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後半戦

心の蓋 3

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 ぬるり、と手が滑って包丁のあごでその手は止まった。見下ろすと、胸に突き立てた包丁と、それを握る血濡れの自分の手が見える。
 先ほどから何度も突き立てているのに、刃は骨に阻まれて心臓に届かない。

(ああ、これは夢だ)
 聡一朗は思いながら、淀んだ瞳で周囲を見渡した。

 雑然としたキッチン、山積みになったゴミからは腐敗臭が漂ってくる。
 継母と妹で暮らした粗末なアパートに聡一朗は今、立っている。

 この家は、いつからこの状況だったのだろう。
 聡一朗が訓練で連絡が取れない間に、ボロボロと崩れ落ちるようにこの家は壊れてしまった。

 混沌とした部屋の中で、沙希の制服だけがハンガーにきちんと掛けられている。
 
 胸が焼きつくように痛んで、また胸を見下ろす。
 刺したから痛んだんじゃない。痛いから、刺した。
 聡一朗はもう何もかも、終わらせたかった。


『……刃を横にしないと、刺さらないよ』

 その声を発した少年は、キッチンのゴミ箱に寄り添うように膝を抱えている。
 少年の頃の聡一朗自身だ。身体のあちこちに痣があり、服は破れて血が滲んでいる。
 彼は拗ねた顔をして、聡一朗を見た。

『どうして今日は、あの人、来てくれないの?』
「……あの人?」

 少年の聡一朗は僅かに頬を染めて、憧憬を含んだ眼差しで空を見る。そして恥ずかしそうに顔を伏せると、ぼそぼそと呟いた。

『すごく優しい声の男の人。こっちにおいでって言ってくれる。そっちは夢だって』

 エンだ。

 そう思った瞬間、違う痛みが胸を襲った。堪らず手を離すと、包丁が床に滑り落ちる。


『すごく温かくて、安心するんだ。そういちろう、あの人を怒らせたの?もう一緒にいてくれないの?』
「……どう、だろうな」

 聡一朗が言うと、彼は悲し気に顔を歪める。そして責めるような目を聡一朗に向けた。

『やっぱり怒らせたんでしょ?僕は、あの人にすっごくすっごく甘えたかったのに。声を聞きたかったのに!そういちろうの馬鹿!』
「……ごめん……俺は……」
 
(やっぱり、ずっと呼びかけていてくれたんだな)
 うなされる自分を引き戻すために、毎晩一緒に居てくれた。

 獄主と一緒にいると、ただただ温かい。触れた部分だけでは無くて、心の奥底からじんわりと染み出してくる感覚がある。
 しかしその感覚ですら、受け入れられなくて戸惑ってしまう。いつも与えられるばかりで、どうしたら返せるかも分からない。

「聡一朗、帰っても良いか?」
 小さな聡一朗に言うと、彼は眉を下げて微笑んだ。「しょうがないな」といった表情は、ひどく大人びている。

『うん。早く戻らなきゃね……』



________

 聡一朗はカッと目を見開いた。

 見えるのは黒い地面で、寒さから自分がいるのは野外だと分かる。

 垂れてきた汗がぽたりと地面に落ちたのを合図に、聡一朗は身を起こしてみた。

 途端ぐらりと視界が回り、不快感に胸が軋む。身体がバラバラになったように痛むのは、浅井がどこそこ蹴った為だろう。
 しかしそれより何より、咎津の影響が聡一朗の身体を蝕んでいた。

(くっそ気分悪いな。腹の中が飛び出そう……)
 顔を歪めながら周りを見渡すと、ここは候補者が使う露天風呂のようだった。もうとっくに夜は更けて真っ暗だ。
 
 聡一朗は風呂近くの木に括りつけられていて、外気には触れるが温泉から温かさも漂ってくる。
 凍え死なない程度の丁度いい監禁場所だ。浅井のサイコパスポイントがまた加点された。


 風呂の扉が開く音を聞いて、聡一朗は出口を見遣った。そこには先ほどの角が折れた鬼が、怯えた様にして立っている。
 なかなか寄ってこない鬼に、聡一朗から声を掛けた。

「風呂入るの?目瞑っとこうか?」
「い、いや……!鬼は、作業場で……入りますので……」
「え?そうなの?」

 十居の鬼は、普通に聡一朗の露天風呂に入る。遠慮もなく入るので、そんな規則は知らなかった。

 大きい体躯には似合わない様子で、鬼がおずおずと近づいて来る。聡一朗の目の前に来ると、鬼は跪いた。

「も、申し訳ございません。候補者様にこのような事……」
「……俺は大丈夫だけど、あんたは大丈夫なのか?いつも暴力を?」

 「はい」と鬼は一言零すと、形だけの笑みを作った。疲れ切って諦めている顔だ。
 手に持ってきた薬箱を開け、大きな手で器用に目当てのものを取り出していく。鬼は俯きながら、眉に縦の皺を刻んだ。

「……じ、実は、夜明け前に一度……あなたを性的に暴行するようにと、言いつけられていまして……」
「……なるほど」
「……せめて、傷の手当てを、と思って……」

 消毒液の瓶を傾けると、中からコポリと液体の跳ねる音がする。丁寧な手つきと、鬼の憔悴しきった顔に、聡一朗は大きく溜息をついた。

「俺を犯さないと、あんたどうなるんだ?」
「………この居の鬼、みんなが標的になってしまいます。女の子も小鬼も多いんです」
「そうか。それならしょうがないな」

 聡一朗の言葉に、鬼は目を見開いた。意外に瞳が大きいし、まつ毛も多い。聡一朗は小さく吹き出した。
 聡一朗は鬼の腰にある竹筒を顎で差し、笑いながら言った。

「手当てはいらない。代わりにそれが欲しい」
「……桃鹿水、ですか?」

 候補者の世話役たちは、いつも腰に小さな竹筒を下げている。

 それが桃鹿水だという事を、聡一朗は最近知った。
 候補者からは大量の咎津が出ているので、鬼たちは桃鹿水を定期的に摂取しなければいけない。
 気分が悪くなった時に直ぐ飲めるよう、腰に下げているのだという。テキロ達は当然付けていない。

「今それを飲まないと、俺は死ぬ。死んだらまずいだろ?」
「は、はい!」

 傾けてくれた竹筒から桃鹿水を飲むと、僅かに気分が治まった。
 ふぅ、と息を吐き出して、聡一朗は鬼を見た。心配そうに見つめる瞳に、またふすりと笑いが漏れる。

「あんた、名前は?」
「私ですか?……サンガクと言います」
「サンガクは、自分にも優しくした方が良い。自分の顔見た?手当てしないと、化膿するぞ?」
「……」

 サンガクは子供のように口をへの字に曲げ、悔しそうに俯いた。手に持ったままのガーゼを握りしめて、膝にぽたりと涙を零す。

「……小鬼たちが言う通り、聡一朗様は……やはりお優しい……」
「……?」
「作業場で、十居の鬼たちは羨ましがられてます。これまで作業場に顔を出す候補者なんていませんでしたから……優しいし、咎津の匂いもしない。……十居は良いなって何度思ったことか…………私にとっては、三居こそが地獄です」

 零すサンガクを見ながら、聡一朗は小さく舌打ちした。

 候補者には手を出すなというルールを笠に着て、繰り返される暴言と暴力。逆らえないと知っていて、自分は安全圏にいたまま手を上げる卑劣さ。

「……嫌いだわぁ……」
 思わず口を突いて出た言葉に、サンガクは一瞬怯えた顔を浮かべた。
 与えられる言動全てをマイナス面に捉えている。聡一朗はかつての自分にサンガクを重ねて、腹の底から嫌悪感が湧き出した。


「なぁに、してくれてんの?」

 開け放たれていた入り口から、歪んだ圧迫感が流れ込んでくる。

 浅井だ、と聡一朗が気付く前から、サンガクは震え出していた。浅井はそのまま歩を進めると、怯えているサンガクの脇にある薬箱を蹴とばす。

「勝手なことすんなよ!朝方に犯せって言っただろうが!!」
「も、申し訳ございません!」

 必死で謝るサンガクの髪を、浅井が掴んだ。そして聡一朗が拘束されている木の幹へ、サンガクの頭を叩きつける。

 襲い来るであろう痛みにサンガクは目を閉じた。しかし次の瞬間感じたのは、自分の頭が違う何かにぶつかった衝撃と、聡一朗の呻き声だった。

 サンガクの角が、聡一朗の肩口に突き刺さっている。
 木の幹に叩きつけられようとしたサンガクを庇うようにして、聡一朗が間に身を滑り込ませたのだ。
 それに気付いたサンガクは目を見開き、浅井は嘲るように笑った。

「ばっかじゃねぇの!?手当てされて惚れたとか言うなよ!?」
「うるせえ馬鹿!サンガクから手を離せ」

 震えるサンガクに目を遣りながら、聡一朗はまっすぐ浅井を見据える。浅井の頬骨がピクリと戦慄いた。

「てめぇ、命令してんじゃねぇよ……!」
「命令しないと分かんねぇだろうが。このクソハゲ!ど不細工!」

 明らかに煽っている言葉に、浅井は単純に反応した。サンガクの髪を離すと、聡一朗の首を掴んで木に押し付ける。

「このまま俺が犯しても良いんだぞ?」
「……やっぱりクソ野郎だな」

 聡一朗の言葉に浅井の顔が凶悪に歪み、笑みを浮かべた。
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