「神様はつらいよ」〜稲の神様に転生したら、世の中パン派ばかりでした。もう妖を癒すことにします〜

あきゅう

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翡翠の少年(後編)

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「やぁ、小豆のじっちゃん。手の調子はどうだ?」

『小豆洗い』はゆっくりと後ろを振り向いて、俺の顔をまじまじと見つめた。あまり目が良くないらしく、すぐには俺と気づかない。

「おう誰かと思えば、瑞穂先生じゃあないかい。お陰さんで、あかぎれはだいぶよくなったけんど、もう薬が切れそうだったんよ。良い時に来てくれたわ」

 俺は楓が背負っていた風呂敷から、軟膏の入った小さな青い壺を取り出して『小豆洗い』に渡した。『小豆洗い』は、うやうやしく両手を差し出して軟膏壺を受け取った。

「ありがたい、ありがたい。最近、手が荒れて仕方ないんよ。もう歳かね。お?そちらさんは新入りかい?見ない顔だぁね」

「今日から瑞穂先生のところで働いてます。楓といいます。よろしくお願いします!」

 楓はずいっと俺の前に出て、『小豆洗い』に挨拶した。

「元気なのが入ってよかったぁね、先生」

『小豆あらい』はそう言って、びしょびしょの手で俺の背中をバシバシ叩いた。小柄なわりに力が強くて、しかも濡れているものだから余計に衝撃が骨に響いた。

「そういや先生、最近ここいらで『神堕ち』が出たって話だから気いつけな」

『小豆洗い』は急に神妙な顔つきになって言った。

「ほんとか、じっちゃん。…そうか。今日は早く帰ることにするわ。教えてくれてありがとな」

「まだ陽が落ちてないから大丈夫と思うけんど、じき暗くなるからの」

 予定では他にもう一軒往診に行こうと思っていたのだが、『神堕ち』が出たとなると夜になる前に診療所に戻った方がいい。今日は人間の楓を連れているから、なおさら『神堕ち』に出くわしたくなかった。

「楓、そういうことだから急いで帰るぞ」

「え?どういうこと?『神堕ち』ってなに?」

「説明は歩きながらするから、さっさと風呂敷包んで」

 困惑する楓をたきつけて急いで帰路についた。まだ明るいとはいっても陽は今にも山の向こうに消え入りそうで、空を禍々しく朱殷《しゅあん》に染めていた。俺と楓は荷物を抱え、速足で山道を下る。

「ねえちょっと。『神堕ち』ってなんなのよ。そんなにやばいやつなの?」

「『神堕ち』は神様が神格を失って魔物に堕ちたやつのことだ。世の中には他の妖《あやかし》や神を食らうやつはいくらでもいるが、『神堕ち』はその中でも特に質が悪い。元は神様だけに力の強いやつが多いからな」

「何それ超恐いじゃん。でも瑞穂も神様だよね。なら大丈夫…だよね?」

「俺は…」

 その時背後から、ズシン、ズシン、ズシン、ズシンと異様な音が聞こえてきた。俺と楓は同時に後ろを振り返る。すると俺たちが今やって来た道を、大きな蜘蛛のような化け物がこちらに向かって走ってくるのが見えた。牛よりも大きな丸い胴体に、歪《いびつ》に裂けた口とぎょろついた複数の目がついていて、全身の皮膚は人間の肌のような色をしている。その異様な姿はまるで大きな人間の顔から蜘蛛の足が生えているような恰好だった。

 俺と楓はくるりと前を向いて一心不乱に走り出す。

「瑞穂!お祓い、とかで、何とか、してよ!」

「俺は稲の神、だぞ!戦うのは、専門外だ!」

「うそぉ。もう、無理い!あんなのに食われるの、いやああー‼」

 楓は走りながら泣きべそをかいていた。俺だって泣きたい気分だ。
 くそっ。やっぱり二人目のバイトが見つかるまで楓と遠くに出るのは避けるべきだった。

 楓には妖《あやかし》に擬態する『目くらましの術』をかけているが、まだ人間の匂いは完全に隠しきれていない。普通の妖なら分からないレベルだが『神堕ち』はそういう匂いに敏感なのだ。きっとあの『神堕ち』は楓の匂いに惹きつけられて俺たちのところにやって来たに違いない。少しくらい診療所から離れても大丈夫だろうと思ったが、俺の考えが甘かった。

「楓!荷物捨てるぞ!その風呂敷、投げ捨てろ!」

 俺と楓は持っていた荷物をかなぐり捨て、少しでも身軽にして走り続けた。それでも『神堕ち』は徐々に距離を詰めてきている。西の空に微かに頭をのぞかせていた太陽も完全に山の向こうに姿を消し、すでに夜の帳が下りていた。いよいよもって絶望的な状況だ。

 さらに追い風に乗って鼻がもげそうなくらいひどい臭いが、前を走る俺たちにまで届いた。あまりの悪臭に上手く呼吸ができない。ただでさえ息絶え絶えなところに追い打ちをかけてくる。
 診療所まであと少しだというのに、俺も楓もすでに体力の限界を迎えていた。ほんのわずかな距離が千里にも感じられる。

 とその時、辺りが急に明るくなった。そして爆音とともに背中に熱風が吹き付けられる。振り返ると、先ほどの『神堕ち』が青い炎に包まれ勢いよく燃えていた。
 俺と楓は唖然として、その光景を眺めた。


「ここらで診療所やってるってのは、あんたらかー?」

 見つめていた炎の向こう側から若い男が現れた。俺より少し背が低く、卯の花色の筒袖に山葵色の括袴を着た姿は少年のようにも見える。縦長の瞳孔、そしてこの妖術からすると『妖狐』だろうか。

「えっと、どちら様で?」

「俺は『猫又』のゴンだ」

 男は素っ気ない調子で言った。茅色の柔らかそうな短い髪が、炎風を受けてさらさらと舞っている。爆炎のすぐそばに立っているというのに、その翡翠のような瞳は、彼の端正な顔立ちと相まって涼しげな印象を与えていた。

「もしかして、あなたが助けてくれたの?」

 楓は自分が涙と爆炎の煤とでぐちょぐちょの顔になっているのには気づかず、『猫又』のそばにかけていった。

「うんそうだよ。バイトの面接に来たんだけど、あんたらが追いかけられてるのが見えたからね。さすがに走りながら話しはできないでしょ?」

 やはり『神堕ち』を祓ってくれたのはこの『猫又』だったらしい。もしこの男が来てくれなかったら、俺たちは今頃仲良く『神堕ち』の腹の中にいただろう。それにしても、今まで面接に来る奴なんか全然いなかったのに、よくもまあいいタイミングで来てくれたものだ。

「助かったよ。ええと、ゴンさん。診療所のバイトの面接に来てくれたんだね。ビラを見てくれたのかな?」

「いや?『一つ眼』のお姉さんに聞いたんだけど」

『一つ眼女』は先ほど楓がバイト募集の件を触れて回ったあやかしの一人である。
 俺と楓は彼の言葉に顔を見合わせ、思わず抱きしめ合った。楓の涙と鼻水が俺の着物にべっちょり着いたのが分かったが、今はそんなこと、どうでも良いと思えた。


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