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嫉妬に凍える雪女(後編)
しおりを挟む「あのひとを奪った女は、どこにいる…」
障子の向こうから、ひどく掠れた女の声が聞こえてきた。俺は楓を抱えたまま、声のする方をじっと見つめる。そして、すっと音もなく縁側の障子が開き、声の主が姿を現した。
そこに立っていたのは、思った通り昨日診療所に来ていた雪女だった。
しかし、昨日の様子とはまるで別人だ。美しく整っていた顔は般若のように不気味に引きつり、純白の長い髪が荒れ狂った蛇のようにゆらゆらと揺れている。
雪女はメキメキと畳を凍らせながら俺たちのいる居間に入って来た。
「あんた、どうやってこの家に入って来た⁉」
この家と診療所には結界が張ってあり、親しいもの以外は入れないようになっているのだ。俺は結界に関しては自信があって、特にこんな悪意ムンムンのやつが俺の張った結界を簡単に通過できるはずはなかった。
「あらぁ?結界なんて、穴だらけだったわ」
結界が穴だらけ?一体どういうことだろう。俺が張った結界に穴が開くなんてこと、これまで一度もなかった。
「あの火の暖かさは私のもの。寒い、寒いのよ。私も暖かい火が欲しい。ねぇ、どうして私だけ許されないの。みんな持っているのに。なぜ私だけこんなに寒い思いをするの。教えてちょうだい、神様」
その声には身を焦がされるような悲痛な色が滲み、悲しみとも怒りともつかない目からは涙が溢れていた。
「お前はゴンを監禁したんだろう。そんな事をしても、ひとの心は繋ぎ止められない」
雪女はその言葉にさらに顔を歪ませ、その顔面は、もう元の造形が分からないほどに醜く潰れていった。
「私はただ、ぬくもりが欲しいだけだ!手に入らないなら、捕まえるしかないだろう⁉…その女だって同じだ。私の大切な猫を盗んだのだ。取り返してやる!」
雪女は畳を軋ませながら俺と楓のすぐそばまで迫り、血など通ったことのないような真っ白い手で楓の身体に触れようとした。俺は咄嗟にその手を払いのけ、楓を抱えたまま必死で雪女から距離をとった。しかし、俺ではこれ以上雪女に対抗する術がない。ゴン、早く戻って来てくれ…!
「逃げても、その呪いはもうすぐ完成するわ」
楓が衰弱していくのを見ながら雪女は不気味な声で笑った。その笑い声は聞く者の精神を抉《えぐ》るような不快な響きだった。
何か雪女を退ける方法はないのか。しかし、この寒さの中、すでに俺の意識も朦朧としてきていた。駄目だ何も考えられない。もうここから逃げ出して、今すぐ炬燵にでも潜りたい。…炬燵?
俺は冷たい楓を放り出して、炬燵目掛けて飛びかかった。そして、どこぞの親父よろしく、ちゃぶ台をひっくり返し、中に置いてあった瓶を取り上げた。その瓶をしっかり握りしめ、振りかぶり、雪女めがけて渾身の力を込めて投げつけた。瓶は雪女に命中し、パリンと音を立てて割れ、中から『火の玉』が飛び出す。その火は雪女の髪に燃え移り、瞬く間に全身を包んだ。
「熱いいいいいいいっ!」
雪女は金切り声を上げて庭に飛び出したが、庭には楓が放っておいた竹馬が立てかけてあって、雪女はそれにつまずいて派手に転んだ。そしてそのまま火のついた髪を振り乱して庭でもがき苦しんでいる。
そこにやっとゴンが『呪消《じゅけ》し粉《こ》』を持って戻って来た。
「なんだ!なんだ⁉一体どうなってる?」
ゴンはすぐには状況が飲み込めない様子で、『呪消し粉』が入った壺を握りしめたまま突っ立っていた。俺はゴンが持っている壺をふんだくって庭に降りた。そして、
「還り給へ!」
と叫んで、『呪消し粉』を炎に包まれもがき苦しむ雪女に降りかけた。『呪消し粉』は、呪いを受けたところにかけると解呪剤《げじゅざい》となり、呪をかけた本人にかけると呪詛返《じゅそがえ》しとして作用する。
呪詛返しを受けた雪女は、自分の呪いを受け、まるで本物の雪のようにゆっくりと溶けていった。
俺は溶けていく雪女を見降ろしながら、その身体が消えてなくなる最期の瞬間まで、そのすがるような悲しい目を見つめていた…
ゴンはそんな俺のすぐ側にやってきて、俺の目を覗き込んで言った。
「瑞穂まさか、この雪女まで助けようと、思ってた…?」
「いや…さすがに。殺されるところだったしな。でも少し、哀れな気もするんだ…」
俺はなんだか上手く答えられず、口の中で言葉がまごついた。
その後、氷漬けにされかけた楓は、俺とゴンの介抱で体温を取り戻した。
「うはぁっ!ほんとに死ぬかと思った!」
楓は、俺が作ってやった『燃生姜湯《ねんしょうがゆ》』を一気飲みして叫んだ。
「最初はね、とにかくすっごく寒かったんだけど、途中からは、むしろ暖かくなってきたの。そのうち瑞穂の声がだんだん遠くなっていって、身体がふわふわ浮いていくような感じだった」
「危ないところだったな。今回はほんと、瑞穂の機転に助けられたよ」
「おまえ、何であんなに時間かかってたんだ?」
「『呪消し粉』がどこにあるか分かんなかったんだよ。ちゃんと棚に名札付けといてくれよな」
やっぱりゴンは『呪消し粉』の場所が分からなかったらしい。今度、物品の収納場所も一通り教えておかないといけない。
「それにしても今回は本当に散々だった。もう二度とこんなことは御免だからな」
おれはゴンを、軽く睨みつけた。
「ははは、悪かったよ。まさか雪女が瑞穂の家にまで乗り込んでくるとは思わなかった。それに楓に嫉妬するなんてな!こんなちんちくりんにさ!」
といってゴンは楓の頭をポンポン叩いた。
「ちんちくりんて、ゆうなぁ!ほんとに恐かったんだから」
「ごめん、ごめん。にしてもここ、結界張ってないのかよ?何で雪女が入って来られたんだ?」
「それだ。結界はちゃんと張ってあったはずなんだ。なのに雪女が穴だらけだと…」
雪女の言葉が気になって、家の周りに張った結界を一通り調べてみた。すると雪女が言っていたとおり、家の周りに張ってあった結界には所々穴が開いているのが分かった。
「いつの間にこんな穴が?今までこんなこと無かったのに…」
「なんか思い当たる節はないのか?結界破りが入ったとか、他の神様のいたずらとかさ」
俺はそんなにすごい神力を持っているわけじゃないが結界にはこだわりがあった。かなり精巧なつくりで破られたことなど一度もなければ、綻びが生じることすらまれだ。
「瑞穂の結界って弱いんじゃないの?私だって初めて来たとき、普通に入れちゃったんだから」
「え?それほんとかよ」
「確かにおまえ、初めてここに来たとき、なんの障害もなく入って来てたな。…楓ちょっとそこ歩いてみろ」
楓は言われるがまま、結界の境界線を越えて行ったり来たりしてみせた。すると楓が通ったところの結界が薄くなっているではないか。
「なんじゃこら!」
「えっ何、私何かした?」
「俺聞いたことあるよ、術を使わなくても結界を中和できるやつがいるって。天然の結界破りだよ!楓はもしかして、そういう体質なんじゃないか?」
これは厄介だ。楓がこの結界を中和できるとしたら、その中和防止も織り込んで一から結界を作り直さないといけない。
そこまでやろうと思うとかなり手間がかかるし、材料費も馬鹿にならない。
それに雪女のせいで家中が凍りついて畳や床がひどく痛んでしまったから、その修繕もしないといけないだろう。
そういえば、この間『神堕ち』に襲われたときに放り投げた道具も、半分くらい駄目になってしまったままだった。
俺は頭の中で、諸々の費用をざっと見積もった。そしてその額にめまいがした。なんでこんなに一所懸命働いて…
「赤字になってんだよー‼‼‼」
俺が空に向かって吠えたその声は、一里先の村まで聞こえたという。
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