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第10章
148 二人きりの夜2
しおりを挟む現公爵邸は、ユティス公爵がラスティア国の大公だった君主時代、別邸として使っていた城だ。
他国からやって来たクロエ夫人は結婚前の婚約期間をここで過ごし、大公妃となるために多くのことを学びつつ魔法の国に馴染んでいったという。
現在、当時クロエ夫人が使っていた豪華な部屋に居候中のレティシアには、護衛、世話係、剣術の先生がついて、有り難いことにかなりの厚遇を受けている。
整った環境ではあるものの、レティシア自身の生活は自由で素朴だった。
日頃、制服かワンピースやズボンしか着ないため、ドレスもそれを飾る高価な宝飾品も必要がなく、クローゼット内はガランとしていて却って申し訳ないとすら思っている。朝夕の食事は公爵家敷地内の食堂、昼食は宮殿に出入りする業者に注文したお弁当を食べていて、味、量共に大変満足していた。
秘書官の仕事に励んでお給料を心待ちにする…至って普通の暮らし。今が一番幸せだと感じている。
そんな毎日を過ごすレティシアの恋人が『とびっきり格好いい若い大公殿下』であるという事実だけが、普通ではなかった。
──────────
──────────
湯気で白くけぶる広い浴室内の床の上を、たっぷりの泡と湯が滑るように流れ去る。
落ち着いた色合いのマーブル模様が浮き上がった大理石にペタリと座り込んだレティシアは、長い黒髪を手に取ってヘアオイルを少しずつ馴染ませながら目の荒い櫛で丁寧に梳いていく。
「これで、髪の手入れは終わったわ」
アシュリーの希望通り、二人は混浴中。
茶会の疲れから回復したレティシアは、予定外の剣術稽古で汗をかいたアシュリーの世話を買って出た。…決してご機嫌取りではない。
湯船に浸かり、レティシアの膝へ頭を少し乗せた状態でまどろむアシュリーの安心しきった寝姿は母性本能を擽る。
(…気持ちよかったのかな?…)
濡れた漆黒の前髪をそっと指先で撫でると、目を開いてホウッと柔らかな息を吐いた。
「殿下、お目覚めですか?」
「あぁ…とてもいい気分だ。まさか、私の髪を洗ってくれる女神が現れるとは思いもしなかった」
「ふふっ、大袈裟ね」
(…女神って、今日どこかでも聞いたような…?)
貴族の生活では、快適な入浴タイムを過ごすために介添えが必要とされている。しかし、その役目を務めるのはやはり女性。
今まで、髪や身体の洗浄を自らの魔法で済ませていた彼には、レティシアが女神に見えたのだろう。
「レティシア、寒くはないか?」
「平気よ、魔導具のお陰で浴室は温かいもの」
「…おいで…」
「え……殿下、わっ!」
─ ザブンッ! ─
身を乗り出したアシュリーが、レティシアを湯船の中へと引き込む。
少し冷えた湯着の首元や肩に湯を掛けて気遣う彼に抱き締められて、熱に触れた身体がじんわりと痺れるように温まっていった。
(あれ?…魔力香が少し弱い?)
「…殿下、疲れてませんか…?」
「ぅん?まぁ…ちょっと困った問題が起きたから、考え過ぎていたかもしれないな。その懸念を払拭して、頭を切り替えるつもりで稽古に集中したはずだったんだが…」
(えっ、そうだったの?!)
「今は…可愛い恋人が、逞しい筋肉に目がなくて困っている…」
「…あぅ…」
レティシアが思わず小さく呻いて萎れていると、笑みを浮かべて顔を寄せたアシュリーがツンと鼻先を合わせた後に…優しく唇を啄んだ。
「…まだ唇が冷たいな…」
そう言うと、瞳の奥を欲望で赤く光らせて唇に齧りつく。執拗に咥内を責め、堪らず快感に喘ぐレティシアのしなやかな身体に指を這わせて水着の中に容易く侵入する。アシュリーは真っ白な肌の手触りを堪能し、何度も吸い付いた。
♢
「…ふぅ…」
いつものモコモコパジャマを身に着けて、果実水で喉を潤す。
アシュリーにたっぷりと愛でられ、のぼせたように赤く火照ったレティシアの顔が、パウダールームの大きな鏡に映っている。
身体に淡く色付いた所有印は、一つや二つではない。目立たない場所に痕を残すことを心掛けたと話す彼は、どこか誇らしげだった。
「それでは、レティシア様…ごゆっくりお過ごしください」
「ありがとう、ロザリー」
今夜はナイトドレスではなくパジャマを用意するよう、アシュリーがロザリーへ事前に頼んでいたらしい。
レティシアとて、明日の朝に再び“す巻き状態”で目覚める事態は避けたいと思っていたのでパジャマは大歓迎だ。唯一問題があるとするなら、その理由を『お腹が冷えて風邪をひいたらよくない』と述べたことだろう。
──────────
「異世界から来たレティシアには理解し難く、煩わしい話だと分かっている。とりあえず説明をさせて貰いたい。先ず…公認の恋人とは何かを…」
アシュリーは、レティシアが公認の恋人になったことを『心からうれしい』と喜んだ。ただし…それに伴って、王国の古いしきたりに従わざるを得ない、どうしても避けられない部分があった。
公認の恋人とそこに深く関わる刻印については、男性目線で多少ニュアンスが違って聞こえる箇所もあったが、すでに耳にしていた内容とほぼ同じ。
「…ここまでの話で、不明な点はないか?」
「今のところは」
「では…ここから先の話は、他言無用で頼む。外部には知られていない話になる」
「はい」
「刻印は、特別な契約魔法を施した部屋で行う。つまり…寝室だな」
「…あ、部屋に魔法を…」
公認の恋人が王族の寝室へ出入りが許されているのも、そういうことかと…レティシアは頷く。
「そう、女性が身支度をしている間に、男性王族が寝室の準備をするのが習わしとなっている。正式に伴侶を定める刻印の儀と、一度目…仮初めの刻印では施す魔法に違いがある」
「違い?」
「一番の違いは、真名が必要かどうかだ」
「…真名…」
契約魔法について細かなことを口外できないアシュリーは、仮初めの刻印では真名を使わず血判した紙で代用するとだけ…レティシアに話す。
「だから、契約の効力は三ヶ月程度と短くなっている」
「…なるほど…」
延長するには契約更新…刻印の上書きが必要となる。『お試し期間』と呼ばれるわけが理解できた。
紋様が現れない可能性を考えれば、一度目の刻印で真名を明かさないのは安全面でも大きな意味を持っている。
他にも、刻印後は定期的に身体の検査を受ける決まりなど、一通りを話し終えたアシュリーは、テーブルに置かれたグラスの水を一気に飲み干した。
「殿下?」
「…はぁ…緊張した…」
「え?」
「…上手く話せるか…心配していたんだ…」
瑠璃色の瞳を丸くするレティシアを後ろから抱き込むと、乾かしたばかりの髪に鼻先を埋める。末っ子のアシュリーは、相変わらずの甘え上手だ。
「…話している時は、全然そんな風に見えてなかったのに…」
「…聞いてくれてありがとう…」
「はい」
持っていた多くの情報との答え合わせを終えて、レティシアは今の立場をしっかりと認識し、覚悟を決めなければならない。
♢
「さっき話した通り、刻印には真名や血判が要る。お互いの同意がなければ執り行えない。…君の意思を聞きたいと思っている」
アシュリーは腕の中のレティシアの顔を敢えて見ないようにして、耳元で切なく囁いた。
「…私は…レティシアと結ばれたい…」
「…………」
背中には、アシュリーの激しい鼓動がドクドクと響いて来る。
「殿下、私…今がとても幸せで」
「…うん…」
「…だから…これから先も、殿下のお側にいたいです…」
「…っ……それは…」
アシュリーがレティシアの顔を覗き込み、頬を両手で引き寄せると…耳まで真っ赤に染めたレティシアが、恥ずかしそうに呟いた。
「私にこうして触れられるのは、殿下だけなんです。私は殿下と結ばれる運命だと…そう思ってもいいですか?」
───────── next 149 ジュリオン・トラス
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