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第六話 遣らずの雨

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河童は会社に行かなくていい。
嫌な上司もいないし、締め切りに追い立てられることもない。
これまで会社に行くのが楽しいと思ったことはなかっし、毎日今日が休日ならばと思いながら過ごしていた。会社なんか無くなっちゃえと思ったこともあるが、本当になくなってしまうと逆に何をしていいのかわからなくなるものだ。

河童になってここに来てすぐの頃、そんなことを葵が言うと、瑞穂は座敷で転がっているゴンを指さして言った。

「見てみろ。あいつは、いっつもそこら辺でごろごろしてばかりだ。でも、それが悪いことだなんてちっとも思ってないぞ」

絶妙に陽の光が差し込む場所を陣取って日向ぼっこ中のゴンは、とても気持ちよさそうだ。まさに今この瞬間、極楽にありけり。といった感じだ。
そりゃあ確かに猫という生き物は、ごろごろするのが生きがいといってもいい。そんな生き物と比べられても…と葵は思った。

「しかも普段ごろごろしているくせに、やるときはやる」

座敷で寝転がっているゴンは、いつもどこに焦点が合っているのか分からないような目をしている。
しかし狩りとなると、確かにまるで別人のようになるのだ。その豹変ぶりはすごい。瞳孔がカっと開いて、獲物めがけてまっしぐらだ。

「そりゃ猫は寝るのが仕事みたいなもんでしょ。でも私、暇すぎたらどうしていいか分かんない。やることないと心がすさんじゃう」

確かにゴンの生き方は見習うところがあると思うが、自分があんな風にごろごろしてばかりいたら完全にナマケモノになってしまう気がする。
特に葵は昔から、とかく予定を詰め込みたがるタイプだった。たとえ好きなことでなくても暇よりは予定が埋まっているほうが安心する。それに『暇になるとうつになる』とも聞いたことがある。河童もうつになるのかは知らないが、やはり葵には『暇』に対する恐怖心があった。

「逆だろう。暇な時間を謳歌できないから、心が死んでくんだ」と瑞穂は言った。
葵は心の中で、『そんなこと言いながら、あなたも大概休みなく働いてる気がしますけど』と思ったが、口には出さなかった。



ただ、数週間この世界で暮らしてみると、案外暇でもなかった。毎日なにかとやることがある。
今日も朝から思わぬ来客があった。水神の一人、雨音がイチジクを大きなザルいっぱいに抱えて葵たちのいる屋敷にやってきたのだ。

「イチジクがたくさんとれたから、カッパさんにもおすそ分け」

雨音は葵たちのためにわざわざイチジクを届けに来てくれたらしい。せっかくなので、屋敷にあがってもらって一緒にイチジクを頂くことにした。
葵は座敷で寝転がっていたゴンも誘ってやった。瑞穂はどこにいるのかとゴンに聞くと、どうやら朝からどこかに出かけているらしい。

雨音が持ってきてくれたイチジクはとても瑞々しくて、よく熟していた。上品な甘さと苦みがクセになりそうなおいしさだった。

「イチジクって大人の食べ物っていう感じがするよね。子どもの頃はこんな味がしない果物、食べる人の気が知れないと思っていたけど、最近になってやっとイチジクのおいしさが分かるようになったよ」

葵はイチジクを食べるのはとても久しぶりだった。そもそも一人暮らしになってから、果物を食べること自体、とんと減っていた。

「ふふふ。私は昔からイチジクが大好きなの」と雨音はにっこり笑った。

雨音はほんとに可愛らしい女神で、葵は雨音と話していると、とてもほっこりした気持ちになった。ちょっとくせ毛の細い髪が彼女の柔らかい雰囲気にとても合っている。

「この間会った雨霧さんと雨夜さんって、雨音さんのお姉さん?」
初めて三人の女神に会った時は、正直それどころではなかったので聞きそびれていたが、少し気になっていた。三人とも美人だが、あまり似ていない。だけど、三人とも水の女神ということは、兄弟神なのだろう。

「そうだよ、霧姉きりねえが一番上でその次が夜姉よるねえ。私は一番下なんだ」

「そっかやっぱり三姉妹だったんだね」

「そんで瑞穂が末の弟って感じだろ」ゴンがいたずらっぽく言った。

「ほんとだ、確かに弟みたいなものだね。私も瑞穂のこと大好きだし、霧姉の夜姉もすごく可愛がってるしね」といって雨音は朗らかに笑った。

あんなにたくさんあったイチジクだが、三人とも次々に手をのばして、気が付くと後二つしか残っていなかった。食べてしまってもよかったのだが、残りの二つはどこかに出かけている瑞穂に取っておいてやることにした。
葵は新しくお茶を淹れなおしてきて、湯呑みにお茶をそそいだ。
ゴンはイチジクをたらふく食べて満足したのか、座布団を枕にしてまた寝転がっている。

「水神様って普段どんなことしてるの?」
葵は雨音の湯呑みに新しいお茶をつぎながら聞いた。

「そうだなあ、私たちは水神の中でも雨に関する力が強いんだ。だから雷や風の神たちと天気の相談をするの。でも上手くいかないときもあって、私たちが喧嘩したりするとね、大雨になっちゃったり、体調が悪いと逆に日照りが続いちゃったりすることもあるんだ」

そんな感じで天気って決まっていたんだ。と葵は思った。どうか水神様には心も体も穏やかに過ごしてもらわねば。日照りになんかなったら、皿が干からびる!

「神様って大変なんだね。瑞穂も何かといろいろ大変そうだし。私、神様ってもっと気楽なものだと思ってた」

「そうだね~大変ということもないんだけど、上手くできないとやっぱりへこんじゃうこともあるよ。でもこのイチジクみたいに作物が豊かに育つのを見てるとね、また頑張ろうって思うんだ。明日はもっといい雨を降らせようって」

なんて綺麗な心なんだ。尊い…。こういうひとを神様って呼ぶんだよね。と葵は思った。
誰かさんにもこの女神の爪の垢を煎じて飲ませたい。

まあでも瑞穂は田んぼや稲に関しちゃ真面目なのよね。口が悪いだけで根は悪い奴じゃない…のかもしれない。
葵は瑞穂を肯定していることに気づき、なんとなく悔しくなってそれ以上考えるのをやめた。


「雨音ちゃんは明日予定ある?良かったら今日はここに泊まらない?」
葵は雨音ともっと話がしたいと思った。

「いいよ。明日のことは明日になってみないと分からないから気にしない。でも一応姉さんたちに文書いとくね」
そういって雨音は、懐からメモ用紙のような小さな紙を取り出して、その紙に指で字を書いた。そして掌の上でその紙を折りたたむと、手紙は小鳥の姿になって屋敷の外へ飛んで行った。

ごろごろしながら二人の話を聞いていたゴンは、さっと起き上がって台所に向かった。と思うとすぐに戻ってきて、台所からとってきた酒とつまみを二人の前にドンと置いた。相変わらずさっきまで寝転がっていたとは思えない俊敏さだ。だが、ファインプレーだゴン。と葵は思った。楽しいおしゃべりにはやっぱり酒がなくては。

そして、三人は真っ昼間から宴会を始めた。
雨音は可愛らしい見た目とは裏腹に、なかなかいける口だった。いくら飲んでも酔っぱらう気配が全くない。
「相変わらず水神様は酒が強いなあ」
と言うゴンはだいぶ顔が赤くなってきている。葵もだんだん頭がふわふわしてきた。
ぽかぽか陽気のなかで、おいしいお酒を飲んで、楽しい話をして、とてもいい気分だった。
酔っぱらってぼんやりした頭で、ぼーっと空を眺めていると、さっきまでとてもいい天気だったのに急に雲が増えてきた。そして、ざあっと雨が降り始めた。庭のすぐ向こう側は明るくて、ちょうど屋敷がある一帯にだけに雨が降っているようだ。夕立は馬の背を分けるというが、まさにそんな感じの雨だった。

「通り雨かな」葵がつぶやくと、

「うん姉さんたちが、ゆっくりしておいでって言ってる」と雨音が空を見上げながら言った。

伝言が伝わったことを確認したように、雨はすぐに上がってまた太陽がでてきた。雨が降ったせいか、さっきよりも空気が澄んでいる気がした。
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