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学園編

6. 5 医務室と訓練室

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「毎日消毒に来ないと困ります」
「誰が?」
「自分自身がですよ。先生」
「…俺は困らないよ」
「…」
消毒液を浸した脱脂綿を患部に強く押し当ててしまおうか、という衝動を押し殺したボルエスタは替わりに批難の目を目の前の男に向けた。

その男、たつとらは針の付いていない注射器を押したり引いたりして、先端から出てくる空気を前髪に当てて遊んでいる。
無邪気な様子に毒気を抜かれた気がしたが、目の前の状況にまた意識が戻った。

たつとら赴任の日、ふらりと保健室に来たたつとらの傷は数針ほど縫う傷だったのだ。
右手の肘あたりから肩まで至る裂傷は、止血の施された後のようで血はある程度止まっていた。
戦場であれば放って置かれる程度の傷ではある。だが日常的に出来た傷であれば、不自然なものだ。
あえてその経緯は聞かないではいたのだが、目の前にいる男の謎めいた部分が更に濃くなったのは事実だった。

今、目の前にあるたつとらの傷は赤黒さが増し、裂け目は血が少し滲み出し固まってる。
「訓練に、参加したんですか?」
「ん?」
注射器から噴出す風を受けながらボルエスタに視線だけを寄越し、彼は「ああ」と口を開いた。
「超、楽しかった。あいつら、強くなるよ」
「…傷が開くので、運動は控えるように言ったはずですが?」

戒める口調に今度ばかりはたつとらも反応し、男にしては少し厚みのある唇を尖らせる。
「こえーなボルちゃん。少しだけだって」
「少しでも、運動は運動。訓練なんてもっての他です」
「んん」
彼は自分の血を含んだ脱脂綿の残骸が置いてある銀色のトレイを 注射器でカツカツと叩きながら笑っている。
少し困ったような笑みに、ボルエスタは何故か焦燥感を覚えた。

軍医としての経験で、この類の笑みには胸が詰まるような経験しかない。それが、戦場以外では見られない笑みだと言うことも分かっていた。
『別にいいんだ。俺は放って他を診てやってくれ』
戦場でその言葉を吐く人間の多くが、どんな状態にいるかも知っている。
ここは戦場でもないのに、彼に同じような雰囲気を感じるのは何故なのか…しかしボルエスタは分からないふりを決め込んだ。

「…大体、痛くないんですか?」
「…まぁ、痛いよね」
たつとらの手にあった注射器は、もう消毒液の中に先端が突っ込みブクブクと泡を立てていた。
もう注射器としては使えまい。と、冷静に判断しながら彼の手元を見つめるボルエスタは小さくため息をつく。

「…消毒液て、泡立つんだ」
消毒液で遊ぶ大人など、終ぞ見たことがない。
ボルエスタは無意識に包帯を巻く力を強めたが、彼の表情は変わることは無かった。

「出来ましたよ。それで、今度の検定は大丈夫そうですか?」
「うん。心配してない。赤爪に対抗できるほどの力は持ってる」
注射器によって生まれた泡がパチパチと音を立てて弾け、彼はその様子を楽しそうに見つめ軽い口調で答える。
「そうなんですか?それはまた、上の人間が驚きそうですね」
「上の人間?」
ボルエスタは頷くと、道具を片付け始め席を立った。
「役員です。多くがウェリンク国の古くの英雄達です」
「驚く?」

注射器を鼻と唇の間に挟み、続けて問うたつとらを見てボルエスタは困ったように笑いながら手を差し出した。
彼は素直にその手に注射器をその手に置く。
「Bクラスは伸び悩んでましたからね。その上担任の退任で、今回の検定は大半が不合格と予想しています」
「ふうん」

消毒液を流しに返し、今度はコーヒーを淹れる準備をし始めたボルエスタは振り向かずに話を続けた。
「しかも、新任の実技の教師の事も校長は詳しく説明してないですし」
「ナゾの教師現る」
コポコポと音をたてるコーヒーメーカーの音に混じって、ボルエスタの笑い声が漏れた。

「ねぇ、ボルちゃん。お菓子は?」
「その戸棚の奥に入ってますけど、甘いのしかないですよ?」
「塩味が良い」
「今度買っておきます」

たつとらはふう、と息をついて諦めたようにチョコレートの袋をガサガサと取り出し、無造作に机の上に広げる。
「…じゃあ、そうするか」
「はい?」
おとなしくチョコレートを口に運んでいたたつとらは、ボルエスタの方を向くことなく頷く。
「驚かせてやろう。英雄どもを。…コーヒーまだ?」
驚いた後、また少し笑ったボルエスタは「すぐです」と答えた。



保健室を出るともう日は傾いていた。ひんやりとした空気が流れ、夜の訪れを告げる。
チョコバーをかじる音は廊下に長く響き、たつとらは変わらず歩を進めた。
今日はウェリンク国の休日である。学園も普段の騒がしさを潜め、ゆったりと時を流す。

「ふぅん」
彼は先ほどから耳に届いていた音に、自身が近づくほど口の端が上がっていく。それは、たつとらが学校に来てから良く耳にする音だった。

個人練習用の訓練室の前で歩を止め、予想していた光景そのものに一層笑みを深める。
その部屋で一心不乱に剣を振り回しているのは、鉄だった。
(なぎはらい、打ち下ろし、突き…)
太刀筋はおよそ10代とは思えぬほどの鋭さだった。普段のお調子者の鉄とはかけ離れた真剣な顔に、たつとらはニヤニヤと顔を綻ばせた。

鉄の額には絆創膏が貼ってあり、それを見つけると彼は表情を少し陰らせる。
その傷は授業中の立ち会いで鉄がバランスを崩して転んで出来たものだった。

ホログラム相手に悪戦苦闘する鉄は、玉の汗を絆創膏の横に光らせながら跳ねていた。
ホログラムといっても粗末なもので、剣術の突き、払い、など基本的な攻撃と防御をランダムに行うだけで、あとは訓練者のレベルに合わせて速度や防御の堅さが変わるだけのものだった。

ふぅ…と息を吐き、たつとらは訓練室のドアを押す。
「オイ、そいつは強いのか?」
急に声を掛けられた鉄は、驚きバランスを崩す。

「うわぁあ!」
瞬間にホログラムの剣が一閃、鉄の腹部を貫通し『GAME OVER』という文字が躍った。

「ああああ!なにすんだ!もう少しだったのに!」
「うそつけ、一撃で死ぬなんて危ねぇとこだったんだろうが」
肩で息をしながら鉄が喚くが、たつとらは笑ってかわす。
言い返せないのか苦しげな声を漏らすと、鉄は膝に手を着き身体を折った。忙しなく息を吸い、汗は地面に幾滴も落ちて染みを作っていく。

「…オーバーワークじゃないか?」
「うるせぇ…!」
完全なる拒否の言葉もたつとらには通じないらしく、彼はホログラムのほうに歩を進める。
作り物のくせに勝利の笑みを浮べるそれは、妙に憎たらしく揺らいでいた。

「クラスA用…ふぅん…お前、背伸びしたわけだな」
ニヤニヤとたつとらが鉄を見ると、鉄は自分のTシャツで乱暴に顔を拭っているところだった。シャツを両手で握ったまま、鉄は苛立ち気に言葉を吐いた。


「Aクラスのホログラムにどうしても…勝てない。Bには楽々勝てるんだ。だけど…なんで…」
先ほど拭ったばかりなのに新たに噴出した汗は鉄の目の中に入り込み、鉄は目を擦った。
「こんなんじゃない。俺はもっと強くなるんだ。…そんなに違うモンなのか?AとBでそんなに…」
「AやらBやら、やらしいなお前」
「はぁ!!??」
喚いた鉄に、たつとらは笑いかける。

「鉄、こないだ授業で立ち会った事覚えてるか?」
「え?」

忘れる訳がなかった。鉄も道元と同じだった。
隙が出来、それに攻撃を加えるが突如それが消失する。確信的に突いたものが、誤りであって揺らいでしまう。

「練習付き合うから、こんなボロホログラムには付き合うな」
「は?」
「2分だけだ。2分たったら訓練止めて部屋に帰るんだぞ」

そう言うと、立てかけてあった模擬剣を拾い上げ一振りする。
「いいか」そう言い、たつとらは軽やかにステップを踏み始めた。

鉄は構えながらたつとらの動きを警戒する。
「お前は身が軽い。すばしっこく動いて次の動きを勘付かせない。そうだろ?」
ふ、と空気が動いてたつとらの一撃が飛び、鉄は前で受ける。
ビリビリと手がしびれ、身体が少し浮いたことで鉄は少しよろけるがすぐ持ち直す。
先ほど言い当てられた自分の得意とするステップを踏みながら鉄は言い返した。

「それがどうした?」
お返しのように素早くたつとらの懐に入ると、鉄は力いっぱい剣を振り上げた。
絶対避けられないと確信を持っていたのに、たつとらはもうすでに揺らめく剣筋の残像の外にいる。
鉄は驚かなかった。先日の授業も同様の感覚だったのだ。
たつとらはいつも想定を凌駕し、覆す。

「確かにお前はすばしっこい。剣の振りも機敏だし良い筋だ」
模擬剣をおもちゃのように手もとで回しながら、たつとらは口の端を上げた。
「だが、そこが弱点でもある」
「んだとっ…」

言い終わらないうちに、鉄はまた動き始める。ジグザグに不規則な動きをしながら徐々に間合いを詰めていく。
「ちっとは気付け」
そう声が聞こえると、目の前のたつとらは姿を消す。
驚愕の声をあげる前に鉄は肩に感触を感じ、視界がぐるりと反転した。

背中から倒れこんだ衝撃で肺からヒュと情けない音がして、鉄ははじめて自分が倒されたのだと気がついた。
たつとらは鉄の顔の横に立って、「まだ2分経ってねぇな」と時計を見ながら口の端を上げた。

鉄は自分がどうやって倒されたのかの答えを探し、視線をウロウロとさせた。
倒れたときに打ち付けた背中以外に痛むところはどこにもない。
倒れる前の肩の感触。
触れただけと思えたが、倒された原因はそれしか考えられなかった。

「お前はなぁ…バランスがくそ悪い。衝撃がかかると身構えてる時なら良いが、そうでないときはすぐに崩れるだろ?」
そう言うと、模擬剣で鉄の足をコツコツと叩き始めた。
「間合いに入るときも、移動中も、動いている間も常に重心は足に置け。お前の様なタイプを相手にする時、戦いに長けてる者は足を狙う。前の教師からも聞いてるだろ?」

確かに聞いていた。鉄は下唇を噛み締めた。
「それとも、足を狙われることも無いくらいに早く動けば良いとでも思っていたのか?」
目を見開く鉄の顔を見て、たつとらは堪らず吹き出した。
「わかりやすい奴だ」
顔を綻ばせてたつとらは鉄に手を差し伸べる。
それを鉄は素直に握った。もう反抗する体力は残ってなかったし、億劫だった。

たつとらの言うとおりオーバーワークだったようだ。鉛のように重い身体は、軽々と引っ張られる。
バツが悪いのか鉄はたつとらと目を合わさないまま、少し離れた所に転がっている自身の剣を拾いにフラリと歩く。

「別に間違ってるって言ってる訳じゃねーぞ?」
ちょうど拾おうと腰を折った鉄の背中に、意外な言葉が掛かる。
「え…?」
腰を折ったまま振り向く鉄に、たつとらは笑いかけた。
「まぁ、足腰を鍛えとけ」
「そんだけかよ!」

飛び上がるように振り返ると、たつとらは模擬剣を元の位置へ立てかけているところだった。
「あとは手合わせして覚えてけばいいだろうが」
「む」 

平然と答えるたつとらに言い返す言葉も無く、鉄は素直に腰を折った。
その行動に自分自身もビックリしていたが、妙に受け入れられる自分がいた。
「よろしく、お、お願いします。先生」

たつとらは鉄にまっすぐ向き直り、気に入らないとばかりに眉を寄せた。
「先生じゃなくてたつとらだ」
「…え…」
「たつとらって呼ばねぇなら、教えないからな」
そう言い捨てるとニヤリと笑い、鉄を残して訓練場を後にした。


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