、悪天候というものへの恐怖は河童になったからといって消えるものでもなかった。

「仲ようしはったらええのに。二人とも意固地やさかいなあ」

揚戸与が雨戸を閉めながらボソッと言う。

雨足は弱まることなく夜の間ずっと降り続いた。屋敷に集まった面々は、最初こそ雷神と雨霧を気遣うような様子だったが、すぐに雷雨のことなど忘れて、宴に興じた。
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