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第一章 最期の試練

第1話 追放、そして再就職

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 じっとりと濡れているような、黒々とした石畳の床。黒々とした鉄格子からは、血の匂いが漂ってくる。

 寝具代わりに敷かれた藁は、馬も見向きしないほどの薄さだ。
 これでは地べたで寝るのと変わらないが、そもそも身体は鎖で吊られている。横たわることすら出来やしない。

 こんなに厳重に拘束せずとも良いのに、と、かさついた口元が僅かに緩んだ。

昊黒烏こうこくお……これだけ言っても、お前の気は変わらぬか?」
 
 低く力強いが、角のない滑らかな声。耳に馴染んでいるはずのいつもの声が、今日は少しだけ揺らいでいた。

 霞ほどしか残っていない力をふり絞って、顔を上げる。

 目の前の人物は眉を寄せ、こちらを見下ろしていた。どこか懇願しているような表情をする男を、しっかりと、言い聞かせるように見据える。

「……変わりませぬ」
「……っ葉雪しょうせつ!」

 男が声量を落とし、葉雪にだけ聞こえるように名前を呼ぶ。しかしその小さな声には、溢れんばかりの感情が籠っていた。

(……こんな時まで、気を遣うのか……)

 葉雪は彼らの身辺を護る護衛、昊黒烏こうこくおとして生きてきた。葉雪という名は、知るのも呼ぶのも極一部の尊い身分の者だけだ。

 葉雪が罪を犯して牢に入っていてもなお、彼は葉雪の名が他に漏れるのを気遣ってくれている。

 今日が別れの日になるにも関わらず、律儀な男だと思う。

「……脚の腱も……断ち切った……だから、終わりにしろ」
「……っ馬鹿な事を……! お前は……」

 目の前の男が、ぼんやりと霞む。焦燥と悲しみに揺れる顔など、本来なら見たくはなかった。

 しかしこの男はきっと、いつものように何もかも分かった振りをして、誰よりも冷静な態度を示す頃が出来るだろう。

 そうしなければならない事は、この男が一番分かっているはずだ。だからこの先も、彼に任せておけば問題はない。

 だから。と葉雪は男を見上げた。男は一切の動作を止め、葉雪の許しを乞うような表情を、ただ見つめている。
 
(……だから、そろそろ……いや、いい加減な…………私も休んで良いだろう……?)

 唇の端を吊り上げようとしたが、それすらも叶わない。身体ももう限界に近かった。

 今の葉雪が切望しているものは、『行くな』と引き留める声では決してない。

 欲しいものは、暇(いとま)だ。
 
 焦燥に駆られた、半ば悲鳴のような声が降ってくる。

「……っ! ……なに……あの男……大切な……か⁉ ……に、……った……!」
「……」
  
 ぱらぱらと落ちてくる言葉も、もう並べ直すことは出来ない。

 ぼんやりと耳に入れながら、葉雪は目を閉じた。すぐ後を追うように、静寂も訪れる。

 その日、昊殻こうがいの首領である葉雪は、緑刑の後、人間界に堕とされた。



***

___約150年後 
人間界 『丈国』


 鍋の中で野菜が踊る。
 唐辛子と大蒜にんにく、香りが出てきたところで海老を投げ込む。

 青かった海老が色を変えたところで、葉雪は脇にある小窓へ声を放った。

「お~い、出来るぞ」
「あいよ! 皿、そこに置いてる!」
「ん」

 鍋を傾けて鉄勺に料理を移し、皿へと手早く盛る。上からたらりと花椒油を掛ければ完成だ。

 料理を取りに来た明明めいめいが、皿を両手で持ち上げて鼻を近付ける。

「ああ、良いにおい。……白兄さん、辛さは大丈夫でしょうね?」
「もちろん、いい塩梅にしてあるよ。これで注文は終わりだな?」
「うん、上がっちゃっていいよ!」
「あ~い、お疲れ」

 葉雪は前掛けを外し、厨房の端にあった桶へと投げ入れた。料理人の前掛けは、毎日明明が洗ってくれている。

 ここは小さな食堂だが、衛生面はしっかりと徹底している。一度使った前掛けを翌日使うと叱られるほどだ。

 頭に巻いていた手拭いは、外して肩へと掛ける。そして店に続く扉を開け、片付けをしていた店主へ声を放った。

「周さん、お先!」
「おう、明日もよろしくな!」

 顎にたっぷり髭を蓄えた周が笑い、葉雪に向けて手を上げる。

 葉雪が働いているのは、町で評判の食堂だ。料理の質はせいぜい中の上だが、食堂を経営している周親子の人柄が良いせいか、客は絶えない。

 店主はお人好し過ぎるほどの性格だが、娘の明明がそれを補うほどにさばさばしている。良い塩梅が保たれている親子なのだ。

 そんな食堂が『料理人募集』の貼り紙を出し始めたのが数か月前の事で、それに飛びついたのが葉雪だ。

 この食堂は給金もまずまずの上、居心地も良い。周親子とは、もう長年の付き合いであるように馬が合った。

 前の職場で痛い目をみた葉雪は、今度こそ、それこそ縋りついてでも、この居心地のよい職場を死守すると決めている。

 葉雪の勤務時間は昼から日が落ちるまでだ。
 この食堂は夜も酒場として営業しているが、夜間の調理場は店主が担当することになっている。

 夜は家でゆっくり過ごすことが出来るのも、この仕事の良いところだ。


 店主への挨拶を終えて、葉雪は厨房へ引っ込もうとした。そこでふと、自分に向けられている視線に気付く。

 夕時の忙しさは落ち着き、埋まっている席もまばらになっている。

 しかし残った客の一部から、こちらを覗き見るようなものを感じた 。秋波こそ送られていないが、気になる目つきだ。
 葉雪はそそくさと扉を閉め、裏口から店を出る。

(……これでも目立つか? いや、これ以上は無理だろ……)

 店の裏手にあった水桶に顔を映し、葉雪は自身の頬をぐにぐにと揉んだ。慣れた顔が不細工に歪んで、つい笑いが漏れる。

 葉雪の年齢はもうすぐ千を数えるが、見た目は20代後半の地味な男である。さして美男でもない。

 しかし葉雪の美醜の感覚は、一般的な感覚からは外れているようだ。
 
 白い肌に、紅を差したような赤い唇。男らしい切り上がった眉尻は、おろしたての筆の穂先のようにすっと伸びている。
 少し垂れ気味の柳葉眼は飴色で、鼻筋は定規で計ったような一直線だ。

 言葉で表すと完璧な男前だが、葉雪にはまったく自覚がない。

 自覚が無いからこそ、これまで面倒な目に合ってきた。前の職場をクビになったのも、この容姿が要因だ。

 それならば、と葉雪は容姿に手を加え、少しでも醜男に見えるように努力していた。

 目立つ髪色を染め、睫毛を間引きし、化粧で顔をくすませている。顔中の至る所に偽の黒子を散らすと、葉雪の面影はもっと薄れた。

 長い髪は一つに結って背中に垂らしているものの、染料のせいでごわごわだ。どこにも魅力はなさそうなのだが、それでも目立つらしい。

 今度こそと念入りに細工したが、一番効果的なのは人目に付かない事なのかもしれない。

(……厨房に入っていれば、目立たんと思ったが……。ちらりと顔を出すだけでもダメなのか?)

 葉雪は極力目立ちたくは無かった。平穏に料理人として暮らすのが唯一の望みだ。
 水桶を蹴って水面を揺らすと、葉雪は帰路へと足を向ける。
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