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学園編
14. 血濡れのペットボトル
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ルードスの移籍騒動でひとしきり盛り上がる学園をよそに、たつとらは自室に急いだ。
(やらかした~…)
震える手で自室のドアを開け、ボルエスタに言われたようにきちんと施錠した。
(これはかなり、やらかしてる)
腹の底から湧き上がる寒気に、ブルっと身体を震わせ、風呂に湯を溜め始める。
「…寒い…」
ルードスが、Bクラスに移籍すると宣言してから、ダグラスが宥め、チャン秘書が宥め…。遂に授業は中止になり、解散となった。
その後もいろいろあって、夕方やっと解放された彼が身体の異変に気づいたのは帰路についた時だった。
やけに寒い。それだけではなく、体の底からザワザワとした感覚がある。
(あ、これはやらかしたかもしれん)
そうして、今に至る。
浴槽にお湯が溜まったところで服を脱ぎ、そのまま湯に入った。外で冷えきった身体が溶けていくような感覚があったが、反して頭痛が酷くなってくる。
身体と頭を手早く洗い、浴室を出ると手早く着替え布団に入った。
寒気は止まらない。体全体が軋むように痛む。
気のせい、気のせいと言い聞かせながら布団に包まると、そのまま無理矢理目を瞑った。
真夜中に一度目が覚めた彼は、顔を顰めた。身体が熱くなっていて、案の定熱が上がっていることが分かる。
「みず…」
頭元に置いておいたペットボトルに手を伸ばすが、ペットボトルはカランと音を立てて倒れた。
無情にも水分は無くなったらしい。
校長が用意した水がキッチンの上の棚にあるはずだ。
たつとらは布団を巻き付けたままキッチンまで移動すると、踏み台を出してその上に乗る。
そして、上を向いたところでグワンと世界が歪んだ。
目眩___
と認識するより先に、身体は斜め後ろに倒れこむ。取ろうとしたペットボトル達は、棚からガラガラと滑り落ちた。
リビングに倒れこんだ彼は、起きたことに呆然とする。体調は悪かったが、踏み台から落ちるという失態を恥じる感情が勝った。ペットボトルたちは彼をあざ笑うかのようにバタバタと落ちて来る。
加えて額に鈍い痛みを感じた彼は、痛む個所を手で押さえる。ぬるりとした感触に、目を見開いた。
「いった……え…?」
そして呆然とする。
額からダバダバと血が流れだしていて、床を濡らしていたのだ。
どうやらリビングテーブルで額を打ち付けたらしい。派手に血が流れ、あっという間に服も手も巻き付けていた布団も血に染まる。
もう慌てる気力もない。
盛大に溜息をつき、転がっているペットボトルを1つ手に取ると水を口に流し込んだ。口の端から水が滴り落ちるが、気にしない。
そのまま地面に突っ伏すと、布団をひきあげて巻き付けた。
(…情けない。なんて弱い体だろう)
今日はボルエスタがいなくて良かったと、たつとらは思った。
「風邪をうつしたら…大変だ」
少し呟いただけで喉が痛み、咳が反射的に出る。
「…はやく死にてぇ…」
目を瞑ると、こんな場所でも睡魔は襲う。取り敢えず寒くはなかったので、そのまま眠ることにした。
『…ここは寒いからベッドで寝て』
瞳を開けると、優しさを湛えた女性が自分の髪を撫でている。
『ヴィテ…さん、どうしてここに?』
『いないから心配で…』
そう言うと、ヴィティさんはコンコンと咳をする。
『分かった!分かったから、ヴィテさんも戻ろう?』
ヴィティさんは優しく微笑み、手を差し出す。
その手を、掴んでいいのかいつも迷っていた。彼女の穢れのない手が汚れてしまわないか、心配だった。
結局、その手を取ったせいで、彼女は……
目を覚ますと、硬い床の感覚に身じろいだ。最近は特に冷えるせいか、巻きつけたブランケットも冷たくなっている。
上体を起こすと、大分熱は下がったようで目眩もしない。
周りは散乱したペットボトルと血痕で酷い有様だった。だが、彼に後始末する気力はまだない。
血濡れになったペットボトルからまた水分補給すると、怠い身体を引きずり洗面所へ行く。
右の眉の上がパックリと割れている。血は止まっているようだが、顔中に血の跡があり固まっていた。
服にも大量に血がついているので、着替えないとベッドを汚してしまいそうだ。
手早く服を着替えると、浴槽に血濡れの服を投げ込み水を張って洗剤を入れる。
顔を洗って拭いたタオルも浴槽に投げ込んだ。
(今何時だろう?)
感覚からすると、昼はとっくに過ぎてるようだ。
「…先生!開けますよ…!」
「!」
リビングから僅かに声が聞こえ、続いてドアが蹴破られるような音が聞こえた。
(まずい!)
たつとらがフラフラとリビングに向かうと、散々な状態のキッチンを見て呆然と立ちすくむボルエスタと遭遇した。
洗面所から姿を現した彼を見つけ、ボルエスタは一旦安堵の表情を見せるも、すぐに険しい表情へ戻った。
「ボルちゃ…これはっ…」
慌てて弁解しようとしたせいか、喉が痛み激しく咳き込んでしまう。ボルエスタは身体を揺らしながら咳をする彼に駆け寄り、その場に座らせた。
背中を擦りながら、ボルエスタは額の傷を見つけると傷の状態を確認する。
「…ごめ…」
掠れたその声を聞くだけで、こちらまで息苦しくなりそうだ。
ボルエスタは「しー」と言って彼を黙らせると、笑顔を向けた。
「歩けますか?声は出さなくて大丈夫です」
コクコクと頷く彼をゆっくり立たせて、ベッドに入らせる。
「ちょっと道具を取ってきます。ゆっくり寝てていいですから、待てますか?」
頷くたつとらに笑顔を向け、ボルエスタは部屋を出ていった。
意外とニコニコしていたボルエスタに少しホッとした彼は、枕に頬ずりする。
(やっぱり床よりベッドだな)
フカフカの心地に、また睡魔が襲ってきた。
診た感じ額の傷はやや深く、縫合が必要のようだった。医務室に戻り、ボルエスタは道具をあれこれ引っ張り出す。
(もう少し早めに尋ねれば良かった)
軍医は定期的に集まり知識を共有する勉強会のようなものがある。今回留守にしたのもそれだった。
早朝には学園へ帰っていたボルエスタだったが、忘れないようにと自室で資料をまとめていた。
気がつくと昼を過ぎていたので、食堂へ軽めで食事を取る。そこで昨日起きたルードスの一件を耳に入れ、茶化しに行こうとたつとらの自室を尋ねた。
ノックしても反応が無いが、中から人の気配がするので何度か声をかけた。
珍しく鍵がかかっているが、嫌な予感がする。
中から何も応答がないのはおかしい。
ボルエスタは「開けますよ」と言いながら、もう身体が動いていてドアをこじ開けていた。
ドアを開けるとすぐリビングとキッチンなので、惨状はすぐ目に入る。
背筋が凍りついた。
床には血の跡があり、広範囲に点々と着いている。床にブランケットが丸めてあり、こちらは血濡れだ。ペットボトルが散乱し、いくつかは空になり床に転がっている。
混乱する頭をなんとか整理しようとしていると、洗面所から彼が現れた。
「ああ、良かった」と思った矢先、その姿に眉根を寄せる。酷い顔色だ。
すると、彼はひどく怯えたような表情を見せた。それが自分が険しい表情をしたせいだと気付き、無理矢理に笑みを作る。引きつっていただろうと思われるその笑みだったが、それでも彼は安心したようでホッとした表情へと変わる。
酷く咳き込む背を撫でながら、ボルエスタは思った。
(この人は、1人にしてはいけない。危なっかしくてならない…でも…)
医務室で先程あったことを反芻しながら手を動かす。
(自身の身体を他人に気にされるのを酷く怖がっている。…過去に何かあったのか?通常、身体が弱ると人間は人恋しくなるし頼る先を欲する…でも彼にはそれがない…)
関わる人を突き放しもしないけど、自分自身が目につかないように務める。
まるで、命を諦めている人のようだ。とボルエスタは思った。
死を待つばかりの人と関わる事は、軍医なのでよくある。自分が死ぬということを受け入れている多くの人は、治療を拒むことはあるが《 自分が死を待つ身である 》ことは医者には隠さないし、もちろん逃げない。
隠すのは大体戦場の兵士で、《 もう死ぬ身であるからこそ 》という場合が多い。
自身の命を諦めても、何かは諦めていないのだ。
そしてその諦められない何かの為に、彼は安息を選ばない。
「冗談じゃない」
そう一人呟くと、ボルエスタはたつとらの元へと戻った。
額の処置も終わり、上体を起こしているたつとらにボルエスタは笑顔を向けた。
「食事は摂れていますか?」
たつとらが首を振る。
「水は?経口補水液飲めますか?」
今度は頷いた。
彼が経口補水液が嫌いというのは気付いていた。飲むのは飲むが、明らかに嫌そうな顔をしているのを何度も見ている。
ただ脱水を起こすと点滴だということを恐れているのか、素直に飲むようにしているようだ。
「喉の炎症で熱が出たり、声が出なかったりするのは良くあります。発作の後だったので、身体が弱っていたんでしょうね。薬は出しますが、一番の薬は安静ですよ」
たつとらは頷き、そして咳き込む。
ボルエスタが背中をさすろうとすると、咳き込みながらたつとらに手で制された。
腕で自身の口を押さえながら、もう一方の手を突き出している。
「…もしかして、僕に風邪伝染るの気にしてます?」
たつとらはコクコク頷くと、諌めるような視線をこちらに向ける。
「医者に風邪うつるのを気にする人がどこにいますか?」
困ったように笑いながらボルエスタが言うと、彼は首を横に振った。
「医者の…まえに…大切な友だ」
絞り出すように発せられた言葉は掠れていたが、ボルエスタは素直に嬉しくなり微笑んだ。
「友であり、医師です。それに軍人は基本身体が強いので風邪などひきませんよ」
その言葉にたつとらは傷ついたような表情を浮かべ、がっくりと項を垂れる。
「ははは、失礼。先生は特例ですよ」
部屋はチャン秘書が頼んだハウスキーパーが綺麗に掃除してくれたようだ。部屋を片付ける煩わしさからは開放された。
「さあ、ゆっくり寝てください。食べれそうだったら食べてくださいね」
そう言うと、ボルエスタは部屋を出る。後ろ髪を引かれるが、報告はしなければならないだろう。
(最近、校長室ばかり行っているな)
口の端を引き上げながら、上着を手に取った。
「さて、どうしたものか」
ボルエスタの報告を聞いた校長が顎髭を撫でながら呟く。
校長室にはチャン秘書がコーヒーを入れる匂いが漂っていた。
彼の入れたコーヒーは薄めで、校長の身体に合わせているようだ。この細かな気遣いが、校長が信頼を置く理由だろう。
「たつとら先生は今、注目の的です。そんな方が度々授業を休んでいるとなると、嫌でも目につきます。ただでさえルードスの移籍騒ぎで渦中の人なのに…」
ボルエスタもソファで考え込んでいる。
「教師の間でも不信感が生まれています。たつとら先生程の人が教師をしている事自体が怪しいですし、ルードスの件でSクラスのシャオ先生も良く思ってないようです」
校長のため息が聞こえる。ボルエスタが口を開いた。
「とりあえず今回は完全な風邪で、状態も安定してます。咳は出ていますが、明日には良くなると思いますので、月曜日は授業に出ても大丈夫だと思います。…ところでルードス君は結局移籍するんですか?」
「それはさすがに出来ませんでした。彼はSクラスのエースなので…。ただこの間の合同訓練が双方共に好評だったので、月曜日も合同訓練が希望されています…。どうします?」
チャン秘書が心配そうに答えると、校長が答えた。
「ギバダとダイスの動きが活発な情勢だ。もしかしたら我々教師も、戦場に行かねばならん状況になるかもしれん。ここは学園をあげて合同訓練を実施するのがいいかもしれん。明日から教師も生徒も全員で、訓練するというのはどうだ?」
ボルエスタとチャン秘書が顔を見合わせた。
教師全員での合同訓練。確かにそれなら彼が無理する事もなさそうだ。ボルエスタも参加することで見守り役も出来る。
「実はずっと実施しようと思っていたのだ。魔法は無しの訓練とする」
「直ちに各所へ伝達します」
チャン秘書は仕事が早い。その日のうちに全員へ広まった。
次の日の朝、ボルエスタは朝一番にたつとらを尋ねた。鍵はかかっていなかったため、軽く声をかけて部屋へはいる。
たつとらはシャワーを浴びていたようで、洗面所から顔を出した。
「ボルちゃん!おはよう。早いな」
髪を濡らしたまま満面の笑みを向けられ、ボルエスタもつられて笑う。ゆるっとしたシルエットのスウェットに身を包んだ彼は、幼さが際立って可愛らしい。
「調子良さそうですね」
「お陰様で。昨日の夜腹空きすぎて、レトルトのお粥食べちゃったよ。あの備蓄の食料、いつ金払えばいいのかな?」
まだ声は掠れているが、喉に痛みは感じていなさそうだ。
「備蓄というか、先生の為に校長が用意したものだと思うので好きなように食べていいと思いますが…」
「そうなの?」と言いながら髪をガシガシ拭くたつとらの額をボルエスタは確認する。
「うん、こちらも大丈夫そうですね」
「この歳になって、机の角で怪我するとは思わなかった」
頭を拭く作業を再開しながら、たつとらは照れくさそうに笑った。
「ドライヤーで乾かさないんですか?また風邪をひきます」
「え、いいよ。ボルちゃん、髪は自然に乾くんだよ。電気の無駄使いは星に良くない」
どや顔で持論を述べる彼を無視して、ボルエスタは洗面所からドライヤーを持ってきた。ソファに彼を座らせると、問答無用で髪を乾かし始める。
「ボルちゃんって、結構強引なところあるよね…」
ボルエスタは口の端を上げながら、フワフワ舞い上がる髪を丁寧に乾かした。
「そうそう、明日から合同訓練が始まりますのでこれを持ってきました。一部お下がりで申し訳ないですが…」
持ってきた紙袋の中身を取り出す。
ネックウォーマーなどの防寒着、カーゴパンツ、革手袋…そしてブーツだ。
「新品のブーツは動き辛いので補給隊から中古をもらいました」
たつとらは目を丸くしていたが、可笑しそうに笑い始めた。
「ははは、これを着たら雪だるまみたいになるな」
「他の教師もかっちり着てくると思いますよ。明日は冷え込みますし、ほぼ外での訓練でしょうから」
「まさか、ボルちゃんも参加するの?」
「もちろん」
そう言うと、たつとらは顔を輝かせた。
「専攻は何?」
「銃です。軍医ですからね、片手が空くものでないと」
「うわぁ、楽しみになってきた」
やけにニコニコするたつとらに「クローゼット開けても?」とボルエスタは言い、承諾を得てから服をクローゼットへ片付けていく。テキパキと片付けながら話を続ける。
「合同訓練は魔法無しでの稽古となるようです。普段だと手合わせできない教師とも対戦できる貴重な機会となるでしょう」
うんうん、と言いながらたつとらは相打ちを打っている。
「先生は無理をしないように努めてください。まだ本調子ではないでしょうから、見学するような感じで臨んでくださいよ」
「はーい、先生」
呑気に返事をするたつとらに、ボルエスタは困ったように笑顔を向けた。
月曜日、Bクラスの面々は緊張した面持ちで整列していた。他のクラスの生徒たちも同様で、いつもより表情が硬い。
チャン秘書が現れ、生徒たちの前に立つ。
チャンはいつものスーツ姿では無く、軍服に身を包んでいる。帯剣している彼は通常より威圧オーラが数倍割り増しだ。
チャン秘書の専攻は双剣。どちらかというと短剣に近いその武器は、両方の太腿のホルスターに納まっているようだ。
「おはようございます。特育の皆さん。昨日はよく眠れましたか?
突然の合同訓練に驚かれたことでしょう。今日から数日間、特育の生徒と教師合同で訓練を実施します。近隣のダイス国及び、ギバダ国の脅威は、ますます強くなっています。この学園もターゲットの一つになっている今、教師も生徒も一緒になってその脅威と立ち向かわなければなりません。お互いに高めあい、互いの特性を知ることで脅威に立ち向かう力と成るでしょう」
チャン秘書の演説を受け、生徒たちは増々緊張した面持ちになる。
その様子を見てチャン秘書は困ったように笑った。
「そんなに緊張しなくても良いですよ。今日は初日。軽く手合わせと行きましょう。ルールを説明します!魔法は禁止。明らかに敵意をもった戦闘は禁止。先生方が交代で見張り役ををやりますから、行き過ぎた戦闘は強制的に終了させて頂きます。それでは皆さん、お待ちかね!先生たちの入場です!!」
チャン秘書の合図で、教師たちがどんどん入場してくる。
Sクラスのシャオが入場し、Sクラスの生徒が歓声を上げた。
シャオの専攻はチャンと一緒の双剣だが、彼の剣は長剣のタイプだ。背中に交差した状態で剣を佩いており、身なりは典型的な前線タイプ。プロテクターを両ひざと肩につけ、髪はバンダナで纏めている。
歓声に拳を突き上げて応えると、チャン秘書にむかって挑戦的に指を突き出した。
チャン秘書は冷ややかな目で返す。彼らは仲が悪いらしい。
すぐ後ろにSクラスの準担任であるミンユエが続く。
細身で長身である彼女は、チャン秘書の妹である。
兄とは違い寡黙で、必要最低限の事しか話さない。かなりの美貌の持ち主で、長い黒髪は腰まである。兄と同じ短剣の双剣が専攻で、チャン秘書とほぼ同じ装備だが首元に白いスカーフを巻いている。
チャン秘書が「ミンユエ~」と手を振ると、恥ずかしそうに笑顔で手を振り返す。笑顔を見せるのも兄だけにらしい。
続いてAクラスの担任が入場する。ザ、戦闘タイプといった感じのローガンだ。
筋骨隆々で専攻はどでかい大剣である。Aクラスから歓声が上がるが、本人は目を伏せたままだ。実は恥ずかしがり屋なのを一部の人は知っている。
後ろからトコトコ付いてきたのは、実はAクラスの準担任だったルメリアである。Aクラス以外からも歓声が上がった。
いつもはゆるく三つ編みしている長い髪を、ポニーテールにしている。非常に小柄な彼女は、ショートパンツにタイツを履いて、膝から下を全部ガードできるプロテクターをつけている。彼女の武器はなんと大鎌。自身の身長より大きな武器を振り回すが、見てくれが非常に可愛いため対戦相手は油断する。そして痛い目をみるのだ。
順番的に次がBクラスになり、タールマはそわそわしていた。
たつとらがまだ来ていないのだ。傍らにいたボルエスタが時計に目をやりタールマへ声をかける。
「先生は武器を取りに戻ったので、直に来ますよ。まさかこんな派手に登場させられるとは思いませんでしたね。……私が先に行きましょうか」
そう言うと、ボルエスタは先に入口へ向かった。
ボルエスタが現れると、女生徒から熱烈な歓声が上がった。
普段は白衣のボルエスタだが、戦闘服を着るとガラリと印象が変わる。長身でかなりスタイルが良い彼が外套を着ると、男は絶対隣に並びたくない存在へと変貌を遂げるのだ。
銃は腰と、太腿に二丁装備している。彼は生徒に笑顔を向けるとBクラスに向かってぐっと親指を立てた。
続いてタールマが現れる。
いつも着ている校服とは違い、戦闘服だ。細身の愛剣はいつもの様に腰に佩いている。いつもより増して凛々しい姿に、Bクラスから歓声が上がった。
ボルエスタが心配そうに視線を向けてきたので、タールマは頷く。
たつとらが入場口から現れた。
外套にネックウォーマー、カーゴパンツに緩く履いたブーツ。ニットキャップを被っているため、目しか出ていない。かなりカジュアルな姿だが、慣れているBクラスは大きな声援を送る。それに応えてたつとらはブンブン手を振った。背中には剣を背負っていたが、訓練で使用する模擬剣である。
生徒の前に教師たちは整列し、チャン秘書が口を開いた。
「さて、ここからは自由に訓練してもらいます。まずはBクラスのたつとら先生に見張り役を頼みます。では、始め」
チャン秘書が予防線を張ったことにボルエスタはほっとし、タールマは憮然とした。
「なぜ先生が見張り役を?替わりましょうか?」
「大丈夫だよ、たまちゃん。気にしないで」
その声が掠れていることにタールマは気づき、率直に尋ねる。
「その声は?風邪を引いたとでも?」
困ったような笑顔を見せるたつとらに、タールマは信じられないといった視線を向けた。
(どこまでだらしないんだ、この男は)
軍人が風邪を引くなどありえないことだ。タールマは踵を返し、生徒のもとへ向かった。
(ありゃぁ。また怒らせた)
ズンズンと去っていくタールマの背中を見送りながら、たつとらは苦笑いした。
各所で手合わせが始まっている。
運良く教師に指導を仰げる者や、生徒同士で手合わせする者と色々いたが、どちらも今のところ穏やかにやっているようだ。
たつとらは見回りながら楽しげに見学していた。
飛び道具を使う組は、チャン秘書があらかじめ張っておいた結界の中で手合わせをする。ボルエスタが生徒を相手しながら、流れ弾にも気をかけているのが分かる。
(ボルちゃん、やるぅ)
各クラスの生徒は、普段手合わせのできない他クラスの教師に挑んでいた。
Aクラスの担任ローガンはSクラスとBクラスの数人と手合わせしていて、複数相手でも平然とこなしている。
Sクラスのシャオも同様で、各クラスの担任の驚異的な強さが伺える。
それもそのはず、特育の担任はたつとら以外レヴェルAの実力の持ち主である。普段は軍で活躍する彼らも、槍王ドグラムスの誘いは断れず特育の教師になった経緯がある。
軍での日常を思い出したのか、教師たちもどこか生き生きしているようだ。
セラはAクラスの準担任であるミンユエと手合わせしている。それを見ていた陸が、たつとらを見つけ声をかけてきた。
「おはよう、陸。陸は参加しないのか?」
「おはよう、たつとら。私は専攻が弓だから流れ弾が心配で…て、たつとらなんか声が変だよ?」
「そうか?ボルちゃんのほうは行かないのか?結界はってあるし流れ弾も安全だぞ。チャン秘書もそういうとこアナウンスしないとだよな~」
「たつとら、ほんとに声変だよ?風邪でもひいた?」
たつとらはギクリとし、ネックウォーマーを引き上げて「ははは、そんなわけ…」とゴニョニョしている。
そこに、空中で戦っていたセラが降ってきた。当然のようにたつとらが抱きとめる。
「!たつとら!」
抱きとめられたセラが腕の中で声を上げる。所々傷だらけだ。
「ありゃ、結構やられてんね。もう止めときな、順番待ちも居ることだし」
セラは悔しそうな表情を浮かべるが、異論はないようだ。
空中でこちらを見下ろしているミンユエに「交代で」とたつとらが伝えると、ミンユエは頷いた。順番待ちをしていた生徒が上に上がっていく。
「医務室に連れて行ってくる」
続々負傷者が出ているので、衛生班の手が足りないようだ。直に休憩に入るタイミングのようなので、たつとら自ら医務室へ運ぶ事にした。
「たつとら、私歩けるよ」
セラが言うが「この方が早い」とたつとらは医務室に向けて走り出した。
セラが恥ずかしそうに顔を埋めてくるので「何だ?お姫様抱っこが恥ずかしいのか?」とたつとらが走りながら笑う。
「そ、そういう訳じゃ……」
と言いながら、セラは顔を赤くした。
(もうそろそろか……)
チャン秘書が時計を見ながら、撞木を握った。
鐘を鳴らそうとしたところ、ダイス国の方向から無数の飛翔体を見た。空を覆いつくすほどの異形がこちらに向かってくる。
学園への敵襲だった。
(やらかした~…)
震える手で自室のドアを開け、ボルエスタに言われたようにきちんと施錠した。
(これはかなり、やらかしてる)
腹の底から湧き上がる寒気に、ブルっと身体を震わせ、風呂に湯を溜め始める。
「…寒い…」
ルードスが、Bクラスに移籍すると宣言してから、ダグラスが宥め、チャン秘書が宥め…。遂に授業は中止になり、解散となった。
その後もいろいろあって、夕方やっと解放された彼が身体の異変に気づいたのは帰路についた時だった。
やけに寒い。それだけではなく、体の底からザワザワとした感覚がある。
(あ、これはやらかしたかもしれん)
そうして、今に至る。
浴槽にお湯が溜まったところで服を脱ぎ、そのまま湯に入った。外で冷えきった身体が溶けていくような感覚があったが、反して頭痛が酷くなってくる。
身体と頭を手早く洗い、浴室を出ると手早く着替え布団に入った。
寒気は止まらない。体全体が軋むように痛む。
気のせい、気のせいと言い聞かせながら布団に包まると、そのまま無理矢理目を瞑った。
真夜中に一度目が覚めた彼は、顔を顰めた。身体が熱くなっていて、案の定熱が上がっていることが分かる。
「みず…」
頭元に置いておいたペットボトルに手を伸ばすが、ペットボトルはカランと音を立てて倒れた。
無情にも水分は無くなったらしい。
校長が用意した水がキッチンの上の棚にあるはずだ。
たつとらは布団を巻き付けたままキッチンまで移動すると、踏み台を出してその上に乗る。
そして、上を向いたところでグワンと世界が歪んだ。
目眩___
と認識するより先に、身体は斜め後ろに倒れこむ。取ろうとしたペットボトル達は、棚からガラガラと滑り落ちた。
リビングに倒れこんだ彼は、起きたことに呆然とする。体調は悪かったが、踏み台から落ちるという失態を恥じる感情が勝った。ペットボトルたちは彼をあざ笑うかのようにバタバタと落ちて来る。
加えて額に鈍い痛みを感じた彼は、痛む個所を手で押さえる。ぬるりとした感触に、目を見開いた。
「いった……え…?」
そして呆然とする。
額からダバダバと血が流れだしていて、床を濡らしていたのだ。
どうやらリビングテーブルで額を打ち付けたらしい。派手に血が流れ、あっという間に服も手も巻き付けていた布団も血に染まる。
もう慌てる気力もない。
盛大に溜息をつき、転がっているペットボトルを1つ手に取ると水を口に流し込んだ。口の端から水が滴り落ちるが、気にしない。
そのまま地面に突っ伏すと、布団をひきあげて巻き付けた。
(…情けない。なんて弱い体だろう)
今日はボルエスタがいなくて良かったと、たつとらは思った。
「風邪をうつしたら…大変だ」
少し呟いただけで喉が痛み、咳が反射的に出る。
「…はやく死にてぇ…」
目を瞑ると、こんな場所でも睡魔は襲う。取り敢えず寒くはなかったので、そのまま眠ることにした。
『…ここは寒いからベッドで寝て』
瞳を開けると、優しさを湛えた女性が自分の髪を撫でている。
『ヴィテ…さん、どうしてここに?』
『いないから心配で…』
そう言うと、ヴィティさんはコンコンと咳をする。
『分かった!分かったから、ヴィテさんも戻ろう?』
ヴィティさんは優しく微笑み、手を差し出す。
その手を、掴んでいいのかいつも迷っていた。彼女の穢れのない手が汚れてしまわないか、心配だった。
結局、その手を取ったせいで、彼女は……
目を覚ますと、硬い床の感覚に身じろいだ。最近は特に冷えるせいか、巻きつけたブランケットも冷たくなっている。
上体を起こすと、大分熱は下がったようで目眩もしない。
周りは散乱したペットボトルと血痕で酷い有様だった。だが、彼に後始末する気力はまだない。
血濡れになったペットボトルからまた水分補給すると、怠い身体を引きずり洗面所へ行く。
右の眉の上がパックリと割れている。血は止まっているようだが、顔中に血の跡があり固まっていた。
服にも大量に血がついているので、着替えないとベッドを汚してしまいそうだ。
手早く服を着替えると、浴槽に血濡れの服を投げ込み水を張って洗剤を入れる。
顔を洗って拭いたタオルも浴槽に投げ込んだ。
(今何時だろう?)
感覚からすると、昼はとっくに過ぎてるようだ。
「…先生!開けますよ…!」
「!」
リビングから僅かに声が聞こえ、続いてドアが蹴破られるような音が聞こえた。
(まずい!)
たつとらがフラフラとリビングに向かうと、散々な状態のキッチンを見て呆然と立ちすくむボルエスタと遭遇した。
洗面所から姿を現した彼を見つけ、ボルエスタは一旦安堵の表情を見せるも、すぐに険しい表情へ戻った。
「ボルちゃ…これはっ…」
慌てて弁解しようとしたせいか、喉が痛み激しく咳き込んでしまう。ボルエスタは身体を揺らしながら咳をする彼に駆け寄り、その場に座らせた。
背中を擦りながら、ボルエスタは額の傷を見つけると傷の状態を確認する。
「…ごめ…」
掠れたその声を聞くだけで、こちらまで息苦しくなりそうだ。
ボルエスタは「しー」と言って彼を黙らせると、笑顔を向けた。
「歩けますか?声は出さなくて大丈夫です」
コクコクと頷く彼をゆっくり立たせて、ベッドに入らせる。
「ちょっと道具を取ってきます。ゆっくり寝てていいですから、待てますか?」
頷くたつとらに笑顔を向け、ボルエスタは部屋を出ていった。
意外とニコニコしていたボルエスタに少しホッとした彼は、枕に頬ずりする。
(やっぱり床よりベッドだな)
フカフカの心地に、また睡魔が襲ってきた。
診た感じ額の傷はやや深く、縫合が必要のようだった。医務室に戻り、ボルエスタは道具をあれこれ引っ張り出す。
(もう少し早めに尋ねれば良かった)
軍医は定期的に集まり知識を共有する勉強会のようなものがある。今回留守にしたのもそれだった。
早朝には学園へ帰っていたボルエスタだったが、忘れないようにと自室で資料をまとめていた。
気がつくと昼を過ぎていたので、食堂へ軽めで食事を取る。そこで昨日起きたルードスの一件を耳に入れ、茶化しに行こうとたつとらの自室を尋ねた。
ノックしても反応が無いが、中から人の気配がするので何度か声をかけた。
珍しく鍵がかかっているが、嫌な予感がする。
中から何も応答がないのはおかしい。
ボルエスタは「開けますよ」と言いながら、もう身体が動いていてドアをこじ開けていた。
ドアを開けるとすぐリビングとキッチンなので、惨状はすぐ目に入る。
背筋が凍りついた。
床には血の跡があり、広範囲に点々と着いている。床にブランケットが丸めてあり、こちらは血濡れだ。ペットボトルが散乱し、いくつかは空になり床に転がっている。
混乱する頭をなんとか整理しようとしていると、洗面所から彼が現れた。
「ああ、良かった」と思った矢先、その姿に眉根を寄せる。酷い顔色だ。
すると、彼はひどく怯えたような表情を見せた。それが自分が険しい表情をしたせいだと気付き、無理矢理に笑みを作る。引きつっていただろうと思われるその笑みだったが、それでも彼は安心したようでホッとした表情へと変わる。
酷く咳き込む背を撫でながら、ボルエスタは思った。
(この人は、1人にしてはいけない。危なっかしくてならない…でも…)
医務室で先程あったことを反芻しながら手を動かす。
(自身の身体を他人に気にされるのを酷く怖がっている。…過去に何かあったのか?通常、身体が弱ると人間は人恋しくなるし頼る先を欲する…でも彼にはそれがない…)
関わる人を突き放しもしないけど、自分自身が目につかないように務める。
まるで、命を諦めている人のようだ。とボルエスタは思った。
死を待つばかりの人と関わる事は、軍医なのでよくある。自分が死ぬということを受け入れている多くの人は、治療を拒むことはあるが《 自分が死を待つ身である 》ことは医者には隠さないし、もちろん逃げない。
隠すのは大体戦場の兵士で、《 もう死ぬ身であるからこそ 》という場合が多い。
自身の命を諦めても、何かは諦めていないのだ。
そしてその諦められない何かの為に、彼は安息を選ばない。
「冗談じゃない」
そう一人呟くと、ボルエスタはたつとらの元へと戻った。
額の処置も終わり、上体を起こしているたつとらにボルエスタは笑顔を向けた。
「食事は摂れていますか?」
たつとらが首を振る。
「水は?経口補水液飲めますか?」
今度は頷いた。
彼が経口補水液が嫌いというのは気付いていた。飲むのは飲むが、明らかに嫌そうな顔をしているのを何度も見ている。
ただ脱水を起こすと点滴だということを恐れているのか、素直に飲むようにしているようだ。
「喉の炎症で熱が出たり、声が出なかったりするのは良くあります。発作の後だったので、身体が弱っていたんでしょうね。薬は出しますが、一番の薬は安静ですよ」
たつとらは頷き、そして咳き込む。
ボルエスタが背中をさすろうとすると、咳き込みながらたつとらに手で制された。
腕で自身の口を押さえながら、もう一方の手を突き出している。
「…もしかして、僕に風邪伝染るの気にしてます?」
たつとらはコクコク頷くと、諌めるような視線をこちらに向ける。
「医者に風邪うつるのを気にする人がどこにいますか?」
困ったように笑いながらボルエスタが言うと、彼は首を横に振った。
「医者の…まえに…大切な友だ」
絞り出すように発せられた言葉は掠れていたが、ボルエスタは素直に嬉しくなり微笑んだ。
「友であり、医師です。それに軍人は基本身体が強いので風邪などひきませんよ」
その言葉にたつとらは傷ついたような表情を浮かべ、がっくりと項を垂れる。
「ははは、失礼。先生は特例ですよ」
部屋はチャン秘書が頼んだハウスキーパーが綺麗に掃除してくれたようだ。部屋を片付ける煩わしさからは開放された。
「さあ、ゆっくり寝てください。食べれそうだったら食べてくださいね」
そう言うと、ボルエスタは部屋を出る。後ろ髪を引かれるが、報告はしなければならないだろう。
(最近、校長室ばかり行っているな)
口の端を引き上げながら、上着を手に取った。
「さて、どうしたものか」
ボルエスタの報告を聞いた校長が顎髭を撫でながら呟く。
校長室にはチャン秘書がコーヒーを入れる匂いが漂っていた。
彼の入れたコーヒーは薄めで、校長の身体に合わせているようだ。この細かな気遣いが、校長が信頼を置く理由だろう。
「たつとら先生は今、注目の的です。そんな方が度々授業を休んでいるとなると、嫌でも目につきます。ただでさえルードスの移籍騒ぎで渦中の人なのに…」
ボルエスタもソファで考え込んでいる。
「教師の間でも不信感が生まれています。たつとら先生程の人が教師をしている事自体が怪しいですし、ルードスの件でSクラスのシャオ先生も良く思ってないようです」
校長のため息が聞こえる。ボルエスタが口を開いた。
「とりあえず今回は完全な風邪で、状態も安定してます。咳は出ていますが、明日には良くなると思いますので、月曜日は授業に出ても大丈夫だと思います。…ところでルードス君は結局移籍するんですか?」
「それはさすがに出来ませんでした。彼はSクラスのエースなので…。ただこの間の合同訓練が双方共に好評だったので、月曜日も合同訓練が希望されています…。どうします?」
チャン秘書が心配そうに答えると、校長が答えた。
「ギバダとダイスの動きが活発な情勢だ。もしかしたら我々教師も、戦場に行かねばならん状況になるかもしれん。ここは学園をあげて合同訓練を実施するのがいいかもしれん。明日から教師も生徒も全員で、訓練するというのはどうだ?」
ボルエスタとチャン秘書が顔を見合わせた。
教師全員での合同訓練。確かにそれなら彼が無理する事もなさそうだ。ボルエスタも参加することで見守り役も出来る。
「実はずっと実施しようと思っていたのだ。魔法は無しの訓練とする」
「直ちに各所へ伝達します」
チャン秘書は仕事が早い。その日のうちに全員へ広まった。
次の日の朝、ボルエスタは朝一番にたつとらを尋ねた。鍵はかかっていなかったため、軽く声をかけて部屋へはいる。
たつとらはシャワーを浴びていたようで、洗面所から顔を出した。
「ボルちゃん!おはよう。早いな」
髪を濡らしたまま満面の笑みを向けられ、ボルエスタもつられて笑う。ゆるっとしたシルエットのスウェットに身を包んだ彼は、幼さが際立って可愛らしい。
「調子良さそうですね」
「お陰様で。昨日の夜腹空きすぎて、レトルトのお粥食べちゃったよ。あの備蓄の食料、いつ金払えばいいのかな?」
まだ声は掠れているが、喉に痛みは感じていなさそうだ。
「備蓄というか、先生の為に校長が用意したものだと思うので好きなように食べていいと思いますが…」
「そうなの?」と言いながら髪をガシガシ拭くたつとらの額をボルエスタは確認する。
「うん、こちらも大丈夫そうですね」
「この歳になって、机の角で怪我するとは思わなかった」
頭を拭く作業を再開しながら、たつとらは照れくさそうに笑った。
「ドライヤーで乾かさないんですか?また風邪をひきます」
「え、いいよ。ボルちゃん、髪は自然に乾くんだよ。電気の無駄使いは星に良くない」
どや顔で持論を述べる彼を無視して、ボルエスタは洗面所からドライヤーを持ってきた。ソファに彼を座らせると、問答無用で髪を乾かし始める。
「ボルちゃんって、結構強引なところあるよね…」
ボルエスタは口の端を上げながら、フワフワ舞い上がる髪を丁寧に乾かした。
「そうそう、明日から合同訓練が始まりますのでこれを持ってきました。一部お下がりで申し訳ないですが…」
持ってきた紙袋の中身を取り出す。
ネックウォーマーなどの防寒着、カーゴパンツ、革手袋…そしてブーツだ。
「新品のブーツは動き辛いので補給隊から中古をもらいました」
たつとらは目を丸くしていたが、可笑しそうに笑い始めた。
「ははは、これを着たら雪だるまみたいになるな」
「他の教師もかっちり着てくると思いますよ。明日は冷え込みますし、ほぼ外での訓練でしょうから」
「まさか、ボルちゃんも参加するの?」
「もちろん」
そう言うと、たつとらは顔を輝かせた。
「専攻は何?」
「銃です。軍医ですからね、片手が空くものでないと」
「うわぁ、楽しみになってきた」
やけにニコニコするたつとらに「クローゼット開けても?」とボルエスタは言い、承諾を得てから服をクローゼットへ片付けていく。テキパキと片付けながら話を続ける。
「合同訓練は魔法無しでの稽古となるようです。普段だと手合わせできない教師とも対戦できる貴重な機会となるでしょう」
うんうん、と言いながらたつとらは相打ちを打っている。
「先生は無理をしないように努めてください。まだ本調子ではないでしょうから、見学するような感じで臨んでくださいよ」
「はーい、先生」
呑気に返事をするたつとらに、ボルエスタは困ったように笑顔を向けた。
月曜日、Bクラスの面々は緊張した面持ちで整列していた。他のクラスの生徒たちも同様で、いつもより表情が硬い。
チャン秘書が現れ、生徒たちの前に立つ。
チャンはいつものスーツ姿では無く、軍服に身を包んでいる。帯剣している彼は通常より威圧オーラが数倍割り増しだ。
チャン秘書の専攻は双剣。どちらかというと短剣に近いその武器は、両方の太腿のホルスターに納まっているようだ。
「おはようございます。特育の皆さん。昨日はよく眠れましたか?
突然の合同訓練に驚かれたことでしょう。今日から数日間、特育の生徒と教師合同で訓練を実施します。近隣のダイス国及び、ギバダ国の脅威は、ますます強くなっています。この学園もターゲットの一つになっている今、教師も生徒も一緒になってその脅威と立ち向かわなければなりません。お互いに高めあい、互いの特性を知ることで脅威に立ち向かう力と成るでしょう」
チャン秘書の演説を受け、生徒たちは増々緊張した面持ちになる。
その様子を見てチャン秘書は困ったように笑った。
「そんなに緊張しなくても良いですよ。今日は初日。軽く手合わせと行きましょう。ルールを説明します!魔法は禁止。明らかに敵意をもった戦闘は禁止。先生方が交代で見張り役ををやりますから、行き過ぎた戦闘は強制的に終了させて頂きます。それでは皆さん、お待ちかね!先生たちの入場です!!」
チャン秘書の合図で、教師たちがどんどん入場してくる。
Sクラスのシャオが入場し、Sクラスの生徒が歓声を上げた。
シャオの専攻はチャンと一緒の双剣だが、彼の剣は長剣のタイプだ。背中に交差した状態で剣を佩いており、身なりは典型的な前線タイプ。プロテクターを両ひざと肩につけ、髪はバンダナで纏めている。
歓声に拳を突き上げて応えると、チャン秘書にむかって挑戦的に指を突き出した。
チャン秘書は冷ややかな目で返す。彼らは仲が悪いらしい。
すぐ後ろにSクラスの準担任であるミンユエが続く。
細身で長身である彼女は、チャン秘書の妹である。
兄とは違い寡黙で、必要最低限の事しか話さない。かなりの美貌の持ち主で、長い黒髪は腰まである。兄と同じ短剣の双剣が専攻で、チャン秘書とほぼ同じ装備だが首元に白いスカーフを巻いている。
チャン秘書が「ミンユエ~」と手を振ると、恥ずかしそうに笑顔で手を振り返す。笑顔を見せるのも兄だけにらしい。
続いてAクラスの担任が入場する。ザ、戦闘タイプといった感じのローガンだ。
筋骨隆々で専攻はどでかい大剣である。Aクラスから歓声が上がるが、本人は目を伏せたままだ。実は恥ずかしがり屋なのを一部の人は知っている。
後ろからトコトコ付いてきたのは、実はAクラスの準担任だったルメリアである。Aクラス以外からも歓声が上がった。
いつもはゆるく三つ編みしている長い髪を、ポニーテールにしている。非常に小柄な彼女は、ショートパンツにタイツを履いて、膝から下を全部ガードできるプロテクターをつけている。彼女の武器はなんと大鎌。自身の身長より大きな武器を振り回すが、見てくれが非常に可愛いため対戦相手は油断する。そして痛い目をみるのだ。
順番的に次がBクラスになり、タールマはそわそわしていた。
たつとらがまだ来ていないのだ。傍らにいたボルエスタが時計に目をやりタールマへ声をかける。
「先生は武器を取りに戻ったので、直に来ますよ。まさかこんな派手に登場させられるとは思いませんでしたね。……私が先に行きましょうか」
そう言うと、ボルエスタは先に入口へ向かった。
ボルエスタが現れると、女生徒から熱烈な歓声が上がった。
普段は白衣のボルエスタだが、戦闘服を着るとガラリと印象が変わる。長身でかなりスタイルが良い彼が外套を着ると、男は絶対隣に並びたくない存在へと変貌を遂げるのだ。
銃は腰と、太腿に二丁装備している。彼は生徒に笑顔を向けるとBクラスに向かってぐっと親指を立てた。
続いてタールマが現れる。
いつも着ている校服とは違い、戦闘服だ。細身の愛剣はいつもの様に腰に佩いている。いつもより増して凛々しい姿に、Bクラスから歓声が上がった。
ボルエスタが心配そうに視線を向けてきたので、タールマは頷く。
たつとらが入場口から現れた。
外套にネックウォーマー、カーゴパンツに緩く履いたブーツ。ニットキャップを被っているため、目しか出ていない。かなりカジュアルな姿だが、慣れているBクラスは大きな声援を送る。それに応えてたつとらはブンブン手を振った。背中には剣を背負っていたが、訓練で使用する模擬剣である。
生徒の前に教師たちは整列し、チャン秘書が口を開いた。
「さて、ここからは自由に訓練してもらいます。まずはBクラスのたつとら先生に見張り役を頼みます。では、始め」
チャン秘書が予防線を張ったことにボルエスタはほっとし、タールマは憮然とした。
「なぜ先生が見張り役を?替わりましょうか?」
「大丈夫だよ、たまちゃん。気にしないで」
その声が掠れていることにタールマは気づき、率直に尋ねる。
「その声は?風邪を引いたとでも?」
困ったような笑顔を見せるたつとらに、タールマは信じられないといった視線を向けた。
(どこまでだらしないんだ、この男は)
軍人が風邪を引くなどありえないことだ。タールマは踵を返し、生徒のもとへ向かった。
(ありゃぁ。また怒らせた)
ズンズンと去っていくタールマの背中を見送りながら、たつとらは苦笑いした。
各所で手合わせが始まっている。
運良く教師に指導を仰げる者や、生徒同士で手合わせする者と色々いたが、どちらも今のところ穏やかにやっているようだ。
たつとらは見回りながら楽しげに見学していた。
飛び道具を使う組は、チャン秘書があらかじめ張っておいた結界の中で手合わせをする。ボルエスタが生徒を相手しながら、流れ弾にも気をかけているのが分かる。
(ボルちゃん、やるぅ)
各クラスの生徒は、普段手合わせのできない他クラスの教師に挑んでいた。
Aクラスの担任ローガンはSクラスとBクラスの数人と手合わせしていて、複数相手でも平然とこなしている。
Sクラスのシャオも同様で、各クラスの担任の驚異的な強さが伺える。
それもそのはず、特育の担任はたつとら以外レヴェルAの実力の持ち主である。普段は軍で活躍する彼らも、槍王ドグラムスの誘いは断れず特育の教師になった経緯がある。
軍での日常を思い出したのか、教師たちもどこか生き生きしているようだ。
セラはAクラスの準担任であるミンユエと手合わせしている。それを見ていた陸が、たつとらを見つけ声をかけてきた。
「おはよう、陸。陸は参加しないのか?」
「おはよう、たつとら。私は専攻が弓だから流れ弾が心配で…て、たつとらなんか声が変だよ?」
「そうか?ボルちゃんのほうは行かないのか?結界はってあるし流れ弾も安全だぞ。チャン秘書もそういうとこアナウンスしないとだよな~」
「たつとら、ほんとに声変だよ?風邪でもひいた?」
たつとらはギクリとし、ネックウォーマーを引き上げて「ははは、そんなわけ…」とゴニョニョしている。
そこに、空中で戦っていたセラが降ってきた。当然のようにたつとらが抱きとめる。
「!たつとら!」
抱きとめられたセラが腕の中で声を上げる。所々傷だらけだ。
「ありゃ、結構やられてんね。もう止めときな、順番待ちも居ることだし」
セラは悔しそうな表情を浮かべるが、異論はないようだ。
空中でこちらを見下ろしているミンユエに「交代で」とたつとらが伝えると、ミンユエは頷いた。順番待ちをしていた生徒が上に上がっていく。
「医務室に連れて行ってくる」
続々負傷者が出ているので、衛生班の手が足りないようだ。直に休憩に入るタイミングのようなので、たつとら自ら医務室へ運ぶ事にした。
「たつとら、私歩けるよ」
セラが言うが「この方が早い」とたつとらは医務室に向けて走り出した。
セラが恥ずかしそうに顔を埋めてくるので「何だ?お姫様抱っこが恥ずかしいのか?」とたつとらが走りながら笑う。
「そ、そういう訳じゃ……」
と言いながら、セラは顔を赤くした。
(もうそろそろか……)
チャン秘書が時計を見ながら、撞木を握った。
鐘を鳴らそうとしたところ、ダイス国の方向から無数の飛翔体を見た。空を覆いつくすほどの異形がこちらに向かってくる。
学園への敵襲だった。
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❇❇❇❇❇❇❇❇❇
2024年10月追記
お読みいただき、ありがとうございます。
こちらの作品は完結しておりますが、10月20日より「番外編 バストリー・アルマンの事情」を追加投稿致しますので、一旦、表記が連載中になります。ご了承ください。
1ページの文字数は少な目です。
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