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後編
第36話 名前
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エリトは名前を持っていなかった。
他の捌き屋には、何かしら名前がある。しかしエリトに名前が与えられることは無く、母とも離れて暮らしている。
『お前は特別な捌き屋だ』
この言葉はエリトにとって呪いのようなものだ。
このせいで他の捌き屋とも一線を引かれ、孤独に過ごすしかなかった。
(あの名前を、まだ名乗ってもいいのだろうか? クリオにもらった、大切な名前……)
戸惑うエリトの額に、ひたりと手のひらが載せられた。その大きさに驚いていると、宗主が口を開く。
「……ここは魔族の国だ。どんな名でもいい。お前の好きな名を名乗れ」
「俺の、好きな、名前?」
「……早く決めないと、俺が決めるぞ」
「ま、待って……! じ、じゃあ……エリト、がいいな」
その名前を言った瞬間、じんわり胸が温かくなる。クリオにもらった、大切なものだ。やっぱり大切に使いたかった。
エリトはその瞬間を見逃さなかった。
エリトを見つめる金の瞳が、揺れたのだ。片方の眉尻も下がり、唇も緩く弧を描いている。
その顔を見た瞬間、エリトの頭が音を立てる。そして聞こえて来た声に、胸が震えた。
「……エリト」
「……っ」
「……分かった。屋敷の者に周知させておく」
そう言い残すと宗主は立ち上がり、足早に去って行った。
エリトは未だに残る違和感に、眉を寄せる。何かが開きかけた、そんな感覚だった。
________
「エリト、口を開けて」
「……」
寝台に身体を凭れさせて、エリトは宗主を見た。さも当然といった態度で、エリトへと匙を向けてくる。匙にのった白湯を見て、エリトは溜息をついた。
「なぁなぁ、白湯ぐらいカップで飲めるって」
「……駄目だ。しばらく手も足も使うな」
「んな無茶な」
エリトはそう零しながら、隅に立つ女性を見た。使用人らしいその女性は、朗らかな顔を浮かべてこちらを見ている。いや、見守っているといったほうが正しい。
「……なぁなぁ、宗主? 普通俺みたいなやつの世話は、あの女の人に任せるもんじゃないのか?」
「駄目だ、異論は認めん。盟約を忘れるな」
(……魔神様ってのは、そんなに暇なのか?)
仕方なくエリトが口を開けると、優しく匙が舌を撫でる。とても魔神とは思えない優しい手つきに、いよいよ困惑が隠せない。
エリトがこくりと音をたてて白湯を飲むと、宗主が満足気に頷いた。
「これに慣れたら、次は重湯だ。覚悟しておけ」
「……」
言っていることとやっていることが、ちぐはぐだ。
相変わらずの無表情だが、どこか楽し気なのを宗主は隠せていない。
(もしかして俺、遊ばれてんのか? それともペット扱いみたいな、そんな感じ?)
ばれないように小さく嘆息して、エリトは宗主を見た。
宗主と呼ばれるこの魔神は、驚くほど顔の整った男だった。今までは遠くからしか見たことが無かったため、その造形美にエリトは圧倒さればかりだ。
瞳の色と髪の色で一瞬クリオを思い出したが、纏う雰囲気が違いすぎる。身体の造りもクリオより一回りほど大きく、そして逞しい。
圧倒的なオーラを纏いながら匙を向けられると、どうも調子が狂う。
「そもそも俺、あんたに恩しかないんだよ? なんでこんな扱いすんの?」
「不満か? こんな扱いをされる程の事をしたんだ。拒むことはできん」
「?? それってどういう……」
「宗主~。言われたもの持ってきましたよ~」
エリトが戸惑っていると、スガノが軽い口調で部屋に入って来た。運んできた盆には、小鉢がたくさん載っている。
「モートンがリンゴを摺り下ろした物も作ってくれたんですけど、どうします? 重湯もあります」
「では重湯の後に、リンゴを試そう」
(……俺は、赤ん坊かよ……)
スガノと宗主のやり取りを聞きながら、エリトは苦笑いを零す。
あの手この手で甘やかされる日々が始まるとは、エリトは思ってもみなかった。
他の捌き屋には、何かしら名前がある。しかしエリトに名前が与えられることは無く、母とも離れて暮らしている。
『お前は特別な捌き屋だ』
この言葉はエリトにとって呪いのようなものだ。
このせいで他の捌き屋とも一線を引かれ、孤独に過ごすしかなかった。
(あの名前を、まだ名乗ってもいいのだろうか? クリオにもらった、大切な名前……)
戸惑うエリトの額に、ひたりと手のひらが載せられた。その大きさに驚いていると、宗主が口を開く。
「……ここは魔族の国だ。どんな名でもいい。お前の好きな名を名乗れ」
「俺の、好きな、名前?」
「……早く決めないと、俺が決めるぞ」
「ま、待って……! じ、じゃあ……エリト、がいいな」
その名前を言った瞬間、じんわり胸が温かくなる。クリオにもらった、大切なものだ。やっぱり大切に使いたかった。
エリトはその瞬間を見逃さなかった。
エリトを見つめる金の瞳が、揺れたのだ。片方の眉尻も下がり、唇も緩く弧を描いている。
その顔を見た瞬間、エリトの頭が音を立てる。そして聞こえて来た声に、胸が震えた。
「……エリト」
「……っ」
「……分かった。屋敷の者に周知させておく」
そう言い残すと宗主は立ち上がり、足早に去って行った。
エリトは未だに残る違和感に、眉を寄せる。何かが開きかけた、そんな感覚だった。
________
「エリト、口を開けて」
「……」
寝台に身体を凭れさせて、エリトは宗主を見た。さも当然といった態度で、エリトへと匙を向けてくる。匙にのった白湯を見て、エリトは溜息をついた。
「なぁなぁ、白湯ぐらいカップで飲めるって」
「……駄目だ。しばらく手も足も使うな」
「んな無茶な」
エリトはそう零しながら、隅に立つ女性を見た。使用人らしいその女性は、朗らかな顔を浮かべてこちらを見ている。いや、見守っているといったほうが正しい。
「……なぁなぁ、宗主? 普通俺みたいなやつの世話は、あの女の人に任せるもんじゃないのか?」
「駄目だ、異論は認めん。盟約を忘れるな」
(……魔神様ってのは、そんなに暇なのか?)
仕方なくエリトが口を開けると、優しく匙が舌を撫でる。とても魔神とは思えない優しい手つきに、いよいよ困惑が隠せない。
エリトがこくりと音をたてて白湯を飲むと、宗主が満足気に頷いた。
「これに慣れたら、次は重湯だ。覚悟しておけ」
「……」
言っていることとやっていることが、ちぐはぐだ。
相変わらずの無表情だが、どこか楽し気なのを宗主は隠せていない。
(もしかして俺、遊ばれてんのか? それともペット扱いみたいな、そんな感じ?)
ばれないように小さく嘆息して、エリトは宗主を見た。
宗主と呼ばれるこの魔神は、驚くほど顔の整った男だった。今までは遠くからしか見たことが無かったため、その造形美にエリトは圧倒さればかりだ。
瞳の色と髪の色で一瞬クリオを思い出したが、纏う雰囲気が違いすぎる。身体の造りもクリオより一回りほど大きく、そして逞しい。
圧倒的なオーラを纏いながら匙を向けられると、どうも調子が狂う。
「そもそも俺、あんたに恩しかないんだよ? なんでこんな扱いすんの?」
「不満か? こんな扱いをされる程の事をしたんだ。拒むことはできん」
「?? それってどういう……」
「宗主~。言われたもの持ってきましたよ~」
エリトが戸惑っていると、スガノが軽い口調で部屋に入って来た。運んできた盆には、小鉢がたくさん載っている。
「モートンがリンゴを摺り下ろした物も作ってくれたんですけど、どうします? 重湯もあります」
「では重湯の後に、リンゴを試そう」
(……俺は、赤ん坊かよ……)
スガノと宗主のやり取りを聞きながら、エリトは苦笑いを零す。
あの手この手で甘やかされる日々が始まるとは、エリトは思ってもみなかった。
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