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第一章 最期の試練
第10話 古傷が熱を持つ
しおりを挟む追手の気配が消えても、雲嵐は走り続けた。
繋いだ手は汗ばんでおり、彼が必死なのが窺い知れる。しかしこのまま走りっぱなしは身体的に辛い。
雲嵐の手を、葉雪はくいくいと引っ張る。
「雲嵐、少し……」
「どうしました?」
雲嵐が走る速度を落とし、葉雪を振り返る。
歩くほどの速度になると、足首に刺すような痛みが走った。顔を歪めて脚を引きずると、雲嵐が慌てて歩を止める。
「どこかお怪我を?」
「いや……古傷がな……」
「古傷?」
雲嵐の視線が、葉雪の唇に集中する。その視線に気づいてはいたが、葉雪は頷くだけに留まった。
葉雪は昊穹を追われたとき、右足首の腱を自らの手で断ち切っている。
その時の傷口は治ったが、腱はそうもいかなかった。通常の生活を送るだけなら支障は無いが、酷使すると今のように痛みが出る。
古傷について語るならば、雲嵐に嘘を付くことになる。不要な嘘は吐きたくない。
「直に治る。すまないな」
「……いえ……。あっ」
「どうした?」
「ここも、血が出ています」
雲嵐が繋いでいた手を引っ張り、葉雪の手の甲に視線を落とした。複数の切り傷の上に血が滲んでいる。
「ああこれは、大したことない。殴った時にどこかに引っかけたんだろう」
「ここも、ここにも傷が」
「まぁ素手で戦うと、こうなるわな」
葉雪の手にあるのは、傷と言えないほどの小さいものだ。
男であれば素手での喧嘩など珍しくは無い。武装した相手に素手で戦えば、小さな傷など当たり前に付く。
しかし目の前の雲嵐は心底胸を痛めた様子で、葉雪の手の甲を撫でる。
「すみません……私がもっと、早く来ていれば……」
「いや、お前のせいではないよ……」
(すまん、阿嵐。どちらかというと、お前が加勢してくれた後に付いた傷だよ)
雲嵐が来るまで、葉雪は男らに手を出してはいなかった。雲嵐が来たからこそ、好き放題男らを殴ることが出来たのだ。
傷はその時に付いたものなので、雲嵐のせいではない。
改めて自身の手元を見てみると、なるほどたくさんの傷が付いている。久しぶりに暴れることが出来て、 まったく気が付かなかった。
雲嵐は葉雪の腕を肩に回し、ゆっくりと歩き始める。
「……いいえ、全て私のせいです。こうやって襲われたのも、食堂で私が絡まれたせいですから」
「そういえばお前、あの時の会話聞こえていたのか?」
「少しだけ。……家まで送ります。どちらですか?」
「ああ、それは助かる。すぐそこだ」
雲嵐に支えられながら、葉雪はなんとか家へ辿り着いた。
家には神獣の気配があったが、雲嵐が近付くと直ぐに消えてしまう。人前では姿を現すなと、葉雪が厳しく言いつけているからだ。
雲嵐は部屋に入るなり、部屋の奥にあった寝台へ葉雪を座らせる。そして靴を脱がせ始めた。
まるで以前からこうして奉仕していたかのように、淀みの無い手つきだ。
これには葉雪も驚き、慌てて雲嵐へ声を掛ける。
「あ、阿嵐? 何をする」
「……」
「阿嵐?」
雲嵐の視線は葉雪の脚に集中しているからか、反応はない。葉雪は目の前に跪く男を見下ろすが、直ぐに視線を逸らした。
男から靴を脱がされるという行為が、こんなに恥ずかしいとは思わなかった。身の置き所がないとは、正にこのことを言うのだろう。
「……腫れています」
「ん、おお?」
「足首です。腫れている」
「ああ、いつものことだ。明日には引いてる」
足首に、雲嵐の指先を感じる。冷たくてさらりとした指先が、熱を持った足首を撫でた。
葉雪が痛くないように気遣っているのだろうが、触れ方が優しすぎてこそばゆい。堪らず足の指を逸らして、葉雪は笑い声を上げる。
「そんなに大事そうに触るな。くすぐったい」
「……大事でしょう。私の師匠ですから」
「離せよ。冷やせば治るから」
葉雪は雲嵐に手から逃れるように、脚をひょいと上げた。
目の前から消えた足を追うように、雲蘭の目線が上がり、やがて葉雪の目線と合わさる。
雲嵐の表情は、まるで玩具を取り上げられた子供のようだ。しかしどこか、男の色気を含んでいるようにも感じる。
雲嵐はその不機嫌そうな顔のまま、今度は葉雪の手を取った。
「こちらも、治療します」
「いや、いいって。放っておけば治る」
「いいえ。……しばらくは水に触れず、完治に努めて下さい」
「おいおい、阿呆か。こんな傷、あかぎれよりも軽いだろ」
確かに傷の数は多いが、皮一枚ほどの浅い傷だ。
雲嵐は首を横に振りながら立ち上がり、部屋の中を見回した。水桶は、布はどこかと葉雪へ問いながら、てきぱきと治療するための物を集めていく。
足首には仰々しく包帯を巻かれ、手の傷には一つ一つ丁寧に軟膏を塗られていく。
「良いって言ってるのに」
「やらせて下さい。私のせいなので」
「何度も言うが、お前のせいじゃない。あの場に頭を突っ込んで、尚且つ煽ったのは私だ。阿嵐に非は無いよ」
「……」
雲嵐の視線は葉雪の手に注がれている。
聞こえていないのか、それとも聞こえないふりをしているのか微妙なところだ。
「阿嵐?」
「……悔しいです。こんな傷…………なのに……」
「……? なに?」
葉雪が問うと、雲嵐が顔を上げた。眉を吊り上げ、唇の端を少し噛んでいる。
悔しそうにも、恨めしそうにも見える表情だ。
「師匠。この傷では不便でしょう。……明日からこの肖雲嵐が、師匠をお手伝いします」
「……うん?」
「本日は一旦帰り、家族にこの旨を伝えます。明日からは師匠にずっと」
「待て待て、旨とは? この旨とは何だ? 家族に何を言うつもりだ?」
雲嵐は何も答えない代わりに、お手本のような笑顔を浮かべた。顔面はすこぶる良いが、これで誤魔化されては困る。
しかし、「阿嵐?」と説明を求めるように名を呼ぶも、彼は小さく顔を傾けるだけだ。
肝心な時に聞こえないふりをするのは、彼の得意技なのかもしれない。
雲嵐はすっと立ち上がり、葉雪に向けて拱手する。
「では師匠。失礼いたします」
「っお、おい! 阿嵐!」
葉雪は慌てて立ち上がるが、足首に鋭い痛みが走る。座り込んで顔を顰めているうちに、もう雲嵐の姿はなくなっていた。
寝台にばたりと倒れこみ、葉雪は大きく嘆息した。ついでに唸る。
「ああ~……意味わからん……」
明日からどうなるのか。悪い予感しかしない。
しかも雲嵐と接していると、遥か昔に抑え込んだ感情が、ふつふつと再燃するのを感じるのだ。
この感情がもたらすものは、いつも絶望しかない。それでも内に眠る小さな希望に、葉雪は縋ってしまう。
頭を抱えていると、どさどさと何かが落ちる音がする。視線を向けると、座卓の上にまた何冊か運命簿が積まれていた。
追加の案件だろう。すっかり運命簿の件を忘れていた葉雪は、足を引き摺りながら座卓へと近付く。
運命簿には、表紙に今生の名前が記されている。これまでは知らない名ばかりだったが、今回は違っていた。
『肖雲嵐』
表紙にそう記された運命簿を前に、葉雪は暫く動けなかった。
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