上 下
41 / 49
後半戦

心の蓋 3

しおりを挟む
_____

 ぬるり、と手が滑って包丁のあごでその手は止まった。見下ろすと、胸に突き立てた包丁と、それを握る血濡れの自分の手が見える。
 先ほどから何度も突き立てているのに、刃は骨に阻まれて心臓に届かない。

(ああ、これは夢だ)
 聡一朗は思いながら、淀んだ瞳で周囲を見渡した。

 雑然としたキッチン、山積みになったゴミからは腐敗臭が漂ってくる。
 継母と妹で暮らした粗末なアパートに聡一朗は今、立っている。

 この家は、いつからこの状況だったのだろう。
 聡一朗が訓練で連絡が取れない間に、ボロボロと崩れ落ちるようにこの家は壊れてしまった。

 混沌とした部屋の中で、沙希の制服だけがハンガーにきちんと掛けられている。
 
 胸が焼きつくように痛んで、また胸を見下ろす。
 刺したから痛んだんじゃない。痛いから、刺した。
 聡一朗はもう何もかも、終わらせたかった。


『……刃を横にしないと、刺さらないよ』

 その声を発した少年は、キッチンのゴミ箱に寄り添うように膝を抱えている。
 少年の頃の聡一朗自身だ。身体のあちこちに痣があり、服は破れて血が滲んでいる。
 彼は拗ねた顔をして、聡一朗を見た。

『どうして今日は、あの人、来てくれないの?』
「……あの人?」

 少年の聡一朗は僅かに頬を染めて、憧憬を含んだ眼差しで空を見る。そして恥ずかしそうに顔を伏せると、ぼそぼそと呟いた。

『すごく優しい声の男の人。こっちにおいでって言ってくれる。そっちは夢だって』

 エンだ。

 そう思った瞬間、違う痛みが胸を襲った。堪らず手を離すと、包丁が床に滑り落ちる。


『すごく温かくて、安心するんだ。そういちろう、あの人を怒らせたの?もう一緒にいてくれないの?』
「……どう、だろうな」

 聡一朗が言うと、彼は悲し気に顔を歪める。そして責めるような目を聡一朗に向けた。

『やっぱり怒らせたんでしょ?僕は、あの人にすっごくすっごく甘えたかったのに。声を聞きたかったのに!そういちろうの馬鹿!』
「……ごめん……俺は……」
 
(やっぱり、ずっと呼びかけていてくれたんだな)
 うなされる自分を引き戻すために、毎晩一緒に居てくれた。

 獄主と一緒にいると、ただただ温かい。触れた部分だけでは無くて、心の奥底からじんわりと染み出してくる感覚がある。
 しかしその感覚ですら、受け入れられなくて戸惑ってしまう。いつも与えられるばかりで、どうしたら返せるかも分からない。

「聡一朗、帰っても良いか?」
 小さな聡一朗に言うと、彼は眉を下げて微笑んだ。「しょうがないな」といった表情は、ひどく大人びている。

『うん。早く戻らなきゃね……』



________

 聡一朗はカッと目を見開いた。

 見えるのは黒い地面で、寒さから自分がいるのは野外だと分かる。

 垂れてきた汗がぽたりと地面に落ちたのを合図に、聡一朗は身を起こしてみた。

 途端ぐらりと視界が回り、不快感に胸が軋む。身体がバラバラになったように痛むのは、浅井がどこそこ蹴った為だろう。
 しかしそれより何より、咎津の影響が聡一朗の身体を蝕んでいた。

(くっそ気分悪いな。腹の中が飛び出そう……)
 顔を歪めながら周りを見渡すと、ここは候補者が使う露天風呂のようだった。もうとっくに夜は更けて真っ暗だ。
 
 聡一朗は風呂近くの木に括りつけられていて、外気には触れるが温泉から温かさも漂ってくる。
 凍え死なない程度の丁度いい監禁場所だ。浅井のサイコパスポイントがまた加点された。


 風呂の扉が開く音を聞いて、聡一朗は出口を見遣った。そこには先ほどの角が折れた鬼が、怯えた様にして立っている。
 なかなか寄ってこない鬼に、聡一朗から声を掛けた。

「風呂入るの?目瞑っとこうか?」
「い、いや……!鬼は、作業場で……入りますので……」
「え?そうなの?」

 十居の鬼は、普通に聡一朗の露天風呂に入る。遠慮もなく入るので、そんな規則は知らなかった。

 大きい体躯には似合わない様子で、鬼がおずおずと近づいて来る。聡一朗の目の前に来ると、鬼は跪いた。

「も、申し訳ございません。候補者様にこのような事……」
「……俺は大丈夫だけど、あんたは大丈夫なのか?いつも暴力を?」

 「はい」と鬼は一言零すと、形だけの笑みを作った。疲れ切って諦めている顔だ。
 手に持ってきた薬箱を開け、大きな手で器用に目当てのものを取り出していく。鬼は俯きながら、眉に縦の皺を刻んだ。

「……じ、実は、夜明け前に一度……あなたを性的に暴行するようにと、言いつけられていまして……」
「……なるほど」
「……せめて、傷の手当てを、と思って……」

 消毒液の瓶を傾けると、中からコポリと液体の跳ねる音がする。丁寧な手つきと、鬼の憔悴しきった顔に、聡一朗は大きく溜息をついた。

「俺を犯さないと、あんたどうなるんだ?」
「………この居の鬼、みんなが標的になってしまいます。女の子も小鬼も多いんです」
「そうか。それならしょうがないな」

 聡一朗の言葉に、鬼は目を見開いた。意外に瞳が大きいし、まつ毛も多い。聡一朗は小さく吹き出した。
 聡一朗は鬼の腰にある竹筒を顎で差し、笑いながら言った。

「手当てはいらない。代わりにそれが欲しい」
「……桃鹿水、ですか?」

 候補者の世話役たちは、いつも腰に小さな竹筒を下げている。

 それが桃鹿水だという事を、聡一朗は最近知った。
 候補者からは大量の咎津が出ているので、鬼たちは桃鹿水を定期的に摂取しなければいけない。
 気分が悪くなった時に直ぐ飲めるよう、腰に下げているのだという。テキロ達は当然付けていない。

「今それを飲まないと、俺は死ぬ。死んだらまずいだろ?」
「は、はい!」

 傾けてくれた竹筒から桃鹿水を飲むと、僅かに気分が治まった。
 ふぅ、と息を吐き出して、聡一朗は鬼を見た。心配そうに見つめる瞳に、またふすりと笑いが漏れる。

「あんた、名前は?」
「私ですか?……サンガクと言います」
「サンガクは、自分にも優しくした方が良い。自分の顔見た?手当てしないと、化膿するぞ?」
「……」

 サンガクは子供のように口をへの字に曲げ、悔しそうに俯いた。手に持ったままのガーゼを握りしめて、膝にぽたりと涙を零す。

「……小鬼たちが言う通り、聡一朗様は……やはりお優しい……」
「……?」
「作業場で、十居の鬼たちは羨ましがられてます。これまで作業場に顔を出す候補者なんていませんでしたから……優しいし、咎津の匂いもしない。……十居は良いなって何度思ったことか…………私にとっては、三居こそが地獄です」

 零すサンガクを見ながら、聡一朗は小さく舌打ちした。

 候補者には手を出すなというルールを笠に着て、繰り返される暴言と暴力。逆らえないと知っていて、自分は安全圏にいたまま手を上げる卑劣さ。

「……嫌いだわぁ……」
 思わず口を突いて出た言葉に、サンガクは一瞬怯えた顔を浮かべた。
 与えられる言動全てをマイナス面に捉えている。聡一朗はかつての自分にサンガクを重ねて、腹の底から嫌悪感が湧き出した。


「なぁに、してくれてんの?」

 開け放たれていた入り口から、歪んだ圧迫感が流れ込んでくる。

 浅井だ、と聡一朗が気付く前から、サンガクは震え出していた。浅井はそのまま歩を進めると、怯えているサンガクの脇にある薬箱を蹴とばす。

「勝手なことすんなよ!朝方に犯せって言っただろうが!!」
「も、申し訳ございません!」

 必死で謝るサンガクの髪を、浅井が掴んだ。そして聡一朗が拘束されている木の幹へ、サンガクの頭を叩きつける。

 襲い来るであろう痛みにサンガクは目を閉じた。しかし次の瞬間感じたのは、自分の頭が違う何かにぶつかった衝撃と、聡一朗の呻き声だった。

 サンガクの角が、聡一朗の肩口に突き刺さっている。
 木の幹に叩きつけられようとしたサンガクを庇うようにして、聡一朗が間に身を滑り込ませたのだ。
 それに気付いたサンガクは目を見開き、浅井は嘲るように笑った。

「ばっかじゃねぇの!?手当てされて惚れたとか言うなよ!?」
「うるせえ馬鹿!サンガクから手を離せ」

 震えるサンガクに目を遣りながら、聡一朗はまっすぐ浅井を見据える。浅井の頬骨がピクリと戦慄いた。

「てめぇ、命令してんじゃねぇよ……!」
「命令しないと分かんねぇだろうが。このクソハゲ!ど不細工!」

 明らかに煽っている言葉に、浅井は単純に反応した。サンガクの髪を離すと、聡一朗の首を掴んで木に押し付ける。

「このまま俺が犯しても良いんだぞ?」
「……やっぱりクソ野郎だな」

 聡一朗の言葉に浅井の顔が凶悪に歪み、笑みを浮かべた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結済】(無自覚)妖精に転生した僕は、騎士の溺愛に気づかない。

キノア9g
BL
完結済。騎士エリオット視点を含め全10話(エリオット視点2話と主人公視点8話構成) エロなし。騎士×妖精 ※主人公が傷つけられるシーンがありますので、苦手な方はご注意ください。 気がつくと、僕は見知らぬ不思議な森にいた。 木や草花どれもやけに大きく見えるし、自分の体も妙に華奢だった。 色々疑問に思いながらも、1人は寂しくて人間に会うために森をさまよい歩く。 ようやく出会えた初めての人間に思わず話しかけたものの、言葉は通じず、なぜか捕らえられてしまい、無残な目に遭うことに。 捨てられ、意識が薄れる中、僕を助けてくれたのは、優しい騎士だった。 彼の献身的な看病に心が癒される僕だけれど、彼がどんな思いで僕を守っているのかは、まだ気づかないまま。 少しずつ深まっていくこの絆が、僕にどんな運命をもたらすのか──? いいねありがとうございます!励みになります。

嫌われ者の僕はひっそりと暮らしたい

りまり
BL
 僕のいる世界は男性でも妊娠することのできる世界で、僕の婚約者は公爵家の嫡男です。  この世界は魔法の使えるファンタジーのようなところでもちろん魔物もいれば妖精や精霊もいるんだ。  僕の婚約者はそれはそれは見目麗しい青年、それだけじゃなくすごく頭も良いし剣術に魔法になんでもそつなくこなせる凄い人でだからと言って平民を見下すことなくわからないところは教えてあげられる優しさを持っている。  本当に僕にはもったいない人なんだ。  どんなに努力しても成果が伴わない僕に呆れてしまったのか、最近は平民の中でも特に優秀な人と一緒にいる所を見るようになって、周りからもお似合いの夫婦だと言われるようになっていった。その一方で僕の評価はかなり厳しく彼が可哀そうだと言う声が聞こえてくるようにもなった。  彼から言われたわけでもないが、あの二人を見ていれば恋愛関係にあるのぐらいわかる。彼に迷惑をかけたくないので、卒業したら結婚する予定だったけど両親に今の状況を話て婚約を白紙にしてもらえるように頼んだ。  答えは聞かなくてもわかる婚約が解消され、僕は学校を卒業したら辺境伯にいる叔父の元に旅立つことになっている。  後少しだけあなたを……あなたの姿を目に焼き付けて辺境伯領に行きたい。

僕を拾ってくれたのはイケメン社長さんでした

なの
BL
社長になって1年、父の葬儀でその少年に出会った。 「あんたのせいよ。あんたさえいなかったら、あの人は死なずに済んだのに…」 高校にも通わせてもらえず、実母の恋人にいいように身体を弄ばれていたことを知った。 そんな理不尽なことがあっていいのか、人は誰でも幸せになる権利があるのに… その少年は昔、誰よりも可愛がってた犬に似ていた。 ついその犬を思い出してしまい、その少年を幸せにしたいと思うようになった。 かわいそうな人生を送ってきた少年とイケメン社長が出会い、恋に落ちるまで… ハッピーエンドです。 R18の場面には※をつけます。

【完結】お嬢様の身代わりで冷酷公爵閣下とのお見合いに参加した僕だけど、公爵閣下は僕を離しません

八神紫音
BL
 やりたい放題のわがままお嬢様。そんなお嬢様の付き人……いや、下僕をしている僕は、毎日お嬢様に虐げられる日々。  そんなお嬢様のために、旦那様は王族である公爵閣下との縁談を持ってくるが、それは初めから叶わない縁談。それに気付いたプライドの高いお嬢様は、振られるくらいなら、と僕に女装をしてお嬢様の代わりを果たすよう命令を下す。

【完結】売れ残りのΩですが隠していた××をαの上司に見られてから妙に優しくされててつらい。

天城
BL
ディランは売れ残りのΩだ。貴族のΩは十代には嫁入り先が決まるが、儚さの欠片もない逞しい身体のせいか完全に婚期を逃していた。 しかもディランの身体には秘密がある。陥没乳首なのである。恥ずかしくて大浴場にもいけないディランは、結婚は諦めていた。 しかしαの上司である騎士団長のエリオットに事故で陥没乳首を見られてから、彼はとても優しく接してくれる。始めは気まずかったものの、穏やかで壮年の色気たっぷりのエリオットの声を聞いていると、落ち着かないようなむずがゆいような、不思議な感じがするのだった。 【攻】騎士団長のα・巨体でマッチョの美形(黒髪黒目の40代)×【受】売れ残りΩ副団長・細マッチョ(陥没乳首の30代・銀髪紫目・無自覚美形)色事に慣れない陥没乳首Ωを、あの手この手で囲い込み、執拗な乳首フェラで籠絡させる独占欲つよつよαによる捕獲作戦。全3話+番外2話

Switch!〜僕とイケメンな地獄の裁判官様の溺愛異世界冒険記〜

天咲 琴葉
BL
幼い頃から精霊や神々の姿が見えていた悠理。 彼は美しい神社で、家族や仲間達に愛され、幸せに暮らしていた。 しかし、ある日、『燃える様な真紅の瞳』をした男と出逢ったことで、彼の運命は大きく変化していく。 幾重にも襲い掛かる運命の荒波の果て、悠理は一度解けてしまった絆を結び直せるのか――。 運命に翻弄されても尚、出逢い続ける――宿命と絆の和風ファンタジー。

期待外れの後妻だったはずですが、なぜか溺愛されています

ぽんちゃん
BL
 病弱な義弟がいじめられている現場を目撃したフラヴィオは、カッとなって手を出していた。  謹慎することになったが、なぜかそれから調子が悪くなり、ベッドの住人に……。  五年ほどで体調が回復したものの、その間にとんでもない噂を流されていた。  剣の腕を磨いていた異母弟ミゲルが、学園の剣術大会で優勝。  加えて筋肉隆々のマッチョになっていたことにより、フラヴィオはさらに屈強な大男だと勘違いされていたのだ。  そしてフラヴィオが殴った相手は、ミゲルが一度も勝てたことのない相手。  次期騎士団長として注目を浴びているため、そんな強者を倒したフラヴィオは、手に負えない野蛮な男だと思われていた。  一方、偽りの噂を耳にした強面公爵の母親。  妻に強さを求める息子にぴったりの相手だと、後妻にならないかと持ちかけていた。  我が子に爵位を継いで欲しいフラヴィオの義母は快諾し、冷遇確定の地へと前妻の子を送り出す。  こうして青春を謳歌することもできず、引きこもりになっていたフラヴィオは、国民から恐れられている戦場の鬼神の後妻として嫁ぐことになるのだが――。  同性婚が当たり前の世界。  女性も登場しますが、恋愛には発展しません。

捨てられ子供は愛される

やらぎはら響
BL
奴隷のリッカはある日富豪のセルフィルトに出会い買われた。 リッカの愛され生活が始まる。 タイトルを【奴隷の子供は愛される】から改題しました。

処理中です...