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第一章 最期の試練
章末 最期に立ち会う
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家へと帰った葉雪は、緩くまとめていた髪を解き、裏手の井戸で髪をすすぐ。
染料を落とすために石鹸を使い、丹念に髪を洗い流していった。
染料で汚れた水が、身体を伝って流れていく。
茶褐色に染められた水たまりは、葉雪が水を浴びる度に範囲を広げていった。
「大主」
一鹿の声が後ろから掛けられる。しかし葉雪は黙ったまま、髪を解かし続けた。
真っ白な髪が露わになると、おのずと指通りも滑らかになる。
「大主。井戸の水では、身体が冷えます」
「……もう洗い終わりだ」
釣瓶を井戸の淵に置きながら言うと、一鹿が葉雪の身体を布で包んだ。
別の布で葉雪の髪を拭いながら、一鹿は大きく息を吸う。そして意を決したかのように、口を開いた。
「……西の戦は、もう終わったと聞きます。多数の戦死者は出ましたが、丈の勝利だと」
「そうか」
「それでも、行かれるのですか?」
「連れて行ってくれるか? 一鹿」
「……大主の命ならば」
一鹿が眉根を寄せて頷くと、葉雪は彼の肩を慰めるように叩く。そして彼の手から布を受け取り、自ら髪の雫を拭いながら家へと入った。
用意してあった藍白の袍を身に着け、朱色の革帯を締める。一鹿が葉雪の髪を梳くと、真っ直ぐな髪は腰まで垂れた。
昊穹にいた頃は、こうして髪も結わないまま過ごしていた。染料を落としたせいか、頭も軽く感じる。
「では行くぞ、一鹿」
「はい」
一鹿の身体が淡く光り、きゅっと萎むと球体となった。それが形を成し、巨大な雄鹿の姿と変化していく。美しい銀色の獣毛を持ち、背中にある鬣となる部分だけが鈍色で長い。
その鬣を撫でながら、葉雪は戸口を開ける。戸枠で切り取られた空は暖色で染まっていた。
(……阿嵐、この空を見ているか?)
今日の夕焼けは、まるで最期に抗おうとするような赤だった。
*
西の戦場は、未だ戦の炎が燻ったままだった。
国境を守る要となった城砦は崩れ落ち、周辺には戦死者がごろごろと転がっている。火責めでも受けたのか、あちこちから火の手が上がっていた。
地獄絵図の中、葉雪は雲嵐の姿を探す。しかし探すまでもなく、まるで最初から知っていたかのように、その姿を見つける。
崩れ落ちた城砦の陰。柱に凭れ掛かるようにして、雲嵐は横たわっていた。
腹部から下は瓦礫に潰され、そこにも残り火が燻っている。
生きてはいるが、生き残りとして認識されなかったのだろう。雲嵐は戦死者として、戦場に取り残されていた。
煙る戦地を踏みしめ、葉雪は雲嵐へ歩み寄る。
葉雪でなければ、それが肖雲嵐とは判らなかっただろう。彼の顔は半分が焼けただれ、美しかった瞳も白濁している。
苦悶の表情を薄く浮かべ、彼は残った片目で虚空を見つめていた。しかし視界に葉雪が入ると、焼けてまばらになった眉を寄せる。
「……し……ぁ……」
気管も焼けてしまったのか、雲嵐は声を出そうとする度に顔を歪める。口腔内には血が満ちて、唇を動かす度にそれが溢れ出す。
しかし彼は、必死に言葉を紡ごうとしていた。
今日は、運命簿に書かれていた彼の最期の日だ。
雲嵐は死ぬ。それは避けられない。
葉雪は膝を付き、雲嵐の顔を覗き込んだ。その頬に手を添えると、彼の髪を結っている布が目に入る。
葉雪の手巾だ。
あの日王都で、雲嵐のこめかみに押し当てた、あの手巾だ。
彼の血で染まった手巾は、未だ彼の髪にしがみついていた。
「……っ」
雲嵐に触れている指が、恐怖で震える。
今日、この男を失うのだ。この肉体は滅び、二度と会いまみえることはない。
押し寄せる感情を、葉雪はいつものように吞み込もうとした。
しかし今回ばかりは上手くいかない。
葉雪はゆっくりと雲嵐の胸へと腕を伸ばした。胸の上に手を添えると、そこから深紫の光の筋が、いくつも立ち昇る。
その光の筋は互いに織れ交わり、まるで葉雪へ縋りつくように、胸へと飛び込んできた。
(……やっぱりお前は、彼だったんだな……)
過去に何度も味わってきた別離の悲しみは、いつも容赦なく襲い掛かってくる。
しかし今回は、彼の最期に立ち会うことが出来た。
「……阿嵐、よく頑張ったな。本当に良く……頑張った」
光の筋が抜けていくにつれ、雲嵐の顔から痛苦が薄れていく。表情も穏やかなものに変わるが、それに沿うようにして、瞳の光も弱くなっていった。
肉体が終わりを迎えようとしている。穏やかにゆっくりと。
「……ありがとう」
葉雪は雲嵐の耳に唇を寄せ、微笑みながら呟く。少しだけ彼の顔を傾けさせ、彼の口端に唇で触れた。
(……これで最後なんだ。これぐらい、許してくれるよな……?)
顔を上げると、もう雲嵐の瞳は閉じられていた。小さく感じていた吐息も、もう無い。
雲嵐の顔は、眠っているかのように穏やかだ。唇は緩く弧を描き、笑っているようにも見える。
深紫の筋は、いまだ葉雪を囲むように漂っていた。葉雪はそれを愛おしそうに指で掬い、自らの胸へと誘う。
抱きしめるように胸へと納めると、ずくりと胸に激痛が走った。
痛い。熱い。苦しい。怖い。寂しい。これは、雲嵐が抱えていた痛みだ。
その全てを葉雪は受け入れる。痛みも苦しみも、彼が抱えていたと思うと、何もかもが愛おしく、そして狂おしくもあった。
魂は痛みを受け入れようとするものの、肉体は耐えられず悲鳴を上げる。
やがて葉雪は崩れ落ちるようにして、雲嵐の身体へと覆いかぶさった。まだ温かい雲嵐の胸に、頬を擦り寄せる。
喉から何かがせり上がってきて、口端から血が溢れ出した。
「……一緒に、いきたい……」
今度こそ、連れて行って欲しい。
何度も切望した想いが、今日なら叶うかもしれない。
淡い期待から、ふふ、と笑いが漏れる。しかしそれは音にならなかった。
このまま終わって欲しかった。
葉雪にはもう、何もないのだから。
「葉雪ッ!」
恫喝に似た、重く突き刺すような声。
その声の主は、まるで叱るように葉雪の腕を掴んだ。同時に鮮やかな藍色の髪が、葉雪の視界に映り込む。
離れたくない。
咄嗟にそう感じた葉雪は、その手を渾身の力で振り払った。
優しく掴まれていた腕は、容易く振り解けた。しかし今度は、強い力で肩を掴まれる。
「葉雪ッ! ……共に逝くなんて、許さぬ!」
身体を反転させられ、強制的に抱き込まれる。しかしもう葉雪に抵抗する力は残っていなかった。
虚ろな目で、自分を抱く男を見上げる。
流れるような藍色の髪、額に浮かぶのは、四帝の証である金色の印。
それが歪むほどに眉根を引き絞った彼は、怒りとも焦燥ともつかないような表情を浮かべている。
(……どうして……? なんで……いつも……引き止める?)
急激に意識が遠のいていく。抗う気がなかった葉雪は、そのまま意識を絶った。
*****
藍白の衣に溶けていきそうな、純白の髪。
佇まいは凛としていて、この世のものとは思えないほど美しかった。
戦場に現れた愛しい人は、確かに自分の最期を見つめていてくれた。
『ありがとう』
耳元で囁かれた声を、覚えている。一生忘れないだろう。
魂が忘れるものか。
小指がぴくりと跳ねると、身体に感覚が染み渡っていくのを感じる。
生命の吐息だ。
温かい流れが身体中を駆け巡り、胸にある核へと集結していく。
薄く瞼を開き、身体を起こす。最初に目に入ったのは、燭台の灯りだった。
黒檀の寝台に薄墨色の垂れ絹、そこに蝋燭の灯りがぼんやりと映っている。
「黒羽王! 心からお慶び申し上げます!」
垂れ絹の外から、誰かの興奮した声が響く。鮮明過ぎるほどに聞こえる声が、今はひどく耳障りに感じた。
重い身体を起こし、目線を下へと落とす。
腹に掛けられた掛布の上に、だらりと弛緩した自身の手が見える。
大きく逞しさを感じる手だ。青年の瑞々しさはなく、成熟した男を感じさせる手である。
帳のように落ちてきた髪は、艶々とした群青色だ。
ぽたり、と寝具に水が沁み込み、鵠玄楚は自身の頬に指を沿わせた。しっとりと濡れたそこを拭っていると、また外から声が響く。
「業生の試練が終わった今、鵠玄楚様は名実ともに黒羽の王! 本当に喜ばしいことです!」
「……少し黙れ」
口から出たのは、腹に響くほど低く、重厚感のある声だ。
僅かに違和感を感じるのは、この身体に戻るのが21年ぶりだからだろう。
『____ ありがとう』
耳元で甦る声を聞きながら、鵠玄楚は両掌を広げた。そして何かを包むようにして、額へと押し当てる。
「……やっと……」
絞り出すようにして出した声は、自身でも驚くほど小さかった。
喜びが胸に満ちるが、同時に焦燥も湧いてくる。業生の後は精神が乱れるが、今回は律しなければならない。
これからやらなければならない事が、山ほどある。
しかし白劉帆の姿が瞼の裏に甦ると、思考がこれでもかと搔き乱された。
ふっと口元を緩めながらも、じくじくと刺すような感覚が胸を襲う。
肖雲嵐という男は優しすぎた。そして未熟であった。堕獣が襲って来た時の体たらくは、唾棄したいほどだ。
慚愧の念が溢れ出し始めたところで、鵠玄楚は頭を振った。
(……記憶はあちらへ引き継がれない。いつもの事だ。それより……)
混雑しはじめた思考を切り替えるように、鵠玄楚は外へと声を放つ。
「……昊黒烏の情報は?」
「……恐れながら申し上げます。昊黒烏様は、昊殻の長を退いておられるようです。彼の情報は入手するのが困難で、その後の足取りは……」
「いや……彼は人間界にいた。何故……」
肖雲嵐の記憶を、鵠玄楚として思い返す。そしてそれを繋ぎ合わせる。
髪を染め、料理人に扮した昊黒烏。それが白劉帆だった。
彼は偽名を使い、人間界で生きている。
「……まぁいい。今回からは、じっくりと考えられる……」
『彼』の目に映るのは、いつも自分ではない誰かだった。
その瞳に映るべきは自分なのだ。
そして、名を呼びたい。呼んで欲しい。
『彼』は、永きにわたって抱き続けた、たった一つの寄す処だった。
染料を落とすために石鹸を使い、丹念に髪を洗い流していった。
染料で汚れた水が、身体を伝って流れていく。
茶褐色に染められた水たまりは、葉雪が水を浴びる度に範囲を広げていった。
「大主」
一鹿の声が後ろから掛けられる。しかし葉雪は黙ったまま、髪を解かし続けた。
真っ白な髪が露わになると、おのずと指通りも滑らかになる。
「大主。井戸の水では、身体が冷えます」
「……もう洗い終わりだ」
釣瓶を井戸の淵に置きながら言うと、一鹿が葉雪の身体を布で包んだ。
別の布で葉雪の髪を拭いながら、一鹿は大きく息を吸う。そして意を決したかのように、口を開いた。
「……西の戦は、もう終わったと聞きます。多数の戦死者は出ましたが、丈の勝利だと」
「そうか」
「それでも、行かれるのですか?」
「連れて行ってくれるか? 一鹿」
「……大主の命ならば」
一鹿が眉根を寄せて頷くと、葉雪は彼の肩を慰めるように叩く。そして彼の手から布を受け取り、自ら髪の雫を拭いながら家へと入った。
用意してあった藍白の袍を身に着け、朱色の革帯を締める。一鹿が葉雪の髪を梳くと、真っ直ぐな髪は腰まで垂れた。
昊穹にいた頃は、こうして髪も結わないまま過ごしていた。染料を落としたせいか、頭も軽く感じる。
「では行くぞ、一鹿」
「はい」
一鹿の身体が淡く光り、きゅっと萎むと球体となった。それが形を成し、巨大な雄鹿の姿と変化していく。美しい銀色の獣毛を持ち、背中にある鬣となる部分だけが鈍色で長い。
その鬣を撫でながら、葉雪は戸口を開ける。戸枠で切り取られた空は暖色で染まっていた。
(……阿嵐、この空を見ているか?)
今日の夕焼けは、まるで最期に抗おうとするような赤だった。
*
西の戦場は、未だ戦の炎が燻ったままだった。
国境を守る要となった城砦は崩れ落ち、周辺には戦死者がごろごろと転がっている。火責めでも受けたのか、あちこちから火の手が上がっていた。
地獄絵図の中、葉雪は雲嵐の姿を探す。しかし探すまでもなく、まるで最初から知っていたかのように、その姿を見つける。
崩れ落ちた城砦の陰。柱に凭れ掛かるようにして、雲嵐は横たわっていた。
腹部から下は瓦礫に潰され、そこにも残り火が燻っている。
生きてはいるが、生き残りとして認識されなかったのだろう。雲嵐は戦死者として、戦場に取り残されていた。
煙る戦地を踏みしめ、葉雪は雲嵐へ歩み寄る。
葉雪でなければ、それが肖雲嵐とは判らなかっただろう。彼の顔は半分が焼けただれ、美しかった瞳も白濁している。
苦悶の表情を薄く浮かべ、彼は残った片目で虚空を見つめていた。しかし視界に葉雪が入ると、焼けてまばらになった眉を寄せる。
「……し……ぁ……」
気管も焼けてしまったのか、雲嵐は声を出そうとする度に顔を歪める。口腔内には血が満ちて、唇を動かす度にそれが溢れ出す。
しかし彼は、必死に言葉を紡ごうとしていた。
今日は、運命簿に書かれていた彼の最期の日だ。
雲嵐は死ぬ。それは避けられない。
葉雪は膝を付き、雲嵐の顔を覗き込んだ。その頬に手を添えると、彼の髪を結っている布が目に入る。
葉雪の手巾だ。
あの日王都で、雲嵐のこめかみに押し当てた、あの手巾だ。
彼の血で染まった手巾は、未だ彼の髪にしがみついていた。
「……っ」
雲嵐に触れている指が、恐怖で震える。
今日、この男を失うのだ。この肉体は滅び、二度と会いまみえることはない。
押し寄せる感情を、葉雪はいつものように吞み込もうとした。
しかし今回ばかりは上手くいかない。
葉雪はゆっくりと雲嵐の胸へと腕を伸ばした。胸の上に手を添えると、そこから深紫の光の筋が、いくつも立ち昇る。
その光の筋は互いに織れ交わり、まるで葉雪へ縋りつくように、胸へと飛び込んできた。
(……やっぱりお前は、彼だったんだな……)
過去に何度も味わってきた別離の悲しみは、いつも容赦なく襲い掛かってくる。
しかし今回は、彼の最期に立ち会うことが出来た。
「……阿嵐、よく頑張ったな。本当に良く……頑張った」
光の筋が抜けていくにつれ、雲嵐の顔から痛苦が薄れていく。表情も穏やかなものに変わるが、それに沿うようにして、瞳の光も弱くなっていった。
肉体が終わりを迎えようとしている。穏やかにゆっくりと。
「……ありがとう」
葉雪は雲嵐の耳に唇を寄せ、微笑みながら呟く。少しだけ彼の顔を傾けさせ、彼の口端に唇で触れた。
(……これで最後なんだ。これぐらい、許してくれるよな……?)
顔を上げると、もう雲嵐の瞳は閉じられていた。小さく感じていた吐息も、もう無い。
雲嵐の顔は、眠っているかのように穏やかだ。唇は緩く弧を描き、笑っているようにも見える。
深紫の筋は、いまだ葉雪を囲むように漂っていた。葉雪はそれを愛おしそうに指で掬い、自らの胸へと誘う。
抱きしめるように胸へと納めると、ずくりと胸に激痛が走った。
痛い。熱い。苦しい。怖い。寂しい。これは、雲嵐が抱えていた痛みだ。
その全てを葉雪は受け入れる。痛みも苦しみも、彼が抱えていたと思うと、何もかもが愛おしく、そして狂おしくもあった。
魂は痛みを受け入れようとするものの、肉体は耐えられず悲鳴を上げる。
やがて葉雪は崩れ落ちるようにして、雲嵐の身体へと覆いかぶさった。まだ温かい雲嵐の胸に、頬を擦り寄せる。
喉から何かがせり上がってきて、口端から血が溢れ出した。
「……一緒に、いきたい……」
今度こそ、連れて行って欲しい。
何度も切望した想いが、今日なら叶うかもしれない。
淡い期待から、ふふ、と笑いが漏れる。しかしそれは音にならなかった。
このまま終わって欲しかった。
葉雪にはもう、何もないのだから。
「葉雪ッ!」
恫喝に似た、重く突き刺すような声。
その声の主は、まるで叱るように葉雪の腕を掴んだ。同時に鮮やかな藍色の髪が、葉雪の視界に映り込む。
離れたくない。
咄嗟にそう感じた葉雪は、その手を渾身の力で振り払った。
優しく掴まれていた腕は、容易く振り解けた。しかし今度は、強い力で肩を掴まれる。
「葉雪ッ! ……共に逝くなんて、許さぬ!」
身体を反転させられ、強制的に抱き込まれる。しかしもう葉雪に抵抗する力は残っていなかった。
虚ろな目で、自分を抱く男を見上げる。
流れるような藍色の髪、額に浮かぶのは、四帝の証である金色の印。
それが歪むほどに眉根を引き絞った彼は、怒りとも焦燥ともつかないような表情を浮かべている。
(……どうして……? なんで……いつも……引き止める?)
急激に意識が遠のいていく。抗う気がなかった葉雪は、そのまま意識を絶った。
*****
藍白の衣に溶けていきそうな、純白の髪。
佇まいは凛としていて、この世のものとは思えないほど美しかった。
戦場に現れた愛しい人は、確かに自分の最期を見つめていてくれた。
『ありがとう』
耳元で囁かれた声を、覚えている。一生忘れないだろう。
魂が忘れるものか。
小指がぴくりと跳ねると、身体に感覚が染み渡っていくのを感じる。
生命の吐息だ。
温かい流れが身体中を駆け巡り、胸にある核へと集結していく。
薄く瞼を開き、身体を起こす。最初に目に入ったのは、燭台の灯りだった。
黒檀の寝台に薄墨色の垂れ絹、そこに蝋燭の灯りがぼんやりと映っている。
「黒羽王! 心からお慶び申し上げます!」
垂れ絹の外から、誰かの興奮した声が響く。鮮明過ぎるほどに聞こえる声が、今はひどく耳障りに感じた。
重い身体を起こし、目線を下へと落とす。
腹に掛けられた掛布の上に、だらりと弛緩した自身の手が見える。
大きく逞しさを感じる手だ。青年の瑞々しさはなく、成熟した男を感じさせる手である。
帳のように落ちてきた髪は、艶々とした群青色だ。
ぽたり、と寝具に水が沁み込み、鵠玄楚は自身の頬に指を沿わせた。しっとりと濡れたそこを拭っていると、また外から声が響く。
「業生の試練が終わった今、鵠玄楚様は名実ともに黒羽の王! 本当に喜ばしいことです!」
「……少し黙れ」
口から出たのは、腹に響くほど低く、重厚感のある声だ。
僅かに違和感を感じるのは、この身体に戻るのが21年ぶりだからだろう。
『____ ありがとう』
耳元で甦る声を聞きながら、鵠玄楚は両掌を広げた。そして何かを包むようにして、額へと押し当てる。
「……やっと……」
絞り出すようにして出した声は、自身でも驚くほど小さかった。
喜びが胸に満ちるが、同時に焦燥も湧いてくる。業生の後は精神が乱れるが、今回は律しなければならない。
これからやらなければならない事が、山ほどある。
しかし白劉帆の姿が瞼の裏に甦ると、思考がこれでもかと搔き乱された。
ふっと口元を緩めながらも、じくじくと刺すような感覚が胸を襲う。
肖雲嵐という男は優しすぎた。そして未熟であった。堕獣が襲って来た時の体たらくは、唾棄したいほどだ。
慚愧の念が溢れ出し始めたところで、鵠玄楚は頭を振った。
(……記憶はあちらへ引き継がれない。いつもの事だ。それより……)
混雑しはじめた思考を切り替えるように、鵠玄楚は外へと声を放つ。
「……昊黒烏の情報は?」
「……恐れながら申し上げます。昊黒烏様は、昊殻の長を退いておられるようです。彼の情報は入手するのが困難で、その後の足取りは……」
「いや……彼は人間界にいた。何故……」
肖雲嵐の記憶を、鵠玄楚として思い返す。そしてそれを繋ぎ合わせる。
髪を染め、料理人に扮した昊黒烏。それが白劉帆だった。
彼は偽名を使い、人間界で生きている。
「……まぁいい。今回からは、じっくりと考えられる……」
『彼』の目に映るのは、いつも自分ではない誰かだった。
その瞳に映るべきは自分なのだ。
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