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前編
第14話 名前を呼べば
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すぅすぅと寝息を立てている男を見て、エリトはほっと息をついた。
額に手を当てると、明らかに発熱しているのが分かる。しかし起きていた時の様子からすると、最悪の状況は免れたようだ。
エリトはクラーリオの額に当てた手を滑らせると、その髪を撫でた。撫でれば撫でるほど、頬が緩んでいく。
(この髪質……ノウリにそっくりだ……)
少し青みがかってふわふわな所も、ノウリとそっくりだった。
撫でているとノウリがいるようで、心がほっこりと温かくなる。
少し離れた場所にエリトも横になり、クラーリオの寝顔を眺めた。
前髪で見えなかった顔は、驚くほど端正だった。街の女性が見たら、たちまち騒ぎ始めるほどだ。なぜ意図的に隠しているのか、そもそもこの男の素性さえエリトには分からない。
あの森に軽装で入るあたり、クラーリオは魔獣に慣れていない。しかし少しも臆することなく、エリトを庇った。
(……この家に、人間を泊めたのは初めてだ……)
見知らぬ男をテリトリーに入れているのに、不思議と違和感はなかった。
身体を丸めて寝ている姿も、何となくノウリに似ている。
「犬に似ているなんて言ったら、流石に怒るだろうな……」
呟くと、エリトにも眠気が襲ってきた。
ノウリ以外の生き物の傍で眠るのも、エリトにとって初めてだった。
_________
クラーリオが重い瞼を開くと、エリトは傍で木の実を潰していた。
窓から差し込む陽の光は、かなり明るい。
クラーリオが身を起こすと、エリトが驚いたように手を止めた。その顔からは警戒心が抜けていて、躊躇いなくクラーリオへの額へと手を伸ばす。
「驚いたな。起きれるのか? 熱は……大分下がったな」
「……俺はどれくらい寝てた?」
「今は昼過ぎだから、半日くらい寝てたかな」
エリトは潰した木の実を鍋に入れて、そこにミルクを注ぎ込む。鍋を暖炉の上に置いて、木べらで掻き回し始めた。
そして寝ぼけ眼のクラーリオを見ると、頬を緩ませる。
「ははっ、髪がボサボサだな」
「……」
(エリトが……笑ってる……)
この一晩で何があったか分からないが、不思議とエリトとの距離がぐっと縮まっているのを感じる。
怯えも警戒心も感じない、ノウリとして過ごしたあの時のエリトがそこにはいた。
「ちょうどミルクを貰って来た所だった。ちょっと待ってろよ、今できる」
「……貰って来た?」
クラーリオの問いに、エリトは首を傾げた。木べらを持つ手を止めないまま、エリトは口を開いた。
「野生の牛に友達がいて、貰ってきたんだ。その牛を探すのに手間取って、こんな時間になった」
「……牛の、友達? 飼えば、いつでもミルクが貰えるんじゃないか?」
「何言ってるんだ。飼えないよ」
さも当然のようにエリトは言い放つ。
そして『そんな事も分からないのか』とでも言いたげな目で、クラーリオを見る。
「俺なんかが飼ったら、すぐに他のやつらに盗られるよ」
「……」
どうして、と問おうとしたところで、エリトが「できた!」と笑みを浮かべる。
お椀に移したミルクを大事そうに抱え、エリトはそれをクラーリオへ差し出した。
「栄養のあるものが、ミルクしかない。木の実も入れたから、少しはましかな」
「ありがとう……」
口に含むと、木の実の香りがふわりと広がった。調味料も何も使われていない、素朴な味だった。
思えばノウリとして過ごした期間も、出てきた料理は限られていた。
大抵蒸かした芋か、焼いた何かをエリトは食べていた。スープのような類は、今までで初めてだ。
「……いつもこのミルクを飲んでいるのか?」
「いや? たまに貰って飲むけど、温めたりしない」
「……」
スープに口を付けながら、クラーリオは部屋を見回した。
犬の姿では感じ取れなかった違和感が、そこにはたくさん転がっている。
(この家は、小さすぎる。家というか、小屋だ)
キッチンも浴室もないどころか、トイレすら無い。この小さな一部屋に、エリトの生活全てが収まっている。
「捌き屋……。本当に名前がないのか?」
「? 無いぞ? どうして?」
(どうして、なんて……こっちが聞きたい)
不思議そうに首を傾げるエリトは、クラーリオにとっては可愛らしくにしか映らない。
昨日狩りをしたまま風呂に入っていないのか、エリトの顔も服も酷く汚れている。それでも美しいのに、エリトのこの境遇は何故なのか。疑問ばかりが頭を擡げる。
「捌き屋、お願いがある」
「……何だ、またか? まぁ良いよ。助けてもらったお礼だ」
困ったように笑うエリトを見て、クラーリオは頬を緩ませた。
ノウリではない自分に笑顔を向けてくれる事に、心の底から喜びを感じる。
「捌き屋では呼びにくいから、俺に名前をつけさせてくれないか?」
「……俺に、名前を……?」
エリトは驚いた後、また少しの警戒を顔に浮かべる。そんな顔をさせたくなくて、クラーリオは捲し立てた。
「俺と過ごすときだけでいい。俺と捌き屋の間だけの名だ。他の誰かがいるときは、ちゃんと『捌き屋』と呼ぶから……」
「……ああ、それなら、まぁいいけど。変な名前つけんじゃねぇぞぉ?」
クラーリオが嬉しそうに笑うと、エリトも吹き出すように笑う。
その笑顔を見ながら、クラーリオは口を開いた。声が震えそうになるのを必死に堪える。
「エリト。エリト、と呼ばせて欲しい」
「えりと? ……うん、いいけど……」
「……ありがとう……エリト」
(……ああ、やっぱり……駄目だったか……)
エリトの返事は、クラーリオに喜びと絶望をもたらした。
受け入れてくれたことへの喜びと、少なからず抱いていた希望を打ち砕かれた絶望が、胸を焼き尽くす。
眉を寄せそうになるのを耐えて、クラーリオは口元に弧を描かせた。
何百年もの昔の、彼の姿を思い浮かべながら。
額に手を当てると、明らかに発熱しているのが分かる。しかし起きていた時の様子からすると、最悪の状況は免れたようだ。
エリトはクラーリオの額に当てた手を滑らせると、その髪を撫でた。撫でれば撫でるほど、頬が緩んでいく。
(この髪質……ノウリにそっくりだ……)
少し青みがかってふわふわな所も、ノウリとそっくりだった。
撫でているとノウリがいるようで、心がほっこりと温かくなる。
少し離れた場所にエリトも横になり、クラーリオの寝顔を眺めた。
前髪で見えなかった顔は、驚くほど端正だった。街の女性が見たら、たちまち騒ぎ始めるほどだ。なぜ意図的に隠しているのか、そもそもこの男の素性さえエリトには分からない。
あの森に軽装で入るあたり、クラーリオは魔獣に慣れていない。しかし少しも臆することなく、エリトを庇った。
(……この家に、人間を泊めたのは初めてだ……)
見知らぬ男をテリトリーに入れているのに、不思議と違和感はなかった。
身体を丸めて寝ている姿も、何となくノウリに似ている。
「犬に似ているなんて言ったら、流石に怒るだろうな……」
呟くと、エリトにも眠気が襲ってきた。
ノウリ以外の生き物の傍で眠るのも、エリトにとって初めてだった。
_________
クラーリオが重い瞼を開くと、エリトは傍で木の実を潰していた。
窓から差し込む陽の光は、かなり明るい。
クラーリオが身を起こすと、エリトが驚いたように手を止めた。その顔からは警戒心が抜けていて、躊躇いなくクラーリオへの額へと手を伸ばす。
「驚いたな。起きれるのか? 熱は……大分下がったな」
「……俺はどれくらい寝てた?」
「今は昼過ぎだから、半日くらい寝てたかな」
エリトは潰した木の実を鍋に入れて、そこにミルクを注ぎ込む。鍋を暖炉の上に置いて、木べらで掻き回し始めた。
そして寝ぼけ眼のクラーリオを見ると、頬を緩ませる。
「ははっ、髪がボサボサだな」
「……」
(エリトが……笑ってる……)
この一晩で何があったか分からないが、不思議とエリトとの距離がぐっと縮まっているのを感じる。
怯えも警戒心も感じない、ノウリとして過ごしたあの時のエリトがそこにはいた。
「ちょうどミルクを貰って来た所だった。ちょっと待ってろよ、今できる」
「……貰って来た?」
クラーリオの問いに、エリトは首を傾げた。木べらを持つ手を止めないまま、エリトは口を開いた。
「野生の牛に友達がいて、貰ってきたんだ。その牛を探すのに手間取って、こんな時間になった」
「……牛の、友達? 飼えば、いつでもミルクが貰えるんじゃないか?」
「何言ってるんだ。飼えないよ」
さも当然のようにエリトは言い放つ。
そして『そんな事も分からないのか』とでも言いたげな目で、クラーリオを見る。
「俺なんかが飼ったら、すぐに他のやつらに盗られるよ」
「……」
どうして、と問おうとしたところで、エリトが「できた!」と笑みを浮かべる。
お椀に移したミルクを大事そうに抱え、エリトはそれをクラーリオへ差し出した。
「栄養のあるものが、ミルクしかない。木の実も入れたから、少しはましかな」
「ありがとう……」
口に含むと、木の実の香りがふわりと広がった。調味料も何も使われていない、素朴な味だった。
思えばノウリとして過ごした期間も、出てきた料理は限られていた。
大抵蒸かした芋か、焼いた何かをエリトは食べていた。スープのような類は、今までで初めてだ。
「……いつもこのミルクを飲んでいるのか?」
「いや? たまに貰って飲むけど、温めたりしない」
「……」
スープに口を付けながら、クラーリオは部屋を見回した。
犬の姿では感じ取れなかった違和感が、そこにはたくさん転がっている。
(この家は、小さすぎる。家というか、小屋だ)
キッチンも浴室もないどころか、トイレすら無い。この小さな一部屋に、エリトの生活全てが収まっている。
「捌き屋……。本当に名前がないのか?」
「? 無いぞ? どうして?」
(どうして、なんて……こっちが聞きたい)
不思議そうに首を傾げるエリトは、クラーリオにとっては可愛らしくにしか映らない。
昨日狩りをしたまま風呂に入っていないのか、エリトの顔も服も酷く汚れている。それでも美しいのに、エリトのこの境遇は何故なのか。疑問ばかりが頭を擡げる。
「捌き屋、お願いがある」
「……何だ、またか? まぁ良いよ。助けてもらったお礼だ」
困ったように笑うエリトを見て、クラーリオは頬を緩ませた。
ノウリではない自分に笑顔を向けてくれる事に、心の底から喜びを感じる。
「捌き屋では呼びにくいから、俺に名前をつけさせてくれないか?」
「……俺に、名前を……?」
エリトは驚いた後、また少しの警戒を顔に浮かべる。そんな顔をさせたくなくて、クラーリオは捲し立てた。
「俺と過ごすときだけでいい。俺と捌き屋の間だけの名だ。他の誰かがいるときは、ちゃんと『捌き屋』と呼ぶから……」
「……ああ、それなら、まぁいいけど。変な名前つけんじゃねぇぞぉ?」
クラーリオが嬉しそうに笑うと、エリトも吹き出すように笑う。
その笑顔を見ながら、クラーリオは口を開いた。声が震えそうになるのを必死に堪える。
「エリト。エリト、と呼ばせて欲しい」
「えりと? ……うん、いいけど……」
「……ありがとう……エリト」
(……ああ、やっぱり……駄目だったか……)
エリトの返事は、クラーリオに喜びと絶望をもたらした。
受け入れてくれたことへの喜びと、少なからず抱いていた希望を打ち砕かれた絶望が、胸を焼き尽くす。
眉を寄せそうになるのを耐えて、クラーリオは口元に弧を描かせた。
何百年もの昔の、彼の姿を思い浮かべながら。
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