天上人の暇(いとま) ~千年越しの拗らせ愛~

墨尽(ぼくじん)

文字の大きさ
上 下
10 / 60
第一章 最期の試練

第10話 古傷が熱を持つ

しおりを挟む

 追手の気配が消えても、雲嵐は走り続けた。
 繋いだ手は汗ばんでおり、彼が必死なのが窺い知れる。しかしこのまま走りっぱなしは身体的に辛い。
 雲嵐の手を、葉雪はくいくいと引っ張る。

「雲嵐、少し……」
「どうしました?」

 雲嵐が走る速度を落とし、葉雪を振り返る。
 歩くほどの速度になると、足首に刺すような痛みが走った。顔を歪めて脚を引きずると、雲嵐が慌てて歩を止める。

「どこかお怪我を?」
「いや……古傷がな……」
「古傷?」

 雲嵐の視線が、葉雪の唇に集中する。その視線に気づいてはいたが、葉雪は頷くだけに留まった。

  葉雪は昊穹こうきゅうを追われたとき、右足首の腱を自らの手で断ち切っている。
 その時の傷口は治ったが、腱はそうもいかなかった。通常の生活を送るだけなら支障は無いが、酷使すると今のように痛みが出る。

 古傷について語るならば、雲嵐に嘘を付くことになる。不要な嘘は吐きたくない。
 
「直に治る。すまないな」
「……いえ……。あっ」
「どうした?」
「ここも、血が出ています」

 雲嵐が繋いでいた手を引っ張り、葉雪の手の甲に視線を落とした。複数の切り傷の上に血が滲んでいる。

「ああこれは、大したことない。殴った時にどこかに引っかけたんだろう」
「ここも、ここにも傷が」
「まぁ素手で戦うと、こうなるわな」

 葉雪の手にあるのは、傷と言えないほどの小さいものだ。
 男であれば素手での喧嘩など珍しくは無い。武装した相手に素手で戦えば、小さな傷など当たり前に付く。
 しかし目の前の雲嵐は心底胸を痛めた様子で、葉雪の手の甲を撫でる。

「すみません……私がもっと、早く来ていれば……」
「いや、お前のせいではないよ……」

(すまん、阿嵐。どちらかというと、お前が加勢してくれた後に付いた傷だよ)

 雲嵐が来るまで、葉雪は男らに手を出してはいなかった。雲嵐が来たからこそ、好き放題男らを殴ることが出来たのだ。
 傷はその時に付いたものなので、雲嵐のせいではない。
 
  改めて自身の手元を見てみると、なるほどたくさんの傷が付いている。久しぶりに暴れることが出来て、 まったく気が付かなかった。
 雲嵐は葉雪の腕を肩に回し、ゆっくりと歩き始める。

「……いいえ、全て私のせいです。こうやって襲われたのも、食堂で私が絡まれたせいですから」
「そういえばお前、あの時の会話聞こえていたのか?」
「少しだけ。……家まで送ります。どちらですか?」
「ああ、それは助かる。すぐそこだ」

 雲嵐に支えられながら、葉雪はなんとか家へ辿り着いた。
 家には神獣の気配があったが、雲嵐が近付くと直ぐに消えてしまう。人前では姿を現すなと、葉雪が厳しく言いつけているからだ。

 雲嵐は部屋に入るなり、部屋の奥にあった寝台へ葉雪を座らせる。そして靴を脱がせ始めた。
 まるで以前からこうして奉仕していたかのように、淀みの無い手つきだ。
 これには葉雪も驚き、慌てて雲嵐へ声を掛ける。

「あ、阿嵐? 何をする」
「……」
「阿嵐?」

  雲嵐の視線は葉雪の脚に集中しているからか、反応はない。葉雪は目の前に跪く男を見下ろすが、直ぐに視線を逸らした。

 男から靴を脱がされるという行為が、こんなに恥ずかしいとは思わなかった。身の置き所がないとは、正にこのことを言うのだろう。

「……腫れています」
「ん、おお?」
「足首です。腫れている」
「ああ、いつものことだ。明日には引いてる」

 足首に、雲嵐の指先を感じる。冷たくてさらりとした指先が、熱を持った足首を撫でた。
 葉雪が痛くないように気遣っているのだろうが、触れ方が優しすぎてこそばゆい。堪らず足の指を逸らして、葉雪は笑い声を上げる。

「そんなに大事そうに触るな。くすぐったい」
「……大事でしょう。私の師匠ですから」
「離せよ。冷やせば治るから」

 葉雪は雲嵐に手から逃れるように、脚をひょいと上げた。
 目の前から消えた足を追うように、雲蘭の目線が上がり、やがて葉雪の目線と合わさる。

 雲嵐の表情は、まるで玩具を取り上げられた子供のようだ。しかしどこか、男の色気を含んでいるようにも感じる。
 雲嵐はその不機嫌そうな顔のまま、今度は葉雪の手を取った。

「こちらも、治療します」
「いや、いいって。放っておけば治る」
「いいえ。……しばらくは水に触れず、完治に努めて下さい」
「おいおい、阿呆か。こんな傷、あかぎれよりも軽いだろ」

 確かに傷の数は多いが、皮一枚ほどの浅い傷だ。

 雲嵐は首を横に振りながら立ち上がり、部屋の中を見回した。水桶は、布はどこかと葉雪へ問いながら、てきぱきと治療するための物を集めていく。
 足首には仰々しく包帯を巻かれ、手の傷には一つ一つ丁寧に軟膏を塗られていく。

「良いって言ってるのに」
「やらせて下さい。私のせいなので」
「何度も言うが、お前のせいじゃない。あの場に頭を突っ込んで、尚且つ煽ったのは私だ。阿嵐に非は無いよ」
「……」

 雲嵐の視線は葉雪の手に注がれている。
 聞こえていないのか、それとも聞こえないふりをしているのか微妙なところだ。

「阿嵐?」
「……悔しいです。こんな傷…………なのに……」
「……? なに?」

 葉雪が問うと、雲嵐が顔を上げた。眉を吊り上げ、唇の端を少し噛んでいる。
 悔しそうにも、恨めしそうにも見える表情だ。

「師匠。この傷では不便でしょう。……明日からこの肖雲嵐が、師匠をお手伝いします」
「……うん?」
「本日は一旦帰り、家族にこの旨を伝えます。明日からは師匠にずっと」
「待て待て、旨とは? この旨とは何だ? 家族に何を言うつもりだ?」

 雲嵐は何も答えない代わりに、お手本のような笑顔を浮かべた。顔面はすこぶる良いが、これで誤魔化されては困る。
 しかし、「阿嵐?」と説明を求めるように名を呼ぶも、彼は小さく顔を傾けるだけだ。 
 肝心な時に聞こえないふりをするのは、彼の得意技なのかもしれない。

 雲嵐はすっと立ち上がり、葉雪に向けて拱手する。

「では師匠。失礼いたします」
「っお、おい! 阿嵐!」

  葉雪は慌てて立ち上がるが、足首に鋭い痛みが走る。座り込んで顔を顰めているうちに、もう雲嵐の姿はなくなっていた。

 寝台にばたりと倒れこみ、葉雪は大きく嘆息した。ついでに唸る。

「ああ~……意味わからん……」

 明日からどうなるのか。悪い予感しかしない。

 しかも雲嵐と接していると、遥か昔に抑え込んだ感情が、ふつふつと再燃するのを感じるのだ。
 この感情がもたらすものは、いつも絶望しかない。それでも内に眠る小さな希望に、葉雪は縋ってしまう。

 頭を抱えていると、どさどさと何かが落ちる音がする。視線を向けると、座卓の上にまた何冊か運命簿が積まれていた。
 追加の案件だろう。すっかり運命簿の件を忘れていた葉雪は、足を引き摺りながら座卓へと近付く。

 運命簿には、表紙に今生の名前が記されている。これまでは知らない名ばかりだったが、今回は違っていた。

 『肖雲嵐』
 表紙にそう記された運命簿を前に、葉雪は暫く動けなかった。
しおりを挟む
感想 19

あなたにおすすめの小説

別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた

翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」 そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。 チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。

出戻り聖女はもう泣かない

たかせまこと
BL
西の森のとば口に住むジュタは、元聖女。 男だけど元聖女。 一人で静かに暮らしているジュタに、王宮からの使いが告げた。 「王が正室を迎えるので、言祝ぎをお願いしたい」 出戻りアンソロジー参加作品に加筆修正したものです。 ムーンライト・エブリスタにも掲載しています。 表紙絵:CK2さま

皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる

えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。 一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。 しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。 皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……

君に望むは僕の弔辞

爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。 全9話 匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意 表紙はあいえだ様!! 小説家になろうにも投稿

執着攻めと平凡受けの短編集

松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。 疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。 基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)

あなたの隣で初めての恋を知る

ななもりあや
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。 その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。 そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。 一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。 初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。 表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。

【完結・ルート分岐あり】オメガ皇后の死に戻り〜二度と思い通りにはなりません〜

ivy
BL
魔術師の家門に生まれながら能力の発現が遅く家族から虐げられて暮らしていたオメガのアリス。 そんな彼を国王陛下であるルドルフが妻にと望み生活は一変する。 幸せになれると思っていたのに生まれた子供共々ルドルフに殺されたアリスは目が覚めると子供の頃に戻っていた。 もう二度と同じ轍は踏まない。 そう決心したアリスの戦いが始まる。

婚約破棄された王子は地の果てに眠る

白井由貴
BL
婚約破棄された黒髪黒目の忌み子王子が最期の時を迎えるお話。 そして彼を取り巻く人々の想いのお話。 ■□■ R5.12.17 文字数が5万字を超えそうだったので「短編」から「長編」に変更しました。 ■□■ ※タイトルの通り死にネタです。 ※BLとして書いてますが、CP表現はほぼありません。 ※ムーンライトノベルズ様にも掲載しています。

処理中です...