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トーヤの風呂屋編
30. 本当の名前は
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朝食をとりながら、ジャックは溜息をついた。ユトが心配そうにスープを運んでくる。
「たつ、来ないわね。どうしたのかしら」
子供たちも暗い顔でスープを突っついている。ジャックが魚を取り分けながら続けた。
「一昨日の様子がどうも気になるんだよな。何処に住んでんのかも分からんのがな……」
「傷が炎症を起こしてたら、どうしましょう」
初めてこの風呂屋に来た時は、痩せて顔色も悪かった。数日間まともに食べていなかったというので、どんな生活をしているのかと心配でならない。
玄関のベルが鳴り「たつかな?」と言いながらトキが椅子から降り、チカも後に続いた。
「こんな時間に誰かしら?」
ユトも玄関に目を向けると、そこには女性が2人立っていた。
「はじめまして。私、ルメリアといいます。こっちはタールマです」
2人は行儀よく挨拶すると、ルメリアは人懐こい笑顔を浮かべる。
ユトが立ち上がり玄関へと向かうと、ジャックもひょこひょこと付いてきた。
「うちになにか?」とジャックが問うと、タールマがジャックにも軽く頭を下げる。
「ここで働いていた、たつとらの事なんですが……」
「たつがどうかしたのか!?」
かなりの激しい反応にタールマは思わず仰け反り、ルメリアに引っ張られてバランスを保った。
(良かった……ここでもたつとら、と名乗っているんだな)
タールマはホッと息を吐き、話を続ける。
「ちょっと体調を崩してまして、数日間お休みをと……」
「なに!?どんな様子なんだ!大丈夫なのか!?」
側で見ていた子供達が、ショックを受けた様子でジャックとユトに抱きつく。まるで家族の様な反応をするジャック達にルメリアは少し驚いた。
「あなたたちは、たつの何?一緒に住んでいたの?たつからは何も聞いていないけど……」
「いえ、私たちは友人で、その、昨日偶然彼を見つけまして……」
異形の亜種を魔神に変えて、重傷と謎の発作で寝込んでます。とは言えない。タールマたちが言葉に詰まっていると、ジャックが頭を抱えて大きく息を吐いた。
「……やっぱり無理矢理にでも住み込みにすりゃ良かったな。あいつ狐がどうとかって言って、ここには住もうとしなかったんだ……」
その言葉を聞いて、タールマははと気付く。
玄関から少し中の様子を伺う。
整った部屋、安全な住環境、中からは美味しそうな匂いもする。普段は躊躇する所だが、タールマは遠慮なく聞いてみた。
「あの……もし宜しければ、なんですが。……たつをここで療養させて頂いても良いですか?」
タールマのいきなりの提案に、ルメリアは驚くと共に心の中でナイスを送った。
「彼の住環境は最悪なんです。暖かい寝床もありません。えっと……私たちが彼の代わりに働きますから、なんとかなりませんか?」
言い終わらないうちに「早く連れてこい!」とジャックは言った。
「うちには空き部屋もいくつかあるし、たつはもう家族みたいなもんなんだ。早く連れてきて、休ませてやれ!」
この言葉にタールマもルメリアも笑顔になり、返事をすると街の反対側へ走って行く。
「うちのトラックを使え」とジャックに呼び止められ、2人は再度頭を下げてトラックに乗り込んだ。車なら洞にもすぐ着きそうだ、とタールマは思いつつ、ルメリアのあまりの運転の荒さに舌を噛まないように歯を食いしばった。
_____________
「それにしても助かりました」
トラックの荷台で揺られながら、ボルエスタは同乗しているタールマに笑顔を向けた。
「いや、あの家族がたつのこと大事にしてるみたいだったから……」
毛布に包まったまま眠るたつとらの青白い顔を見ながら、タールマは微笑んだ。
運転しているのはチャンで、荷台もさほど揺れない。
先ほどとは大違いだ、とタールマは隣にいるルメリアに愚痴をこぼした。ルメリアは抗議の目を向けるも、反論は出来ないようだ。
そうこうしているうちに、煙突が見えた。トラックの音を聞きつけたのか、中からジャックと子供たちが飛び出してくる。
「あんたは喋らんとってや」
たつとらの側で丸くなる狐にルメリアが釘をさすと「やかましぃねん」返事が返ってきた。
たつとらを洞から移すと提案した時もこの狐は色々と文句を言っていた。渋々納得はしたが、同行すると聞かず、今は拗ねて丸まっている。
ボルエスタがジャックに挨拶をしているのが聞こえ、チャンが慣れた手つきでたつとらを荷台から降ろして抱きかかえる。
意識が無いたつとらの姿に驚いたジャックが、まるで傷ついた息子を見るように眉根を寄せ、直ぐに部屋へと案内してくれた。
その空き部屋は綺麗に整えられていて、タオルや桶なども準備してある。ボルエスタは何度も頭を下げ、ようやく暖かい寝床へたつとらを寝かせられる事に安堵した。
_____________
目を薄く開けると、見慣れた可愛い顔が二つ並んでいた。
たつとらがまだ意識のはっきりしない頭を必死に回転させながら「あれぇ?……チカとトキ?」と掠れた声で呟くと、トキが急に立ち上がり「ママ!先生!」と叫んだ。
チカは小さな手でたつとらの顔を撫でて「大丈夫?」と聞きながらべそをかいている。
とりあえず宥めるようにチカの頭を撫でながら周りを見渡し、見慣れないような見慣れているようなその部屋がどこなのか考えを巡らせた。
部屋の扉からユトが顔を出し、続いてボルエスタが部屋に入ってくる。
開いた扉から見慣れたリビングが少しだけ見え、ここがジャックの家だと分かると、たつとらは目を見開いた。
ユトはベッドの前に立つと、まるで子供を怒るかのように腰に手を当て、たつとらを睨んだ。
「ユトさん……ごめん」
自身の枯れた声を情けなく思ったのか、顔を伏せたたつとらにユトは溜息をついた。
「……そうね、たくさん心配したわ」
チカがまるで自分が怒られているかのように、たつとらの布団を掴む。ユトは眉を顰めたまま、たつとらを見つめた。
「こんなに沢山の人に心配かけて!めっ!」
チカが布団に顔を埋め、トキが走り寄ってきて同じくたつとらの布団に顔を埋めた。
何故か自分たちが怒られているかのように怯える2人を撫でながら、たつとらは怒るユトの顔を見上げた。すると直ぐユトの表情は穏やかなものに変わり、枕元に座り込むとたつとらと目線を合わせる。
「人と人との出会いは、生きていく上で避けられないものなのよ。たつが生きる限り、出会いもあり別れもある。たつが避けようとしても、断つ事は出来ないのよ」
ユトがチカとトキの髪を撫で、そしてたつとらの髪を撫でる。
「別れが辛いからといって、避けちゃうと、更に心は傷つくわ。誰かの為を想って、何かをすると、更にその人はあなたを想う。与え続けるだけが良いなんて、たつの甘えよ」
視線を伏せながら黙り込むたつとらの髪を優しく撫でながら、ユトは微笑んだ。
「過去にどんなに悲しいことがあっても、人は人と乗り越えられる。私たちを、皆を信じてあげて」
声を聞きながら、たつとらは思った。
(ユトさんは、少しだけヴィテさんみたいだ)
身体はとても弱いのに、心は誰よりも強いあの人もこうやって自分の事を諭し続けた。
今も心が締め付けられるように痛い。
長い時が過ぎても、記憶が薄れて消えることは無かった。
「あ、ごめんね。起きたばかりなのに説教なんて……お水は飲めそう?」
やっと視線を合わせられたたつとらは、頷くと「ごめんなさい」と呟いた。
後ろで聞いていたボルエスタが水を運んできて、ユトさんは子供たちの手を引いて部屋を出ていく。心配そうな目をしたまま連れていかれる子供たちを笑顔で見送りながら、たつとらはホッと息を吐いた。
肩の傷が引き攣るように痛むなか、ゆっくりと上体を起こす。
目の前の水を受け取ると、コップに口をつけながら視線を上げる。ボルエスタは視線を合わせると、ユトと同じように座り、まっすぐ顔を見つめた。
「……たつ、最初に謝りますね。……ごめんなさい」
たつとらが不思議そうに目を向けるので、ボルエスタは眉尻を下げて微笑んだ。
「やっぱりたつと離れるのは皆嫌みたいです……。折角たつが、身を呈してまで去ったのにね……」
コップを握りしめるたつとらの手は、爪先が白くなるくらい強張っているようだ。何か言葉を発しようとしているのが分かったボルエスタは、彼が口を開くまで辛抱強く待った。
「……ユトさん達にも全部話したのか?」
その問いに首を振ると「嘘は言ってませんよ」とボルエスタは笑う。
「彼は大好きな友人であり、命の恩人です。でも彼は昔たくさん辛いことがあって、僕たちから離れてしまいました。でも僕たちは彼に会いたくて、探していましたって言いました」
たつとらの緑の瞳が揺らいでいるのを、ボルエスタは逸らさずに見つめた。
悔しそうな、悲しそうな緑色の瞳は、抱えきれないほどのものを湛えているように見えた。どうすれば、零してくれるのだろうと、ボルエスタは思う。
「お母さんってすごいですね。それを聞いただけで、あんなふうに諭してしまうなんて……」
ニコリと笑うと、たつとらは視線を外して口を引き結んだ。その手が握りしめるコップをそっと取り上げると、背中を支えて横にならせる。
横になった彼は「昔……」と掠れた声で言った。
たつとらの体調はもうだいぶ回復していた。
肩口の傷は少し痛むが、発作で傷つけられた体内の損傷はもう大方修復出来ているようだ。
だけどこの胸の痛みは、何年たっても修復できない。
「昔……自分の命よりも大切な人がいて、その人はとっても身体が弱かったんだ。……その人が……目を開けて、笑ってくれて、それだけで本当に幸せだった……」
まるで涙の代わりかのように、止めどなく言葉がポロポロ零れ落ちる。
「ベッドに蹲って咳をしている姿、意識のない彼女が、もう目を開けなかったらと思う日々……でも彼女は俺に笑いかけるんだ。
辛かった……彼女が一番辛いはずなのに、なんでって……もうその彼女はいない…。
そして今、俺の姿は……在りし日の彼女そのものだ」
なんて残酷な戒めだろうと、何度も思った。
彼女を見守った自分の想いと、今では手に取るように分かる、残される者への彼女の想い。それが心の一番弱い部分を抉って、掻き回して狂おしいほど胸が痛む。
「もう誰も、傷つけたくないんだ……でもいつも、失敗する……」
目の奥がチリチリと痛んで、瞼が自然と重くなっていく。
狭くなっていく視界に残されたボルエスタの表情は、あの時の自分の表情とそっくりだった。
_____________
「ユトさんのスープは本当に美味しい」
一夜明けて、たっぷり寝たたつとらは大分回復していた。
ユトがにっこり笑って「まだ沢山あるからね」と言いながら足元のチカとトキを撫でる。
もうジャックたちは朝食を終わらせているようで、食卓にはたつとら一人だ。
何となく遠慮しているような子供たちに「おいで」と声をかけると、破顔して駆け寄ってきた。
「たつ、元気になってよかったね」
ぎゅっと抱きつきながら言う子供たちに、素直に「ありがとう」と返す。
時計を見ると、朝の9時を過ぎたところだった。
「たつのお友達がたくさん手伝ってくれるから、普段は出来ない細かいところも手が届くって、父がよろこんでたわ」
キッチンからユトの声と、皿を片付ける音が聞こえてくる。
ユトはいつもより元気に見えた。咳をすることも無く、動きも軽いようだ。
「今から子供たちと教会へ行くね。たつはお風呂、入りたい?」
予想外の提案に目を見開きコクコクと頷くと、ユトがクスクス笑う。子供たちに上着を着せて、ボタンを止めながら彼女は続ける。
「お店のお風呂はまだ駄目だけど、家のお風呂に入って。長風呂は駄目よ」
3人が出ていった後、足元で丸まっている薬王に声を掛けた。
「……朱楽、まだ拗ねているのか?」
この家に来てからずっと沈黙している狐は、尻尾をパタパタしながらたつとらを恨めし気に見上げる。
「お前の洞も、居心地良かったよ」
屈んで尻尾を撫でてやると、途端に人型に戻った薬王は「ほんま?」と言いながら嬉しそうにしている。たつとらはクスリと笑うと、ゆっくり立ち上がって風呂場へ向かう。
「兄ぃ、一緒に入ろか?」
来るなよ、と即答され取り残された薬王は再び狐へと戻り、脱衣所の外で丸まった。尻尾を振る様はまさに犬の様だ。
中から聞こえる水音を聞きながら、薬王は目を閉じた。
風呂から出て、扉の前で寝ている薬王を抱きかかえる。
まだ少し痛む片手で狐を抱えたまま、もう片方の手で髪を拭きリビングに入ると、見慣れた顔触れが揃っていた。
ルメリアとタールマがコーヒーを入れており、ミンユエとチャンがソファに座って話をしている。こちらに気付いたボルエスタが、立ち上がって笑顔を向けた。
「たつ……」
「……あら、おはよう、みんな……」
こちらに気付いたルメリアが、走り寄ってくるのが見えた。たつとらの胸にいる狐を払い除け「こんな重いもん持ったらあかん!」と目に涙をいっぱいに溜めて叫んでいる。
地面に落とされた薬王は人型に戻ると、ものすごい剣幕でルメリアに詰め寄った。
「お前ええ度胸してんのぉ!?おお!?」
「煩い!とことん煩い!」
2人の掛け合いにたつとらが唖然としていると、ミンユエが彼をソファまで引っ張っていく。ソファにいたチャンがガシガシとたつとらの頭を拭いてソファに座らせると、タールマがコーヒーを手渡してきた。
「ありがと……」
カップを手にしながら何とも言えない雰囲気の中、視線を泳がせていると自然に皆が集まってきた。朱楽とルメリアが競うようにたつとらの両脇を固めると、その両脇にタールマとボルエスタが座る。一人掛けソファにミンユエが座って、その肘掛けにチャンが腰かけた。
「えっと……」とたつとらは呟いたが、取り敢えずカップに口を付けた。
コーヒーからは煎れたてのいい香りがし、温度も丁度いい。だけど何か居心地が悪い。退路を絶たれたとは正にこのことだろう。
もどかしさと変な雰囲気に、薬王が喚く。
「なんやお前ら。兄ぃを目の前にしたらだんまりかい!聞きたいこと聞けぇや!」
「うっさい!だまれ狐!」
ルメリアがなぜかポロポロ涙を零しながら言うので、たつとらがルメリアの顔を見る。
その顔にはあの時の傷がうっすらと残っていて、彼の胸は激しく痛んだ。優しく傷跡を親指で撫でる。
「ちょっと残っちゃったなぁ。ごめん」
頬を撫でられたルメリアは顔を真っ赤にして首を振った。ポロポロと涙を零しながら「ああああ、あかん」と言い、隣のタールマに顔をうずめる。
タールマが困ったような顔をしながら「よしよし、耐性をつけろ。耐性を」と言いながらルメリアの髪を撫でる。
「よし、ここは俺が」とチャンが笑いながら口を開いた。
「これから、あんたの事を何と呼べばいい?」
その質問に一同は固唾をのんだ。
真剣な顔をしているチャンに、何を言っているのか分からないという顔をたつとらが浮かべるので、ミンユエが補足する。
「本当の名前は何なのか、知りたいの」
たつとらから不思議そうな目を向けられた薬王は、バツの悪そうな顔をした後に口をひらいた。尻尾が地面にぽたりと落ちる。
「あ、兄ぃが、タイラだったって言うてもうた……あかんかった?」
その言葉を聞いて、たつとらは「ああ」と言って笑うと薬王の髪を撫でる。怒る様子のないたつとらに安堵した薬王から耳がぴょんと出てきて、それはフルフルと震えた。
それを殺気立った目でルメリアが見つめる。
(あざとい、あざといぞ狐……耳ずるい)
その殺気は薬王にも届いたようで、ルメリアに向かって口の端を吊り上げた。そんな2人に気付いているのかいないのか、たつとらは穏やかな声で答える。
「今まで通りで大丈夫。俺の本名はタイラ・タツトラ。タイラが苗字、タツトラが名だよ」
当然の事のように言うと、またカップに口をつける。そして困ったように笑うと「ところで……」と口を開いた。
「この狐にどこまで聞いた?」
薬王の耳をキュッと捻りながらたつとらが言うと、薬王が慌てふためいて弁明する。
「あああ兄ぃ、隠し事は良くないで!俺は嘘は言うてない!……だからお前ら聞けて!聞きたいことちゃんと聞け!!」
そう言うと狐の姿になり、たつとらの足元に丸まった。
ボルエスタがブランケットを持ってきてたつとらの肩に掛けると、急に表情を曇らせ口を開く。
「ウェリンクは……大丈夫だった?被害は?」
その問いにはタールマが答えた。
「一般市民への被害はほぼ無かったと言える。次の日には元の生活に戻っていたよ。シライシによって異帝は3名とも消滅し、鹿子は姿を消した」
たつとらは息を吐き「そっか……」と呟いた。
「シライシは魔神か?」
タールマの問いに、たつとらは重く頷く。
「シライシには、ウェリンク王都周辺を見てもらってる。……本当は……」
たつとらは眉根を寄せ「本当は……」ともう一度繰り返した。悔しそうに、悲しそうに次の言葉を絞り出す。
「本当は、出したくなかった。魔神に魔神を向かわせるなんて……でもあの時、そうするしかなくて…」
手に持ったカップを見つめて、少し鼻をすすると彼は続けた。
「シライシは滅茶苦茶強くて、魔神にするのに何十年もかかったんだ。ナナシの時代にやっと魔神にすることが出来たけど、あいつとは本当に長い付き合いで……出会う度にお互いギリギリになるまで傷つけあって、何度も何度も戦った。あいつが気付かせてくれたんだ。……異形にも意志があると」
「意志……?」とチャンが言うと、たつとらが頷く。
「異形には植えつけられた本能がある。『人間を殺せ』という強い本能だ。人間を喰らう異形もいるけど、別にお腹がすいてる訳じゃない。本能なんだ。ほとんどの異形は本能のまま生きているが、一部上位の異形は本能のままではないことに気付いたんだ」
ソファに座ったまま、たつとらは前を見据えた。誰を見るわけでもなく、まるで今まであったこと全てを思い出す様に言葉を紡ぐ。
「なんで攻撃されるんだろう、憎しみを向けられるのはなぜだろうと怒り、自分以外が意志を持たないのは何故だろうと孤独に苦しみ……。人間と同じように水が気持ちいいと感じ、花が綺麗だと喜び、どうして人間を憎むのか、と悲しみ……。あの鹿子だってそうなんだ」
そこまで言うと、少し悲しそうに笑い「俺はね、異形の核から生まれたんだよ。だから分かるんだ」と言った。
数百年前、突如として現れた異形の核。
核からは無数の異形が生まれ、この世界は混沌に陥った。
「俺自身も俺が何なのかわからない。この身は人間そのものだしね」
足元の薬王を抱き上げて膝に乗せると、スリスリと頭を擦りつけてくる。その背中を優しくなでた。
皆の顔を見るのが怖かった。
恐怖の表情か、侮蔑の表情か、はたまた敵対の表情かもしれない。
それも良いか、とたつとらは思う。
「俺を探しに来てくれて、本当に嬉しかった。残念ながらこれが真実で、変えようもないんだ。ここまで来てくれたのに、ごめ……」
そこまで言うと、ルメリアがまた膝に乗る狐を払いのける。そしてたつとらの頭をギュッと抱え込んだ。
驚いて混乱しているたつとらが「え?」言うと、また別の方向から腕が伸びてきて同じように抱きしめられる。タールマだった。
その3人を丸ごと抱えるようにミンユエが飛びついてくる。
もはや何も見えない状態になりながら、たつとらがもがいていると、「よしよし」と頭を撫でられる感触がした。それはチャンの声だった。
「僕の入り込む隙間が……」と声が聞こえ、「ここ空いてるよ~」と視界が少し開けた。
視界の中にボルエスタが登場し、笑っている。
「その真実を丸ごと受け入れても、あなたと居たいと思ってるんです」
緑の瞳が揺れる。
「帰らないよ」
彼を抱きしめる腕たちが、ぎゅっと力を込めるのが分かった。
「ちょっとずつで良い。分けて。その抱えてるもの」
「かかえ…てるもの…?」
たつとらはそう呟くと、震える息を小さく吐いた。
足元にいる狐が視界の中に映ると、彼は眉根を寄せ「でも…」と唇を噛む。その顔を見た薬王が彼の足にスリスリと頭を擦りつけた。
「俺は兄ぃについていくで。こいつら人間が兄ぃを傷つけんよう見張る」
薬王がそう言うと、ルメリアがまた噛みついた。
「たっちゃんを傷つけるわけないやろ!このハゲ!」
薬王は「誰がハゲやねん!」と言うと、人型に戻る。たつとらに貼り付いている3人を引き離すと彼の隣に座り、しがみつくように抱きついた。
「朱楽……」
名前を呼んでも視線を合わせない薬王に、たつとらは首を傾げる。たつとらにしがみついたまま尻尾を振ると、薬王は口を開いた。
「……俺は、異形とか、人間とか、どうでもええねん。ただ兄ぃが好きやねん。……ただ笑って過ごしてほしいだけやねん……でも、それが無理やって、俺やって分かってる」
尻尾が儚げに揺れて、たつとらの膝を叩く。
「だから付いていく!だから大丈夫や。心配せんと、こいつらを受け入れや?」
頭をグリグリと押し付けてくる薬王に、たつとらは少し困ったように笑った。
薬王を引き離しにかかった女性陣を見ながら、たつとらは自身に懸かっていたブランケットを引き上げた。
ふと肩に重みを感じた薬王が横を見ると、たつとらが凭れ掛かって目を閉じている。
「ちょっと、ごめん……ねむい…」
そしてモゾモゾとブランケットに身体を収めると、本当にすやすや眠ってしまった。
ボルエスタが眼鏡を持ち上げながら「えっと……」と呟く。
「そういえば、たつは良く寝る子でしたね」
と微笑みながら言うので、チャンが吹きだす。
「今のタイミングはねぇわ!」
皆が笑い、張りつめていた空気がふっと軽くなった。
薬王は眠るたつとらの頬に伝った一筋の涙をそっと拭うと、その身体を抱き上げる。
寝室のドアを開けると振り返り、口の端を挑戦的に上げた。
「これからよろしゅう、人間ども」
そう言うと、寝室に入っていった。
「たつ、来ないわね。どうしたのかしら」
子供たちも暗い顔でスープを突っついている。ジャックが魚を取り分けながら続けた。
「一昨日の様子がどうも気になるんだよな。何処に住んでんのかも分からんのがな……」
「傷が炎症を起こしてたら、どうしましょう」
初めてこの風呂屋に来た時は、痩せて顔色も悪かった。数日間まともに食べていなかったというので、どんな生活をしているのかと心配でならない。
玄関のベルが鳴り「たつかな?」と言いながらトキが椅子から降り、チカも後に続いた。
「こんな時間に誰かしら?」
ユトも玄関に目を向けると、そこには女性が2人立っていた。
「はじめまして。私、ルメリアといいます。こっちはタールマです」
2人は行儀よく挨拶すると、ルメリアは人懐こい笑顔を浮かべる。
ユトが立ち上がり玄関へと向かうと、ジャックもひょこひょこと付いてきた。
「うちになにか?」とジャックが問うと、タールマがジャックにも軽く頭を下げる。
「ここで働いていた、たつとらの事なんですが……」
「たつがどうかしたのか!?」
かなりの激しい反応にタールマは思わず仰け反り、ルメリアに引っ張られてバランスを保った。
(良かった……ここでもたつとら、と名乗っているんだな)
タールマはホッと息を吐き、話を続ける。
「ちょっと体調を崩してまして、数日間お休みをと……」
「なに!?どんな様子なんだ!大丈夫なのか!?」
側で見ていた子供達が、ショックを受けた様子でジャックとユトに抱きつく。まるで家族の様な反応をするジャック達にルメリアは少し驚いた。
「あなたたちは、たつの何?一緒に住んでいたの?たつからは何も聞いていないけど……」
「いえ、私たちは友人で、その、昨日偶然彼を見つけまして……」
異形の亜種を魔神に変えて、重傷と謎の発作で寝込んでます。とは言えない。タールマたちが言葉に詰まっていると、ジャックが頭を抱えて大きく息を吐いた。
「……やっぱり無理矢理にでも住み込みにすりゃ良かったな。あいつ狐がどうとかって言って、ここには住もうとしなかったんだ……」
その言葉を聞いて、タールマははと気付く。
玄関から少し中の様子を伺う。
整った部屋、安全な住環境、中からは美味しそうな匂いもする。普段は躊躇する所だが、タールマは遠慮なく聞いてみた。
「あの……もし宜しければ、なんですが。……たつをここで療養させて頂いても良いですか?」
タールマのいきなりの提案に、ルメリアは驚くと共に心の中でナイスを送った。
「彼の住環境は最悪なんです。暖かい寝床もありません。えっと……私たちが彼の代わりに働きますから、なんとかなりませんか?」
言い終わらないうちに「早く連れてこい!」とジャックは言った。
「うちには空き部屋もいくつかあるし、たつはもう家族みたいなもんなんだ。早く連れてきて、休ませてやれ!」
この言葉にタールマもルメリアも笑顔になり、返事をすると街の反対側へ走って行く。
「うちのトラックを使え」とジャックに呼び止められ、2人は再度頭を下げてトラックに乗り込んだ。車なら洞にもすぐ着きそうだ、とタールマは思いつつ、ルメリアのあまりの運転の荒さに舌を噛まないように歯を食いしばった。
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「それにしても助かりました」
トラックの荷台で揺られながら、ボルエスタは同乗しているタールマに笑顔を向けた。
「いや、あの家族がたつのこと大事にしてるみたいだったから……」
毛布に包まったまま眠るたつとらの青白い顔を見ながら、タールマは微笑んだ。
運転しているのはチャンで、荷台もさほど揺れない。
先ほどとは大違いだ、とタールマは隣にいるルメリアに愚痴をこぼした。ルメリアは抗議の目を向けるも、反論は出来ないようだ。
そうこうしているうちに、煙突が見えた。トラックの音を聞きつけたのか、中からジャックと子供たちが飛び出してくる。
「あんたは喋らんとってや」
たつとらの側で丸くなる狐にルメリアが釘をさすと「やかましぃねん」返事が返ってきた。
たつとらを洞から移すと提案した時もこの狐は色々と文句を言っていた。渋々納得はしたが、同行すると聞かず、今は拗ねて丸まっている。
ボルエスタがジャックに挨拶をしているのが聞こえ、チャンが慣れた手つきでたつとらを荷台から降ろして抱きかかえる。
意識が無いたつとらの姿に驚いたジャックが、まるで傷ついた息子を見るように眉根を寄せ、直ぐに部屋へと案内してくれた。
その空き部屋は綺麗に整えられていて、タオルや桶なども準備してある。ボルエスタは何度も頭を下げ、ようやく暖かい寝床へたつとらを寝かせられる事に安堵した。
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目を薄く開けると、見慣れた可愛い顔が二つ並んでいた。
たつとらがまだ意識のはっきりしない頭を必死に回転させながら「あれぇ?……チカとトキ?」と掠れた声で呟くと、トキが急に立ち上がり「ママ!先生!」と叫んだ。
チカは小さな手でたつとらの顔を撫でて「大丈夫?」と聞きながらべそをかいている。
とりあえず宥めるようにチカの頭を撫でながら周りを見渡し、見慣れないような見慣れているようなその部屋がどこなのか考えを巡らせた。
部屋の扉からユトが顔を出し、続いてボルエスタが部屋に入ってくる。
開いた扉から見慣れたリビングが少しだけ見え、ここがジャックの家だと分かると、たつとらは目を見開いた。
ユトはベッドの前に立つと、まるで子供を怒るかのように腰に手を当て、たつとらを睨んだ。
「ユトさん……ごめん」
自身の枯れた声を情けなく思ったのか、顔を伏せたたつとらにユトは溜息をついた。
「……そうね、たくさん心配したわ」
チカがまるで自分が怒られているかのように、たつとらの布団を掴む。ユトは眉を顰めたまま、たつとらを見つめた。
「こんなに沢山の人に心配かけて!めっ!」
チカが布団に顔を埋め、トキが走り寄ってきて同じくたつとらの布団に顔を埋めた。
何故か自分たちが怒られているかのように怯える2人を撫でながら、たつとらは怒るユトの顔を見上げた。すると直ぐユトの表情は穏やかなものに変わり、枕元に座り込むとたつとらと目線を合わせる。
「人と人との出会いは、生きていく上で避けられないものなのよ。たつが生きる限り、出会いもあり別れもある。たつが避けようとしても、断つ事は出来ないのよ」
ユトがチカとトキの髪を撫で、そしてたつとらの髪を撫でる。
「別れが辛いからといって、避けちゃうと、更に心は傷つくわ。誰かの為を想って、何かをすると、更にその人はあなたを想う。与え続けるだけが良いなんて、たつの甘えよ」
視線を伏せながら黙り込むたつとらの髪を優しく撫でながら、ユトは微笑んだ。
「過去にどんなに悲しいことがあっても、人は人と乗り越えられる。私たちを、皆を信じてあげて」
声を聞きながら、たつとらは思った。
(ユトさんは、少しだけヴィテさんみたいだ)
身体はとても弱いのに、心は誰よりも強いあの人もこうやって自分の事を諭し続けた。
今も心が締め付けられるように痛い。
長い時が過ぎても、記憶が薄れて消えることは無かった。
「あ、ごめんね。起きたばかりなのに説教なんて……お水は飲めそう?」
やっと視線を合わせられたたつとらは、頷くと「ごめんなさい」と呟いた。
後ろで聞いていたボルエスタが水を運んできて、ユトさんは子供たちの手を引いて部屋を出ていく。心配そうな目をしたまま連れていかれる子供たちを笑顔で見送りながら、たつとらはホッと息を吐いた。
肩の傷が引き攣るように痛むなか、ゆっくりと上体を起こす。
目の前の水を受け取ると、コップに口をつけながら視線を上げる。ボルエスタは視線を合わせると、ユトと同じように座り、まっすぐ顔を見つめた。
「……たつ、最初に謝りますね。……ごめんなさい」
たつとらが不思議そうに目を向けるので、ボルエスタは眉尻を下げて微笑んだ。
「やっぱりたつと離れるのは皆嫌みたいです……。折角たつが、身を呈してまで去ったのにね……」
コップを握りしめるたつとらの手は、爪先が白くなるくらい強張っているようだ。何か言葉を発しようとしているのが分かったボルエスタは、彼が口を開くまで辛抱強く待った。
「……ユトさん達にも全部話したのか?」
その問いに首を振ると「嘘は言ってませんよ」とボルエスタは笑う。
「彼は大好きな友人であり、命の恩人です。でも彼は昔たくさん辛いことがあって、僕たちから離れてしまいました。でも僕たちは彼に会いたくて、探していましたって言いました」
たつとらの緑の瞳が揺らいでいるのを、ボルエスタは逸らさずに見つめた。
悔しそうな、悲しそうな緑色の瞳は、抱えきれないほどのものを湛えているように見えた。どうすれば、零してくれるのだろうと、ボルエスタは思う。
「お母さんってすごいですね。それを聞いただけで、あんなふうに諭してしまうなんて……」
ニコリと笑うと、たつとらは視線を外して口を引き結んだ。その手が握りしめるコップをそっと取り上げると、背中を支えて横にならせる。
横になった彼は「昔……」と掠れた声で言った。
たつとらの体調はもうだいぶ回復していた。
肩口の傷は少し痛むが、発作で傷つけられた体内の損傷はもう大方修復出来ているようだ。
だけどこの胸の痛みは、何年たっても修復できない。
「昔……自分の命よりも大切な人がいて、その人はとっても身体が弱かったんだ。……その人が……目を開けて、笑ってくれて、それだけで本当に幸せだった……」
まるで涙の代わりかのように、止めどなく言葉がポロポロ零れ落ちる。
「ベッドに蹲って咳をしている姿、意識のない彼女が、もう目を開けなかったらと思う日々……でも彼女は俺に笑いかけるんだ。
辛かった……彼女が一番辛いはずなのに、なんでって……もうその彼女はいない…。
そして今、俺の姿は……在りし日の彼女そのものだ」
なんて残酷な戒めだろうと、何度も思った。
彼女を見守った自分の想いと、今では手に取るように分かる、残される者への彼女の想い。それが心の一番弱い部分を抉って、掻き回して狂おしいほど胸が痛む。
「もう誰も、傷つけたくないんだ……でもいつも、失敗する……」
目の奥がチリチリと痛んで、瞼が自然と重くなっていく。
狭くなっていく視界に残されたボルエスタの表情は、あの時の自分の表情とそっくりだった。
_____________
「ユトさんのスープは本当に美味しい」
一夜明けて、たっぷり寝たたつとらは大分回復していた。
ユトがにっこり笑って「まだ沢山あるからね」と言いながら足元のチカとトキを撫でる。
もうジャックたちは朝食を終わらせているようで、食卓にはたつとら一人だ。
何となく遠慮しているような子供たちに「おいで」と声をかけると、破顔して駆け寄ってきた。
「たつ、元気になってよかったね」
ぎゅっと抱きつきながら言う子供たちに、素直に「ありがとう」と返す。
時計を見ると、朝の9時を過ぎたところだった。
「たつのお友達がたくさん手伝ってくれるから、普段は出来ない細かいところも手が届くって、父がよろこんでたわ」
キッチンからユトの声と、皿を片付ける音が聞こえてくる。
ユトはいつもより元気に見えた。咳をすることも無く、動きも軽いようだ。
「今から子供たちと教会へ行くね。たつはお風呂、入りたい?」
予想外の提案に目を見開きコクコクと頷くと、ユトがクスクス笑う。子供たちに上着を着せて、ボタンを止めながら彼女は続ける。
「お店のお風呂はまだ駄目だけど、家のお風呂に入って。長風呂は駄目よ」
3人が出ていった後、足元で丸まっている薬王に声を掛けた。
「……朱楽、まだ拗ねているのか?」
この家に来てからずっと沈黙している狐は、尻尾をパタパタしながらたつとらを恨めし気に見上げる。
「お前の洞も、居心地良かったよ」
屈んで尻尾を撫でてやると、途端に人型に戻った薬王は「ほんま?」と言いながら嬉しそうにしている。たつとらはクスリと笑うと、ゆっくり立ち上がって風呂場へ向かう。
「兄ぃ、一緒に入ろか?」
来るなよ、と即答され取り残された薬王は再び狐へと戻り、脱衣所の外で丸まった。尻尾を振る様はまさに犬の様だ。
中から聞こえる水音を聞きながら、薬王は目を閉じた。
風呂から出て、扉の前で寝ている薬王を抱きかかえる。
まだ少し痛む片手で狐を抱えたまま、もう片方の手で髪を拭きリビングに入ると、見慣れた顔触れが揃っていた。
ルメリアとタールマがコーヒーを入れており、ミンユエとチャンがソファに座って話をしている。こちらに気付いたボルエスタが、立ち上がって笑顔を向けた。
「たつ……」
「……あら、おはよう、みんな……」
こちらに気付いたルメリアが、走り寄ってくるのが見えた。たつとらの胸にいる狐を払い除け「こんな重いもん持ったらあかん!」と目に涙をいっぱいに溜めて叫んでいる。
地面に落とされた薬王は人型に戻ると、ものすごい剣幕でルメリアに詰め寄った。
「お前ええ度胸してんのぉ!?おお!?」
「煩い!とことん煩い!」
2人の掛け合いにたつとらが唖然としていると、ミンユエが彼をソファまで引っ張っていく。ソファにいたチャンがガシガシとたつとらの頭を拭いてソファに座らせると、タールマがコーヒーを手渡してきた。
「ありがと……」
カップを手にしながら何とも言えない雰囲気の中、視線を泳がせていると自然に皆が集まってきた。朱楽とルメリアが競うようにたつとらの両脇を固めると、その両脇にタールマとボルエスタが座る。一人掛けソファにミンユエが座って、その肘掛けにチャンが腰かけた。
「えっと……」とたつとらは呟いたが、取り敢えずカップに口を付けた。
コーヒーからは煎れたてのいい香りがし、温度も丁度いい。だけど何か居心地が悪い。退路を絶たれたとは正にこのことだろう。
もどかしさと変な雰囲気に、薬王が喚く。
「なんやお前ら。兄ぃを目の前にしたらだんまりかい!聞きたいこと聞けぇや!」
「うっさい!だまれ狐!」
ルメリアがなぜかポロポロ涙を零しながら言うので、たつとらがルメリアの顔を見る。
その顔にはあの時の傷がうっすらと残っていて、彼の胸は激しく痛んだ。優しく傷跡を親指で撫でる。
「ちょっと残っちゃったなぁ。ごめん」
頬を撫でられたルメリアは顔を真っ赤にして首を振った。ポロポロと涙を零しながら「ああああ、あかん」と言い、隣のタールマに顔をうずめる。
タールマが困ったような顔をしながら「よしよし、耐性をつけろ。耐性を」と言いながらルメリアの髪を撫でる。
「よし、ここは俺が」とチャンが笑いながら口を開いた。
「これから、あんたの事を何と呼べばいい?」
その質問に一同は固唾をのんだ。
真剣な顔をしているチャンに、何を言っているのか分からないという顔をたつとらが浮かべるので、ミンユエが補足する。
「本当の名前は何なのか、知りたいの」
たつとらから不思議そうな目を向けられた薬王は、バツの悪そうな顔をした後に口をひらいた。尻尾が地面にぽたりと落ちる。
「あ、兄ぃが、タイラだったって言うてもうた……あかんかった?」
その言葉を聞いて、たつとらは「ああ」と言って笑うと薬王の髪を撫でる。怒る様子のないたつとらに安堵した薬王から耳がぴょんと出てきて、それはフルフルと震えた。
それを殺気立った目でルメリアが見つめる。
(あざとい、あざといぞ狐……耳ずるい)
その殺気は薬王にも届いたようで、ルメリアに向かって口の端を吊り上げた。そんな2人に気付いているのかいないのか、たつとらは穏やかな声で答える。
「今まで通りで大丈夫。俺の本名はタイラ・タツトラ。タイラが苗字、タツトラが名だよ」
当然の事のように言うと、またカップに口をつける。そして困ったように笑うと「ところで……」と口を開いた。
「この狐にどこまで聞いた?」
薬王の耳をキュッと捻りながらたつとらが言うと、薬王が慌てふためいて弁明する。
「あああ兄ぃ、隠し事は良くないで!俺は嘘は言うてない!……だからお前ら聞けて!聞きたいことちゃんと聞け!!」
そう言うと狐の姿になり、たつとらの足元に丸まった。
ボルエスタがブランケットを持ってきてたつとらの肩に掛けると、急に表情を曇らせ口を開く。
「ウェリンクは……大丈夫だった?被害は?」
その問いにはタールマが答えた。
「一般市民への被害はほぼ無かったと言える。次の日には元の生活に戻っていたよ。シライシによって異帝は3名とも消滅し、鹿子は姿を消した」
たつとらは息を吐き「そっか……」と呟いた。
「シライシは魔神か?」
タールマの問いに、たつとらは重く頷く。
「シライシには、ウェリンク王都周辺を見てもらってる。……本当は……」
たつとらは眉根を寄せ「本当は……」ともう一度繰り返した。悔しそうに、悲しそうに次の言葉を絞り出す。
「本当は、出したくなかった。魔神に魔神を向かわせるなんて……でもあの時、そうするしかなくて…」
手に持ったカップを見つめて、少し鼻をすすると彼は続けた。
「シライシは滅茶苦茶強くて、魔神にするのに何十年もかかったんだ。ナナシの時代にやっと魔神にすることが出来たけど、あいつとは本当に長い付き合いで……出会う度にお互いギリギリになるまで傷つけあって、何度も何度も戦った。あいつが気付かせてくれたんだ。……異形にも意志があると」
「意志……?」とチャンが言うと、たつとらが頷く。
「異形には植えつけられた本能がある。『人間を殺せ』という強い本能だ。人間を喰らう異形もいるけど、別にお腹がすいてる訳じゃない。本能なんだ。ほとんどの異形は本能のまま生きているが、一部上位の異形は本能のままではないことに気付いたんだ」
ソファに座ったまま、たつとらは前を見据えた。誰を見るわけでもなく、まるで今まであったこと全てを思い出す様に言葉を紡ぐ。
「なんで攻撃されるんだろう、憎しみを向けられるのはなぜだろうと怒り、自分以外が意志を持たないのは何故だろうと孤独に苦しみ……。人間と同じように水が気持ちいいと感じ、花が綺麗だと喜び、どうして人間を憎むのか、と悲しみ……。あの鹿子だってそうなんだ」
そこまで言うと、少し悲しそうに笑い「俺はね、異形の核から生まれたんだよ。だから分かるんだ」と言った。
数百年前、突如として現れた異形の核。
核からは無数の異形が生まれ、この世界は混沌に陥った。
「俺自身も俺が何なのかわからない。この身は人間そのものだしね」
足元の薬王を抱き上げて膝に乗せると、スリスリと頭を擦りつけてくる。その背中を優しくなでた。
皆の顔を見るのが怖かった。
恐怖の表情か、侮蔑の表情か、はたまた敵対の表情かもしれない。
それも良いか、とたつとらは思う。
「俺を探しに来てくれて、本当に嬉しかった。残念ながらこれが真実で、変えようもないんだ。ここまで来てくれたのに、ごめ……」
そこまで言うと、ルメリアがまた膝に乗る狐を払いのける。そしてたつとらの頭をギュッと抱え込んだ。
驚いて混乱しているたつとらが「え?」言うと、また別の方向から腕が伸びてきて同じように抱きしめられる。タールマだった。
その3人を丸ごと抱えるようにミンユエが飛びついてくる。
もはや何も見えない状態になりながら、たつとらがもがいていると、「よしよし」と頭を撫でられる感触がした。それはチャンの声だった。
「僕の入り込む隙間が……」と声が聞こえ、「ここ空いてるよ~」と視界が少し開けた。
視界の中にボルエスタが登場し、笑っている。
「その真実を丸ごと受け入れても、あなたと居たいと思ってるんです」
緑の瞳が揺れる。
「帰らないよ」
彼を抱きしめる腕たちが、ぎゅっと力を込めるのが分かった。
「ちょっとずつで良い。分けて。その抱えてるもの」
「かかえ…てるもの…?」
たつとらはそう呟くと、震える息を小さく吐いた。
足元にいる狐が視界の中に映ると、彼は眉根を寄せ「でも…」と唇を噛む。その顔を見た薬王が彼の足にスリスリと頭を擦りつけた。
「俺は兄ぃについていくで。こいつら人間が兄ぃを傷つけんよう見張る」
薬王がそう言うと、ルメリアがまた噛みついた。
「たっちゃんを傷つけるわけないやろ!このハゲ!」
薬王は「誰がハゲやねん!」と言うと、人型に戻る。たつとらに貼り付いている3人を引き離すと彼の隣に座り、しがみつくように抱きついた。
「朱楽……」
名前を呼んでも視線を合わせない薬王に、たつとらは首を傾げる。たつとらにしがみついたまま尻尾を振ると、薬王は口を開いた。
「……俺は、異形とか、人間とか、どうでもええねん。ただ兄ぃが好きやねん。……ただ笑って過ごしてほしいだけやねん……でも、それが無理やって、俺やって分かってる」
尻尾が儚げに揺れて、たつとらの膝を叩く。
「だから付いていく!だから大丈夫や。心配せんと、こいつらを受け入れや?」
頭をグリグリと押し付けてくる薬王に、たつとらは少し困ったように笑った。
薬王を引き離しにかかった女性陣を見ながら、たつとらは自身に懸かっていたブランケットを引き上げた。
ふと肩に重みを感じた薬王が横を見ると、たつとらが凭れ掛かって目を閉じている。
「ちょっと、ごめん……ねむい…」
そしてモゾモゾとブランケットに身体を収めると、本当にすやすや眠ってしまった。
ボルエスタが眼鏡を持ち上げながら「えっと……」と呟く。
「そういえば、たつは良く寝る子でしたね」
と微笑みながら言うので、チャンが吹きだす。
「今のタイミングはねぇわ!」
皆が笑い、張りつめていた空気がふっと軽くなった。
薬王は眠るたつとらの頬に伝った一筋の涙をそっと拭うと、その身体を抱き上げる。
寝室のドアを開けると振り返り、口の端を挑戦的に上げた。
「これからよろしゅう、人間ども」
そう言うと、寝室に入っていった。
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