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第三章 黒羽の朧宮主
第41話 居心地の良い場所
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五狼の毛並みを撫でながら、考える。
葉雪の置かれている状況は、どう考えても芳しくない。しかしいつもなら過敏なほどに働く危機感が、まったく湧いてこないのだ。
現に葉雪は、五狼と戯れる余裕があるほどに、落ち着いてしまっている。ここは知らない場所であるのに、居心地が良すぎるのだ。
意図してでは無いと思うが、黒羽のこの宮には葉雪の好きなものが散りばめてある。
葉雪の好きな香が控えめに焚かれ、丸く切り抜かれている窓からは、白い花の咲く梅の木が見える。
寝台は豪華過ぎるが寝心地は抜群で、窓の外を眺めながらのんびりするのも悪くない。
(……こんなにゆっくりしたのは……生まれて初めてかもしれないな……)
昊穹にいた頃は、言うまでもなく多忙だった。人間界に降りてからも料理人として過ごすのが楽しく、休日も食材探しなどで動き回っていたのだ。
こうして何をするわけでもなくのんびりと過ごすのは、初めての経験だった。
「宮主」
呼ばれて視線を上げれば、寝室の扉に人影が映っている。この宮で働いている侍女の長である、鐸巳だ。
(……おお、気が付かなかった。ふふ、相変わらず気配が薄い)
鐸巳は侍女であるはずなのに、立ち振る舞いや雰囲気がどこか人間離れしている。
しかし悪意はまったく感じず、さばさばとした性格も相まってか、葉雪はすっかり彼女に信頼感を抱いていた。
葉雪は立ち上がると、五狼を抱いて声を返す。
「鐸巳、入って構わない」
「失礼いたします」
鐸巳は寝室へ入ると、寝台から出ている葉雪に眉山を吊り上げた。小言を言われるか、と葉雪が構えていると、予想に反して鐸巳はにこりと笑う。
「体調はいかがですか? 宜しければ庭へとご案内しますが……」
「……っ良いのか? 行く!」
ちらちらと見えてはいたが、この宮の外には大きな庭園がある。風に乗って運ばれてくる香りは、瑞々しい樹木と花から放たれているものだろう。
そして耳に届くのは、清らかな水の音。きっと庭園には池がある。
見てみたくて仕方がなかったが、頼める立場でもない。今日まで大人しく寝室に留まるしかなかった。
飛びつくように返事を返す葉雪に、鐸巳はくすくすと笑いを零す。
「宮主は、庭園が好きなので?」
「うん。そうだな、好きだ」
「殿方なのに、珍しゅうございますね」
「そうか?」
鐸巳の言葉に答えながら、葉雪は最低限の身だしなみを整えた。中衣の襟を整え、扉に手を掛けようとしたところで、鐸巳の声が耳へと届く。
「宮主。まさかその格好で外へ出られるおつもりですか?」
「そうだけど、どうしてだ?」
「いけません。お召替えを致しましょう」
「面倒だ。このままでいい」
ちょっと庭に出るだけだろ、と葉雪は小首を傾げる。
確かに寝間着姿ではあるが、ここの中衣はかなり造りがしっかりしている。だらしなさは無いはずだ。
しかし鐸巳は許さず、女性にしては逞しい眉をきっと上げる。
「身体を冷やすといけませんし、宮主の中衣姿など人の目に触れさせてはなりません」
「……私は危険物か何かか? 男の寝間着姿など、見たくないなら見なければいいだろう」
「いいえ、宮主を守るためです」
鐸巳がきっぱり言い放つのと同じくして、扉の外に新たな人影が現れた。小さな影は扉を押し開き、寝室へと入ってくる。
満面の笑みで寝室へ入ってきたのは、青年になって間も無いほどの男児だ。
真っ直ぐ切り揃えられた前髪、その下にある瞳はくりくりと大きい。着ているものが男物でなければ、女児と見間違うほどの愛らしさだ。
青年は葉雪に目を移すと、更に眉を下げる。
「大主!」
「……ん?」
「ぼくです! 九兎です!」
「九兎!?」
「はい、太主!」
青年は元気に返事をすると、振り返って腰を突き出した。尻のあたりに生えているのは、紛うことなく兎の尻尾だ。
得意げに笑う九兎に、葉雪は歩み寄った。
「九兎! すごいな、立派な人型だ!」
「黒羽の方々に教えてもらったのです!」
「そうなのか。こんな短期間で……大したもんだな」
黒羽の神獣は、人型への変化に長けていると聞く。獣の姿を捨て、人と共に生きていく者らもいるようだ。変化の仕方だけみれば、昊穹の神獣よりも長けているかもしれない。
尻尾以外は見事に人間になり切っている九兎が、へへ、と得意げに笑う。そして抱え込んでいた服を、鐸巳へと差し出した。
きっちりと畳まれているその服は、誰がどう見ても一級品だ。
特殊な糸で刺繍が施されているのか、光を受けると様々な色へと変化する。高い地位を持つ者しか身につける権利のない逸品だろう。
葉雪は仰け反りながら、その衣へ視線を落とした。
「まさかとは思うが……それを私が?」
「もちろん宮主のものです」
「どうして私がこんなものを着るんだ? 今更だが、人違いじゃないか? 私はこんな待遇を受ける身分では無い」
「まさか。人違いなどありえません」
九兎から服を受け取り、鐸巳はてきぱきと支度を始めた。袖口を広げ、ささやかな抵抗を示す葉雪の腕を、問答無用とばかりに服へと突っ込んでいく。
「主上本人が、貴方さまを直々にここへと運んだんですよ? 宮主は仮面も付けていませんでしたし、主上本人も宮主の顔を何度も見ていました。……もしも人違いであるなら、黒羽の王はとんだ間抜け野郎です」
「……い、言うねぇ」
「……まぁ……ほんとに少々間抜けかもしれませんが」
「うん?」
小さく呟く言葉が聞き取れず、葉雪は鐸巳の顔を覗きこんだ。鐸巳は誤魔化すように小さく微笑むが、言葉を続ける。
「うちの主上は、国民に愛され、尊敬されている偉大な王です。黒羽の王族は天上人と同じく長命なので、崇拝されているといっても過言ではありません。そんな超絶完璧な王ですが……弱点はあります」
「そりゃあ、王だって人間だからな。柔い部分だってあるだろう」
「はい。その弱点の為に尽力していたはずなのに、いざとなると失敗するんです。……何より大事な人を傷つけたと、ひどく落ち込んでいます。困った王です」
「そうなのか。意外だな」
帯を締められながら、葉雪は頬を緩ませた。
書庫では正に『暴君』だった鵠玄楚にも、意外に人間臭いところがあったようだ。国民に愛されているという事実も、旧友として微笑ましい。
やはり鵠玄楚は、瀾鐘としての優しさを失っていないのかもしれない。
葉雪の置かれている状況は、どう考えても芳しくない。しかしいつもなら過敏なほどに働く危機感が、まったく湧いてこないのだ。
現に葉雪は、五狼と戯れる余裕があるほどに、落ち着いてしまっている。ここは知らない場所であるのに、居心地が良すぎるのだ。
意図してでは無いと思うが、黒羽のこの宮には葉雪の好きなものが散りばめてある。
葉雪の好きな香が控えめに焚かれ、丸く切り抜かれている窓からは、白い花の咲く梅の木が見える。
寝台は豪華過ぎるが寝心地は抜群で、窓の外を眺めながらのんびりするのも悪くない。
(……こんなにゆっくりしたのは……生まれて初めてかもしれないな……)
昊穹にいた頃は、言うまでもなく多忙だった。人間界に降りてからも料理人として過ごすのが楽しく、休日も食材探しなどで動き回っていたのだ。
こうして何をするわけでもなくのんびりと過ごすのは、初めての経験だった。
「宮主」
呼ばれて視線を上げれば、寝室の扉に人影が映っている。この宮で働いている侍女の長である、鐸巳だ。
(……おお、気が付かなかった。ふふ、相変わらず気配が薄い)
鐸巳は侍女であるはずなのに、立ち振る舞いや雰囲気がどこか人間離れしている。
しかし悪意はまったく感じず、さばさばとした性格も相まってか、葉雪はすっかり彼女に信頼感を抱いていた。
葉雪は立ち上がると、五狼を抱いて声を返す。
「鐸巳、入って構わない」
「失礼いたします」
鐸巳は寝室へ入ると、寝台から出ている葉雪に眉山を吊り上げた。小言を言われるか、と葉雪が構えていると、予想に反して鐸巳はにこりと笑う。
「体調はいかがですか? 宜しければ庭へとご案内しますが……」
「……っ良いのか? 行く!」
ちらちらと見えてはいたが、この宮の外には大きな庭園がある。風に乗って運ばれてくる香りは、瑞々しい樹木と花から放たれているものだろう。
そして耳に届くのは、清らかな水の音。きっと庭園には池がある。
見てみたくて仕方がなかったが、頼める立場でもない。今日まで大人しく寝室に留まるしかなかった。
飛びつくように返事を返す葉雪に、鐸巳はくすくすと笑いを零す。
「宮主は、庭園が好きなので?」
「うん。そうだな、好きだ」
「殿方なのに、珍しゅうございますね」
「そうか?」
鐸巳の言葉に答えながら、葉雪は最低限の身だしなみを整えた。中衣の襟を整え、扉に手を掛けようとしたところで、鐸巳の声が耳へと届く。
「宮主。まさかその格好で外へ出られるおつもりですか?」
「そうだけど、どうしてだ?」
「いけません。お召替えを致しましょう」
「面倒だ。このままでいい」
ちょっと庭に出るだけだろ、と葉雪は小首を傾げる。
確かに寝間着姿ではあるが、ここの中衣はかなり造りがしっかりしている。だらしなさは無いはずだ。
しかし鐸巳は許さず、女性にしては逞しい眉をきっと上げる。
「身体を冷やすといけませんし、宮主の中衣姿など人の目に触れさせてはなりません」
「……私は危険物か何かか? 男の寝間着姿など、見たくないなら見なければいいだろう」
「いいえ、宮主を守るためです」
鐸巳がきっぱり言い放つのと同じくして、扉の外に新たな人影が現れた。小さな影は扉を押し開き、寝室へと入ってくる。
満面の笑みで寝室へ入ってきたのは、青年になって間も無いほどの男児だ。
真っ直ぐ切り揃えられた前髪、その下にある瞳はくりくりと大きい。着ているものが男物でなければ、女児と見間違うほどの愛らしさだ。
青年は葉雪に目を移すと、更に眉を下げる。
「大主!」
「……ん?」
「ぼくです! 九兎です!」
「九兎!?」
「はい、太主!」
青年は元気に返事をすると、振り返って腰を突き出した。尻のあたりに生えているのは、紛うことなく兎の尻尾だ。
得意げに笑う九兎に、葉雪は歩み寄った。
「九兎! すごいな、立派な人型だ!」
「黒羽の方々に教えてもらったのです!」
「そうなのか。こんな短期間で……大したもんだな」
黒羽の神獣は、人型への変化に長けていると聞く。獣の姿を捨て、人と共に生きていく者らもいるようだ。変化の仕方だけみれば、昊穹の神獣よりも長けているかもしれない。
尻尾以外は見事に人間になり切っている九兎が、へへ、と得意げに笑う。そして抱え込んでいた服を、鐸巳へと差し出した。
きっちりと畳まれているその服は、誰がどう見ても一級品だ。
特殊な糸で刺繍が施されているのか、光を受けると様々な色へと変化する。高い地位を持つ者しか身につける権利のない逸品だろう。
葉雪は仰け反りながら、その衣へ視線を落とした。
「まさかとは思うが……それを私が?」
「もちろん宮主のものです」
「どうして私がこんなものを着るんだ? 今更だが、人違いじゃないか? 私はこんな待遇を受ける身分では無い」
「まさか。人違いなどありえません」
九兎から服を受け取り、鐸巳はてきぱきと支度を始めた。袖口を広げ、ささやかな抵抗を示す葉雪の腕を、問答無用とばかりに服へと突っ込んでいく。
「主上本人が、貴方さまを直々にここへと運んだんですよ? 宮主は仮面も付けていませんでしたし、主上本人も宮主の顔を何度も見ていました。……もしも人違いであるなら、黒羽の王はとんだ間抜け野郎です」
「……い、言うねぇ」
「……まぁ……ほんとに少々間抜けかもしれませんが」
「うん?」
小さく呟く言葉が聞き取れず、葉雪は鐸巳の顔を覗きこんだ。鐸巳は誤魔化すように小さく微笑むが、言葉を続ける。
「うちの主上は、国民に愛され、尊敬されている偉大な王です。黒羽の王族は天上人と同じく長命なので、崇拝されているといっても過言ではありません。そんな超絶完璧な王ですが……弱点はあります」
「そりゃあ、王だって人間だからな。柔い部分だってあるだろう」
「はい。その弱点の為に尽力していたはずなのに、いざとなると失敗するんです。……何より大事な人を傷つけたと、ひどく落ち込んでいます。困った王です」
「そうなのか。意外だな」
帯を締められながら、葉雪は頬を緩ませた。
書庫では正に『暴君』だった鵠玄楚にも、意外に人間臭いところがあったようだ。国民に愛されているという事実も、旧友として微笑ましい。
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