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第12章
165 休養
しおりを挟む「…レティシアちゃん…」
「イグニス卿…?」
「…休んでいるところを申し訳ない。少し、事件の話を聞かせて貰ってもいいかな…?」
「えぇ、どうぞ」
誘拐事件から二日目の朝、聖女宮の治療室にひょっこり顔を出したのはカイン。
昨日の夕方、事件の捜査をする王国騎士団は、被害者の一人であるレティシアに事情聴取の申し入れをしていた。
「…本当に、無事でよかった…」
「今回、イグニス卿が騎士団に協力を要請してくださったと殿下からお聞きしました。ありがとうございます、お礼を申し上げるのが遅くなって…」
「いや、報告をしただけで大したことはしていない…団長の判断だ。まぁ、だけど…俺が率先して動かないとね…」
「…お疲れ様です…」
ルビーのように赤く鋭い印象的な瞳を持つカインの目の周りは青黒く翳り、隠せない疲労感が滲み出ている。
いつもの明るく弾けた口調はどこへ行ったのか?言葉には、力強さや覇気が感じられない。
「近衛騎士隊を率いる由緒正しき侯爵家が、まさか誘拐事件と繋がるとは。犯罪の証拠固めはスピード勝負…寝てる暇もない」
「顔色がよくありませんよ、大丈夫ですか…?」
抱えていた書類ケースの中にある分厚い紙やペンを…やや緩慢な動きでテーブルに並べていくカインの様子に、思わず声を掛けた。
「…レティシアちゃんが優しい…俺『書類仕事は向いてない』って皆に言われているんだけど、今日は頑張る」
「………苦手そう…」
「…嘘でもいいから…応援して…」
カインが勇ましく戦う姿は想像できても、デスクワークをする絵が思い浮かばなかったのだから…仕方がない。
しょぼくれたカインを見て、レティシアは軽く咳払いをする。
「誰かに変わっていただくとか…イグニス卿は、仮眠を取ったほうがいいのでは?」
「レティシアちゃんと面識のある正騎士や事務官がいないんだ。そんな男を二人もここへ近寄らせたら、レイが烈火の如く怒るに決まってる…俺と違って、皆ゴツくて厳ついし…」
事情聴取は騎士と事務官のペアで執り行うのが基本、事務官一人では役目を果たせない。騎士は、聴き取りはできても自ら調書を纏めるのが難しく、必然的に事務官と二人になる。
騎士よりも人数が少なく多忙な事務官を、カインは敢えて同行しなかったのだ。
(殿下が怒るだなんて言って…私を気遣ってくれたのね)
違法薬物を介してウィンザム侯爵家と癒着していた他貴族を洗い出すため、カインは事件の夜から今まで奔走し続けていた。
二日間ろくに睡眠も取れずにいたところ、やっと与えられた半日間の休息…その貴重な時間に聖女宮へと出向き、現在に至る。
「…エメリアさんに、飲物と軽食の用意をお願いしようかな…」
室内にいた側付きのカーラとパトリシアは、真面目な顔で微かに唸るレティシアの呟きを耳にして、顔を見合わせ微笑む。
安らぎのひと時には、エメリアの淹れる紅茶が味も香りも一番だと…レティシアが好んで飲むのを知っていた。
「アリス様、よろしければ…私がお伝えしてまいります」
「…カーラさん…えぇ、そうね。エメリアさんが忙しそうなら、簡単な食事を厨房に頼んでくださる」
「畏まりました」
♢
カインはベッド付近に防音魔法を施し、レティシアの話を聞いてはその内容を手早く用紙へと書き記した。魔導具も使い、正しく記録を残す手順は完璧。
どうやら、彼の問題点は“酷い悪筆”のみだと分かる。ただし、その一点が事務処理において致命的なのは言うまでもない。
いつの間にか、エメリアの運んで来た紅茶と一口サイズのサンドイッチは…綺麗になくなっていた。
「ルークたちの話とも相違点はないみたいだ、他に気になったことはある?」
体調に問題のなかったルークとロザリーは、昨日の内に騎士団の呼び出しに応じて聴取を受け、兄妹揃ってユティス公爵家へ戻っている。
「…そういえば、キュルスという男が倉庫に転がり込んで来た時、殿下を見て王子って言ったんです…」
「王子?」
「そう聞こえました。変ですよね?不思議に思って…その直後に、ルークが人狼の姿で現れたから…忘れてしまっていたわ」
「…王子か…レイが王子と呼ばれていたのは、アヴェル様が国王陛下だったころまでだけど…」
(キュルスは、殿下の王子様時代を知っている?そうでなければ…あの状況で王子だなんて言葉は出ないもの)
「レイは何も言っていなかった…俺もキュルスという名に覚えはない。しかし、あれは謎が多い男だ。ルークと同じ人狼の血を引く者だったと聞いて驚いた」
「…え?…赤い髪ではなかったはず…」
「魔法で姿を変えていたんだよ」
「…あぁ…魔法を使って…でも待って、ルークやロザリーは魔力がないのにどうして?…そもそも、同じ一族の男がロザリーを攫った理由は一体何なのかしら…?」
レティシアの頭は混乱し始める。
考えてみれば、赤髪の一族が狙われる…その根本的な部分をまだ知らなかった。
「キュルスがどういう男かは、我々騎士団も帝国魔塔の大魔術師殿より知らせを待っている状態で何とも言えない。赤髪の一族については、さて…俺が話していいものか…」
不意に、カインは遠い目をする。
そこから、アシュリーと兄妹の出会いをゆっくりと語り…赤髪の一族を違法薬物の素材として扱う、欲深い貴族たちと闇組織の忌わしい行いをレティシアにも理解できるように伝えた。
「イグニス卿が話してくださって…よかったです」
「…そうかな…」
「えぇ…二人に直接聞いていたら、辛い出来事を思い出させてしまったでしょう…」
「…大丈夫?」
紺碧の瞳を涙でいっぱいにしていたレティシアは、差し出されたハンカチを素直に受け取る。
──────────
「レティシア、おかえり」
「殿下?」
入浴を終えて治療室へ戻ったレティシアは、マグカップを手に持ってニコニコして待っているアシュリーの姿にキョトンとした。
レティシアに付き添っていたジェイリーは、サッと一礼して静かに部屋を出て行く。
「体調はどうだろうか?」
「…今は、お腹が少し痛いだけ…」
「そうか…では、ここへ座って…これを飲んでみて」
「…ホットミルク?」
レティシアはソファーに腰掛けると、魔法で適温になっているカップを受け取り…先ずは一口、そっと口に含んだ。
「…ん?ハチミツ?…甘くて美味しい!」
「よかった。今は身体を温めるほうがいいと聞いて、エメリアに教えて貰って作ってみた。それに、ハニーミルクを飲むとよく眠れるらしい」
「…作った…殿下が?」
「すまない…大層に言い過ぎた、混ぜただけだ…」
(…私のために…)
思いやり溢れる優しい気遣いがうれしかった。照れくさそうに頬を染めるアシュリーが、とても愛おしく感じられる。
ホットミルクを飲み干して一息つくと、心も身体もポカポカと温まったレティシアの口元が自然と緩む。
「…ふふっ…幸せ…」
♢
「明後日には聖女宮を出ると、聞いているか?」
「あ…サオリさんから聞きました。でも、まだ仕事に行っては駄目だって」
「一週間は無理せず休め。今は指輪もないだろう?聖女様は気にされているんだと思う」
「…指輪、そうだった…でも、加護があれば安心でしょう?」
「分かっている。姉として…気持ちの問題だよ」
(…そうよね…たくさん心配をかけてしまったわ…)
ハチミツ入りホットミルクの効果なのか、少し眠気を感じたレティシアは、甘えるようにアシュリーの胸へ頬を擦り寄せた。
「レティシア、これからは…私と一緒に住まないか?」
「…殿下と?…私も大公邸に?」
「そう、叔父上のところへは戻らずに…」
「……誘拐事件があったせい?」
「それもある…寿命が縮まるどころか、心臓が止まるくらい苦しい思いをして、君がどれ程大切な存在か改めて身に沁みた。だけど、私の側にいて欲しいという強い願いはずっと変わらないよ」
アシュリーは落ち着きのない手つきで、レティシアの肩から背中へと繰り返し手を滑らせる。
「実は、新しく住み込みの女性使用人を多く雇った。レティシアに不便な思いはさせない。公爵家の許可を得て、ロザリーや他の使用人たちも何人か移って来る予定だ」
(…それって、前から準備していたみたいに聞こえる…)
「レティシア…頼む、私の言う通りにしてくれないか?」
懇願するアシュリーの…黄金色の瞳が情熱的に揺らめくのを見ながら、レティシアはコクリと頷いた。
「“同棲”ですね」
「……ど…??」
────────── next 166 休養2
読んで下さる皆様、いつも本当にありがとうございます。
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