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天狐(前編)
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朝、障子の隙間から入ってくる冷気で目が覚めた。障子を開けて外をのぞくと、辺りは一面雪に覆われ、銀世界が広がっていた。
今日は珍しくゴンも早く起きてきた。師匠に会いに行くからか、珍しく少し緊張しているように見える。
そして俺たちは、またいつもの提灯小僧を呼んで、ゴンが育った寺にいる師匠に会いに行った。今日は、下界も雪がちらちらと降る寒い日だった。
「俺が育った寺は、本当は狐の子どもが暮らす寺だったんだけどさ、師匠が猫の俺を迎え入れてくれたんだ。他の狐たちには反対されたらしいけど、師匠ってちょっと変わってるんだよな」
ゴンが育った寺は、身寄りのない幼い『妖狐』を預かって世話をしている「狐の孤児院」とでもいうべき寺だった。そしてゴンを拾った師匠は、その寺で子どもたちの世話をしている狐のひとりだったのだ。
狐ばかりがいる寺に、いきなり猫が連れてこられたら、さすがに他の狐たちは困惑しただろう。しかも、その寺で子どもの面倒をみていた狐たちは皆、『気狐』や『空狐』という高位の『妖狐』たちだったというから、エリート狐たちにしてみれば、なぜ猫の世話をしなくちゃいけないんだ、と思ったかもしれない。
ちなみに『気狐』や『空狐』というのは『妖狐』の位のことで、『野狐』と違って妖《あやかし》というより精霊に近い狐だ。そして『妖狐』の最上級の位は『天狐』と言って、千年以上も生き、神に近い存在であるとされている。
ゴンの師匠がいる寺は、診療所から五里ほど離れたところにあった。側には海と見間違うほど大きな湖があって、湖の西側はすぐそばまで山が迫っており、寺はその山の麓にあった。
昨夜の冷え込みで相当降ったのだろう、寺へと続く長い石段を囲む木々にはすっかり雪が降り積もり、その重みに耐えかねて地につくほど枝をしならせていた。
そして、その長い石段を登った先に見えたのは、お世辞にも立派とは言い難い寺の姿だった。門から本堂へ続く石畳は所々割れたりめくれあがったりしているし、本堂はというと欄間の一部に穴が開いていたり架木が欠けたりしてしまっている。見た目のボロさ加減は俺の神社といい勝負だ。
ただそれでも、不思議と荒んでいる感じはなく、寺の敷地内の空気はキンと澄んでいた。
「先生こっちこっち、お客さんが来た」
三人で本堂の前でうろうろしていたところ、本堂の隣にある庫裡から烏天狗の子どもに手を引かれて蹴躓きそうになりながら、作務衣を着た若い男が出てきた。
組紐でまとめられた、綺麗な栗皮色の髪が後ろで揺れている。
そして、その深い紺碧の瞳が俺たちの姿を捉えると、柔らかな微笑みをこちらに向けた。
「やぁよく来たね、ゴン。それに『稲神《とうじん》様』と『河童』のお嬢さんも。こんなところまでわざわざお越し頂いてありがとうございます。私はこの寺で住職をしている『妖狐』の白蓮《びゃくれん》と申します。ああそうだ、割れた石畳がほったらかしになっていたんだった。足元が悪かったでしょう。ごめんなさいね」
ゴンの師匠は俺が想像していたよりも、ずっと若い見た目をしていた。
妖の容姿と実年齢は相関しないものだが、それにしても、この白蓮という男は、ゴンの師匠というより歳の近い兄といった感じだった。
「こちらこそご連絡もせず、こんな年末に突然押しかけてすみません」
「とんでもない。本来ならこちらから参らなければならないところを、呼びつけたのは私ですから。さあこんな外で立ち話もなんですから中へどうぞ」
案内されて入った本堂の中はとても暖かかった。きっと妖術で堂内を暖めているのだろう。ゴンと少し似た、でももっと柔らかい妖気が本堂の中を包んでいた。
さきほど白蓮を庫裡から連れ出してきた子より少し大きな狸の子がお茶とお茶菓子を持ってきてくれた。皿に乗っていたのは黄身餡の入った焼き饅頭だ。ゴンの好物である。
「今は狐以外の妖もけっこういるんだな」
ゴンが茶菓子を丸ごと口の中に放り込みながら言った。
「ゴンがここを出て行ったあと、以前の住職たちが皆辞めてしまってね。そうしたら、いつの間にか、狐以外の子の方が多くなっていたんだよ」
「じゃあ、今はお師匠さんひとりで、子どもたちの面倒みてるんですか?」
楓が会話に入った。
「そうなんです。ここは元々、私を含め五人の『妖狐』が身寄りのない狐の子を預かる場所として始めたんですが、他の者はひとり、またひとりとここを去ってしまいまして。今はもう、私しか残っていないんです。昔は子どもの数もそれなりに多かったのですが、今は以前より受け入れる子の数は随分減りました。それでも色々と手が回らないことが多くて、寺の中も酷い有様でお恥ずかしい」
「おひとりで子どもたちの面倒を見るのは、大変でしょう」
「そうですね、でも子どもたちも何かと手伝ってくれますし、なんとか暮らしていけるものです。それに『稲神様』のところこそ、大変なのではないですか?最近、下界に住む妖たちの中で、とても評判になっていますよ」
その時、障子を隔てた外廊下の辺りから、何やらひそひそ声が聞こえてきた。
「あれがゴン兄だよ」
「見せて見せて」
「あ、河童も居るよ。ほら」
「どれ?分からないよ」
「あの、もじゃもじゃ眼鏡は?」
そして急に走り回る音が聞こえて騒がしくなったかと思うと、本堂の中に幼い妖たちがバタバタと足音を立てて入って来た。狸や猫、一つ目小僧や小鬼、天狗など、確かに狐以外の妖の方が多いようだ。
「こらこら、お客さんがいらしてるんだから騒いでは駄目だよ」
白蓮が優しく諭したが、子どもたちの耳には入っていないようで、座っているゴン目掛けて一斉に飛びついた。
「おい、そんな一斉に飛びつくな!分かった、遊んでやるから。ちょっと離れろって。楓、お前も付き合って。俺ひとりじゃ身が持ちそうにない」
「仕方ないわね、最近覚えたきゅうりのジャグリングを見せてあげるわ。特別よ」
こいつ、きゅうりのジャグリングなんていつ練習していたのだろうか…
ゴンと楓は子どもたちに半ば引きずられるようにして本堂の外に出て行った。
「すいません。この寺にお客さんが来るなんて珍しいもので、皆嬉しくて仕方ないのです」
白蓮は苦笑いした。その笑い方が、どことなくゴンに似ているな、と思った。
「さっきの子どもたちのように、今はどんな妖でも受け入れているんですが、ゴンがここに来たときは子どもも大人も狐しかいなかったのです。だからゴンは、仲間外れにされたりいじめられたりすることも多くて、当初はゴンをここに連れてきて良かったのだろうかと悩んだこともありました」
「俺も『猫又』のゴンが狐の寺で育ったと聞いて驚きました。『妖狐』は、その、仲間意識の強いあやかしだと思っていたので…。なんでまた狐の寺で猫の子を引き取ろうと思ったんですか?」
「特別な理由があったわけではないのです。街に行ったときに偶然、人に捨てられ幼くして猫又になったあの子に出会いました。その日は寒い雨の日で、ゴンは独りで冷たい雨に濡れていたんです。そして私は、その子猫を、そのまま捨て置くことができなかった。ただ、それだけなんです…」
俺に話しかけながらも、海のように深い紺碧の瞳は、過去の情景を映しているのが分かった。
「まあ、『猫又』なんか連れて帰って来たものだから、寺にいた狐たちには責められましたけどね。それに、ゴンを引き取ることが決まってからも、狐の子たちと喧嘩したりして、よく傷だらけになっていたので、心配事は絶えませんでした…。診療所では、あの子はどんな様子でしょうか?あなた方や患者さんたちと、上手くやっていますか?」
「ゴンがうちの診療所に来てくれて、俺も楓も随分助かってます。傷ついたり、弱っている妖にもすごく優しいですよ、彼は」
俺がそう言うと白蓮は「そうですか」と言って嬉しそうに笑った。
「それに、以前天狗の子をゴンが上手くあやしてくれて、とても助かったことがありました。今日ここに来て、その時のゴンが、あなたにそっくりだったなぁ、と思いましたよ。二人はよく似てますよね」
「似てますか?わたしと、ゴンが?それは…初めて言われました…」
白蓮は驚いた様子で瞬きした。
妖《あやかし》の誕生には、二通りある。野生の狐や狸、人や物などが何かのきっかけで妖になる場合と、もう一つは、妖の子として生まれる場合である。
ゴンの場合は前者であるから、白蓮と血がつながっているわけではないのだが、二人はその仕草や雰囲気、そして妖気がとてもよく似ていた。きっと知らなくても、白蓮がゴンの育ての親だということが分かっただろう、と思えるほどに。
白蓮はゴンと似ていると言われて嬉しかったのか、ちょっと照れくさそうな表情でお茶をすすっていた。
そうしていると、端正な顔立ちの彼は本当に青年のようにしか見えなかったが、何となく俺は、彼が長寿の妖であるような気がしてならなかった。
今日は珍しくゴンも早く起きてきた。師匠に会いに行くからか、珍しく少し緊張しているように見える。
そして俺たちは、またいつもの提灯小僧を呼んで、ゴンが育った寺にいる師匠に会いに行った。今日は、下界も雪がちらちらと降る寒い日だった。
「俺が育った寺は、本当は狐の子どもが暮らす寺だったんだけどさ、師匠が猫の俺を迎え入れてくれたんだ。他の狐たちには反対されたらしいけど、師匠ってちょっと変わってるんだよな」
ゴンが育った寺は、身寄りのない幼い『妖狐』を預かって世話をしている「狐の孤児院」とでもいうべき寺だった。そしてゴンを拾った師匠は、その寺で子どもたちの世話をしている狐のひとりだったのだ。
狐ばかりがいる寺に、いきなり猫が連れてこられたら、さすがに他の狐たちは困惑しただろう。しかも、その寺で子どもの面倒をみていた狐たちは皆、『気狐』や『空狐』という高位の『妖狐』たちだったというから、エリート狐たちにしてみれば、なぜ猫の世話をしなくちゃいけないんだ、と思ったかもしれない。
ちなみに『気狐』や『空狐』というのは『妖狐』の位のことで、『野狐』と違って妖《あやかし》というより精霊に近い狐だ。そして『妖狐』の最上級の位は『天狐』と言って、千年以上も生き、神に近い存在であるとされている。
ゴンの師匠がいる寺は、診療所から五里ほど離れたところにあった。側には海と見間違うほど大きな湖があって、湖の西側はすぐそばまで山が迫っており、寺はその山の麓にあった。
昨夜の冷え込みで相当降ったのだろう、寺へと続く長い石段を囲む木々にはすっかり雪が降り積もり、その重みに耐えかねて地につくほど枝をしならせていた。
そして、その長い石段を登った先に見えたのは、お世辞にも立派とは言い難い寺の姿だった。門から本堂へ続く石畳は所々割れたりめくれあがったりしているし、本堂はというと欄間の一部に穴が開いていたり架木が欠けたりしてしまっている。見た目のボロさ加減は俺の神社といい勝負だ。
ただそれでも、不思議と荒んでいる感じはなく、寺の敷地内の空気はキンと澄んでいた。
「先生こっちこっち、お客さんが来た」
三人で本堂の前でうろうろしていたところ、本堂の隣にある庫裡から烏天狗の子どもに手を引かれて蹴躓きそうになりながら、作務衣を着た若い男が出てきた。
組紐でまとめられた、綺麗な栗皮色の髪が後ろで揺れている。
そして、その深い紺碧の瞳が俺たちの姿を捉えると、柔らかな微笑みをこちらに向けた。
「やぁよく来たね、ゴン。それに『稲神《とうじん》様』と『河童』のお嬢さんも。こんなところまでわざわざお越し頂いてありがとうございます。私はこの寺で住職をしている『妖狐』の白蓮《びゃくれん》と申します。ああそうだ、割れた石畳がほったらかしになっていたんだった。足元が悪かったでしょう。ごめんなさいね」
ゴンの師匠は俺が想像していたよりも、ずっと若い見た目をしていた。
妖の容姿と実年齢は相関しないものだが、それにしても、この白蓮という男は、ゴンの師匠というより歳の近い兄といった感じだった。
「こちらこそご連絡もせず、こんな年末に突然押しかけてすみません」
「とんでもない。本来ならこちらから参らなければならないところを、呼びつけたのは私ですから。さあこんな外で立ち話もなんですから中へどうぞ」
案内されて入った本堂の中はとても暖かかった。きっと妖術で堂内を暖めているのだろう。ゴンと少し似た、でももっと柔らかい妖気が本堂の中を包んでいた。
さきほど白蓮を庫裡から連れ出してきた子より少し大きな狸の子がお茶とお茶菓子を持ってきてくれた。皿に乗っていたのは黄身餡の入った焼き饅頭だ。ゴンの好物である。
「今は狐以外の妖もけっこういるんだな」
ゴンが茶菓子を丸ごと口の中に放り込みながら言った。
「ゴンがここを出て行ったあと、以前の住職たちが皆辞めてしまってね。そうしたら、いつの間にか、狐以外の子の方が多くなっていたんだよ」
「じゃあ、今はお師匠さんひとりで、子どもたちの面倒みてるんですか?」
楓が会話に入った。
「そうなんです。ここは元々、私を含め五人の『妖狐』が身寄りのない狐の子を預かる場所として始めたんですが、他の者はひとり、またひとりとここを去ってしまいまして。今はもう、私しか残っていないんです。昔は子どもの数もそれなりに多かったのですが、今は以前より受け入れる子の数は随分減りました。それでも色々と手が回らないことが多くて、寺の中も酷い有様でお恥ずかしい」
「おひとりで子どもたちの面倒を見るのは、大変でしょう」
「そうですね、でも子どもたちも何かと手伝ってくれますし、なんとか暮らしていけるものです。それに『稲神様』のところこそ、大変なのではないですか?最近、下界に住む妖たちの中で、とても評判になっていますよ」
その時、障子を隔てた外廊下の辺りから、何やらひそひそ声が聞こえてきた。
「あれがゴン兄だよ」
「見せて見せて」
「あ、河童も居るよ。ほら」
「どれ?分からないよ」
「あの、もじゃもじゃ眼鏡は?」
そして急に走り回る音が聞こえて騒がしくなったかと思うと、本堂の中に幼い妖たちがバタバタと足音を立てて入って来た。狸や猫、一つ目小僧や小鬼、天狗など、確かに狐以外の妖の方が多いようだ。
「こらこら、お客さんがいらしてるんだから騒いでは駄目だよ」
白蓮が優しく諭したが、子どもたちの耳には入っていないようで、座っているゴン目掛けて一斉に飛びついた。
「おい、そんな一斉に飛びつくな!分かった、遊んでやるから。ちょっと離れろって。楓、お前も付き合って。俺ひとりじゃ身が持ちそうにない」
「仕方ないわね、最近覚えたきゅうりのジャグリングを見せてあげるわ。特別よ」
こいつ、きゅうりのジャグリングなんていつ練習していたのだろうか…
ゴンと楓は子どもたちに半ば引きずられるようにして本堂の外に出て行った。
「すいません。この寺にお客さんが来るなんて珍しいもので、皆嬉しくて仕方ないのです」
白蓮は苦笑いした。その笑い方が、どことなくゴンに似ているな、と思った。
「さっきの子どもたちのように、今はどんな妖でも受け入れているんですが、ゴンがここに来たときは子どもも大人も狐しかいなかったのです。だからゴンは、仲間外れにされたりいじめられたりすることも多くて、当初はゴンをここに連れてきて良かったのだろうかと悩んだこともありました」
「俺も『猫又』のゴンが狐の寺で育ったと聞いて驚きました。『妖狐』は、その、仲間意識の強いあやかしだと思っていたので…。なんでまた狐の寺で猫の子を引き取ろうと思ったんですか?」
「特別な理由があったわけではないのです。街に行ったときに偶然、人に捨てられ幼くして猫又になったあの子に出会いました。その日は寒い雨の日で、ゴンは独りで冷たい雨に濡れていたんです。そして私は、その子猫を、そのまま捨て置くことができなかった。ただ、それだけなんです…」
俺に話しかけながらも、海のように深い紺碧の瞳は、過去の情景を映しているのが分かった。
「まあ、『猫又』なんか連れて帰って来たものだから、寺にいた狐たちには責められましたけどね。それに、ゴンを引き取ることが決まってからも、狐の子たちと喧嘩したりして、よく傷だらけになっていたので、心配事は絶えませんでした…。診療所では、あの子はどんな様子でしょうか?あなた方や患者さんたちと、上手くやっていますか?」
「ゴンがうちの診療所に来てくれて、俺も楓も随分助かってます。傷ついたり、弱っている妖にもすごく優しいですよ、彼は」
俺がそう言うと白蓮は「そうですか」と言って嬉しそうに笑った。
「それに、以前天狗の子をゴンが上手くあやしてくれて、とても助かったことがありました。今日ここに来て、その時のゴンが、あなたにそっくりだったなぁ、と思いましたよ。二人はよく似てますよね」
「似てますか?わたしと、ゴンが?それは…初めて言われました…」
白蓮は驚いた様子で瞬きした。
妖《あやかし》の誕生には、二通りある。野生の狐や狸、人や物などが何かのきっかけで妖になる場合と、もう一つは、妖の子として生まれる場合である。
ゴンの場合は前者であるから、白蓮と血がつながっているわけではないのだが、二人はその仕草や雰囲気、そして妖気がとてもよく似ていた。きっと知らなくても、白蓮がゴンの育ての親だということが分かっただろう、と思えるほどに。
白蓮はゴンと似ていると言われて嬉しかったのか、ちょっと照れくさそうな表情でお茶をすすっていた。
そうしていると、端正な顔立ちの彼は本当に青年のようにしか見えなかったが、何となく俺は、彼が長寿の妖であるような気がしてならなかった。
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